16話 褪せることのない輝きに
登った日の浮かび上がる水面。
それに体を照らされながら、リリアは船上を駆ける。
視線の先にシルエットでもわかる、その親しい人影を見つけて、そのまま声を掛けた。
「おはよーっ! 二人も来てたんだ!」
「おはよう、リリア」
「おはようさん。ま、そりゃあな」
元気な彼女の声に、ジストが、ジェネが挨拶を返す。その目的は、皆同じだった。
すこし身をずらして、リリアの入るスペースを作る二人。言葉も必要とせず、リリアも自然とそこへ踏み入る。
船の上で過ごした、初めての生活体験、新たなる友。客人という立場もあって、日々は平和なものだった。
大海原の向こうが、リリアの瞳に映る。それは、その終わりを告げる景色だった。
「わあっ……!」
どこまでも広がっていると思われた大海原、今はその一方を、横に大きく広がる大陸が埋めていた。
進行方向のまっすぐ先には、人の文明圏であることを示す、数々の建物が建ち並んでいるのが見える。
言うまでもなく、今回の目的地となる場所だった。
「ねえ、あの町だよねっ!」
「ああ。港町リーブル。アスタリトの入口、その一つだな。
王都からは離れているが、交易の拠点、そして他勢力への要害として栄えていると聞いていたが……
なるほど、面積ならグローリアよりも大きな町だろうな」
ジストの言葉を補強するように、港には数多の帆船が集っているのが見えた。
港自体の大きさも、その数も、およそグローリアの比ではない。
アスタリトという国家、その大きさの片鱗がそこに現れていた。
「端っこの町でもこの大きさかよ? 大陸の絶対的覇者、ってのは間違いでもねえな、アスタリト」
「ジェネも来たのは初めてなの?」
「ん? ああ。昔はともかく、今も龍人と関わりがあるって訳じゃねえからな。
協力した事がある、ってのも、もう昔の話だ」
「へえ……まあ、それもそっか」
その言葉から1つ感じ取って、そのまま疑問として投げかけるリリア。
彼はそれとなく、かの古き戦『精霊戦争』を話題に出しながら答える。
かつてアスタリトと龍人たちが手を結んだと伝えられるそれを思えば、その疑問が出てくるのも自然と言えた。
答えながら、ジェネはリリアの顔を見る。
彼の言葉が腑に落ちたようにしているその表情は、その答え方がまさしく正しいことを示していた。
そしてそれが示す、大きな事がもう1つ。
「……『紡ぐ星の剣士』周り以外も、ちゃんと覚えられるようになってきたんじゃねえか?」
そして同時に、初めて会った日の彼女のことを思い出して、ジェネは笑う。
それは彼女がなんの恥ずかしげもなく内容を尋ねた、あの時のことだ。
彼女の生涯における、『紡ぐ星の剣士』の影響を思えば、ただの愚昧で片付けるのも違うと今になって思いもする。
あるいは偏執とも言える、その歴史への向き合い方によって生まれた彼女の美点、それをこれまでで、ジェネはいくつも知ることになったからだ。
だからかけた声には、ずっと素直な喜びだけが含まれていた。
「え? ま、まあ! そりゃ、教えてもらったんだし!」
とはいえ、吸収すること自体は得意な年齢だ。
意識的に学ぶ機会さえあれば、知識として身につける事自体は難しくなかったのだろう。
誇らしげにするリリアがどこか恥かしそうなのも、そういう面があるからだろう。
だが理由として語ったのもまた、彼女の美点の1つと思える内容だった。
「何にせよ、学ぶ姿勢があるのは良いことだ。
特にこれから、知らない土地に踏み入ることになるからな。
知識を更新していくことは、必ず必要になる」
「うん! ……ところでジストさん、それって私服?」
それを褒めるジストにも、元気よく答えるリリア。
そこで、目に入ったジストの服装が気に留まっていた。
今日の彼の装いは、今までの殆どの場面で着用しているアーマースーツ、あるいは迷彩服ではない。
リリアも一般的に衣服として思い浮かぶ、村の大人が着ているような普通の平服だった。
「いいや、アスタリトの水準で言う一般的な服というだけで見繕っただけだ。
他国に秘密裏に潜入している以上、 アーマースーツや防衛隊の隊服を着るわけにもいかんのでな」
