30話 守るべきもの
「ふーっ……!」
見上げたジェネに、手を振って。
側に降ろした二人も無事であるとわかって。リリアはようやく大きく息を吐いた。
この戦い、その終わりを告げるように。
掲げた手を、そのまま太陽に翳すリリア。その大きな光の先に、彼女たちを見ていた。
(やったよ、エレナ。そして……エレナの先生)
脳裏に浮かび上がったあの記憶の者たちに、静かに感謝を贈るリリア。
結局エレナの師らしい彼女が何故、自分の心のなかに現れたのかは全くわからないままだ。
でもこの結末は、どこか彼女もまた望んでいたものだった気がした。
だから、それも尚更誇らしく感じていた。
力を貸してくれたのは、きっと幻聴でも夢でもない。
恩返しになっただろうか。もう一度、彼女と話したい気持ちが湧き上がっていた。
「あれ?」
そんな感傷に耽る中、唐突に。
翳されていたリリアの手が、急にその額を打つ。
意図したものではなかった。呆けたような反応がそれを示していて。
それが先触れであることは、すぐに分かることになった。
「……あうっ!?」
突如声を上げ、全身から力が抜けたかのように倒れ込むリリア。
その違和感の理由は、すぐに分かった。身体にどれだけ力を込めても、殆ど動かなかったからだ。
(身体っ、ぜんぶっ、重ッ……!?)
リリアはそう、この感覚を表現する。
全力を込めたつもりであるのに、腕の一本すら持ち上がらない。
突然、自分の身体が何十倍にも重くなったようだった。
「リリアちゃんっ!?」
「リ、リリア……っ!?」
リリアの急変に気づいて、エリスたちもリリアににじり寄る。
彼らも激戦でボロボロになった身だ。這うのが精一杯な中、それでも彼女の身を案じる。
「あんなに凄い技を使ってたんだもの。
しばらく休んで……もう、私達は逃げないから」
「ああ。この戦いはお前達の勝ちだ。
お前はオレたちが行きたかった道を照らしてくれた。それに、こんなにムチャまでして……
だからもう、オレたちも。嘘はつきたくねえ」
穏やかな言葉とともに、彼らはリリアへ既に戦意がないことを伝える。
それは動かない体に焦っていたリリアに、少なくない安らぎを与えて。
「そっか。よかったあ……」
まとめて緊張が解けたように、リリアは満面の笑みで二人に返した。
(……ああ)
それは、まるで。
リリアという少女の全てを象徴するような、眩しいほどに朗らかなものだった。
それを見つめて、噛み締めるように目を閉じるエリス。
どんな窮地にも奮い立てる理由も、こんなにも強い理由も、そこにあったように思えていた。
(負けるべくして、負けたのね。私たちは……でも。
この笑顔が負けない世界で、良かったのかもしれない)
瞼の裏で、彼女に最上の敬意を送って。
エリスは、なんとか体を回してモースの方へと振り返る。
「兄さん、連絡用の水晶は無事? 私のは、鎧と一緒に壊れちゃったから」
「ん……ああ、そうだな。……負けたんだもんな。こっちも、終わらせねえと」
「うん。貸して、私が伝えなきゃ」
懐から小さな水晶――先刻、ドグマ辺境伯が外部との会話に用いたものと同型のものを取り出すと、モースは彼女の催促にしたがってそれを手渡す。
伏したまま、エリスはそれを口元に当てて話しだした。
「みんな、ごめんなさい。私たちの負けよ。
精霊外装も破られた。もう、魔物も生み出せない」
そう伝えてから、少しの間静寂が広がる。
水晶の先からの返答がないのは、まだ戸惑っているのだろうか。
突然の敗北宣言ということを思えば、それも不思議ではないとは言えた。
『いや、違う。これからが、始まりだ!!』
だが。ようやく水晶から返った言葉は、彼女の認識を大きく裏切るものであった。
「……えっ?」
エリスがそれに反応するのとほぼ同時に。
全員の肌に、悪寒のような気配が走る。
感じたことのある、物理的な空気の淀みの気配だった。
「……っ!?」
顔を上げたリリアの顔が引きつる。
その視線の先。観客席の上空に、再び赤黒い精霊が現れていたからだった。
再び魔物としての姿を成し、降り立っていく彼らを見て、
エリスはそれ以上に狼狽する。
「そんなっ……!?
精霊外装はもうないはず、魔物を生み出せるはずは……!」
「精霊外装って?」
「あの鎧のこと。魔物はあの鎧の力で生み出してたの。私たちには2着だけ与えられて、一つはあの夜の妖魔が、もう一つは私が使ってた。
他にあるはずは……!?」
それは、企ての首謀者とも言える彼女にとっても理外の状況であるようだった。
ただ一つ分かるのは、リリアも、そしてエリスたち兄妹もまともに戦える状態ではない。
現状が極めて危険な状態にあるということだけだった。
(……魔物を出すのが、鎧だけ……?)
