18話 ただ恐れることなかれ
「ああぁッ!? なんだぁ、てめッ……」
「ぜいっッッ!!」
「あばあああああああッッ!!?」
扉を開けた、その瞬間だった。
現れた曲者に啖呵を切った男、だが余りにも近すぎた。
座っているために低い位置にあった顔面に、精霊たちを纏ったリリアの額が直撃する。
跳ね飛ばされた男の身体が、その衝突の結果を教えていた。
凄まじい光景に、思わずリーンが言葉を零す。
「……滅茶苦茶だ。怪我はないのか?」
「うん、大丈夫!」
元気よく答えるリリア。もう、何人の男をなぎ倒して来ただろうか。
全体的に薄暗いこの室内に、数多くの気を失った男たちが倒れていて、さながら幽霊屋敷のようだ。
だが、この部屋に居る敵はまだ残っていた。奥の扉を守るように、二人の大男がリリアたちへ怒鳴り散らす。
「て、てめえらッ!!」
「舐めた真似しやがってええっ!!」
「遅い。邪魔をするな」
しかし。言い切る時には既に、リーンがその背後まで通り抜けていた。
既に得物を振り抜いていたリーン。やがて遅れて、男たちの目から正気が消えていく。
「ばっ……!」
「が、は……」
そのまま力を失って倒れていく男たち。
相変わらずリリアの目では、リーンが何をしたのかを捉えることは叶わなかった。
だが。美しいリーンが、神速と共に体格で大きく劣る男たちを一瞬でなぎ倒していくその姿は、
少なからず、彼女の心の琴線を揺さぶるものだった。
「リーンさんっ、かっこいい!」
「……かっこいいかは、どうでもいいと思うが」
その口から飛び出た言葉は間違いなく称賛であるのだが、
しかし気恥ずかしさか、あるいは状況が故か。リーンは遠回りな表現でそれを遠慮する。
リリアが言うその言葉だ。見た目の良さに留まらない、大きな意味を持つ称賛ではあるのだが。
ともかく場を整えるように、リーンは話を切り出す。
「この一団も、そろそろ打ち止めだろうな。
そろそろ捜索を主軸に移そう。確か……樽に入れられていたんだったか?」
「うん! 早く助けてあげなきゃ! それじゃあ次……鍵掛かってるみたい?」
様子から、リーンもこの建物に残る状況を分析する。
あるいは、この二人の力の前に逃げ出した者もいるのだろう。
先程まで響いていた怒号の数々も、今はずっと静かになっていた。
言葉にリリアも同調すると、更に奥に続く扉へと手を駆け、しかしその感触が固いことに気づく。
扉から手を話すリリア。その身体に、再び精霊たちが募っていく。
「待って! 今から扉、破るから!」
「……ああ」
ある程度、彼女と共に過ごしてきて。リーンももう、彼女の意図を疑うことは無かった。
構えるリリアに向けられたその視線、しかしそれは、怪訝的な色も含んでいた。
(……普通の町娘、というには余りに図抜けた能力だ。
人材の発掘に熱心な辺境伯が、見落とすような者とも思えないが)
「でえいッッ!!」
そんなリーンの疑念も知らず、リリアは再び掛け声とともに、肩から扉へと突進する。
全身を纏った精霊たちによる、爆発的な踏み込みと強靭な一撃は、扉を金具ごと吹き飛ばした。
開ける視界。しかし部屋の中からの反応がないことが、彼女達に一足早くその内容を教えていた。
現れた、ものけの空の部屋。大量の書類が残ったままの大きな机、そして備え付けられた立派な設えの椅子。
ここが何の部屋であったのか、それだけでも想像が出来た。それをリーンが口にしていく。
「首領の部屋だろうか。逃げられたか……?」
「そんな……あっ、こんなときはっ!」
その状況の分析に、唐突にリリアが反応する。
それは、つい先日の。自らの体験から来たものだった。
疑問を込めたリーンの視線を受けながら、リリアは先の、グローリアの海岸施設でやった事と同様に。
すぐ近くの窓を開いて、その身を乗り出す。
「居たーっ!!」
結果的に。それは経験が活きた、という他なかった。
人通りの少ない道で目立つ、馬に乗り、逃げ出すように離れていく男の影。
数多くの武器を背負っているその背は、リリアも見覚えがあった。当初発見した数人、その一人として。
そして。彼は荷物としてか、大きな布袋も馬に積んでいるようだった。それが、意味するのは。
直後。即決と共に、リリアは窓から身を投げ出していた。
「逃さないっ!!」
「なっ!?」
突然の行動に、流石に焦りを見せたリーンを尻目に、彼女は落下の最中も男の背中を目で追った。
階層で言えば三階。彼女にとっては、十分降りられる高さだ。
再び精霊たちに支えられながら着地するリリア。
残った衝撃を身に受けながら、体勢が整った瞬間、迷いなく駆け出す。
直後。その彼女に、並んだ影が一つ。
「……流石に肝が冷えたぞ。滅茶苦茶な奴だな、お前は」
「わっ!? リーンさんっ!?」
冷静だが、しかし咎めるような色も持つ声。リーンのものだった。
彼女の能力に呆れるような言い回しだが、驚いたのも束の間、既にリリアに追いついていたようだ。
精霊たちによる規格外の身体強化があってこそ出来る芸当、それを繰り返した直後の彼女に、である。
逆にリリアが驚愕するのも無理は無い。それは、まだベールに包まれたリーンの実力、その片鱗であった。
「前方の男。あれも、人攫いの一団の者か?」
「う、うんっ! あの人も覚えてるっ!!」
「そうか。……"エクスレア"!」
確認となる質問、その受け答えを最後に、リーンの身体は再び消える。
直後、リリアは目を疑うことになった。
「……えっ!?」
つい先程、自分の隣に居たはずのリーンが。
自分の視界のずっと先、既に追う男のその目と鼻の先で、その刃を振り下ろしていたからだった。
「なっ、ぎゃあああっ!!?」
逃げるその男は、部下たちから「バゼル」と呼ばれていた、リーダー格のあの男だ。
間一髪でそれに反応し、馬を捨てて道路へ自分の身を投げ出す。
かなり雑になったそれに、しかし確かな受け身を取って体勢を整えるバゼル。
どうやら、戦いの素人ではないようだ。
遅れて、馬に乗せていた大きな布袋も落ちる。彼が腰に巻いた紐と繋がっているようだった。
