25話 燃える星々-5 世界を呪って、世界を愛して
『我々の威信に関わります。どうかご決断を、辺境伯!』
「むう……」
闘技場に備え付けられた部屋の一つ、それも辺境伯のために用意された執務室だ。
しかし今、ドグマは頭を悩ませる。その理由は、座る机の前に置かれた水晶から発される声にあった。
机を挟んで反対側、ソファに座るアーミィに目を向け、重い息を吐いて彼はその声に答える。
「そうは言うがな……私としては、彼女たちとの付き合いも長い。
この件については私の手から離したくないのだ」
『お気持ちは察しますが、他ならぬ貴方の命が狙われているのではないですか!
その情が命取りになる可能性もあります、だからこそ我々にお任せいただきたい!』
水晶の先の声は、強い意志を持ってドグマを説き伏せようとしていた。
その言い回し自体は彼に寄り添うようなものであるが、
今こうして悩むドグマの姿は、その真意が異なることを示すものであった。
「だがな……」
「おーい、辺境伯! オレだ、モースだっ!」
更なる反論を返そうとしたドグマ、しかしそれは部屋の外から響いた声によって遮られる。
同時に響く力強いノック、そして現れた人物から、こちらもただ事ではないことが伺える。
だがそれはある種、助け舟でもあった。
「来客だ。また後で連絡する」
『辺境伯! 話を……』
水晶からの呼び止めに躊躇うこともなく、それに手を翳すモース。
それに応じて、光を失っていく水晶。同調して、向こうからの声も聞こえなくなった。
小さく息を吐くと、ドグマは改めて扉の方へ視線を向ける。
「モースだな。入れ」
「おう!」
響いた声に反応して、扉が勢いよく開かれた。
同時に忙しい動きで、室内へと入り込むモース。そして続いたリリアに、ドグマの目が見開かれる。
「リリア嬢……!?」
「リリアっ!?」
リリアの大立ち回りについては、至近距離で見ていたドグマはよく知っている。
そして、その顛末についても。その彼女がここへ現れたこと、
そして若干息の上がっている二人の様子は、やはり彼らがただならぬ事情で現れたことをドグマに察させた。
深く息をついていたリリアの視線が上がって、やがてドグマのものと重なる。
「アーミィ! ……あ、辺境伯さん! 怪我は大丈夫!?」
「ああ、おかげさまでな。医師に診せたところ、深いものではないようだ」
心配するリリアに、ドグマは気丈な態度と、包帯を巻いた肩口を見せて答える。
厚手に巻かれたそれが表すように、文字通りの軽症というわけではないのだろうが、
貫かれた右肩から伸びる腕は、十分に動かされていた。
「君が助けに来てくれなければ、私はどうなっていたことか……
この大恩には応えなければなるまい。是非、礼を……」
「え、ええとそれより先に! ここに来たのは、お話があって!」
彼女への感謝を重ねるドグマだったが、
しかしリリアは、この部屋に来た理由となる話を早速切り出した。
それも当然だった。仲間たちの事を思えば、一分一秒が惜しいのだから。
「話? ……その様子からするに、火急の用であるようだな」
「ああ、それで直接、辺境伯のとこに連れてきたんだよ。それじゃあ、リリア……」
「うん! えっと……」
――
「リーンたちが……!?」
「マジかよっ!?」
「うん! 早く助けに行かなきゃ!!」
リリアからの報告に、モースも、そしてドグマも驚きを隠せなかった。
それはリリアが、あの窮地に現れた理由の説明でもあり、
そして、彼女がこのアスタリトに渡って以降、辿ってきた道の説明でもあった。
「……リーンについてはよく知っている。
毒を受けたところで、並の傭兵などに負ける男とも思わんが……ともかく、状況は分かった。
ただちに救援を向かわせよう。アーミィ嬢の館であれば、道を覚えている者も多い」
「本当っ!? ありがとうっ!」
「礼を言うのはこちらだ。リーンも失うわけにはいかない、我が国の英雄だからな……誰かいるか!」
「……はっ! 失礼いたします!」
リリアに言葉を返しながら、ドグマは手元で素早く書類へ筆を走らせる。
そして間髪入れずに部屋の外へ呼びかけた。
すぐに姿を現した兵士へ、丸めたその書類を手渡す。
「この伝令を3番隊に。駐屯所に待機させている」
「かしこまりました!」
手早く行われた令に従い、足早に去る兵士。
それを見送って、ドグマは再びリリアたちへと向き直る。
「今、部下を向かわせた。後は無事を願うばかりだ」
「うん……そうだ、私もっ!」
「待ち給え」
尚も仲間を心配する思いがあるのだろう、立ち上がろうとするリリアを制するドグマ。