そんな彼女の言葉に、リリアが引っ掛かりを覚えたのも束の間。
その状況は、更に悪化していくことになる。
「"闘技『烈波』"っ!」
「っ!?……危ねえっ!!」
突如現れた敵意。それが込められた気弾が、三人の元へと撃ち込まれていた。
真っ先に反応したモースだったが、対抗するための体力は残っていない。
出来そうなことは、ただ一つ。そして彼は迷うこと無くそれを選択した。
「ぐああっっ!!」
「兄さんっ!?」
「モースさんっ!」
身を挺して気弾の盾となり、吹き飛ばされるモース。
今の身体を思えば、命に届いてもおかしくはないほどの一撃だった。
悲痛なエリスからの呼びかけも、もはやその反応すらないほどに。
「兄さんッ、兄さんッッ!!」
何度も彼へと呼びかけを続けても、彼の反応は無い。気を失ったのか、それとも。
エリスの声は、呼びかける毎に悲痛さを増していく。
ようやく掴みかけた希望が、眼の前で消える。それが、これ以上無く彼女を苛んでいた。
「フン、ようやく倒れてくれたか。無様な姿だ」
そして。
すぐ近くまで迫った敵意は、その思いさえも踏みにじる言葉を口にした。
「っ! 貴方はっ!?」
怒りと共に顔を上げ、その男の顔を睨みつけるリリア。
遅れてエリスも振り返って。その顔に、驚愕が浮かんだ。
「バルド……どうして……」
「しかも敵と共倒れしてくれるとはな。願ったり叶ったりとは、この事だ」
その顔はリリアにとってもエリスにとっても、初めて見る顔ではなかった。
デルタアーツの構成員、バルド。彼が、その敵意の正体だった。
「連絡係に甘んじる日々であったが……
その立場を活かし、これの存在をお前達に隠していて正解だった。
おかげで下剋上の好機を得られたのだからな」
「……っ、それっ!?」
勝ち誇るように手元の装置を見せびらかすバルド。
それはかつてリリアがグローリアで対峙したギャング、ゲルバが持っていたものと同じ形だった。
見覚えのある道具に、リリアも大きく反応する。
「魔物を作り出す道具!?」
「そうだ。精霊外装と共にあの方々から頂いていたが……
これほどまでに都合よく行くとはな。
現状のリーダーであるお前達を消耗させた上で、
この魔物による闇討ちで始末し、辺境伯の暗殺計画も完遂する。
まさに私の目論見通りという結果になったわけだ」
バルドは秘匿していた自らの計画さえ口にする。
この状況に、完全に勝利を確信しているのだろう。
それも当然だと言えた。彼の前に立ちはだかるのはもう、力を使い果たした少女2人だけなのだから。
「させないわっ! 絶対、二人に手を出させないっ!!」
それでも尚リリアは猛り、剣を杖にするようにして無理やり立ち上がる。
大技の反動だろうか、彼女の昂りに呼応する精霊たちも今はほんの僅かしかいない。
それでもあの時と同じ、強い意思の瞳がバルドを射抜いた。
あるいはその時の結末を想起させたか。バルドが僅かに身じろぐ。
「ぐ……フン! ただの虚勢に過ぎん、その体で何ができる!」
それでも震え、立つのが精一杯の彼女を、改めて認識するように言葉にするバルド。
そして悪い記憶ごと振り払うために、リリアの方へ歩み出し始める。
「一緒に始末してくれる……ぬうっ!?」
そして彼女を叩き潰さんと、構えようとしたバルド。
その肩口のすぐ隣を、上方から放たれた炎の槍が撃ち抜いていた。
僅かに肩を掠る程度の傷だったが、不意の襲撃に振り向くバルド。
その視線の先。塀に乗り出したジェネが、全力の敵意を向けていた。
「ジェネっ……!」
「て、てめえっ! いきなり出てきて、美味い汁だけ啜ろうってもそうは行かねえぞっ……!!」
だが。彼の状態もまた、平時のそれとは大きく異なっていた。
いや。正しくは先の一撃の時点でそうだった。
精霊への意思疎通により敵を狙って貫く炎の槍。
それが外れたという事が、まさに彼の今の状態の悪さを物語るものだった。
(くそっ……! 全身、痛くて堪らねえ……!
さっきの反動ってことなのか!?)
彼に宿っていた輝く精霊もまた、リリアの状態と連動するように今は引いていて。
そしてまるで反動のように全身を襲う苦痛が、彼にその狙いを鈍らせていた。
それは、遠目から見る挙動からも伺えるほどに。
「ええい、邪魔だ! "闘技『烈波』"っ!」
「うわあっ!?」
「ジェネっ!!」
故にバルドは、迷うこと無く反撃を選んでいた。
撃ち返した気弾により、塀の向こうへと倒れていくジェネ。
叫ぶリリアだが、もはや彼を心配できるだけの余裕は、この状況には残っていない。
そのまま振り向いたバルドが、拳を構える。
「邪魔者は皆、死ねえっ!!」
「――っ!!」
巨大なバルドの拳が、リリアの顔面に向けて容赦なく放たれる。
脳がどれだけ命令しても、どれだけ相手に怒りを燃やしても、重りを括り付けられたかのように、全身が動かなかった。
(負けられない、負けちゃ駄目っ!
ようやく、エリスさんもモースさんも向き合えたのに……!!
ここで、負けちゃ駄目っ――!!)
もう彼女は、底力まで使い果たしてしまっていた。
残るのは、少女としての小さな身体だけ。そこへ、彼女の手よりも何倍も大きな拳が迫る。
それはある種、悍ましささえある光景だった。
だが。
「おい」
突如、声が響いた。
それは、この場になかった男性の声だ。リリアは聞いたことのない声だった。
それを、脳が認識した程度のタイミングで。
「ギャッッッ!!?」
一瞬のうちに、バルドの全身が凍てついていた。
時が止まったかのようなバルドの様子。それが凍りついたものだと理解するのすら、リリアには難しかった。
何が起きたのか、全く理解できない中。声の主が、バルドの背後に見えた。
目を引いたのは、悪魔のような大きな翼。
その持ち主である彼は、侮蔑そのもののような視線をバルドに向けていた。
「ハッピーエンドに、水を差すな。下郎」
吐き捨てるようにそう言うと、彼は爪先で地面を叩く。それは、合図であった。
その瞬間、バルドの全身が文字通り粉々に砕け散った。
「……えっ!?」
手に握っていた装置も含め、風にすら乗るほどの細かい氷片として消えていくバルドの身体。
その巨体が消え去って、ようやく彼とリリアの視線が合った。
その視線に、先のような敵意は一切無い。むしろ、どこか哀しささえ感じさせるものだった。
まだ混乱が脳を埋め尽くすリリアに代わって、彼が先に口を開く。
「これは礼だ」
「え?」
「お前の剣を見せてもらった。拙いが、確かに紡いでいた。
……この結末が、その返礼だ」
それは、その意味を悟るにはあまりに言葉に欠けていた。
あるいは、それを意図した言葉なのだろうか。
この男の謎は、ずっと深まるばかりだった。
その中で、唯一。直感で理解できるものがあって。
「紡ぐ……って、あなたは……?」
直感的に、口に出せたのはそれだけだった。
それは間違いなく、エレナの剣を指しているのだろうということだけは直感できていた。
だが何者なのか。何が目的なのかの問いかけ。
そして、迷いなくバルドを殺害したことへの糾弾。
言いたいことは無数にあるのに、それらを口にするにも、混乱がずっと邪魔をしていて。
「だが、次はない」
そして彼も、それを待つことはしなかった。
踵を返した先の空間が、まるで他所と入れ替わるように歪む。
そしてそこに、可憐で華やかな装いの少女が現れた。
「えっ!?」
「連絡役は始末した。アイリス、帰投を」
「ああ」
「ま、待っ……!!」
尚も深まる混乱の中。リリアの制止が、彼らに届くことはなく。
再び現れた空間の歪みの後、彼らの姿は既に消えてしまっていた。
「……」
彼らが居たはずの空間を見つめたまま、リリアは呆然と立ち尽くす。
確かに窮地は脱した。だが生まれた謎も困惑も、一切解決することはなかった。
そして黒幕への手がかりである、バルドの存在も抹殺されてしまった。
(これで……ほんとに、良かったの……?)
