第三話
「……?」
それだけではない。首を傾げた。
ささいな違和感がある。花? 生花というには不自然だ。なにか地面が動いたような……と、そこまで考えたとき、ぐっと強く腕を引かれた。ぐしゃり、アッシュの足がバラを踏みつける。
失礼します、と早口で言われたかと思えば、膝の裏に片腕が回され持ち上げられた。ひっくり返った頭が気持ち悪い。危なげなく花壇から離れるほうへアッシュが走った。不安定な姿勢のはずだが、そこまで揺れなかった。
「度重なる不敬をお許しください。地面になにかいるやもしれません、すぐに離れましょう」
「構わないが……アッシュ、あれは人の手じゃないのか」
「は?」
アッシュの背中越しに見えるのは地面から生えた人の腕である。細い腕だ。ティーカップを持ちあげるので精一杯だわ、とでも言いそうな、女の華奢な腕。
「……?」
「──あなた、どうして」
ほそい声がした。繊細さすら感じさせる。吐息を含んだその声は、しかし不気味に響く。どこから声が聞こえているのだろうか? バラの間に微動だにしない腕があるが、口はどこにもない。
「どうしたのですか。腕など、どこにも」
「……まさか、見えていないと? 待ってくれ、おい、母親のことですらよく分からないのに、これ以上混乱させてくれるな」
「母親? ああ、そうでした、ミルミアがルイン様にまみえるのは今日が初めてのことですね。後ほど予定が入っておりますよ……」
「早く戻ろう、アッシュ」
丁寧な手つきで下ろされながら、どんどんと胸をたたく心臓をもて余した。おかしかった。ついさっき見たみすぼらしい女を彷彿とさせる腕も声も、それがアッシュによって倒されるべき魔物であればよかった。
ルインは魔物を見たことがない。平伏する下人に囲まれ生きてきた、根っから箱入りの坊ちゃんである。もしアレが、ルインの目だけにうつる魔物であるのだとしたら? アッシュが捉えられぬ魔物にどうしろというのか。そもそもルインはまだ子どもで、戦う術も知らないのに。
戸惑いを隠せない表情で「それは、もちろんですが」というアッシュの腕をとり、一歩踏み出した。
そのとき。
「バラを植えましょうね……あなたの頭を、いつか食い破る青いバラを!」
まず感じたのは脳髄を揺らす衝撃で、次に視界が白飛びした。
「ルイン様!?」
「──」
その後のことは、人づてでしか知らない。後日聞いたところによれば、アッシュの前でルインは突然意識を失い、慌てて常駐の医者にみせたところこめかみから青い血を流していたらしい。
そんな馬鹿な、と思ったが、うわさの広まる速度は尋常ではなく、ルインの青血はこれに由来するのである。
それ以降、検査のため採血したときの血は決して青くなどなかったのに、赤い血を見て慄く医者の顔は今でもよく覚えている。当時はいい気持ちはしなかったが、ヴァルティグの息子というだけでも余程の緊張だったことだろうと今では思い直した。
さて。
なつかしい昔話を思い出しているうちに、執務室にたどり着いた。
ノックを四回。ヴァルティグつきの執事がドアを開けたので、軽く黙礼し、入室した。
「父上。ルインが参りました」
「ああ……ルイン。よく来たな」
「お急ぎとのことでしたが、何用でしょうか」
挨拶もそこそこに切り出すと、ヴァルティグは目を細めて手をひらりと振った。人払いを命じるしぐさだ。
執事と、ルインの後ろに控えていたアッシュが部屋を出るのをなんとなしに見やって、改めてヴァルティグに向き直る。
「話しておかなければならないことを思い出して、お前を呼んだ」
「……して、お話というのは?」
「私から逃げられると思わないで」
耳を疑った。
「父上?」
「ルインには婚約者がいただろう。どうやら流行病をこじらせて、療養のため実家に戻るらしい。見舞いに行け」
「……承知しました」
「そう遠くもない。片道二日あれば着く。三日後には整えておくように」
気のせいか? 一瞬、おかしなことを聞いたような気がした。それこそ九年前に聞いたあの声。
「では、戻りなさい」
「失礼します」
ドアノブに手をかける前に扉は開いた。今度は執事ではなく、アッシュだった。
無言で自室まで戻ると、やはりさっきの声はかつて聞いたものと似通っていたのではという疑念が膨らむ。今日は家庭教師も来ない日なので、とりあえず机の上に本を広げたはいいものの、さっぱり集中できない。
そもそも、人払いする必要はなかったはずだ。ヴァルティグというより、あの魔物が喋るために人払いをした? だとしたらヴァルティグが魔物に与していることになる。
そこまで考えて、寒気を感じた。おそろしい。魔物だけでも底知れないのに、ヴァルティグまで味方にいるのなら、ルインに勝ち目などないに決まっている。