第一話
ルイン・クロムウェル・シーティアは、じいと耳をすませていた。
「……二日後にやってくるのは確かなの?」
「はい。隣領地の境にある関所も、まもなく封鎖されるかと思われます」
魔力をめぐらせた耳が、それだけでなく熱をもつのを感じた。はあ、とたまらず息をもらす。
(ついに来た!)
ルインの胸は歓喜に震えた。長かった、ほんとうに長かった。ようやくこの檻から解放されるときが来たのだ。
「うそよ! うそ! そんなの信じないわ!」
「お、奥さま」
「あなたもクビよ!」
ガシャン、硝子が割れる音が響く。どうせ花瓶かなにかを落としたのだろう。あいも変わらず馬鹿な女、と到底母親に対して抱くべきではない蔑みが一瞬よぎるも、そんなことはどうでもよかった。
聴力を魔力でおぎなうことをやめ、ひんやりした手で耳を抑える。ゆるむ口角を、無理やりぐいとひんまげた。これで、みなの知るルインのあくどい顔はできあがる。
椅子に座ったまま、扉のほうを振り返った。いつものように、扉の傍につんとすまして控えているルインの護衛騎士──アッシュ・スラージェを呼ぶ。
「アッシュ」
「は。いかがしましたか」
「近くに来い」
無言のまま寄ってくるアッシュは、硬質な黒髪に冷え冷えとした碧色の瞳がうつくしい男だ。あつらえたようにいかにも悪者そうな銀の髪、赤の瞳をもつルインからすれば、うらやましい配色である。
「……」
「……ルイン様?」
「動くな」
ルインは普段から懐に忍ばせているペティナイフのカバーをとり、立ち上がった。ぎょっとして目を見張るアッシュにぴしゃりと言って、胸元にナイフを寄せる。
アッシュの身体が強ばるのが分かった。知らん振りをして、上から三つ目のボタンをプチ、と切り取る。質のいい金の糸がわずかにほつれた。
「?」
「もういい。戻れ」
「は。かしこまりました」
なぜボタンを取られたのだろう? と顔に書いてあるアッシュをさっさと追い払って、椅子に座る。
ルインはしみじみとした気持ちにさえなりながら、両手でボタンをつつんだ。なんだかあたたかいような気がした。そんなわけはない。ルインがアッシュの心臓に近いボタンを選んで取ったからといって、無機物であることは変わらないのだ。
──ルインは、アッシュのことが好きなのである。
しかし、公爵家唯一の息子であり嫡子であるルインがアッシュと結ばれることなど、天地がひっくり返った上、月が自ら光り出し、クソ両親が改心したとしてもありえない。そもそも、ルインには婚約者がいる。もっと言うと、近い将来公爵家は滅び、ルインは外国へ逃亡する予定である。世間から蛇蝎のごとく嫌われているルインには、国内に留まる選択はできない。
コンコン、コンコン。
「入れ」
「失礼いたします。ルイン様、閣下がお呼びです。至急執務室まで来るように、とおっしゃっておりました」
「……」
ルインの機嫌は急降下した。
閣下といえば、ルインの父親であるヴァルティグのことだ。ルインは、ヴァルティグをこの世の諸悪の根源だと思っている。母親のミルミアはクズで頭が悪いが、人をうまく貶めるだけの知恵はない。
はあ、とたまらずため息をつく。侍女の呼吸が浅くなるのが分かった。ひどい怯えようだ。別に取って食いやしない。ルインは低く頭を下げて微動だにしない侍女を一瞥し、立ち上がった。
「……」
アッシュが先に扉を開けた。そのまま部屋を出る。後ろを歩くアッシュに、振り向かないまま言った。
「あのように怯えられると、斬り伏せてしまいたくなるな。侍女は頭をあげなくて正解だった……もし俺の許可なく頭をあげたら、目玉をえぐりとっていたところだ」
アッシュは答えない。いつものことだからだ。ルインはいつも露悪的にふるまう。世間一般で広まる説によれば、そのようにむごいことは好んで行い、殺しこそしないが一切躊躇なく人を傷つけ、機嫌により十人単位で使用人が入れ替わるのがルインなのである。
たとえば、ルインはこう呼ばれている。
青血の悪魔、と。