ジストはそのまま、その理由を口にしていく。凝った模様も意匠もない素朴な服。
文明のレベルが飛躍しているグローリアで着たのであれば、浮きかねないようなものだ。
それは逆に言えば、かの街がこの世界において、どれほどまでに突出した文明を誇るのかを表してもいる。
彼の言葉通り、グローリアの文明の服を使うわけにもいかないというのも確かだった。
「ってなると、おっさんの名前を呼んじまうのもまずいか?」
「まあ、そうなるな。不肖ながら、俺の名も他国にも知られる程度にはある。
いきなり海を渡ってアスタリトに現れたとなれば、余計な波風を立ててしまう。
何かしら偽名を使うとしよう。そうだな……」
そこから連想されたジェネの意見に、そのままジストも頷いて、考え出す。
目的は欺瞞だ。ジストから、グローリアから出来るだけ離れるような名である必要がある。
適当でいいとはいかなかった。だが、この手の話に詳しい手合でもないジストだ。
少々頭を悩ませるジスト、その最中、彼女の手が上がった。
「はいっ。『レザリオ』はどう?」
「……俺も最近読んだから分かるんだけどよ。それ、『永き冬』で出た名前じゃなかったか?」
「うん、『凍獄公レザリオ』!
冷気を自在に操る、エレナの最初の仲間! 最後まで一緒に戦った相棒なの!」
半ば呆れるような彼の言葉に、しかし待ってましたと言わんばかりに早口でその由来を語るリリア。
聞くまでもなく、なんとなく予想はついていた。
朗らかな彼女を苦笑交じりに見るジェネだが、隣のジストは意外な反応を見せていた。
「だが、『永き冬』の英雄由来の名というのはいいかもしれんな」
「へえ? 何でだ?」
その反応の理由を、直球で問うジェネ。
それに頷くと、あからさまに息を整えるジスト。短い話ではない、それを表すかのようだった。
とは言えその様子に、ジェネが下がるはずもない。もう一度彼を見て、ジストは口を開く。
「史書で言えば……アスタリトという国は記録された3000年の間、その殆どを征した覇者であるとされている。
だが実際の所、国家として崩壊したタイミングが無いわけではなくてな。
その後に興された国が、縁を主張してアスタリトの国号を名乗り、結果的に次の時代の覇者になる……という事もあったわけだ。
……リリア」
「なに?」
「これから話すことは、君の方が詳しいかもしれない。間違っていたら訂正してくれ」
「え? あっ、そういう事……うん!」
その最中に飛び出た、主語を欠いたリリアへの要請。
だが、彼女には伝わったようだ。それはある意味、これから話す内容を示すものでもあった。
「その1つが、今から約1000年前。『永き冬』と呼ばれる絶望的な寒冷化が世界を襲った時だ。
……『蒼い厄災』、という存在を知っているか?」
「……!」
ジストが口にした、『蒼い厄災』という言葉。
その言葉に、ジェネの表情がきゅっと引き締まる。明確な反応だった。それも、好ましくないもののように。
「ああ。俺達にも伝わってる言葉だ。理外の力を司る蒼い精霊を使役する、世界を打ち砕く者……そう教わってる」
「それでいい。人間に伝わっているのも、大体同じようなニュアンスだ。
この世界の悪意、あるいは不具合によって生み出されたとされる……世界を根幹から揺るがす力を得た者の呼称だな。
歴史上、数人だけ確認されている者ではあるが、何れも世界に致命的な打撃を与えた記録が残っている。
そして。『永き冬』には、その一人が居たとされている」
「……当時のアスタリトは、蒼い厄災に滅ぼされたってことか」
その説明から、ジェネは彼の言わんとしていることを悟り、それを言葉にする。
頷いて、それが正解であることを示すジスト。そのまま、彼は続けていく。
「そうだな。寒冷化の開始から数十年後、概ね蒼い厄災が表舞台に姿を現したすぐ後に、
当時のアスタリトという国家は崩壊したとされている。だが、血脈はまだ残っていた。
この時代に活躍した、紡ぐ星の剣士エレナとその仲間たちになるんだが、
その一人が、当時のアスタリトの第5王子……ええと、名は」
「『カタリス』!