あの場面で抗う術は無かった。それは分かっているからこそ、無力感に襲われるリリア。
あるいは明確な殺意を向けられていたとはいえ、眼の前で明確に生命の消える瞬間を目にしたからか。
その心は、態度以上に揺れきっていた。
そんな彼女を、耳を劈く咆哮が現実に呼び戻す。
「ガギャアアアアアアアッッッ!!!」
「っ、そうだっ! まだ魔物が……それに、モースさんもっ、ジェネもっ……!」
消えた者たちを思う余裕など、この場には残されていなかった。
気弾を打ち込まれてから、ジェネの姿は今も見えないばかりだ。
「兄さんっ、しっかりしてっ、兄さんっ!!」
振り返れば、ようやく兄の元へ辿りついたエリスが彼を抱いていて。
闘技場の中に響いていた戦士たちの雄叫びは、いつしか悲鳴の色が強くなっていた。
「ガアアアアッッ!!」
「っ!!」
そしてバルドによって呼び出された魔物のうち一体が、闘技場中心部へと飛び込む。
リリアたちに、標的を定めたのだ。
人狼のような出で立ちの魔物に向かい合い、リリアは震える手で剣を握る。
握力ももはや自覚できないほどに弱りきっていて。ただ意志の力だけで、それを構えていた。
「ゲギャアアッッ……!」
そんな状態だ。先に仕掛けたのは魔物からだった。
身体を引き裂かんとする鋭い爪が、リリアへと迫る。
なんとかそれを見切ろうとして、リリアは更に目を凝らして。
それが、見えた。
「……世話を掛けたな」
それは魔物の首を一刀の下に斬り伏せる、神速の剣閃だった。
耳に入った声は透き通るような、女性のように高い声だった。
瞳に映ったのはその欠片だけ。だがそれだけでも、リリアには十分にその正体がわかった。
気がつけば。彼はリリアを守るように、その前方に立っていた。
「不覚を取った。遅れてすまなかった。
いきなりで悪いが……この状況は、どうなってる?」
「リーンさんっっ!!」
――
「がっ……ぐうっ……!」
塀の向こう側。リリアに見えない場所で悶え苦しむジェネ。
距離もあり、バルドの気弾はある程度威力を削がれたものではあった。
だが今のジェネには、十分に重いと言える一撃で。
もはや立ち上がる事さえ出来ず、ジェネはそのまま突っ伏してしまっていた。
「はっ、ぐ……ッッ! 立て、立つんだっ……リリアを……!」
全身を苛む苦痛に呼吸すらも整わない中、ただリリアの存在を頼りに心を奮い立たせるジェネ。
塀の向こう、リリア達の状況は間違いなく最悪だった。
弱っているリリアの様子だって、この距離でも分かっていた。
それは、自分が倒れることが何を意味するのかを彼に刻みつけるように教える。
「ぐうっ、がああッッ……!」
「ガアアアッッ!!」
「なっ……!? 魔物っ……!?」
それを自らへの鞭とし、塀に手を当てて無理やり立ち上がろうとするジェネ。
そんな彼の最後の根性さえ食いちぎらんと、獣を象った魔物が迫っていた。
「ギャアアア!!!」
「くっ、そッ……!!」
明確な敵意を既に放つ魔物だ。一刻の猶予も、彼には与えられなかった。
震える手に精霊たちを呼ぼうとしたその時には、既に魔物は一気に距離を詰めていた。
彼が号令を出すより早く、魔物は彼に喰らいつけるだろう。
だがそれに反応する余裕も、もうジェネには残されて居なかった。
「……っ!!」
想像する痛みへの反射で、目を閉じるジェネ。
だが、備えた痛みはいつまでも身体に伝わることはなかった。
代わりに、何かに唸るような魔物の鳴き声が響く。
目を開けると、そこには。
龍人である自分よりも小さい、だが何よりも大きく見える背中があった。
「派手にやられたな。いや……全力を出し尽くした後か?
いずれにせよ、敵の眼の前で隙を晒すのは感心できんな、ジェネ」
ジストが。蘇った力の漲る右腕が。迫りくる魔物を抑え込んでいた。
「おっさんっ!? 毒は……!」
「一眠りさせてもらったお陰で万全だ。俺も、リーンもな。
……ふんっ!!」
「ゲギャアアアアアアッッ!!!?」
ジェネの声に答えながら、ジストは魔物を抑えていた腕と反対側、左手で魔物の身体を打ち抜く。
ろくに体勢も整えていないはずのパンチは魔物の身体を大きく歪ませ、
一撃の下に輝く精霊の姿へと戻すほどの威力を見せていた。
ジェネに語ったその言葉が、嘘ではないと表明するように。
それは、あまりに強い希望の象徴だった。これまでの窮地への恐怖、全てを吹き飛ばすように。
「おっさん、俺……」
「状況は全く分からんが……だが一先ずリリアも、無事のようだな。よくやった、ジェネ」
「くっっ……! う、ううっっ……!」
その希望の嬉しさと、そう思うが故の悔しさと。声を震わせるジェネに、その頭に手を置いて労うジスト。
それで堪えていた思いが、涙として溢れ出して。
顔を伏せるジェネに、ジストはそれ以上は踏み込まなかった。
あるいは、それは共感が故でもあった。
「泣くのは後だ。俺とリーンでこの場を片付ける。動けるか?」
「わりい、あんまし……」
「分かった。なら、まずはお前の安全確保だ」
彼の返答から素早く判断すると、ジストはジェネの身体を担ぎ上げる。
体格で勝る龍人すら軽々と担ぐあたり、その力は十分に蘇っているのは確かだろう。
彼はそのまま塀から飛び降り、いくつかの着地点を経由してその中央部であるリリア達の場所へと合流する。
「すまない、遅くなった! リリア、大丈夫か!?」
「ジストさんっ! って、ジェネっ!? 大丈夫っ!?」
その姿を目に入れて、リリアはまたずっと顔を明るくした。
だが彼が担ぐジェネの姿も認めると、意識は彼を心配する方へと向く。
「わりい……結局、かっこ悪くてよ……」
「そんな事ないっ! 助けに来てくれたじゃない、きゃっ!」
もはや起き上がる体力もない中、自嘲する彼に駆け寄るリリア。
だが彼女の限界も、すぐそこにあった。力の抜けて転びそうになる彼女を、ジストが受け止める。
「ご、ごめんなさい、ジストさん……」
「いや、いい。よく戦った、二人とも」
力尽きた二人の様子は、その奮戦を表す何よりの証だ。
優しく彼らを労うジストにも、それが見えていたのだろう。
その側に、更に人影が並ぶ。先程は前線に出ていたリーンだった。
「見える範囲は片付けた。一旦、状況を確認したいが……消耗は小さくないか」
あるいは不覚を取ったことへの奮起か。それは正に鎧袖一触とも言える戦いぶりで。
彼の閃刃は、この僅かな時間で周囲の魔物を排除したようだ。