降りていくリーンがその最中、袋に走る皺が慣性とは関係なく動くのを捉える。まるで、動くものが中に収められているように。
「……まさか!」
「おおっと!」
勘づくのと同時に、バゼルはその紐を引っ張り自らの元へ手繰り寄せる。
その手つきはとても丁寧とは言えない、乱暴なものだった。
内部へのダメージも少なくないその動作に、リーンは声を荒げる。
「貴様!!」
「動くなよ。その面、見たことあるぜ。『閃く星の勇者』、リーンだな。
なんでこんなとこに居るのか知らねえが、とんでもねえスピードが得意技らしいな?」
そんなリーンを言葉で牽制しつつ、バゼルは懐から短刀を取り出すと袋にあてがう。
この袋の中身を悟られていることを、彼は逆に利用する形とした。
人質と、それによる脅迫として。
「俺に見切れるとも思っちゃいねえよ。
だから、どこでも何か動いた瞬間にこいつを刺してやる……指一つ動かすんじゃねえ!」
「……見下げた奴だ」
口で罵倒を返しながら、しかし、リーンも動きが封じられてしまった。
激情を、その瞳に全て閉じ込めて睨み返す。
対するバゼルも、その構えを簡単に解こうとしなかった。
リーンの神速、それに隙を与えないためのものだ。あてがう刃も、リーンに最大限向けられた集中も。
まるで刃や銃の抜き合いの決闘のように、互いに相手の動きを、隙を伺い合う形になっていた。
その中でもほんの少しずつ、リーンの死角になる背後側へと動いていくバゼル。
「へへっ、振り向くってのもちろん無しだぜ」
「……」
しかしこの状況でさえ、バゼルはリーン相手には手を出そうとしなかった。
余計な接触で隙が生まれること、それを警戒しているようだった。
それは何より、リーンの実力を恐れている上での冷静な判断だった、
背中を向けるしかない中、リーンも苦虫を噛み潰すように歯を食いしばる。
(……いや)
しかしその最中、リーンは思い出すように気付いた。
第六感といえる気配、それが自分に集中していること。それが、あるいはこの状況を打破する手助けになることに。
出会ってから、僅かしか経っていない。
でもどこか、既に十分だと感じていた。彼女を信頼することに。
そして、そのすぐ直後。リリアは、その信頼に報いることになった。
「"ステラシュート"ッッ!!」
「はぁっ!? でぎゃああああああっ!?」
直後、叫び声と共に。飛び蹴りしたリリアの右足が、バゼルの脇腹に突き刺さっていた。
その神速に対応するための集中は、尋常ならざるものだった。
精霊に包まれ走り込んでくるリリア、それに気が回らない程に。
もはや防御行動も、取ることは出来なかった。バゼルの体が、リーンを追い越して反対側まで飛んでいく。
「……よくやった!」
彼女を労う言葉と共に走る、神速の抜刀、そして一閃。
それはバゼルと布袋を繋ぐ紐、それを斬るためのものだった。
彼がこの場で頼りにしていた、唯一の盾を奪うために。そのまま流れで、リーンは慣性の乗った布袋をキャッチする。
「なっ、何が起きやがった……!? くそっ、こうなりゃヤケクソだッッ!!」
リリアの一撃に半ば錯乱しつつ、しかしそれを隙だと見逃さず、再びバゼルがリーンの方へと突進する。
背中に下げていた二本の両刃の斧を取り出して、突進の勢いも載せて投擲した。
投げ斧、といった形だった。袋で動きの止まったリーンを狙っての一撃。
彼の技量を証明するように、それは二本とも正確にリーンへと襲いかかる。
「危ないっ!!」
「なぁっ!?」
だが、それもまたリリアに防がれていた。
抜刀した、精霊に包まれた直剣。彼女が振るったそれはいとも容易く、斧を弾き返した。
小さな少女が成していく信じられない光景に、バゼルは尚更冷静さを失っていく。
「……ウソだろっ!?」
「さあ、観念してっ!」
「調子に乗ってんじゃねえぞ、嬢ちゃん! チビッちまっても止めねえからな!!」
そして勇猛なリリアに、それは激昂へと変わり。
バゼルの標的がリリアへとスライドする。彼はそのまま、背中から一本、巨大な大剣を引き抜いた。
背中に下げられた中でも、最も大きな得物だった。それを、大上段に構える。
「おらあああああああッッ!!」
相手が少女であっても、もはや躊躇もなく。バゼルはリリアへ、それを振り下ろす。
迎え撃つリリアは、既に、その足取りを取っていた。
剣に力を与えるための回転、自らの得意技のための。
「"ステラドライブ"ッッ! でやああああああああッッ!!」
「なっ、あああああッッ!?」
あるいは、アカリとの戦いで学んだこと、その復習であるかのように。
ただの力任せでない、インパクトの瞬間にこそ集中を高めるリリア。
逆に剣の重さがあってなお、拮抗する感覚に、バゼルは完全に狼狽してしまっていた。
もはや、勝敗は明らかだった。次の瞬間、遥かに小さなリリアの剣が、バゼルの剣を吹き飛ばしていた。
その背後へ、巨大な剣が落ちる。
「ど、どうなってんだ……ぎゃひぃッ!?」
彼本人といえば、完全に戦意を喪失してしまっていた。
尻もちを着いた彼の喉元に、刃が突きつけられる。精霊を纏うリリアの剣ではない。リーンの得物のものだ。
「よくも下らない駆け引きに付き合わせてくれたな。これで終わりだ」
「く、くそったれぇっ……ん、あ!? おい、あれ見ろ!」
その状況に、ついに諦めたかのような態度を見せるバゼル。
だが不意に、狼狽を全面に出して、二人の後ろを指差す。
いくらなんでも、この状況で二人がそれに反応するはずもなかった。
あまりにお粗末な撹乱に、二人も呆れたような様子を返す。
「……漫才のつもりか? ふざけた真似を」
「そ、そうじゃねえんだ! あれ見ろ、今だけ信じたほうがいいってっ、早くっ!」
「もーっ! こんな時に、そんなの引っかかるわけ……!」
その滑稽な様子に、リリアが怒りさえ覚えた、その瞬間だった。
「……え!?」
「ひっ、ひいいいいっ、ぎゃあああっ!!?」
二人の背中から、急に悪寒が走るような気配が走る。
その正体たる「それ」を見てか。バゼルの表情は、慄くものに変わっていた。そして二人が振り向くよりも早く。