その視線は、先程までよりも緊張感の増したものであった。そのまま、口を開いていく。
「向かわせたのは熟練の戦士たちだ、どうか信じてほしい。
……それに、君としなければならない話もあるのでな」
「お話?」
「うむ。こちらに来てくれるか。それと、アーミィ嬢も」
「は、はい!」
空気の一変した会話の中、立ち上がったドグマへとついていく一行。
そのうち一人に加わったモースをちらりと見て、ドグマはその最中、彼に声をかけていく。
「モース、お前はもう大会に戻っても構わんぞ?」
「いいや辺境伯! オレだってリリアには大きな借りがあるんだ。
乗りかかった船だし、やれることならなんだってやるさ!」
「……そうか」
その問いかけにも威勢よく答える彼に、もうドグマもこれ以上の言葉はかけなかった。
この執務室から更に奥に続く形になる扉に手をかけると、ゆっくりと開いていく。
窓一つない、まるで秘められたかのようなその部屋の中に、彼女は、居た。
「あの人……さっきの!?」
「うん。レオナよ」
リリアの思い当たったそれを、言葉にして肯定するアーミィ。
その部屋の中心にあるベッドに、レオナが寝かされていた。
意識はなく静かに眠る彼女に近づきつつ、ドグマは説明を続けていく。
「私の個室として作られた部屋だ。隠し場所とするには、ちょうどよかったものでな。
ここに彼女が運ばれた事を知るのは、医師の選ばれたごく一部と、私達だけだ」
「隠し場所……って!?」
「なにぶん、事が事だ。皆黒幕は誰だと吹き上がっておる。
余計な波乱を起こさんために、一時的にな」
目覚めることのない彼女に、視線を下げつつ理由を語っていくドグマ。
この光景は、一筋縄ではないかないこの状況を象徴するかのようだった。
「ってえと……デルタアーツの奴らもそうか?」
「うむ。これまで順調にこの闘技大会を営んできたという矜持があるからな。
かなり躍起になっているようだ」
「そうなるよなぁ……石頭のバルドとか駆り出してんだから」
次に口を開いたのはモースだ。デルタアーツ……バルドら、この闘技大会の運営者たちについての話だった。
ただこの会話の中。一つ納得ができない事が思い浮かんで、リリアはそれをそのまま口に出す。
「でも、協力しちゃだめなの? ……私は殴りかかっちゃったけど。
なんとかしたい、って思いは一緒なんでしょ?」
「……そうである、と思いたいがな」
「え?」
ドグマの返答は、言外にリリアの言葉の否定を含むものでもあった。
改めるように振り返るドグマ。真剣な瞳の中に、どこか物悲しさもたたえていた。
「リーンがどこまで話したかは知らないが。
この件の黒幕は、生半可な規模のものではおそらくない。
そのような奴らが、一発の弾丸しか持たぬとは考えずらい」
「……まだ終わってない、ってこと!?」
「ああ。連中は今日、私を害さんと刺客を寄越し、そしてこのように失敗した。
おそらくは、更なる攻撃に移る可能性もある。
……彼らが、強引に彼女を捕らえようとしたことが引っかかっていてな」
「まあ、確かに……すごい強引だったような」
「私や、私からの信頼を思っての強情かもしれんが。今の状況では警戒するほかない。
闘技大会がどれだけこの町を盛り上げてきたかを思えば、心苦しいことだがな」
その重い口調が、彼の心境をこれ以上なく表していた。
そして、そうならざるを得ない理由が語られていく。
それを飲み込んでいくうえで、リリアの中に一つ疑問が生まれた。
「……でも。そんなに気をつけてるのに、私はここに入れてもいいの?」
「正直に言えば、2つの意味がある。恩人である君には、全てを知る権利があるという意味。
そして居てくれた方が助かるという意味だ」
「え?」
正直にそれを口にしたリリアに、またも疑問の増える形でドグマは回答する。
リリアへ向けるその視線が、僅かに鋭くなった。そして、続ける。
「君が私を救ったのは事実だ。
それは大きな信頼の材料ではあるが、まだ君たちの全てを知ったわけではない。
私の目の届く範囲に居てくれるのであれば、余計な嫌疑を持たずに済むのでな」
「そ、そっか……」
その説明に、リリアの相槌は露骨に小さくなっていく。
彼の言葉が表すのは、何重にも和らげられていたものではあったが、しかし確かな不信でもある。
先に語ったように、その意図が分からないわけではない。
しかしそれに直面したこと自体が、リリアの心に陰を差していた。
「辺境伯、リリアは俺の恩人なんだ! そんな言い方は納得できねえぞ!
