第二話
事の発端は遡ること、九年前。ルインが八歳のころ、ヴァルティグはルインに命じた。
「これを殺せ」
「……ちちうえ?」
「これを殺せ。いますぐ」
ふだん顔を合わせることのない父に呼ばれたかと思えば、とんでもないことを言われたので、ルインはすっかり困りきってしまった。
ルインはとりあえず、地面に這いつくばっている女を見下ろした。ティーポットより地面に近く平身低頭している、みすぼらしい身なりの、ざんばらな銀髪の女だ。土下座のような体勢ゆえに顔は見えなかったが、すでに諦念がにじんでいる。手をまとめられている背中はすらりと細い。
もしかしたら、処刑することでしか救えないほどの罪人なのだろうか。殺すといわれても、剣も魔法もないのにどうしろというのだろう。八歳は重さが1キロを超える真剣など到底もてないし、ましてや魔法を使うには専門学校に通い資格を得る必要がある。
ヴァルティグの顔を見やった。ルインよりも深い紅色が、突き刺さった。指先からザアと熱が奪われていく心地がする。ルインはこの頃ヴァルティグとの関わりがまったく希薄だったので、父へ恐怖も恨みもなかったが、従わなければならぬと直感した。従わなければ、殺されるのは自分であろうということも。
焦燥に駆られて、とっさに言った。
「きたないから、さわりたくありません……おまえ、舌を噛み切って、はやく死になさい」
女はしばらくじっとしていたが、濁った声で呻くと、噛み切った舌を吐き出し、ぞ、ぞ、と気味悪い音で呼吸しはじめたかと思えば、やがて事切れた。
カーペットに血がにじむ。
ルインは静観していたが、強烈な悪心を感じて足の震えを抑えこむのに必死だった。ここで、恐れているそぶりを見せるわけにはいかないと分かっていた。毛虫が潰れたのを見るように、嘲りと侮蔑をこめて見下ろし続けた。
父の顔を見ることができない。いま、ルインは人の命を奪ったのだろうか。床にべちゃりと吐かれている、湿った舌の断面の荒さと肉々しさが、いやに目につく。
「よくやった」
父の声色は平坦で、なにも変わらない。
「もう下がっていい。あとで、おまえの母親をそっちにやるから、挨拶をしておきなさい」
ふと、この女は自分の母親だったのかもしれないと思って、心臓がねじられたように痛んだ。あからさまな銀色はそういうことを示していたのかと、理解の範疇外にいる父親へのまぎれもない恐怖で、足の裏がひきつれる。
そうだったとしても、もう女は空っぽの入れものしか残っていない。ルインが命じたのだ。殺せと言ったのはヴァルティグでも、死ねと言ったのはルインだ。
「わかりました。しつれいします」
ぺこりと礼をして、部屋を出た。
扉の外にはふたり侍女が立っていて、ルインと入れ替わりで部屋に入っていった。死体の処理を任されているのだろうと分かった。そうでなければ、ヴァルティグの部屋に許可なく入れるはずもない。あのようなおそろしい男の部屋に。
「……」
アッシュは変わりなく、扉の真向かいよりすこしルインの部屋に近いほうに寄って佇んでいた。
「中庭にいく」
シーティア家は王家に次ぐ権力を有する公爵家なので、当然家も広く、敷地内には広大な庭があった。誰の趣味かは知らないが、いつもさまざまな花が咲き乱れていて、軽率に入るとむせかえるような甘いにおいに嗅覚が麻痺したような気になる。
いつもは寄りつかないが、少し気分転換したかったので、このまま部屋にこもるよりいいだろうと外に出た。すたすた歩いて中庭に足を踏み入れると、庭の中心に位置する円形の花壇に青いバラが咲いているのが見える。
一呼吸して、口を開いた。
「あのバラは……」
「新しく庭師が植えていたものでしょう」
「なぜ青いものを植えたんだろう?」
「さあ。分かりかねます」
ふ、と思わず笑みがこぼれた。ルインはアッシュのこういうところを好いていた。
次期当主であるルインのことは、みな畏敬をもって遠巻きにする。とくに使用人たちと親しくなりたいとも思ったことはないし、高位貴族としての猥雑な規則は仕方ないにしても、目くらい合わせて会話をしたいものだとは常々思う。
「ルイン様!」
唐突に鋭い声が飛んだ。
ふ、とまたたく。おかしい。バラの甘いにおいが、重くまとわりつく。
さっきまで花壇を眺めていたのに、青いバラがルインの腰にふれていた。青いバラの中心にルインは立っていたのだ。つま先がざりと土を擦る。振り向けば、アッシュがやけに遠かった。むしろルインが離れたかのように見える。
ルインが、まばたきの間に花壇の中に足を踏み入れたとでもいうのか。