リリアとリーンの間を裂いて、伸びた黒い霧、あるいは靄のような「何か」が、
バゼルの体を包んで……いや、掴み上げていた。
「ぎゃああああああああッッ、助けてくれええええええええ!!!」
持ち上げられるバゼルの体、ようやく振り向いて、リリアもその正体を目に見る。
不定形ながらも分かるほどに、禍々しい「手」を形成する黒い霧。
それは、人質となった者が入っているはずの布袋から、それを破る形で現れていた。
リリアがそれを、脳内で処理できないその間に、黒い霧が、膨張する。
――――
「一体ありゃ何だ? 精霊使いなのか、妹さん?」
視界の先、立ち上った黒い霧へ向けて走る中。
ジェネはそれを知っているであろうモースに、その詳細を尋ねる。
疾走することを緩めはしない彼だが、しかしその表情は暗い。
「いや。精霊術、なのかな……昔から感情が昂ったりすると、あれが出るんだ。
でもエリス、なんでこの町に……!」
苦悩とともに、モースは立ち上る黒い霧を見上げる。
もう、この町にあるどの建物よりも大きくなっていた。
それから伸びる、幾つもの手を形成する黒い霧。恐ろしさと悍しさを感じさせる。
町中からも、悲鳴が上がり始めていた。
「分かった。いつもはどうやって抑えてんだ!?」
「黒いやつはエリス……オレの妹が操ってるわけじゃない。
出てきたらもう、滅茶苦茶に暴れるだけだ。だからいつも、腕っぷしで消えるまで戦う。
消えたら、エリス自体を落ち着かせる。そうやっていつもやってる」
その最中、大きな音が響く。黒い霧が伸ばす手の一本が、 建物の一部を振り払った音だった。
黒い霧は、既に数階建ての建物よりも大きくなっていた。
これまで多くの暴走した精霊……魔物と戦ってきたが、これほどの大きさのものと戦うのは始めてだった。
思わずジェネも、苦い顔を浮かべる。
「あれと戦う……ってことか! いっつもあんなにでかい奴とやってるのか!?」
「ああ。エリスのためだ、何だってやってやれるさ!」
「……そうかよ!」
だがモースの威勢に、心に、ジェネも笑って返すことになった。
先の時間と同じ様に、彼の心を理解できたからだ。
しかしそれも、長く笑える時間はない。再び響く地鳴りのような音。黒い霧の活動は、より活発になっていた。
ここまでずっと駆けていた二人が、ようやく、その根本が見える大通りまでたどり着く。
禍々しい大樹のような姿を成した黒い霧、しかし不意に、視界の先でその一片が弾け飛ぶ。
遠目でもわかる、弾けた箇所に輝く精霊たちの姿。それが何を意味するのか、ジェネは一瞬にして辿り着いていた。
「リリアーッ!!!!」
戦っているであろう彼女、その名を叫ぶジェネ。
直後、精霊たちの居た部分を飲み込むように大量の黒い手が伸びる。
距離がある、その結果までは見えなかった。嫌な予想に、ジェネの中の緊張感が跳ね上がる。
「ジェネ、どうした!? お前の知り合いが居たのか?」
「ーっ……!」
モースからの問いかけにも、答えられないほどに。
あるいはその表情から、モースも彼が呼んだ存在を察し始めていた。
もはや止めることも出来ず、ジェネは黒い霧へと駆け出していく。
「……くそっ、何だあれは!?」
だが、それが故に。隣に現れた、その影に気づくのが遅れていた。
危険地帯だ、既に普通の町民はこの通りにはいない。
その声の距離は、突然現れたと表現するに相応しかった。そして。
「リ、リーンさん、ありがと……危なかったぁ」
聞き間違えるはずもない、今、最もその安否を確認したかった存在、その声が聞こえて。
反射的に振り向いて、リーンに担がれる、その姿を認めて。
ようやくジェネは、自分の心の手綱を握り直すことができた。
「リリアっ! お前、ほんとにいっつもこういうとこに居るんだなっ!」
「ふぇ? ……ジェネ!?」
「言いたいことはあるけど、まずはあの相手だ……ってぇ!?」
再開に顔を緩ませたのもつかの間。急激な気配の変化に振り返ると、
そこには黒い霧から伸びた、黒く、そして太い手が彼らを押しつぶさんと迫っていた。
瞬時にそれを理解して、ジェネが、リリアが構える。
だが、それより更に一歩、踏み込む違う影があった。モースだ。
「"闘技技巧・『パウンド』ッッ"!!!」
突撃の勢いのまま、迫る手に向け、いつの間にか身に着けていた左腕の小盾を突き出す。
巨大な黒い霧の手と、真っ向からの力勝負となる形だ。
だが、彼はそれに勝利する。直後、黒い霧の手が弾け飛んだ。
「ジェネの嬢ちゃん……リリアちゃん、って言うのか!
多分、あれを出してるのはオレの妹なんだ! なんであれが出てきたか、知ってるか!?」
「妹さん……? あっ、あの攫われてた女の人っ!?
うん! 連れ去られそうになってたのを助けようとしたんだけど、そしたらあれが出てきて……!」
「誘拐されてた、ってことか!? 一体どういう……!」
切羽詰まった状況の中、リリアからの情報を咀嚼しつつ、モースは迫る黒い手を弾き返していく。
背中から抜いた幅広の剣を自在に振るう彼。ジェネに語ったように、初めての経験ではないのだろう。
だが複雑な考え事と共にこなせるほど、容易な事でもなかった。そこへ同時に、10本近い手が広がって伸びる。
「やべっ!?」
「危ねえっ、"撃ち抜け"!」
それをジェネの精霊術、得意技たる炎風の熱線の束が迎え撃った。
迫る手の何倍もの本数の熱線が、次々とその手を抜き砕いていく。
振り返ったモースににやりと笑うジェネ。それが、余裕が消えていたモースの心にゆとりを与える。
「悪い、助かった!」
「落ち着け。一先ず、ここを切り抜けようぜ!」
そうしてジェネも、最前線まで歩調を揃える。
断片的な会話であったが、一先ず関係性についてはリリアも理解したようだ。
同じく前に出て、この状況についてモースに尋ねる。
「ええと、お兄さんでいいの!? あれってどうしたらいいの!?」
「ああ! あれ全部、オレの妹……エリスが出す鎧みたいなもんだ!
斬ったり殴ったりしてもエリスには何にもない!
だからなんとか、エリスまでの道を作る! そして話して、落ち着かせてやるんだ!