こんな……!」
それに反発するモースの言葉を背景に。
そんな時は。リリアはいつも、思い出すものがある。
言うまでもない。人生の導きたる、あの英雄の言葉だった。
「『信じてほしい。私の紡ぐこの刃が、凍えさえも切り払うことを』……ね!」
「……へ?」
言い放ったリリアの表情は、これ以上無いほどに晴れ晴れとしていた。
それに、疑問符を浮かべるものも居たが。
言葉を向けられていた本人であるドグマには伝わっていたようで、彼はにやりと笑みを返した。
「流れ者ながら、自らの剣で信頼を勝ち取ったエレナの言葉か。
君には無駄な警告かもしれんが……この国では、軽い言葉ではないぞ?」
「軽い気持ちで言ってないもの! エレナは、ずっと私の道標だもん!」
「……そうか」
リリアの言葉に、ドグマは関心するように目を閉じて頷く。
その言葉が嘘でないことは、これまでの彼女の行いを思えば明らかだったからだ。
まだ大人にはほど遠い少女であるリリア。そこから、ドグマは一つ想起していた。
(……リーンが名を挙げ始めたのも、この辺りの年齢だったか。
まあ、あれは悪名ではあったのだが)
そんな彼女に、ドグマはよく知った英雄の影を重ね合わせる。
彼は知っている。星に準え輝く英雄の、その原石であった時の姿を。
再び開いた瞳が、リリアを捉える。
幼き日のリーンと似ているというわけではない。だがきっと彼女も、その原石であると感じていた。
感じ入るように見つめていた瞳に、やがてリリアも気づく。
「辺境伯さん?」
「……む、すまない。少し考え事をしていた。
では、具体的な方針を打ち合わせるとしよう」
その反応で、ドグマも一旦思索を切り上げる。
戻ることを示唆するように踵を返して、その時だった。
空気が、一変する。
「……立派な子ね、あなたは。きっとずっと、そう在ってきたのね、ヒーローのように」
纏まっていたこの部屋の雰囲気を引き裂く、女性の声。
それは、背後の出口からではない。この部屋から響くように聞こえていた。
理解するほどに、急速に高まっていく緊張感。
だがそれは、リリアの心の準備を待たなかった。
直後、彼らの立つ床が色を失う。いや、ただ一色……真っ黒の何かが、床を覆い尽くしていた。
「……え」
「リリアっ、危ないっ!!」
「きゃ、えっ!!?」
それは、種族としての第六感が故か。
誰よりも早く動き出していたアーミィが、リリアを突き飛ばす。
それがこの場で対応できた、唯一の動きだった。
「ぐおおっ!?」
「な、なんだぁっ!?」
「きゃあああっ!!」
直後、黒い床から何本もの触手が伸び出し、
突き飛ばされたことで回避したリリア以外の身体へ巻き付いていく。
ドグマやアーミィだけでなく、豪傑たるモースまでも完全に拘束されてしまっていた。
そして、ベッドに寝かされたレオナの身体も例外ではなかった。
「くっそおっ……離しやがれっ……!」
「皆っ! 今助け……!」
全く状況を理解できない中でも、救助に回ろうとしたリリア。
その言葉は、次に場に響いた金属音によって阻まれる。
それは、執務室に繋がる側の壁から響いたものだった。
リリアが振り返るのと、壁が崩れ、その犯人の姿が顕になるのとは、ほぼ同時だった。
「だからこそ、目障りよ」
その姿を捉えて、リリアは直感する。
(……もう一人っ!?)
硬質の甲殻のようなもので覆われた全身、振るわれた、腕に装着された刃。
その姿は、先の"鉄の悪魔"に酷似していた。
だがそのシルエットは、完全に同一ではない。
レオナが扮していたそれよりも小さな、しかしリリアよりは大きな背丈に、兜から溢れる白髪。
そして何より。言葉を発すること、更に明確な意志を感じさせる瞳が、大きな違いだった。
「誰っ! 何者なのっ!?」
反応して、リリアが叫ぶ。
言語だけではない、その瞳から意志を感じ取ったが故の対話だった。
同時に臨戦体勢として、後腰に手を伸ばして、そこで思い出す。
(……剣、置いてきちゃってた!?)