お兄さん達がいっぱい居て、権力争いには関われなかった王子なんだけど、
不遇な中でエレナ達に出会って、仲間として一緒に過ごしていく内にだんだん立派になっていく人なの!」
言葉の最中に一瞬迷ったジストだが、その瞬間に発言をリリアに奪われていた。
やはりその瞬間を待っていたというように口早に述べる彼女は、
何より楽しそうで、ジストも、ジェネも、逆に口を挟むことは憚られてしまっていた。
彼女が話し終わった、そう判断できるタイミングでようやくジストが再び口を開く。
「……まあ細かい所は端折るとして。
その第5王子は最終的に、生き残った民をまとめて海を渡り。今のアスタリトが征する、この大陸へと移ることになった。
蒼い厄災の登場から一層激しくなった寒冷化、
その中心たる存在から少しでも逃れ、民を守るための還都だったとされるな。
そして残ったエレナとその仲間が蒼い厄災を打ち倒し……それにより寒冷化は収まったとされ、
再度カタリスが興したのが、今に直接繋がるアスタリト、という事だな」
彼が語る、古いアスタリトの歴史。
それは今のかの大国の成り立ちとも言えるものだ。
そこまでで、ジェネは先程のジストの真意を察することとなった。
「つまり、今に続くアスタリトにとってカタリスは中興の祖で、
エレナとその仲間達は救世の英雄、ってわけだな。」
「そういう事だ。英雄の名にあやかって名付ける、というのはよくある命名だろう?」
言葉を交わして、その意見を確かめる二人。
目的は果たしたとして、話も切り上げられる。それもまた共通の意識だった。
「……えっ? この話、もう終わり?」
ただ一人。全く似合わない失意を瞳に浮かべた、リリアを除いて。
「エレナが剣を振ってる間は、たとえどんな寒さの中でも自由に動いてたこととか、
元は荒れてたけどエレナの事気に入ってみんなの為に戦うようになったレザリオとか、
あと一人の仲間のブレイのこととか、
寒冷化が収まったのは移った大陸だけで、元の場所は今の時代になってもまだ凍土のままとか、
まだ全然話してないよ!?」
「ま、まあ……今回は成り立ちの話がしたかっただけだからな」
「ねえー!」
彼女の様子に思わず及び腰のジストに、リリアは
その溌剌さと年齢から連想される少女像に反して、
意外にもリリアはあまり駄々をこねるようなことはしてこなかった。
ある種特異なその精神性こそが、ジストも、ジェネも彼女を信じる理由の一つではあるのだが、
寧ろその態度から、よほど残念だったという事が感じ取れて、ジェネは思わず笑った。
「全部終わったら、ちゃんと俺も読むさ。その時に色んな蘊蓄も聞かせてくれよ」
「約束だよっ、絶対ね!?」
冗談か、あるいは本心か。
そんなジェネの言葉にも食いつくリリアに、ジェネはもう一度笑った。
「ではかの英雄から借りて、『レイザ』としよう。
商団長とも口裏を合わせてくる。着いたら口を滑らせないようにな」
「大丈夫だよっ! ね、ジェネ?」
そう笑って、ジストからの心配を受け取るリリア。
思わず顔を固まらせるジェネ。これも彼女の人柄を思えばだが、とても二言目に大丈夫だとは言えなかった。
「いや、すげー想像出来ちまうよ、お前がうっかり本名呼ぶの」
「ええっ!? だ、大丈夫だって!」
「まあ、この際多少失礼らしいものでも構わんさ。間違えづらい呼び方があれば、好きに呼んでもらっていい。それじゃあ、行ってくる」
あるいはその懸念は、ジストも同じだったのだろう。
解決策となり得る案を置き土産に、ジストはその場から歩き去る。
その背中に目を向けて、リリアは呟くように、その偽りの名を繰り返した。
「レイザさんレイザさんレイザさん……よし!」
「大丈夫かぁ? 偽名なんて、あんまり慣れてないだろ?」
結局リリアは、そのまま名を挿げ替えた呼称を使うようだった。
呆れたような声色、しかし確かに彼女を案じる声と共にそれを見つめるジェネ。
彼の方といえば、普段からジストへの呼称に名を使わない。