呼吸一つ乱さないまま戻った彼は、二人の様子を認めると更にかがみ込む。
そして目を閉じて、集中を高めて。それを、口にする。
「……"我らが友、精霊よ。生きる力を貸し与えよ。『ヒール』"」
「えっ!?」
口にした、何かしらの文。それに呼応して明るい緑に輝く手を、二人へとかざした。
それは、精霊術の詠唱だった。彼の思わぬ技術に驚くと同時に、リリアは少しだけ身体が軽くなるのを感じる。
それが精霊術の効果であるのは、もはや言うまでもなかった。
「リーン、精霊術も使えたのか!?」
「基礎のものだけだがな。
本職の精霊使いなら、簡易詠唱どころか無詠唱で使うような低級のものだ。
あくまで回復の補助程度にしかならないだろう。安静にはしていろ」
「うん……ありがとう、リーンさん」
注意か、あるいは卑下のようにその術は語られたが。
身体の具合が良い方向に向かったのは確かだ。
まだ弱っているのには変わりないが、その状態の浮上があっただけでもリリアには楽に感じられた。
二人が来たことによる状況の好転、そしてこの治癒が緊張の糸を解いていく。
だがそれが完全に解けきることは無かった。ようやく気を配れる状況になって、それを二人に伝える。
「でも、待って! 話をするならエリスさんたちも!」
――
「この闘技大会の運営組織自体が、辺境伯とこの町を狙う黒幕だったというわけだな。
……正しくは、そのさらに奥に居る黒幕の尖兵だった、という事だろうが」
「……はい」
俯くエリスに、張り詰めた雰囲気と共に語りかけるジスト。
先程、傷ついた二人を抱いた時とは真逆とも言える厳しい雰囲気を纏っていた。
それはこれが、追い続けた黒幕に繋がる者への尋問という場であるという事と。
そして彼女たちが、二人を傷つけた直接の存在だからというのもあるだろう。
「ジストさん、待ってっ! 二人は……その、悪くないわけじゃないけどっ」
「沙汰を下すのは俺やジストではない。辺境伯だ」
その威圧を受ける彼女を見かねてリリアが声を上げる。
戦いの先に二人の未来を願った彼女だ。裁かれるとなれば、彼ら側に立つのも当然ではあった。
リーンはそれを断じるが、一方で輝くその手がモースへと向けられていた。
「リーンさんっ、俺……」
「だが、それまでに死ぬのは俺も許さない。お前には生きる義務がある」
「リーンの言う通りだ。彼らを従えていた存在が我々の敵であるのは言うまでもないが……
それを裁く権利は辺境伯にある。処遇については俺が決めることではない」
「でも……!」
そしてこの場で彼と並ぶ強い立場にあるジストも、その言葉を肯定する。
一旦の先送り。それがこの場に残されたもので、リリアも浮かない表情を見せる。
それからも、エリスたちとの決戦が単純な勝利で終わったわけではないことはジストにも分かる。
確かめたい気持ちも、無いわけでなかった。
これまでの付き合いで分かっている。リリアがこうするなら、それだけの理由はあるという信頼もあった。
だが状況がそれを許さなかった。一旦は冷静に、あるいは冷酷に。ジストはその状況への対処を選択する。
「今すぐ詳しい話を所ではあるが、ともかくまずは辺境伯の救出を……」
「でりゃあああああああああっっ!!」
「うおっ!?」
だが、結果的に。
その状況は、向こうから解決へと進み出すことになった。
突然砕けた壁と、激しく立った土埃。その中から、声が響く。
「そ、外ですっ! 外に出ましたっ! って、リリア!?」
「あああああっ、いでえええええっっ……!! もう、絶対やらねえ……」
「……アカリさんっ、バゼルさんっ!!」
その瓦礫の上で、それぞれの得物を握る二人。
先刻、時間稼ぎを引き受けたアカリ、バゼルらだった。
苦悶の声に染まったバゼルはともかく、二人の無事を知って声を明るくするリリア。
だが、そこから現れた人影は2人だけではなかった。
また違う人影が、土埃の中からリリアへと飛び込んできた。
「わっ!?」
「リリアーっっ!! 大丈夫!? 無事っ!?」
「アーミィっ! そっちこそ無事だったのね、良かったっ!」
そのままリリアを抱きしめたのは、アーミィだった。
互いに状況の理解はできていないが、それでも互いが健在であることに喜びを見せ合う。
そのアーミィの背中に遅れて歩み寄る、また一つ、ずっと背の高い人影。
リリアにとっては眠る姿だけを知るその顔が今、優しい視線を向けていた。
「あなたは確か、アーミィの……」
「貴方が、お嬢様の仰られていたリリア様……
申し遅れました、私はレオナ。アーミィ様に仕える夜の妖魔でございます。
お嬢様を助けていただいた事、本当にありがとうございました。
……そしてそのような方に、刃を向けてしまった事。深く、お詫びいたします」
「大丈夫だよっ! 色々事情もあったし、私だって結構痛い目に遭わせちゃったし!
……でも、どうしてアカリさん達と?」
ようやくと言うべきか。
初めて言葉を交わすことのできた彼女は、まず先の戦いをリリアに詫びる。
とはいえ意に沿わない戦いであるのは、アーミィの様子や聞いた事情から明らかだ。
それをすぐに流して、リリアは笑顔で彼女を迎えた。
一方で、当然のように湧き上がる疑問。それに答えたのはアカリだった。
「モースさんとの戦いの中で、私達も逆に足止めとして外に出るための道を塞がれてしまって。
仕方なく行けるところを探して走り回っていたら、
こちらの囚われていた方たちのところに辿り着いたんで……って、バゼルさん!?」
「おうおう、よくも好き放題刻んだうえに生き埋めにしてくれたなぁキング、っつぇえ!?」
説明の最中、倒れたモースにのしのしと歩み寄っていくバゼル。
腹に据えかねていたものを開放するように、獲物の大剣に手を掛けながら攻撃的な言葉を吐いて。
しかし、それは途中で抑えられた。突然首元に突きつけられた、双刃剣の一方が故だった。
「お前、先日の誘拐犯か。何故ここに居る?」
「ま、瞬く星の!? い、いやあ、色々ありまして、ハハ……」
突如向けられたリーンからの鋭い殺意に、一転して萎縮しきってしまうバゼル。
一瞬での態度の変わりように、呆れたようにアカリはため息をついた。
「全く……倒れた者に刃を向けるなど、戦士のやることじゃありません。
さっきもそうです。あんなにやる気が無かったのに、囚われた人を見るや打算的に力を使うなんて」
「うっせーな! 見りゃ分かんだろ! 死ぬほど痛えんだよ、死なねえだけで!