そこにあるべき得物が、存在していないことに。
不携帯自体は当然とも言える流れではあった。
寝かせるために取り外されたのだろうし、目的からしても武器を携帯するようなものでもない。
だがこの場で、それは不運を招くものになってしまっていた。
しかし、それが闘志を揺るがすことはなかった。四肢を、現れた精霊たちが包んでいく。
「みんなを放してっ!」
それを証明するように、リリアは再び叫ぶ。
対する"鉄の悪魔"は、猛るリリアとは対照的に、静かに彼女に視線を返していた。
瞳だけが、その意思を指し示す。肯定的な色も否定的な色も含む、複雑な目だった。
「せやああああああっっ!!」
闘志に満ちた視線を返して、リリアは彼女へと一気に踏み込む。
呼応して、一層輝きを集める右腕。振りかぶったそれを、射程に入った瞬間に打ち込んだ。
炸裂する精霊たち。その一撃は、足元の床から伸びた黒い何かによって防がれていた。
「迷いが無いね。自分も、世界も、そんなに信じられるんだ」
「……っ、うおおおおっ!!」
称賛するような、あるいは呆れているような言葉を返す"鉄の悪魔"。
しかし対するリリアは更に猛る。
攻勢を維持するように、更に左腕、右足と打ち込んで、しかしその全てが同様に防がれていく。
反撃する様子も見せないまま、彼女が返すのは言葉だった。
「でもね」
同時にその刃に、暗い光が灯る。
黒い赤に包まれていく刀身、その色は、先の戦いでレオナが見せたものとよく似ていた。
更に打ち込まれたリリアの拳、それを受けるだけでなく、今度は捕えて。
「はっ……!?」
「この世は、ヒーローが敵わないことだってあるよ。
……"ヘルド・スティグマ"っっ!!」
リリアが危機を察したときには、もう遅かった。
剣先に集まった暗い光が、リリアの体に叩き込まれていた。
至近距離で腕を掴まれた彼女には、避けようもなかった。
「はっ、ぐうううううううッッ!!!?」
それは輝きだけでなく大きな質量も持つようで、リリアの体が反対側の壁まで吹き飛んでいく。
すんでの所で精霊たちが現れ、衝撃へのクッションとしてそれを受け止めるが、
大きな亀裂の入った壁が表すように、それでも尚ダメージは小さくなかった。
苦悶を顔いっぱいに浮かべながらも、リリアはすぐに立ち上がらんと全身に力を込める。
「う、ぐうっ……ま、まだ……はうっ!?」
だが、それさえも遮るように。黒く輝く光が、リリアの、精霊たちの体を包んでいく。
先の戦いと似たような形だ。それが巻き起こすものも、また同じものであった。
「はっ、がうぅッ!? あああう、はううううっ……!」
「さっきと同じね。人に使う分には、まだ普通の精霊と変わらないと聞いていたけど……
どうにも貴方には、特別な効果があるみたいね、リリアちゃん。
とはいえ。さっきの戦いを見る限り、この辺りに止めたほうがよさそうね」
全身に奔る苦しみに、リリアは更に声を上げて。
その様子に、"鉄の悪魔"の彼女はなにか独りごちながらも、再びリリアへ近づいていく。
まだ地に転がり悶えることしか出来ないリリアを見下ろして、刃を構えていた。
「う、あ゙うっ……いったい、だれ……」
「リリアちゃん。私と貴方は、きっとよく似ている。
昔からずっと、精霊は私の力だった。あなたも、そうなのよね」
「え……が、ううっ!?」
その状況での言葉は、突飛とも言える問いかけだった。
言葉を示すように、彼女は左手を眼の前に掲げる。黒く、暗い霧がその手のひらに現れる。
リリアは、その正体が気配でわかった。それは、精霊たちがその形をなしているものだと。
(……精霊!? 私と、同じって……)
その意図はわからない。だが言葉にも瞳にも、強い哀しみが込められていることだけはわかった。
とはいえ苦痛の中、リリアはまともな返事もできない。
それを知ってか、彼女はただ一人で続けていく。
「だからきっと、同じ勘違いをしてしまっているのね。先立として、教えてあげる」
言葉に、だんだんと力が込められていく。
同時に全身から現れた赤黒い光が、手のひらに集う、黒い霧を成す精霊たちへと重なって。
否、飲み込んでいた。それを見せつけるようにしながら、彼女は叫ぶ。
「そ、それってっ……!?」
「……精霊たちは、私達の道を切り開いてなんてくれない。
この力はね、私達を化物にするためだけの力よ……ヒーローに、英雄になんて、なれやしない!」
これまでの様子から一変する、あまりに強い語気での言葉だった。
怒りや憎しみ、そうした強い負の感情が込められ、爆発したかのような。
今眼の前で起こされた光景は、間違いなく追い求めてきた仇敵のものだ。
そして彼女のことは何も知らない。正体も定かではない。
だがそのあまりに強い思いは、理屈よりも先に、リリアの心を強く揺さぶっていた。
「……っ、そんな、ぐうううっ……!」
「今だって目を背けているだけ、だったりしない?