エリスが落ち着けば、黒いやつも出なくなるからな!」
「……人間の身体部分にさえ攻撃しなければ、問題ないんだな?」
そうして周知するように、モースは戦いの目標を叫ぶ。
うなずくジェネ、そしてリリア。そして後方からも、それに反応する声が飛んだ。
同じく歩み寄る、リーンの言葉だった。
「あ、ああ」
「本人へのダメージを鑑みて、反撃出来ずに居たが。
斬って問題ないのであれば、やりようはある。再生はするのか?」
「しばらくすれば。でも時間はかかる」
「……わかった」
迷うこと無く、リーンは三人のさらに一歩前に出る。
両手に得物たる双剣を握り、その持ち手を繋ぐように連結させて。
双刃剣となった得物を、右手で後ろ手に構えた。そして告げる。
「道を開くのは俺がやる。残りは頼んだぞ」
「え……」
極めて簡潔な、作戦の説明。その最中にも、何本もの黒い霧の手が伸びる。
その全てが、先頭に立つリーンへと敵意を向けていた。
決して大きな身体ではないその身を押しつぶさんと、一斉に襲いかかる黒い霧。
それに合わせて、リーンは少し屈んで構える。
「"エクスレア――」
あるいは、それは。説明の必要もないほどの状況を作ってみせる、その意思の表れだった。
戦闘時には殆ど見せなかった、明確な呼吸。吐いて、吸って。次の瞬間が、合図になった。
「――ラスティール"ッッ!!」
それは、リリアにも。ジェネにもモースにも、やはり捉える事は出来なかった。
既に黒い霧の根本、その反対側に辿り着いていたリーン。
世界の全てが、置いていかれていた。そしてようやく、止まった彼に追いつき始める。
「……えっ!?」
「なっ、何が起きたんだ……!」
直後。
黒い霧から伸びる全ての黒い手、そして幹と呼べる本体の八割方が、
無数の斬撃痕を残してバラバラに散っていく。
捉えることも出来なかった彼らに、その詳細はわからない。
だが、リーンがこれを成したのは明らかだった。
「リリア! 何もんなんだ、あいつ!?」
「わかんないっ! でも、今がチャンスだよっ、行かなきゃっ!!」
「おうっ!」
ともかく。リーンの作った絶好機を無駄にしまいと、3人も一斉に駆け出す。
その手の全てが機能を停止し、幹を成していた中央部も小さくなってしまった今、彼らを妨げるものはない。
だが、幹は未だに内部に居るであろう少女を晒すことはしなかった。
「あともう少し、もう少し削れればエリスも出てくるはずだ……!」
「もう少しね! ジェネっ、残ってるのも吹き飛ばそう! 風を合わせてっ!」
「……ああ、分かった!」
リリアからの言葉に一瞬考えて、しかしすぐに承諾を返すジェネ。それは、信頼そのものだった。
彼女が全身に精霊たちを纏い、飛び上がるのを見てから、彼もまた黒い霧の幹にその腕を向ける。
自らが従える精霊たちにも、その向かう先を示すように。
「"吹き荒べ"ッ! やれ、リリアっ!」
「ジェネ、ありがとっ! "ステラドライブ・ブラスト"ッ!!」
ジェネが起こした暴風、それに乗せるように。
身体を回転させて得た力を、精霊の衝撃波として撃ち出すリリア。
以前グローリアにて『天使』に向けて使った、あの技のように。
風と衝撃は一体となって、そのまま黒い霧を霧散させていく。その中に、祈る様に両手を組む少女の姿が見えた。
リリアよりは、数年分だけ大人びた雰囲気だ。それを認めて、ジェネが叫ぶ。
「モース今だ! 行けっ!」
「エリスっ!」
ほぼ同時に、モースも走り出していた。
だが。そのまま綺麗に終わる、とは行かなかった。
まるで虚をついたように、散ったはずの黒い霧が再び集まる。
今度は守るための幹ではなく、敵を打ち砕くための、ただ一つの巨大な手を形成するように。
巨大な影が、モースを包むように映る。
「くそっ、まだっ!?」
彼を救わんと急いで体勢を整えようとするジェネ。
しかし。極度の緊張が高まる中、またもや不意に。その黒い霧の手が突如、弾け飛んだ。
リリアとジェネのものとも、勿論リーンとも違う色の攻撃だった。
「うぇあっ!?」
「何が起きた!? ……って、おっさんっ!」
再び、驚愕を重ねることになる二人。
だが今回は、その当人の姿は、そこにあったままだった。
飛び込んで拳を打ち抜いた、ジストの姿が。
「何が起きてるか、全くわからんが! ……これでいいのか!?」
「ジ……んんっ、レイザさんっ! うんっ、最高っ!」
リリアが目一杯の称賛と感謝を彼に向ける中で。
しかしその支援のおかげで、モースは少女の元……エリスの元まで辿り着いていた。
半開きの虚ろな目の彼女に、モースはその肩を抱きながら話しかける。
「エリスっ! 俺だっ、モースだ、兄ちゃんだ!」
「……兄さん……?」
彼が言葉をかけるにつれて、エリスの目が明確に光を取り戻していく。
快活な印象のモースとは似つかない、か細い震えた声。
そのまま彼女を抱き寄せて、頭を撫でながら、モースは言葉を繋げていく。
「怖かったな……もう大丈夫だっ!」
「兄さん……にいさんっ……!」
泣き出したエリスを、そのままモースは強く抱きしめた。
黒い霧もようやく、四散した欠片も透明になって消えていく。
それを遠巻きに眺めて、ジェネは苦笑した。
「やれやれ、これで一見落着みたいだな」
「……全く話がわからない。何があったんだ?」
「えへへ、後で話すよ」
ただ一人、疑問符ばかりを浮かべるジストに笑いかけて、リリアもこの結末を喜ぶ。
「ま、一つだけ言うのなら……リリアは結局、またファインプレーだったって事みたいだ」
「いえーいっ!」
「そうか。はぁ……叱るべきか、よくやったと言うべきか」
「え……あっ!? か、勝手に出ていったのはごめんなさいっ!」
だがジストの言い回しで、ようやくリリアもこの騒動の始まり、飛び出した自分の事を思い出した。
流石に自分に非がある行動なのは分かっていた。二の句もなく、それを謝るリリア。
とは言えジストも今口に出したように、それを叱責していいか自体を悩んでいる状態にある。
返答にも悩んで、結局ジストは後者を選んだようだった。
「うむう……独断行動は慎めと、本当は言いたいがな。
だがお前の行いがどうやら、人を救ったようだ。
それは間違いなく、英雄の仕事だ。それを間違いとは言わないさ」
「……うん!」
その言葉に、しかし感じ入るように答えるリリア。
彼が言葉に含めた行間。それが分からないほど、リリアも愚鈍ではない、そういうことだった。
ともかく反省はしていないわけではないようで、ジストもこれ以上の言及は控えることにした。