故に今回の心配も、自分を含める必要は無かった。
それ故に、尚更リリアに心が向いているという面もあるのだろう。
だが彼の心を、知ってか知らずか。振り返ったリリアの表情は、喜びで溢れていた。
「うん。でも……秘密の組織みたいで格好よくない!?」
「……そうかよ」
今度は、本当に呆れた。あるいは感嘆でもあったのだが。
船はゆっくりと、港町へと近づいていく。
――
そして。リリアたちは数日ぶりの大地へと降り立つことになった。
到着した港町は実際にその地に立つと、尚更その広大さが分かる。
船着き場の面積も、おおよそグローリアと比較になるものではなかった。思わずリリアも、それが声に出る。
「こ、こんなに広かったんだっ……!?」
「確かにな。船から見たときも、でかい町だとは思ったけどよ」
彼女と同じように、感嘆を口にするジェネ。
一瞬それに反応したジストの表情には、二人とも気づくことはなかった。
ともかく船から降ろされ運ばれる荷物に混じって、彼らも遠くの出口を目指す。その一行に、背中から大きな声が掛けられた。
「リリアーっっ!!」
「んっ? あ、アカリさんっ!」
手を振って迎えるリリアに、同じように手を振りながらアカリが駆け寄る。
かの決闘騒ぎが、功を奏したと言ってよいのか。
リリア達はこの数日の間も、彼女とはずっと深く関わっていた。
目的を話すようなことはしていないが、それでも船員の中では抜けて親しくなったと言って良いだろう。
「お疲れさん。もう荷物運びはいいのか?」
「ええ。もう仕事は満了として頂けましたから。
あとは闘技大会に向け、やるべきことをやるだけです!
ジス……」
「わーわーっ!?」
「やべっ!?」
だからこそ、それは分かりきっていたかもしれない。
その話の流れの中で突然飛び出そうとした名に、リリアとジェネが焦ってその口を塞ぐ。
話自体は聞いているのだろう。当人であるアカリはしまったという顔をしていた。
やがて謝罪の意を示すようにこくこくと首を振って、ようやくその手が離される。
「ご、ごめんなさい、ジ……ええと、『レイザ』さん。ついうっかり……」
「……まあ、商団長からは話は聞いているようだな。
この町にいる間は、関わりがあるかもしれない。
くれぐれも頼むぞ?」
「も、勿論です!」
リリア以上に直情的で真面目な性分である事が伺えるアカリだ。
うっかり本名を口にしてしまう危険性も、彼女の比ではない。
その想像通りの光景にジストは、彼女にとっては再びとなる警告を口にする。
だがリスクがありながらもそこに留めた対応は、口にした通り、関係が切れるとは思っていないからだ。
「もー、気をつけてね、アカリさん?」
「ごめんなさい、リリア……」
内容は注意ではあるが、親しげな声色で語りかけるリリアを見れば、尚更だった。
年が近く、剣まで交わした二人だ。もう友人という距離感には十分な関係になっていることは、他所から見ても明らかだ。
一旦この話を明示的に終わらせるように、ジストは声色を改める。
「ともかく、港を出るとしよう。そこまでは同行だな」
「うんっ!」
それを号令に、アカリも加えて一行は再び歩き出す。
その最中にも、前方に並んだ少女二人は話が弾んでいるようだった。
よほど気が合うのか、あるいは似たタイプだからか。
二人の背中を見ながらそんな事を考えるジェネに、小声でジストが声を掛ける。
「……ここで眺める分にも、腕自慢らしき者たちを何人も見かけた。闘技大会は中々の規模かもしれないな」
「わかんのか?」
「ああ。戦いの中に身を置く者というのは、そういう気配がするものだ。ともかく、チャンスだ。
町を挙げてやるような規模のものであれば人も多い、
狂騒に乗じて動きやすい面もある。早めに情報通を見つけ、切欠を掴みたいところだ」
自分の肌感覚を元に、これからの展望を交わしていくジスト。
既にこの場からも状況を掴み始めているようで、それについては流石であるとジェネも感じる。
だが。