どこまで行っても私達は化物よ。怖がられて、恐れられて、嫌厭される。
そんな経験は、あったでしょう?」
続く言葉は、ずっと優しい語気になっていた。
まるで寄り添うかのように柔らかい、しかし文字通りの、悪魔の誘いのような言葉。
更に彼女は、再び赤黒い光を見せる。それもまた、誘いであった。
「……呪われた力と、世界への復讐。
精霊を喰らい、世界を狂わせるこれは、その両方を果たしてくれるの。
貴方が、私と同じだと分かってから、ずっと思ってた。リリアちゃん、一緒に来てほしい。
貴方ならきっと、この気持ちもわかるはず」
苦痛に縛られ動かせない体の中、それは強くリリアの心を打つ。
彼女が理解を、あるいは自分を求めていること、そして何より彼女の言う事が。
リリアに、それを一蹴させなかった。
(……無いわけじゃ、ないけどっ……でも……!!)
それはある種。図星でもあったから。
だがそれは、ぶつけられた感情の肯定でもなかった。
奇しくもそれは、つい今朝、二人に話したことと被っていた。
自分の出生も、存在意義も、そしてこの力も。苦しんだ事がないはずがない。
「……でも!! 目を逸らしてるだけなんかじゃない!!」
だが。かの英雄が紡ぐ剣閃は、導きは。
リリアの中で根ざしたそれは、この言葉で覆るほど浅いものではなかった。
逆に気圧さんと言わんばかりに叫ぶリリアに、初めて"鉄の悪魔"の彼女がたじろぐ。
「何を……」
「エレナが教えてくれたものっ!
……道を切り開くのは力自体じゃない、意思だって、思いだって!
エレナは紡ぐことを、人と繋がることを、愛することをずっと大事にして、それで英雄になったんだから!
だから私も、そう生きるって決めてるの! 皆だって……精霊たちだって!!」
全身に走る痛みに耐えながら、心を奮い立たせて叫ぶリリア。
状況の劣勢が変わったわけではない。痛みも引いたわけでもない。
だがその威勢は、彼女を間違いなく圧していた。だが"鉄の悪魔"の彼女もそれに反論する。
「まだそんな事を……! 教えてあげる! みんな貴方を恐れていただけよ!
薄ら笑いで、私達の力が自分に向かないよういい顔をしていただけ!」
「怖さだって、怯えることだって、人の思いよ! それでも笑って受け入れてくれるのなら、優しさじゃない!
そこまで含めて、愛してあげればいいじゃない!!」
会話は更に激しさを増していく。
絶望を語る彼女に、強い意志で反論を続けるリリア。
心の奥底に根ざした、エレナから受け継いだと自認する価値観。
それが何よりも、リリアに勇気を与えていた。淀むことのない自信もそうだった。
折れることのないリリアの言葉に、もはや冷静さも完全に失って。激しい言葉と思いと共に彼女は叫んでいた。
「世界はそんなに優しくなんかないわ!!
どんなヒーローが、どんなに優しくたって……!