その最中。新たな声色が、この場を割いて響き渡る。
「リーンっ! それに、モース、エリス嬢もっ!」
声の先には、辺境伯たるドグマ、そして彼の部下の騎士たちが並んでいた。
率先して、ドグマがモース達の方へ歩み寄る。迎えるモースの表情には、困惑と、確かな怒りが浮かんでいた。
「辺境伯っ、どうしてエリスがリーブルに居るんですか!? それに、誘拐されてたって!?」
「モース。このような事態を招いてしまった事、本当に申し訳ない。
サプライズのつもりであったが、まさか君の大事な妹君まで傷つける結果となろうとは……」
「そんな……一体何があったってんですか!?」
それぞれの感情の発現の最中。
モースの怒りを抑えるように、エリスが口を開く。
「兄さん、私がここに来たいって言ったの」
「なっ!? どういう事だ、エリス!?」
「この町での、兄の雄姿を見たいとな。今回の闘技大会に向けて、かねてより相談を受けていたのだ。
本当は明日、大会の場でお前に明かすようにしたかったが……まさか、下手人に漏れ、狙われることになるとは。
これは完全に私の失態だ」
「そんな、エリス……」
「兄さん……ごめんなさい」
ドグマ辺境伯に重ねて、謝る妹の姿に、モースは大きく息を吐く。
そして再び視線を合わせると、努めて落ち着かせた口調に変えて、話した。
「辺境伯。オレは普段から、あんたにはすげえ世話になってる。
今回のことも、オレ達のためにやってくれてたことも分かった。
何だかんだ、エリスも怪我とかしてねえみたいだからな。だから、これ以上は言うつもりはねえ。
だけど、どうかエリスの事をオレに隠すのだけはやめてくれよ! ……エリスもな!」
「うむ、約束しよう。重ね重ね、すまなかった」
「うん」
「よし! それじゃあ……」
二人の承諾で話を終えると、今度はモースは、リリア達の方へと振り向く。
そのまま歩み寄ると、今度は落ち着いた笑みを彼らに向けた。
「ジェネ。色々、本当にありがとう。助かったよ」
「いやいや、無事だったみたいで良かった。俺も結局、リリアを見つけられたしな」
「そうか! 結局リリアちゃんが、お前が探してた子ってことだよな」
「へ?」
先ほどとは打って変わって、朗らかな会話が続く。
その最中、気付いたようにモースの視線がリリアへと移る。
不思議そうな視線を返す中、そのまま彼は、両手でリリアの右手を握りあげた。
瞳には、感謝と感動をたたえて。
「さっきは忙しくてちゃんと聞けなかったが。
君が攫われたエリスを助けようとしてくれてたんだな。本当にありがとうっ!」
「あはは、見つけられたのは偶然だったけど……」
「それでもだ! こんな小さいのに、そんな奴らと戦うなんて……すごい勇敢なんだな、リリア!」
「ま、だから心配するんだけどな」
その本気の感謝を受けて、リリアも照れくさそうに笑う。
ジェネの呆れたような声も、しかしその視線の優しさもあって、今は心地よかった。
そこへ、ドグマも歩み寄る。しかしその視線は、リリア達のその奥へと引っ張られた。
「エリス嬢を助けてもらったとあれば、私の恩人でもあるな。
おや、貴公は先の……」
「辺境伯、また会いましたな。レイザです。
彼らは……まあ、私が面倒を見ている者です。色々と事情がありまして」
「なるほど。今は助けられた身、深入りはしますまい」
話せば余りに複雑な自分たちの関係、秘めた使命がある今、それを正直に言うはずもなく。
誤魔化したようなジストの言葉を、しかしドグマは咎めはしなかった。
それは言葉通りであるのか、あるいは。
しかしそれを考える間もなく、新たな声がジストに掛けられる。
「……レイザ殿、か。見事な腕だった」
「貴方は? 確か、リリア達と共に戦ってくれたようだが」
傍らに立ったリーン。その腕には、大男……気を失ったバゼルの体が抱えられていた。
それについても興味はあったが、一先ずジストは、リーン本人への質問を投げ返す。
その最中、努めて悟られないように、リーンの胸元の標章に視線を向けた。
「リーン。話の前に、まず自分から名乗れ」
「……失礼した。私はリーン、アスタリトの騎士だ」
「いやいや。デゼト商団の船員、レイザです。この度は二人が世話になりました」
努めて友好的な会話を続けていくジスト。
しかしその中では、警戒は解かなかった。
それは使命が故でもある、特に、眼の前のリーンに対しては尚更だった。
(確か、アスタリト王直下の騎士は特別な標章を身に着けていると聞く。
見るからに辺境伯のものや、他の騎士とも違う意匠だ。
……なるほど、気配が違うと思ったが。しかし何故、王都から離れたこの港町に?)
グローリアに、アスタリトへの内通者が居る可能性まで考えられる現状。
特に王直属の者であるリーンには、警戒心を強めるのは当然だった。
無論、その欠片さえ表情に出すことはない。しかしそれは、リーンも同じだった。
(あれだけやる子を引き連れている上で、本人はこの力か。
ただの水夫です、というのも納得しかねるがな。それに、この存在感……)
あるいは、以前辺境伯が口に出した、「王命」とも関わりがあるのか。
彼もまた、その警戒を態度に出すことはなかった。
そして一先ず、この無言の牽制を引き裂くように、ドグマが話を変える。
「リーン、その者は?」
「誘拐の下手人、その首領です。
黒き霧の攻撃を受けていますが、生きてはいます」
「ひ、ひ……」
無意識ながら、情けなく声を漏らすバゼル。その両手足は縛られ、完全に拘束されていた。
真っ先に掴まれた彼が無事なのは、他でもないリリアのおかげだった。リーンはそれを思い起こす。
ジェネがこの広場に来て最初に見た、精霊たちとの一撃。それが彼を助けた一撃だった。
「あの……辺境伯、ごめんなさい、町を……」
「よいのだ、エリス嬢。 それほどの目に遭わせてしまった我々、そしてこの下手人にこそ責がある。
その者を連れてゆけ。広報は賊の精霊術だったと伝えよ」
「はっ!」
部下に指示を送るドグマ。
その様子に話が一段落したとして、ジストが一回り大きな声で、二人に呼びかける。
「さて、リリア、ジェネ! 一件落着でいいんだな? 宿に戻るぞ」
「うんっ!」
「はいよ。そんじゃあな、モース。妹さんも元気でな」
「ま、待ってくれっ!」
その声に素直に帰して、去ろうとする彼ら。しかしそれを、モースが呼び止める。
「ま、待ってくれっ!」
辺境伯! このまま手ぶらで帰したんじゃ、俺の気が収まらねえ!