見返りがなきゃやってられるか、こんなもん!!」
「見返り……?」
その会話の中で出た、見返りという言葉。
つまりは囚われた者の中に、利己的に動く彼が助ける価値があるとした者が居るということだ。
そして。
「ええいっ、地上層に出れば道はわかると言っておるのに……!
……むっ、これは!?」
そして、だんだん明るくなっていく空気、この戦いの結末を象徴するように。
その分け目となる最重要人物である彼もまた、晴れていく土埃の中から姿を現した。
「……そうか。こうなったか」
見えた光景に戸惑いを見せて。しかしすぐに、どう物語が転んだのかを推察して。
ドグマは一旦、息を吐いた。事態の重さを憂いたものか、あるいは。
そんな彼に、リーンが逆に駆け寄っていく。
「辺境伯! ご無事でしたか」
「うむ。色々と幸運が重なってな。状況はどうだ?」
「デルタアーツの者たちによって魔物が放たれたようです。
ですが供給源は既に絶たれています。主犯の2人もリリア達が制圧しました。
彼らは一先ず、この戦いでは力を貸してくれています。
魔物残党の殲滅、そしてデルタアーツ構成員の捕縛が今の優先事項かと」
「うむ。この戦力があれば、一旦この場は問題あるまい。リーン、お前もそちらに回ってくれ」
「はっ! ……そういう訳だ、行ってくる」
リーンの報告に頷いて、手短に彼に指示を出すリーン。
直ぐ様駆け出していく彼の背中を見送ったあとで、ドグマは視線を動かす。
地に転がったモース、そして伏せるエリスに。
向けた視線は、侮蔑でも怒りでも無かった。確かな心痛と共に、ドグマは瞼を閉じる。
(こうなってしまうとはな。私に王のような聡明さが少しでも備わっていれば……)
流れていく、彼らとの数年にわたる記憶。そして自分の知る情報、今の状況。
複雑に絡みきった感情を、ドグマはその言葉で纏めた。
そして視線を外すと、ジストの方へと歩みだす。
「レイザ殿改め。グローリアの英雄、ジスト殿だな。事情はリリア嬢からもある程度聞かせてもらった。
密航のような真似については看過しかねるが……ともかく、目的は我々と重なっていたという訳だ。
此度の町の危機への協力、心より感謝する」
「こちらこそ。リーン殿の助力により、我々も大変助けられました。
……今思えば。リリアであればそうしたように、最初から協力を申し出ればよかったのかもしれません」
「フフ……肯定したいが、中々そうもいかんのが我々大人の世界という物だな」
そのまま、言葉と共に握手を交わす。
言葉にした流れで、その視線は少女達らに囲まれるリリアの方へ向いた。
年や感性の近い友と笑う彼女の姿は、まさしく年相応の少女という様子であるが、しかし。
(……運命がそうさせているのか。あるいは、真に英雄の素質があるということだろうか)
少しだけ彼女の行く先に思いを馳せて、ゆっくり瞳を閉じるドグマ。
そして思索の流れを彼女から切り離して、再びジストへと向き直った。
「さて、話したい事は無数にあるが。
状況は山場は超えたようであるが、未だに混乱は続いている。
まずは一旦終息させることを最優先としたい。よろしいか?」
「勿論です。私も協力いたします」
――
それから。
すっかり日も落ちきって、薄暗くなったこの港町。
仕方のないことではあるが、昼間の活気が嘘のように静まり返っていた。
それは、取り急ぎ大闘技場での戦いも終わったことを示してもいる。
だが、事態の解決というにはまだ早すぎた。
「……もう、他に聞けることもなさそうだな。其奴を連れてゆけ。追って沙汰を下す」
「はっ!」
所変わって。ここは辺境伯の館、その執務室である。
ドグマの令によって衛兵に連れられる男を見送るこの場には。
執務の関係者の他に、リーン、ジスト、そしてリリアの姿があった。
「今ので一般の構成員としては最後か。予想はしていたが……殆ど空振りというわけだ」
「連絡ルートはバルドという男に一極集中させていたようですな。
だからこそ。我々を襲った紅い光の老戦士と同様に、更に上部の者によってバルドも消されたのでしょう」
「そっか……あの人、それが目的で……」
これまでの話を理解して、リリアの表情が沈む。
かの氷術を操る男が明確な敵であった事、そしてそれを妨げることも出来なかったこと。
その様子を見て、ジストは声色を優しくして彼女に声を掛ける。
「取り逃がした事については気にするな。
俺たちと戦った戦士の仲間とあれば、その男も凄まじい力を持っていてもおかしくはない。
あの状況だ。今は生き残ったことを喜ぼう」
「……うん」
「俺も、ジェネもな。今回は悔しいことばかりだった。
だからこそ、更に進まなければならない」
俯くリリア。きっと彼女も無力さを実感している。
そう思って、ジストは一体感を感じた。自分も、きっとジェネもそうだ。
我々は、強くならなければならない。それを共有できているのは、確かに前に向く力を与えていた。
「私としてはその老戦士とやらが気にかかるのだがな。
いくら毒が回っていたとはいえ、
貴公とリーンの二人掛かりで歯が立たんなど……悪夢のような話だ。
それほどの戦士だと言うのに、どこを探しても由来の話すら掘ることもできん。どう御したものか」
「関係ない。次は負けない、俺が殺ります」
「……まあ、お前の反骨心を信じるのも悪くはないが」
一方で。リーンもまた、今回の敗北に強い怒りと闘志を燃やしていた。
その可憐な顔から想像できないような物騒な雰囲気は、それが如何に強く燃えているかを現していた。
「ともかく、そんな激闘の後なんだ。お前もジェネ達といっしょに休んでていいんだぞ」
「ううん、大丈夫。それに、二人のことが心配だもん」
そんな中。体調を案じるジストに、リリアは首を横に振って答える。
あれほどの消耗の後で尚、彼女がここに居るのは。行く末を願った二人の事が心配だからだった。
(……まあ、そうだろうな)
その気持は分かって、一度息を吐くドグマ。
そこで、執務室のドアからノックが響いた。
「入れ」
「はっ! 失礼いたします!