世界が応えるとは、限らないのよっ!! ……兄さんだってッ!!」
その、激情のままに叫んだ、最後の言葉。
それは、リリアの直感とも言える場所へと、ぴったりとはまる。
「……え?」
激情による荒い語気は、その声色を先程までより鮮明に映し出していた。
その言葉によるものか。彼女の背中越しに見えるモースの瞳が、哀しみに揺れていて。
そして思い出す、黒い霧。ここに至るより前に、それは見たことがあるはずだった。
ここまで連想が出来なかったのは、記憶の中の彼女の印象が、今の姿とはかけ離れていたからだった。
「……エリスさん?」
名を口にした瞬間、場の空気が再び変わる。
冷酷なまでに冷え込んで、同時に殺気が満ち始めた。
言うまでもなく、"鉄の悪魔"である、エリスが放つ雰囲気が故だった。
リリアを見下す瞳は今、先程までの激情は消え失せ、ただ冷たい視線だけが向けられていた。
その意志を表すように、再び刃が構えられる。
「喋りすぎたわ。終わりよ……」
「"レギオン・チェーン"ッ!」
「……なっ!?」
その攻撃を止める、刃の伸びる右腕に絡まった鎖。
黒い霧に拘束される中で腕を変形させた、アーミィのものだった。
「アーミィ!?」
「リリアは私のヒーローよ! 貴方が何を言おうと、どれだけ世界に絶望していようと関係ないわ!」
先の話から続けて、エリスの言葉に反論するように叫ぶアーミィ。
身体の変形は腕に留まっていて、その拘束から逃れることは出来ていないが、
それでも臆病を抑えてアーミィも吠える。その姿こそが、リリアの言葉を正当化させるように。
振り向いたエリスが、凍えるほどに冷たい視線を向ける。
「邪魔よ」
吐き捨てるような言葉と共に、彼女を捉えていた黒い霧が脈動する。
その行動を拘束から、圧迫へと変えるように。
「ひいっ!」
「アーミィっ!! やめっ……」
再び怯えるアーミィ、それを遮らんと無理やり立ち上がろうとするリリアだったが、
それを止めたのは、また違う声だった。
「これはどういうことだっ!? ……貴様、何者だっ!!」
その声はエリスの更に背後、彼女の切り裂いた壁を抜いて、執務室の方から響いたものだった。
この戦いの物音で、警護の兵士たちがこの部屋へと現れていたのだ。
更に振り返ってそれを一瞥すると、声のトーンを落としてエリスは呟く。
「……余計なお喋りが過ぎたみたいね」
直後。
動作なく彼女の足元、そしてそれぞれを拘束していた黒い霧の根本に、更に黒い霧が広がる。
「わ、わあっ!!?」
「ぐううっ……!」
そしてそこに飲み込まれていくように、
ドグマ、アーミィ、そして沈黙するモースに眠るレオナの身体が、黒い霧に引かれて沈んでいく。
そしてエリスの身体も同様に、黒い霧の中へ沈み始めていた。
「エリスさんっ!! 皆をっ、うぐうっ……!」
「私の復讐は、これで終わらない……リリアちゃん」
リリアからの呼びかけに、しかし一方的な言葉を返すエリス。
駆け寄って止めようとしたが、やはり苦痛に悶えるリリアに、沈みゆく最後まで視線を向けて。
そして、言葉だけが残される。
「貴方なら、一緒に戦ってくれるんじゃないかと思ってた。
それでも生き方を変えないつもりなら……もう、容赦はしないわ」
そして、飲み込んだ黒い霧もまた、霧散するように消えてしまって。
ただ一人残されたリリア。困惑する兵士たちが迫る中、ただ、彼女が消えた一点を見つめていた。
――
(何が、起きたんだ……?)