何かしらご馳走なりしてやりたいんだ、今回の貸しの分、それに使わせてくれねえか?」
「分かった、手配しよう」
モースが辺境伯に掛けた言葉から、その意図はリリア達にも伝わることになった。
確かに恩はあるとはいえ、状況からも、そして使命からも素直には受け取りづらい。
困ったような顔で、リリアはジストに顔を向けた。
「あはは、お礼なんて、そんな。ジ……レイザさん、どうしよう?」
「まあ、折角くれると言うんだ。無下に断るのも失礼にあたる。
お前たち二人で、ちょっと世話になってくるといい。どうせ今日は大した話もできないしな」
「おっさんは?」
「俺は少しやることがあってな。落ち着いたらまた話すとしよう。辺境伯、それでは二人をよろしく頼みます」
「はーいっ、よろしくお願いしますっ!」
ともあれ、ジストの許可を得ると、リリアは笑顔になって一項に笑いかける。
彼の言葉に、ドグマも頷いて答えた。そのまま、リーンに呼びかける。
「うむ。リーン、彼らを館へ案内してくれ。モースも頼む」
「了解しました」
「あいよっ! さあ、行こうぜ」
ともかく。
紆余曲折を経て、着港して早速の事件は、ようやく終わりを告げようとしていた。
――――
さて。一先ず笑顔で向かっていたリリア。
年相応の感覚らしく、何だかんだ食事は好きだからだ。
しかし今。大量の食器具が並ぶ机の前でその表情は曇って、むしろ、半泣きという面にさえなっていた。
「ジェ、ジェネぇ……このいっぱいあるの、どう使うのぉ……」
「何だ、知らないのか? ま、そりゃそうか。これがこうで……」
一方で。助けを求められたジェネというと、リリアの質問にてきぱきとと答えていく。
その様子は、知識としての段階を越えて、身に付いているように見えるほどの手際だ。
そんな二人に、モースが笑いかける。
「ハハハ、気にしなくていいよっ! オレ達兄妹も田舎上がりで、こういうのサッパリだしな!
いっつも辺境伯に教わりながら食ってるんだ! でもジェネ、お前は出来るんだな?」
「すごいね、ジェネ……! こういうの、どこで覚えたの?」
「……まあ、色々あってな」
その理由の追及に、しかしジェネは複雑そうに、誤魔化して答える。
彼は表に出すつもりは無かったが、しかしそれは、リリアには伝わっていた。
だから彼女も、ここで深堀りは取りやめて、話題の軸をずらす。
「……そうなんだ。私も覚えたほうがいいのかな?」
「まあ、損することはないんじゃねえか? ……こんな風に、流れで偉い人と食事するってこともあるんだしな」
「うーん、覚えられる気しないや……」
悩ましげに、リリアは手元の器具を見つめる。
一つ一つの道具は知っているのに、それぞれに特別なルールがあると思うと、ちょっと不思議に感じていた。
その最中、また別の方向から声が掛けられた。
「あ、あの……リリアちゃん、だよね」
「うん! ええと、エリスさん!」
「声、聞こえてたよ。助けてくれて、ありがとう」
「ううん、気にしないで。無事でよかった! 怪我とかない?」
「うん……大丈夫」
何処となく拙い言葉遣い、しかし努めていることがわかるような口調だった。
笑顔で言葉を返すリリアに、伏し目がちのまま、だが確かに笑顔が向けられた。
態度は、おおよそ快男児たるモースとは似ても似つかない。だがその笑顔は、どことなく面影を感じさせた。
そして運ばれ始めた料理。それらに手をつけながら、モースは尋ねる。
「お前たちって、商団の人なんだよな? いつまでこの町に居るんだ?」
「え? どうだろ……もうしばらくは居るのかな?」
「この町のお祭りの闘技大会が明日から始まるんだよ! 良かったら見ていってくれ!」
「闘技大会? ああ、そういや始まるって聞いてたが……モース、お前も出るのか?」
「ふっふっふっ……!」
飛び出た質問に、すこし回答内容を迷う中。モースは矢継ぎ早に、闘技大会のことを話題に出す。
突然の言葉にジェネが尋ねると、かなりわざとらしく笑うモース。クスリと笑いつつ、それに答えたのはエリスだった。
「……前回、前々回の闘技大会の優勝者がね、兄さんなの」
「そういうことよ! 三連覇を賭けた大勝負、ってわけだ!」
「本当っ!? すごい!」
「へえ、マジか!? 確かにただもんの動きじゃねえとは思ってたが……!」
そのカミングアウトに、流石にジェネも驚きを隠せなかった。
それは言葉に反して、むしろ彼の戦いぶりを知っているからこそでもある。
戦いのスキルを身に着けた理由としては、かなり特異なものだと思えた。
それに補足するように、さらに外からドグマの説明が入る。
「基本、名だたる騎士や傭兵が参加する中、モースはこの近くの村が出身の一村人でな。
その下剋上ぶりや同郷のよしみもあって、参加者の中でも凄まじい人気がある、この町のスターなのだ。
年々、闘技大会の規模は拡大しておるが……その一因を担っていると言っていいだろう」
「む、むず痒くなるからやめてくれって!
まあでも、そんなわけでオレの年1の大舞台ってわけだ! なっ、ぜひ見に来てくれよっ!」
彼の貢献を示すように、辺境伯の言葉は賛美に包まれていて、思わず照れを隠せなくなるモース。
だが全体的な様子からも、彼の闘技大会への熱意が伺えて、ジェネも思わず笑った。
「ま、俺達も仕事があって来てるからな、どうだか……まあでも折角だ、時間が合えば行くか!」
「うん! アカリさん……私の友達も出るし!」
「そうか、それじゃあほら、これ使いな!」
そんな彼らの様子により一層喜びを深めたモースが、自分の荷物から数枚の紙切れを差し出す。
手にとって、リリアはそれを眺める。どうやら、何かしらの券のようだった。
「これって?」
「闘技大会観戦の招待券!
町のみんなは自分で買っちまうし、オレの身内ってエリスだけだから毎度余ってんだ!