モース、エリスら兄妹をお連れ致しました」
彼らの名前に、場の空気がまた一気に引き締まる。
先のドグマの言葉が表すように、これまでの尋問の結果は芳しいと言えるものではなかった。
というより、成果はほぼ皆無に等しかった。
徹底された情報統制が、下層の構成員にその材料を与えていなかったのだ。
だがこの兄妹はそうではない。
今回の首謀者とも言えるリーダー格であり、そしてドグマとも、リリアとも深い関わりを持つ存在だ。
その重さは、先程までの尋問の比ではなかった。
「……」
重い空気の中、両手を縛られた二人が現れ、辺境伯の前の床に座る。
二人は、自ら口を開き助命を懇願することはしなかった。
しばらく、部屋に沈黙が広がる。息を吐いて、先に口を開いたのはモースだった。
「こうなるとはな。モース、エリス嬢。
だが……まずは知っていることを話してもらおう。話は、その後だ。
お前たちの後ろに居るのは、何者だ?」
その言葉もまた、重い口調だった。
彼らとの関わりの大きさ、それが伺えるように。
一先ず尋問の色を強くしたのは、あるいはその思いを振り切るためのようでもあった。
その重い口調に、顔を上げたのはモースの方だった。
「……一度だけ。一度だけ、『上』に会ったことがある。
オレたちが直接顔を合わせたのは、その一回だけだ。オレたちの故郷、アブロー。村を滅ぼした時に拾われた時だった」
「アブロー?」
「パスティオという海沿いの地域にあった村だな。パスティオはグローリア側にある中立地域だ」
聞き慣れない単語だったのだろうか。リーンが訊ねたその言葉を、ドグマが説明する。
その目が、僅かに俯いた。あるいは、それを知った経緯が故だろうか。
再びモースに向いた目が、その続きの催促になった。
「たぶんアスタリトの人間のはずのあいつが、
なんであそこに居たのかは今もわからない。そこからは、さっぱりだ。
普段の連絡は全部バルドがやってた。あいつの方が古株だったから。
組織の考えなのか、バルドが成り上がりを狙って情報を漏らさなかったのかは分からねえけど、
オレたちが顔を合わせたのは、それが最後だった」
「自分の脚で手先を集めていた……というだけでは、ないだろうな」
モースの言葉から語られるかの者。しかし、その情報は希薄そのものと言ってよかった。
しかしそれでも何かしらの納得のような様子を見せるドグマに、リーンがその意図を問う。
「何か心当たりが?」
「いや。だが確かにアスタリトとしては警戒の薄い土地だ。
アスタリト領ではないが、グローリアとの関係も特に深いわけではない。
……事を企てるには、悪い場所ではなかっただろうな」
「ってことは……そこに黒幕が居るってこと!?」
その先を示すような彼の言葉に、真っ先にリリアが反応した。
この場の空気からは異質な響く声、しかしその結論自体は確かにそれだけの衝撃はある。
だが、そのリリアの言葉にドグマは首を横に振って答えた。
「そう考えるのは尚早だろう。モースが居た頃となれば3年以上前だ。
それに物理的な距離もありすぎる。今の活動の活発さを思えば、既に潜伏箇所は変えているだろう。
掘れば何かは出てくるかもしれんが……これほど巧妙に身を隠し続けていた奴だ。望み薄だろうな」
「そ、そっか……」
「とはいえまともな情報もない状況だ。調査はする方向にしたほうがよいだろうな。
……モース、他には何かないか?」
リリアへの説明の後。
ここまでの情報の価値をそうまとめて、ドグマは次を催促する。
「ああ……そいつの話じゃねえんだけどさ。
この襲撃計画の中で、グローリア側の協力者と話すことがあったんだ。
……リリアやエリスがこの町に来た、その1週間前。
あの夜の妖魔の子の館でさ」
「っ! 本当か!?」
次に言葉に強く反応したのは、やはりジストだった。
その存在はグローリアの当事者である彼からすれば、当初から追い求めていた仇敵そのものだ。
その反応も、無理はなかった。彼の言葉と目に催促されて、モースは淀み無く続けていく。
「やつらは、こう呼ばれてた。『アスタリト原理主義者』って」
「! ……まさしく、裏切り者ということか」
「アスタリト……? グローリアの人達なのに?」
そして語られた、探し求めていた仇敵の名。ジストは一度驚くも、すんなりと理解する様子を見せた。
逆にその名称に疑問符を浮かべるリリアに、同じく飲み込んだのであろうドグマが説明を付け加える。
「グローリアという勢力はアスタリトでの立身出世に失敗し、離反した者たちから始まったものだ。
だが、そこでも尚成功できないとなれば……頼る先にまた、アスタリトが浮かんでくるという訳だな」
「やっぱりアスタリトが良かった、から原理主義者って呼ばれてるってこと?」
「そういうことだ。だが、動機は今はいい。何か特徴は無かったか?