「いや、それはそうだけどな。気配って言うならよ……
おっさん。その格好で人混みに紛れるの、やっぱ無理だったかもしれねえ」
「ん? 先も言ったように、アスタリトでは普遍的な服装のはずだが?」
だがそれ以上に。ジェネは今、後悔に包まれていた。
それは、ある種クローズドな場でもある船上では気づけなかった事だ。
あるいは朝焼けに映されたことによる極端な色の濃淡、海風による服の揺らめきが、その認識を邪魔していたのかもしれない。
逆にこの開放された公共の場に晒されたからこそ、それを理解できたという面もある。
だがどうであれ、やはりあの時、指摘するべきだったのだ。
「だってよ……ここに来て分かったけど、誰より存在感あるのおっさんだよ、今!」
「……やはり、不自然か?」
その素朴な服装は、彼の凄まじい肉体を覆い隠すには余りに役者不足であることを。
完全に張り付いているというわけではないにせよ、分かる程度には筋肉の形に矯正されている服。
それと普段からの、彼の強者としての存在感が合わされば、それこそ気配が鈍かったとしても彼を見逃す者はいない。
そう思えるほどの存在感を、結局として放ってしまっていた。
「そうは言ってもな……私服はグローリア文明圏の色が出すぎているし、
急だったから自分用に仕立てる暇もなかったんだ。
一応手配できた物の中では一番大きなものを選んだんだぞ?」
「いや事情はわかるけどよ……!」
「まあ、それならそれでもいいさ。
最初は他者に関わりを持つ所から始めなければならん。
ある程度は目立つ方がやりやすいだろう」
「……」
あるいは、指摘されるまでもなく、自分でも心のどこかでは思っていたのかもしれない。
開き直るようにそれらしい理由、もしくは言い訳を口にするジストに、ジェネは複雑な気持ちを込めて視線を返す。
しかしそれも、長くは続かなかった。色んなことを飲み込んで、ジェネは視線を正面へと戻した。
気がつけば、この船着き場の出口はもうすぐそこだ。
少し名残惜しそうな思いも浮かべつつ、畏まるようにアカリが振り返る。
「それでは、私はこれで! 皆さんもどうか健やかに」
「アカリさん、頑張ってね! もし出来るのなら、応援しにいくから!」
「ありがとうございます、リリア。また会いましょう!」
「うんっ!」
挨拶と共に、それも振り切るかのように振り返り、駆け出すアカリ。
その背中に手を振って、そして移ったかのように、リリアの顔にも寂しさが浮かんだ。
同じく彼女を見送りながら、背後の二人もそれに気づいていた。
今は彼女も含めて、使命を帯びた身であるのは言うまでもない。
いや、それはリリアも分かっている。静かに抱くその寂寥が、まさしくその証左だった。
「あの腕だ。この町で過ごしていればまた名を聞くこともあるだろう」
「暇になったら会いに行きゃいいさ」
二人がすぐに掛けた言葉もまた、そんな彼女を案じたものだった。
あるいは、心がそれを受け止めるまでの時間だろうか。少し待って、リリアは振り向く。
その顔には、いつもの笑顔が浮かんでいた。
「……うん!」
そんなリリアに微笑みを返して、あるいは頷いて。
それを合図に、三人は歩き出す。
ジストが先に口にしたように、人通りはかなり多い。
町を包むような賑やかさは、かの大会の大きさが故か、それとも平時で、そうであるのか。
その人混みの中を逸れないように歩きながら、リリアが先頭のジストに尋ねた。
「それじゃ、これからどうするの?」
「商団が交易の最中に寝泊まりする宿を回してもらっている。まずは移動しよう。
町に来て初めて、わかった情報もある。そこで作戦を立てるとしよう」
「りょーかい! ええと……レイザさん!」
その回答に、改めて意識するように彼の偽名を呼ぶリリア。
その意図まで理解したか、ジストもそれに頷いて応える。
「ああ。ともかく、予想より人の多い場所だ。内々の会話はクローズドな場所で行うことを徹底しよう。
どこに耳があるかわからんからな」
「うん!」
「ああ!」