まあ都合つかなかったらそれでいいから、これもお礼の一つと思って貰ってくれよ!」
手渡された券は3枚。どうやら、ジストの分も含んでいるようだ。
かなり気楽そうに笑うモース。できる限り、貰う彼らが気負わないように努めているのだろう。
語った理由も、それを鑑みてのものだ。少し迷うリリアだったが、やがて、その好意に甘えることにした。
「ほんとにいいの? ありがとう!」
「エリスを助けてくれたんだからな! これぐらいさせてくれよ。
さっ、邪魔して悪かったな、どんどん食ってくれ! オレが出してるんじゃないんだけどな、ハハハ!」
ともあれ、誰が見ても上機嫌なモースの様子に、リリアも悪い気はしなかった。
楽しい時間が、過ぎていく。
――――
やがて、そこから更に時間が経って、日も落ちた時間。
辺境伯の館、その広い大浴場にただ一人で、リリアは湯に浸かっていた。
「ふう……こんな広いとこで一人なんて、不思議な気分かも……」
聞けば使用人も、主たる辺境伯の縁者も使わない谷間の時間だと言う。
それは辺境伯の側にとっても、恩人に気楽に使ってもらえる時間であるとして都合がよかったのだろう。
ちらりと、先程身体を流すのに使った洗い場を見る。
赤い刻印と蒼い刻印、それぞれ刻まれた壁面に手を触れると、その色に合わせた温度のお湯が降り注ぐ仕組みだった。
どういう理屈であるのかわからないが、どうやら精霊術を使っているという説明はだった。
(グローリアも、よくわかんない物いっぱいあるとこだけど……
アスタリトもアスタリトで、違う形で発展してるんだ)
グローリアにも同様に、身体を流すための、自在に水や湯を出す機構がある。精霊機関が使われたものだ。
これについてもリリアの理解の外にある技術ではあるが、仕組みが違えど、その目的は一緒だ。
いずれも、故郷の村では得ることのできない体験だった。それが尚更、リリアに非現実感を与えていた。
そもそも、このような豪華な浴場で一人、湯に浸かる経験自体も。
自分が、やがてこうなるなど想像できるはずもなかった。
(……本当に、不思議……)
やがて、この時間は。彼女にここしばらくの運命を省みさせるものになっていく。
村が謎の存在、そして魔物に襲われたこと、出会ったジェネと共に魔物と戦ったこと。
防衛隊と衝突し、ジストに助けられたこと、そして始まった、グローリアでの日々のこと。
そして。今こうしてエレナに縁ある、アスタリトの地を踏んでいること。
決して流されたわけではない。だが自らの脚だけで歩んだというには、あまりに激流といえる日々だった。
「"運命は、時に制しようのない脅威となる。私にも、無力への後悔もある。それでも"――」
独り言のように、リリアが呟いていく。愛する英雄の残した、一つの節。
かの英雄が、自らの運命を省みたときの言葉だった。
今の自分が、どこかそれに重なっているのを感じていた。そして、続く詞が。自らの道標であることを信じて。
「"その運命が、出会いを生んだのであると。私はこの今を愛――」
「……どあああああああッッ!!」
「ひゃあああっ!?」
その最中。自分の背中側の壁……木の板を超えて、突然の大声が響き渡る。
驚いて、文字通りひっくり返ってしまうリリア。
完全に沈み込んでから、再び顔を出した彼女。表情には怒りと悔しさが浮かび上がっていた。
「もーっ、いい感じに浸ってたのに! って、今の……ジェネの声っ!?」
しかし改めて、先に聞いた声を脳内で再生して、急激に落ち着きを取り戻す。
聞き間違えるはずもない、ジェネの声だったからだ。
先ほど、同じタイミングで別れている。今同じように居ても不思議ではない。
嫌な予感が、リリアに湧き始める。まさか、の出来事を度外視できるほど、最近の出来事は落ち着いては居ない。
そして、続くべき行動を思いつく。
(こっち、男の人の……でも……!)
流石に躊躇いがないわけではなかった。少し目を瞑って、なるべく冷静に努めて。
しかし、直後、リリアはもう決断していた。現れた精霊たちの力を借りて、リリアは垂直に跳び立つ。
正直な所、別に冷静でもなかった。だがもうあまり考えることもしなかった。
そのまま彼女は、木の壁の上から反対側を覗き込む。
「ジェネっ、どうしたの!? 大じょ……!」
「で、でああああああっッ、リリアッ!!? お前も何平然と乗り越えてんだっ馬鹿ッ!」
だが。そこに現れたリリアは、寧ろジェネに更なる狼狽を与えることになってしまった。
完全に冷静さを失ったジェネからの叱責が、リリアへと飛び掛かる。
一応、壁に掛けた腕だけで身体を支えているリリアだ。木の壁から出しているのは肩から上だけなのだが。
とはいえ、この行動の原点は心配だ。ジェネの反応に、リリアは露骨に不満そうな顔を返す。
「何よっ、せっかく心配したのに……え?」
随分と温度差のある言葉を口にする中で。
ジェネの言葉に含まれていた、「お前も」という表現に気づくのと。
彼がこの反応を発するにあたった、その原因を発見するのは、ほぼ同時だった。
「って、ぎゃああああああああああっ!? リーンさんっ、なんでそっち居るのっ!!」
美しい長い銀髪。整った、だけでは余りに足りない、端正で可憐な顔つき。
そしてそれらを際立たせる、身に纏った流麗な雰囲気。
そんなリーンが、身体に纏った布一枚になった姿で、呆れたような目で二人を見ていた。
「……君たちが使っていると知らず、被ってしまったのは悪かった。
だが人を見るなり大声ばかり。何なんだ。辺境伯の恩人だから許すが、流石に失礼だろう」
「何なんだじゃないでしょーっ!? 何で男の人の方居るのっ!?」
先ほどのジェネに対する余裕はどこへやら、
完全に顔を真っ赤にしたリリアが、逆にリーンの行動自体を問いただす。
まだ幼いリリアであっても、それほどに美しいリーンがこうまで薄着で、
それも、上半身に至っては全て曝け出している状況に、耽美的な禁忌感を覚えずにはいられなかった。
しばらく、そのままに言葉を受けるリーン。しかしやがて、ため息とともに答えた。
「なるほどな。全て分かった。……勘違いするな。俺は男だ」
「え? ……ええーっ!!」
「う、ウソだろっ!?」
至って平然と話された、この場の全てを説明する理由。
しかし、それは余りに衝撃の大きなものでもあった。
リリアも、ジェネも、先程の比ではないほどの驚愕に襲われていた。
「い、いや……確かに……!?」
しかし落ち着きを取り戻し始めたジェネが、改めてリーンの身体へと視線を移す。
それは次第に、納得を生んでいく。
戦いを仕事とする者らしく、鍛え上げられている身体。
その肩幅、腕の長さ、骨盤周りの形状。
顔を隠してそれを見れば、確かにそれは性別の色が強く出ている身体であった。
視線を受けていることも、分かっているようだ。呆れた、あるいは諦めたかのようにリーンが問いかける。
「……納得したか」
「あ、ああ」
「ならいい。リリア、君も早く降りろ」
「ええっ、あ……は、はいっ!」
完全に呆気に取られていたリリアも、彼からの声掛けで我に返ると、再び木の壁の向こうへと降りていく。
あるいは、それはこの場からの逃亡に成功したということでもあった。
息を吐くリーン。露骨に不快が表情に浮かんでいた。彼はそのまま、湯へと歩みを進めていく。
「恩人である君たちだ。本来なら譲るべきところなんだろうが……好きにさせてもらうぞ」
「あ……うっす」
その様子に、思わず謙る言葉遣いになってしまうジェネ。
とはいえ、確かに失礼な態度であったのには変わりない。
憮然とするリーンの態度には、言外にその清算という意味も含んでいるのだろう。
そういう意味では許してもらえたということではあるが、この場に取り残されたジェネには知ったことではなかった。
(空気がやべえよ……!)