なんでもいい、その男を特定できるようなものは」
相槌もそこそこに、ジストは半ば急かすように話の深堀りを続けていく。
らしくはないが、やはりそれだけの相手であるということでもあった。
焦燥感を持ったその様子に息を飲んで、すこし考えてからモースは口を開く。
「顔までは見えなかったよ。隠してやがったのかな。
みんな同じような格好してて、部屋の中だってのに兜も脱がねえで」
「兜?」
「ああ。こっちじゃ見ない形の、丸っぽいやつだ」
「丸っぽく、顔が隠れる形……」
あるいはそれに応えようとしてか、その曖昧な輪郭をなんとか言葉にしていくモース。
その言葉を掴んで、ジストもまたありったけの思考を回して。
あまりにか弱いその証拠から、自分の頭にあるかもしれない正解を探していた。
「……ジストさん」
「どうした? 何か気付いたか?」
そんな彼に、不意に声を掛けるリリア。
表情と声色は何か思いついたように明るく、すぐにジストも反応した。
そしてリリアは彼に、思いついたそのままを伝えていく。
「丸くて、顔が隠れるほど覆うってさ……防衛隊の人達のヘルメットっぽくない?」
「……そうか!」
リリアの言葉に、彼もまた、この暗中模索の光明を見つけたかのように声を上げて。
直後、懐から手帳とペンを取り出し集中して何かを書き込んでいく。いや、『描く』が正しかった。
しばしの間それを続けていた彼だが、やがて椅子から立ち上がって。
モースの方へ歩み寄ると、手帳の向きを返してそれを見せた。
「モース。そいつらの装備に、このうちどれかのマークがなかったか?」
手帳に2列に分け並べて書いた、何かのマーク。
近づけられたそれに目を凝らして、そして次にモースが叫ぶ。
「あ、これだ! 右の上から3番目!」
「……!」
彼の解答に、無言だが確かな反応を見せるジスト。
何も言葉にできない衝撃、それを受けているかのような様子だった。
何にせよその原因は、モースが指したそのマークにあるのは確かだ。それをリリアが訊ねる。
「ジストさん、それって?」
「……グローリアの、組織の標章だ。
思いつく限り書いてみたんだ。どれかに当たればという思いだったが……
右の上から3番目。これは防衛隊の、二番隊。ガストチームのものだ」
「え……!? あのバストールって人たちの!?」
指さされたそのマーク。
そして加えられた彼からの説明に、リリアも視覚としての記憶が蘇る。
この旅と戦いの始まりとなったあの日。
故郷に現れた防衛隊の隊員が胸元に示していた、そのマークだった。
「ジストさん……っ!」
それで、リリアも彼の様子を理解する。
リリアにとっては、バストールらは不理解な乱暴者の記憶しかない。
だがジストが彼らも含め防衛隊を、人々を愛していることは十二分に知っている。
半ば自棄のように手段を選ばないのも、それが理由であることも。
これは、その裏切りを示すものでもある。その衝撃は如何ばかりだろうか。
リリアも思わず、案じるように声を掛ける。
すぐには帰ってこない反応が、やはりその衝撃の大きさを表していた。
「……まだ黒幕と決まったわけじゃない。
より高い権力を持つものが、手下かつ使者として出しているだけの可能性もある。
まあ、俺に話が通ってない時点で共犯なのだろうがな」
何度かの呼吸の後、ようやくジストはそれに冷静に返した。
あるいは、リリアの前だからこそ取り乱すのを避けたか。
心の荒れように対して、努めて静かな口調でそう一旦の結論を出した。
「でも何でわざわざ、どこの人か分かる服で来たんだろう?」
「防衛隊のスーツはただの防護服じゃない。
特に精霊機関や精霊術に対する有力な機能もある。潜入となる上で、それを頼った可能性があるな。
それに内通者とはいえ、敵地に踏み込むんだ。緊急の事態に備え、戦闘の準備をしておくのもわかる話ではある。
だが何にせよ……奴らの正体を暴くチャンスには違いない」
あるいは、覚悟していた面もあるのだろう。
リリアの疑問に答えながら、彼はそれを現実のものとして思考を固めていく。
「アスタリトまで来るとなれば、そうそう痕跡を消し切ることもできまい。
グローリアに戻った後、調べる理由はありそうだ……辺境伯、失礼しました」
「いや。貴公に役立つ情報であったのなら何よりだ……モース。他にはあるか?」
再び椅子に腰掛けるジスト。それを合図に、ドグマは話を進めていく。
「オレたちが使った装備……精霊外装って言ったっけか。
それもそいつらから貰ったものだった。多分バルドの奴が使ってたのも、そうなんじゃねえかな」
そこまで言って、モースの言葉が止まる。
息継ぎというよりも、話を区切るかのようなものだった。
「オレたちも所詮、使い捨ての下っ端だってことだ。
知ってるのは、それぐらいだよ」
それは、この時間の終わりを告げるもので。
彼らが情報提供の協力者から、罪人へと変わるその瞬間でもあった。
静かに目を閉じるドグマ。やがて開くその表情に、容赦の色は無かった。
「そうか。では、裁決に入るとしよう。
実行犯のリーダーであるお前たちには、私が直々に判を下す」
彼のその宣言に、場の空気が大きく変わる。
先よりもずっと張り詰める緊張感。口を開くのも、ずっと重く感じる程に。
ドグマの視線が、僅かに罪人である二人から逸れる。
「っ……!」
それは、言葉を聞いた瞬間立ち上がろうとしたリリアを制していた。
恩もある、言いたいことも分かる。
だがこの場の主は自分であり、勝手な行動は許さない。そう伝えるようだった。
感づいたか。隣のジストの眼光が鋭くなったが、それでも雰囲気は一切解けなかった。
そんな中。ここに来てずっと黙っていたエリスが、初めて口を開く。
「辺境伯……リーダーは、私です……お兄ちゃんは、着いてきただけで……!」
「エリス!」
その言葉は、もはや聞くまでも無く兄への酌量を求めるもので。
しかしそれを一喝するのも、その兄当人たるモースだった。
それも当然だった。自分だけが助かる道を、もう彼が選ぶはずもないのだから。
「オレたちはもう、ずっと一緒だ。そうだろ」
「……っ!」
彼は一点して優しい声色で、そのままエリスを説き伏せる。
そして顔を伏せてしまった彼女の代わりのように、ドグマの視線へと向き合った。
(ふたりともっ……!)
その二人の様子に、またも強い焦燥感に駆られるリリア。
すぐにでも飛び出して行きそうな彼女を尻目に、ドグマは口を開く。
「リリア嬢からお前たちの境遇は聞いた。
選択の余地のない立場となったことも、理解はする。
だがこの町と住民を危機に陥れたこと、そしてアスタリトに弓引いた事。
事情を汲んで尚、余りある大罪である」
それは、彼らの罪を赦さないことを告げるものであった。
更に高まっていく緊張感の中。彼は口早に、その判決を告げた。
「モース、エリス。お前たちを、この国から追放する。
今後、アスタリトの大地に踏み入れる事は罷りならん」
告げられた評決によって。静かな部屋が、より一層重い沈黙に包まれる。
あれだけ昂りかけていたリリアも、その静寂に吸われたかのように。
最初に反応を返すのが誰であるのか、決められているかのようだった。
そして。ふっと笑ったモースが、その最初になった。
「……生かしてくれるだけ、ありがてえよ、辺境伯」
「軽いものではないぞ。この世界の大半に踏み入れてはならん、というものだからな」
感謝を伝える彼に、逆に警告のように答えるドグマ。
警告は、最もと言えるものではあった。
アスタリトはこの世界の実質的な覇者だ。そこからの追放は、決して軽いと言えるものではない。
「どこだっていいさ。な」
「……うん」
それでも。やり直す機会を得られた事自体が、喜ばしくて。
穏やかな顔を浮かべるモースたちに、ドグマは立ち上がって近づいていく。
手には、何かしらの封筒が掴まれていた。
「辺境伯?」
それはまるで。立場を明確に、切り替えるかのようだった。
床に座る彼らと視線を合わせるように屈んで、ドグマは封筒を彼らに見せて言う。
「ベルディオンの名を、覚えているか? モース」
「え……ベルディオン男爵!? パスティオの!?」
ドグマが突然出した名前に、しかしモースは驚きと共に大きく反応する。
言葉に反し、思い当たる人物にはすぐに辿り着いたようだ。頷いて、ドグマが続ける。
「ああ。お前たちを拾おうとしていた、あのパスティオのベルディオンだ。
ベルディオンは私の友人でもある。時々文通を交わす仲でな。
お前たちの村が滅びて以降、ずっとその行く末を案じていたようだ。
滅びた元凶が、お前たちにあることを知った上で」
その理由と関係を口にしていくドグマ。モースたちの始まりにも繋がる人物の話だ。
しかしその言葉の裏には、もう一つの意図を抱えていた。一呼吸と共に、ドグマは続けていく。
それは彼の、真の温情と言えるものであった。
「流刑として、お前たちはパスティオへ送る。そこで、人生をやり直せ。
ベルディオンはどのような前途があろうと、再び立ち上がろうとする者を踏み躙る男ではない」
「……辺境伯っっ!」
その意図をすぐに理解して、打ち震えた声でモースが叫ぶ。
強い感動と感謝を込められたそれを受け取って、しかし返しはせずにドグマは立ち上がる。
それが、彼が用意した線引きだった。あるいは建前でもあった、罪に対する罰への。
(とはいえ、アスタリトからの追放は本当に軽くはないのだがな。
まあこれで、言い訳もつくか。彼女への恩も、これで返せるというもの……)
「わーんっ!! 辺境伯さああああんっっ!!」
「ぬおっ!?」
そして、それは。
今まで溜まりに溜まりきっていたリリアの感情、その明るい方への爆発を引き起こして。
突如彼の横腹を付くように、飛び出したリリアが彼に抱きついていた。
「ありがとおおおおっっ!