この森林に起きた急変の中、ジストたちとの合流を急いでいたジェネ。
彼は今、眼の前の状況を全く理解できずにいた。
辺り一帯、爆発したかのように一掃された大地。
先程まで森林だったはずのこの地に、何が起きたのかは全くわからない。
そして何より。視界の先、倒れている人影。
「う……うそ、だろ……」
遠目からでもわかる、その存在感を隠すには余りに役者不足な、質素な服。
誰よりも屈強で、凄まじい強さを持つあのジストが、地に伏せていた。
ジェネから見たジストは、時に危うさを感じさせる事があるものの、
だからこそ、研ぎ澄まされた屈強な信念と無双の力を併せ持つ至高の戦士だった。
それは素直に、憧れさえ感じるほどに。その彼が今敗れ、倒れている。
それが何よりも、この光景に非現実感を生んで。一も二もなく、ジェネは駆け出していた。
「お、おっさんっっ!! 一体、どうし……っ!!?」
だがその呼びかけは、駆け出した脚は、すぐに止まってしまう。
それは、本能的な反射だった。恐るべき気配、それを一点に受けての反応だった。
「な……あ……?」
由来も知らぬ、極度の緊張感に襲われるジェネ。もう喉も、脚も動かなかった。
ただ、射抜かれる気配の、その方角だけは分かっていた。恐る恐る、彼は振り返る。
彼女の立つ場所とは、まだずっと間のある距離だ。
だが視線の重なった紅き瞳は、それに何の安心感も持たせなかった。
「……なんだ。若造かい」
「っッ!!」
彼の身体は完全に固まってしまう。
死を思わせる、ギルダの紅き瞳。その純粋な殺気は一瞬で、彼の心臓を締め上げてしまった。
ジストやリーンでさえ、その動きを射止められる程の殺気だ。
若く、死地の経験の浅い彼が一人で受けるには、余りにも重い気配だった。
「あ……あ……」
皮肉にもそれが、理解の及ばなかった先の光景の答え合わせとなる。
直感した。ジストは、リーンは、彼女に敗北したのだと。
彼女は、それが出来るほどの存在であると。そして自分を、息をするように殺せる存在であると。
完全に威圧に負け、戦慄して震える彼を、しばらく無表情で見つめていたギルダ。
だがやがて、わざとらしく息を吐いて。呆れるような視線と声で語りかける。
「さっさと退きな。見逃してやるよ」
「え……?」
だがそれは、この殺気からは考えられない容赦の表明だった。
予想を超えた彼女の態度に、ジェネも呆然とするしかない中、ギルダは続ける。
「あたしが殺らなきゃならないやつは、もう消し炭にしたんでね。
それもあって、雑魚にも飽き飽きだ。お前さんは運が良い。何処へでも失せな」
それは、露骨なまでにジェネへの侮蔑も含まれる言い回しではある。
だが、この状況では慈悲とさえ言えるものでもあった。
ジェネが気配の時点で痛感しているように、大凡、彼一人で勝てる相手ではないのだ。
九死に一生を得ると言えるような、生存への唯一のチャンスであった。
絶望的な殺気に、既に恐れるばかりのジェネだ。それは、垂らされた蜘蛛の糸に他ならなかった。
「理由があって、そこの二人も命までは取っちゃいない」
それは、わかっていた。
「そういう訳で、あたしの用は済んだ。じゃあな……」
わかっていた、それでも。
「……待ちやがれええええっっ!!!!」
踵を返していたギルダに、ジェネは渾身の力で叫ぶ。
身体を縛る殺気への恐怖、死への畏れ、全てを断ち切るように。
脚を止めたギルダが、改めて振り返る。その瞳の殺気は、より鋭くなってジェネを射抜いた。
「……あん?」
「……っ! お前が、お前がおっさんたちをやったんだなっ!!!
だったら……俺の敵でもあるってことだな!?
精霊たちを暴走させてやがる奴らの仲間ってことだろうが!! 逃さねえぞっ!!!」
「逃がさない? 馬鹿なことを言うんじゃない」
彼女から直接向けられる、絶望的なまでの殺気、威圧感。
すぐに膝を折られそうなその圧力に、ただ負けないように。ジェネは全力でまくし立てる。
気迫だけで、彼女の前に立つために。しかし、対するギルダは、呆れたような口調を崩さない。
むしろ。その声色には苛つきさえ混じって。空気が、更に一段重くなった。
「あたしが、逃がしてやってるんだろうが!」
それを宣告するように、ギルダは放つ殺気を更に強めた。
完全に、威圧を意図した凄み。苛烈な殺気を纏う彼女のそれは、恐るべき精神攻撃にすらなるものだった。
本来ならジェネに耐えられるようなものではない。それでも。
(……リリア……)
その中で彼は、また、リリアの影を見ていた。
今戦わなかったとして。きっとリリアは、ジェネを咎めも、責めもしないだろう。
たとえ今、彼女こそが重い使命を受けて戦っている最中であっても。
それは彼自身も、リリアならそうするだろうと、思っていた。だから。
「……リリアが……」
「ん? リリア……?」
震えるジェネの四肢に、再び力が漲り始める。
今度は、彼女を心の支えとするのではなく。彼女に対する自分の姿こそが、そうさせていた。
リリアが信頼している自分が、こんなにも弱くあろうとする事が許せなかった。
顔を上げる。口から出た咆哮は、怒りさえ宿るような色だった。
「リリアが、リリアが頑張ってんだ……!!
俺だけ、ここで震えていられるか!! 殺せるもんなら、殺してみやがれっ!!!