リリアと違い、ジェネはまだ殆どリーンと言葉を交わしたことはない。
別に人見知りというわけでは無い彼だが、先の流れもある。中々に耐え難い環境だった。
とはいえ、リリアを呼び戻すなど出来るはずもない。
なんとか行動を考えようとするジェネ、しかし意外にも、先に口を開いたのはリーンだった。
「若いようだが。龍人が、人の世話になっているというのは珍しいな。どういう経緯なんだ」
「ん? ああ……」
「問い詰めているつもりはない。
アスタリトでも龍人はそう見ないが、要職に就いている龍人がいる。俺もよく世話になる。
だから興味があるだけの、ただの世間話だと思ってほしい。言いづらいならいい」
あるいは、その空気を苦く思っていたのはジェネだけではなかったのだろう。
リーンの言葉からは、可能な限り棘が抜かれたような印象が見えた。
とはいえ、正直に話せる立場でもない。少し心に影を落としながら、ジェネは答える
「俺もリリアも、色々あってな。レイザっていう商船で働いてるおっさんの居候みたいなもんだよ」
「ああ。あの、かなり鍛えていた……彼も凄いな。あれほどの者もそう見ない」
「はは……まあ、かなり働きもんでさ」
なるべく無難な表現を選びながら答えていくジェネ。
心の中には、やはりあの存在感抜群のジストに対しての文句が浮かんでいた。
あれで何が隠せるというのか、しかしそれを言おうと変わらないことも同時に悟ってもいた。
ともかく。聞かれる一方というのも色々と都合が良くはない。そのままジェネは、自分から話題を出し始める。
「あんた、リリアを助けてくれたんだってな。礼を言いそびれちまってた。ありがとよ」
しかしそれは、打算的なものだけではない。
胸の中には確かにあった、本心そのものだった。
感謝を伝えるジェネに、リーンはこの場で始めて表情を緩ませた。
「……助けたという立場でもないよ。力にしても心にしても、彼女の強さは立派なものだった。
ただ勇敢が過ぎるのは、君たちからしても心配の種になっているのだろうな」
「違いねえよ。いっつも無茶ばっかりして、でも毎度、大事な事のために戦ってるんだ」
ジェネの瞳に映る親愛と、僅かな沈んだ何かの感情。
そして彼の言葉使い。リーンはそれから、彼とリリアの関係を何となく悟っていた。
返す言葉が、少し色が変わっていく。
「あの子がエレナの信奉者だとは分かった。
大の大人にも怯むことのな頭抜けた勇敢さは、それが所以か?」
「ああ。特別エレナに憧れてんだよ。
『永き冬』についてなら、俺なんかよりもずっと詳しいぐらいにな。
……だから、逃げねえんだろうな、アイツ」
視線を、水面に落とすジェネ。思わず言葉が途切れてしまうのも、気にしなかった。
いや、気にできるものでもなかった。
リリアの事を口に出すと、どうしても、考え込まずには居られなかった。
そんなジェネの言葉に、何かを考えるようにリーンが目を閉じる。
「……知らない者が、ものを言うのも違うと思うが、助言を一つだけ。
『だが強く貴き魂を、ただ恐れることなかれ』」
「え?」
そんな中。リーンの突然の言葉に面食らうジェネ。
彼が言うには、助言のようだった。そのままリーンは補足を続ける。
「『永き冬』における英雄の一人、我が王国アスタリトの中興の祖、カタリス王の言葉だ。
意味が分からないなら、史書を巡って探してみろ。彼女との話の種にもなるだろう」
「あ、ああ……」
それはどうやら、リリアも度々口にしている『永き冬』に関わる言葉の一つのようだった。
ただリーンはそれ以上語ることを、露骨に示す形でやめる。
あるいは、それも含めての助言という事かもしれない。
対するジェネが口を開いた、そこで。再び違う色の、高い声が響いた。
「ねえーっ! お話してるなら混ぜてよーっ!」
「なっ、リリアっ、またっ……!? って、向こうからか」
突然響いたリリアの声に先ほどの所業を思い出し、
一瞬焦るジェネだったが、しかし状況を理解して落ち着く。
どうやら声は今回、木の壁面の向こうから発されているようだった。
かなり明るい色の声からするに、彼らの話し声は聞こえていたものの、話の内容までは届いてはいないようだった。
「こっち、一人ぼっちだから寂しいんだもん!」
「……えーと、リーンさん」
ジェネの言葉に、話の終わり、その代わりの目配せを返すリーン。
そして。壁の向こうにも届くように、一層声を張り上げて返す。
普段、落ち着いている口調の彼のものとしては、中々の大声だと言えた。
「まあ、いいんじゃないか。
考えてみれば、リリアとは落ち着いて話せる機会もなかった」
「そっか、そうだね! それじゃあ……」
対するリリアの声は殆ど平時と変わらない調子だが、それで十分だった。
活発で元気な、高い少女の声。彼女の人間性を象徴する、明るい声だ。
それに思いを馳せたくなって、しかし、ジェネは一旦それも心のなかにしまった。
――――
リリア達が、そんな場に直面しているとも知らず。
一人部屋に戻ったジストは、机に並べた書類を眺めていた。
その中の一枚、そこに写った肖像は、先程リリア達を惑わせたあの顔だった。
「近衛騎士『閃く星の勇者』リーン。
神速の剣術と、女性と見紛うほどの可憐さを持つ、王国最強の戦士の一人、か。
国王の懐刀と呼べる者が、こうもタイミングよく西端のこの町に現れるとは……」
取り寄せた書類は、一般的に発行されているものではない。
グローリアの内部で作られた、敵としての情報をまとめたものだ。
それは。あるいは、彼が敵に回ることを考えなければない、それをジストに示すようだった。
(どのような人物であったかは、リリアに聞くとして。
……もし王直属の存在たる彼がこの件に関わっていて、そして、敵であるのであれば。
敵は王国アスタリトそのものになるということだな)
それに思い当たって。流石のジストも、その可能性には恐れる他無かった。
どのような敵であっても、彼は決して引くつもりはない。だが犬死にもまた、彼の望むところではないのだ。
黒幕が世界最大の大国であるアスタリトであれば、あまりに強大すぎる敵となる。
流石にジストも、頭を悩ませた。
(あまり後ろ向きになりたくはないが。できれば、敵でないことを祈りたい所だな)
考察というよりは、願望にも近いもの。
それを最後に、ジストは思考をリーンから離す。
この町に着いての、最初の夜だ。整理しなければならないことは無数にある。
次の書類を表に出して。ジストは先の絶望的な考えを押し流すように、文を頭に詰め込み始めた。