事情があっても、大切なことだって他にもいっぱいあるからって思ってたからッ、
でも二人を助けてくれてっ、ありがとおおおおおっっ!!」
「お、落ち着きたまえ! 物事には建前と言うものが、うおおおおっっ!!?」
嬉し涙だろうか。大粒の涙を流してリリアは歓喜のままに縋り付く。
どころか、完全にドグマの身体を振り回して精霊たちと共に喜びを表現していた。
纏まらないまま口にしている感謝の言葉など、勿論届くはずもなく。
むしろ悲鳴さえ上げているドグマを見つめて、リーンが苦笑と共にぼやいた。
「何でもありだな、あいつは」
「リ、リリア……!」
「へ、辺境伯!?」
「大丈夫だ。辺境伯は悪童には慣れてる。たまには舞踏会を楽しまれるのも悪くはないだろう」
リリアを諌めようとするジスト、そして衛兵たちを逆に制して。
しかしその瞳には、むしろ悪戯っぽさが含まれてさえ。それこそ、悪童のように笑っていた。
「わあああああん!!」
「じょ、冗談を言っとる場合ではない! うおおおおおっ!!?」
あるいは、ここに笑顔が生まれたということが。
この騒動において、彼女がハッピーエンドを掴んだ証であると言えるのかもしれない。
「まあ、公務に響かれても困る。そろそろ止めるとするか」
「リリアっ、落ち着け!」
「ふえっ……」
「ま、まったく……」
ともかく、この騒動の山場は終わったと言えた。一段落へ向け、空気も柔らかくなっていた。
それを。
「辺境伯ッッ!! 失礼いたしますっ!」
「わっ!?」
それを、突如飛び込んだ一報が引き戻した。
激しく開けられた執務室の扉。現れた衛兵は、半ば取り乱しているかのような声色だった。
「何事だ!」
「港に所属不明の超巨大軍船が現れました! ここからでも見える程の大きさです!」
「何……? むっ!?」
その報告を聞いて、港の見える側の窓へと振り向くドグマ。
反応を返したのはすぐだった。日がもう随分落ちた時間、気付けば雨が振っていて外の見晴らしは良くない。
それでも尚、一目で分かる程に。
高さも幅も商船の数倍はあろうかという程の巨大な船が、そこから見えていた。
「な、何あれ……!?」
「船なのか、あの大きさで!?」
それは彼の背中から見るリリアたちにも、十分に視認できる程の大きさで。
異様な光景に、次々に困惑し、焦燥する声が上がる。
「馬鹿な……何故、あれがここにある」
その場で、唯一。ジストだけがその正体を知っていた。
漏らした声に、一同一斉に振り向く。すぐにドグマが、それを問いただした。
「知っているのか、ジスト殿?」
「あれは……グローリアの海上機動要塞だ!」
して。物語は、ハッピーエンドで一段落付くことはなく。
新たな動乱が、既に巻き起こり始めていた。
――
より強くなった雨足、真っ黒になった空。
その中で。巨山のような黒い影に立ち向わんと、この町に集まる騎士たちが港に並んでいた。
その先頭に立つドグマ。数歩前に踏み出すと、海上要塞から伸びる光が一斉に集まり彼を照らした。
スポットライトを受けて、しかし毅然として彼は声を投げかける。
「私が辺境伯ドグマだ。これほどの物を持ち出してまで、グローリアの者が何用かね!」
雨音の中、それが通ったかは定かではない。
だが、その心配は杞憂となる。
しばしの後、海上要塞側から拡声器を通して声が返された。
『突然の来訪失礼した、ドグマ辺境伯。我々はグローリア防衛隊である』
「防衛隊が何故ここに居る!? 海上要塞まで持ち出して、何のつもりだ!?」
さらなる返答は、ドグマに並び立ったジストが返す。強く怒りの篭った声だった。
守るための部隊と兵器が、他の国の領域まで入りこんでいるという事。
隊長という立場としても、ジストという人間としても。当然ながら許すことなどできない暴挙だった。
『何のつもり、だと? 元凶が白々しい事を』
「何? 元凶だと……!?」
しかし。返された言葉は、更に彼の理解を超える言葉だった。
拡声器から聞こえる声はそれを補足することもなく、ドグマへ再び言葉を掛ける。
『辺境伯。我々にこの町への攻撃の意志はなく、またアスタリトと交戦する意志もない。
我々はただ、一人の男の捕縛を目的としている』
「何?」
それは。
今まで追うばかりだった黒い野望からの、明確な反撃であるとも言えるものだった。
『元グローリア防衛隊、総隊長ジスト。彼に今、重大な謀反の嫌疑が掛けられている。
アスタリトを巻き込むのは忍びないが、その捕縛に協力頂きたい。
拒むのであれば。アスタリトを協力者とみなす。我々も手段は選ばない』
漆黒の空を切り裂く雷鳴。それは、敵意を表すかのように。
あれほどの騒動が起きて尚、事態は切迫感を増していくばかりだった。