……"貫け"ッッ!!」
「……ハハハ、そうくるかい!!」
そのまま突如ジェネが放った炎槍を見据えて、しかしギルダは、再び笑う。
何かに合点がいったかのような言葉を吐くと、彼女は一歩も動くことなく、腕を振るった。
どれほどの膂力であるだろうか。それは迫る炎の槍を、一瞬で掻き消してしまった。
「くっ……!? ……うおおおおおおお!!!」
明確な実力差を現す光景。だが今度こそジェネは、絶対に引き下がろうとしなかった。
尚も吠える彼に対して、ギルダはまた笑う。
やはり、何かを気づいたのか。
先ほどまでの嘲笑と違い、興が乗ったようにその口角は上がっていた。
「震えるだけのガキだと思ってたが……いいだろう」
彼女の纏う気配が、変化する。
存在感に近かった殺意は、明確な感情として。今、ジェネに向けられていた。
彼女の腕が、後腰に回る。右手に鞘ごと取った直剣、そして左手に杖を握って。
戦慄するほどに鋭い視線が、彼を再び射抜く。
「あたしの手で、殺してやる」
「やれるもんならやってみろ! 度肝抜いてやらぁ!!」
だが燃やせる心の全てを燃やして、ジェネはもう一歩も引かなかった。
両腕に、炎と風と化した精霊たちが集まっていく。
感情の昂りに同調するように、その規模はこれまでの術の比ではなく、高まっていく。
「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおッッッッッ!!」
それは片手に集まる炎が、風が、それこそ自分の背丈を凌駕するほどに。
出し惜しみが出来る相手でないのは明らかだ。
そしてまともに攻撃できるのも、この最初の一手だけだと直感していた。
だから、自分の出せる全てをこの瞬間のために出さんと、ジェネは叫び、その両掌を突き出した。
「行けええええええええええええッッッッ!!! "撃ち抜け"えええッッッ!!!!」
彼の得意技である、炎と風による熱線。
渾身の詠唱で放たれたそれは、視界を埋め尽くすほどの数と規模を以って、ただ一点ギルダのいる場所へと迫る。
これまでの戦いの中。いや、彼の生きてきた中でも最も大きな規模で放った技だった。
ギルダはそれを、不敵な笑みを崩すことなく見つめて。そして、こぼすように呟く。
「馬鹿な奴だね」
その瞬間。この場で初めて、彼女が大きく動き出す。
神速の手つきで、手にした得物たちがその形を変えていた。
鞘は真横に2つになるように開かれ、杖の取っ手を中心に広げて取り付けられ
それらを強引に繋ぎ、固めるように、展開した直剣……蛇腹剣の欠片が開いた鞘へと突き刺さっていく。
そして余った蛇腹剣の紐が、鞘の広げられた側へと張られる。
蛇腹剣、杖、広げられた鞘。これらは今一つとなって、大弓の姿を成していた。
ギルダはそれを左手に持つと、衣服の太腿部分に下げていた、小さな円柱状の器具を手に取る。
そして間髪入れずに、弓を横に構える彼女。由来の苛烈な紅い輝きが、その器具を包む。
それは紅い輝きと共に、矢の姿を成していた。大きく引き絞られる大弓、そして。
「じゃあな」
静かに、短く呟かれた別れの言葉。
解放された瞬間、紅く輝く矢は空気を歪ませんという勢いで打ち出される。
どれほどの力で引かれていたのか、それは烈風を生み出し、纏うほどの勢いを持って。
彼女に迫っていた無数の熱線、それを全て掻き消してしまった。
そして尚、風によって放たれていた熱線を飲み込んで尚、その矢は勢いを失うことはない。
ただ一点を狙って、正確に。ジェネの元へと迫っていた。
(ああ……ダメ、か)
走馬灯、と言うべきか。
本来ならば見えるはずもない速度で迫りくる紅き矢を、ジェネは正確に認識していた。
そして渾身の精霊術が破られたことも、この先に自分の死が待つことも。
一種の躁状態と言える程に猛っていたが故か、もはや、死への恐怖も巻き起こる事は無かった。
あるいは、こうなる事は予想できていたのかもしれない。
相手はジストやリーンを、目立つ外傷もなく倒した相手だ。
とても自分が敵う相手ではないことは、理解していた。それでも。
(リリア――)
彼女に誇れない、自分でいるのが嫌だったから。
視界が、白く染まっていく。