続いた彼からの警鐘に、二人の元気な返事が続く。
ともあれ、まだ謎に包まれた彼らの目的を前にして、その士気は決して低くないと言えた。
あるいは、この活気に包まれた町の中に居ることがその理由の一旦であるとも言えたかもしれない。
――
「えへへ、いいのかな? 私だけ一人部屋なんて」
その目的地であった宿、その一室で振り返って。
未踏の町に対するものとは、少し違う疑問を浮かべて笑うリリア。
「まあ、そりゃそうだって。同じ部屋だと、お前も落ち着かないだろ?」
「私、あんまし気にしないけどなぁ」
「お、お前なぁ……」
声を掛けたジェネの声は、少なからず呆れたような色が浮かんでいた。
赤い龍鱗に囲まれた顔貌であるが故に目立たないが、その素肌の部分、わずかな紅潮にはリリアは気づかなった。
(……いや。そんな簡単な話でもねえ、のか)
その僅か後に。
出発前にネルから聞いた彼女の話、それを思い出して、その紅潮もまた、すぐに姿を消すことになった。
本人も知らずうちに、その表情が強張っていく。
当然それも、リリアの目が捉えることはない。だがその様子は、彼女が異変を悟るに十分だった。
「ジェネ?」
「いや……」
「そういう訳にも行かないさ」
その最中、話を無理やり元に戻すかのようにジストが声を挟んでいた。
あるいは、それは助け舟でもあったかもしれない。
彼がどこまで事情を知っているかは定かではないが、ジェネの窮地に対して声を出したのは明らかだった。
「お前のお祖父さんであるアスラ村長からも、ネル女史からもお前を託されている立場なんだ。
多少扱いが丁寧になるのも、どうか理解してくれ」
「あはは、特別扱いしてもらってるのにへんな言い方!
まあでも、わかったよ」
リリアの態度のように、それは丁重な扱いに対して容赦を求めるという、ある種あべこべな言い回しだった。
だが理論としては破綻しているわけではない。リリアも大人しく、それを受け取ることに決めたようだ。
それを見届けると、ジストは踵を返して扉の方、この部屋の出口を向く。
「さて、俺達も荷解きをするぞ、ジェネ。
俺達の部屋は隣に取ってある。落ち着いたら作戦会議としよう。リリア、それまで休んでいてくれ」
「……ああ」
「はーい!」
あるいはそれは、ジェネへの導線も兼ねるものであった。
そのまま、元気よく返事をするリリアに見送られて、二人は部屋を出る。彼らの部屋はその隣だ。
そのまま無言でそこへ入って、ジェネが扉を閉めたのを確認してから、ジストは改めて彼に声を掛けた。
「妙な遠慮のように見えたが。何か不安でもあるのか?」
「……なんでもねえよ」
その内容は、先のジェネの様子に対するものだった。
彼のそれは、ジストの気がかりになるのにもまた、十分だったのだろう。
もっと言えば、ここ数日の彼の、リリアへの態度を見たうえでの問いかけだったかもしれない。
一方で、ジェネはその回答には口ごもる。
とはいえ何がその中心に居るかわからないほど、ジストは鈍感でもなかった。
「そうか。では、独り言と思って聞いてくれ。
強く確かな精神を持つ者を支える、というのもまた、案外難しいものだ。
俺も何度も、そう思うことがある」
あるいは助言とも言える言葉を口にしながら、しかし建前である「独り言」を体現するかのように、同時並行で荷物の整理も進めていくジスト。
それを見てか、ジェネも自分の作業を始めた。自然と、その「独り言」にも付き合うことになっていた。
「おっさんこそ、一番強えその本人じゃねえか」
「だからこそ、そう思うものだ。
それだけの立場であっても、人の心を支えるとなると難しく思うことがある。
この高潔な、勇敢な魂は、触れずに見守るのが正解ではないか、とな。
いや。自らが近づくことで、不意にそれを崩してしまう切欠を作ること。それこそを恐れてな」
「……俺が、そんな風に見えたかよ」
言葉を返すジェネの声が、明確に低く暗くなる。
脳内を、彼女を前に言葉を失った先程への思慮が埋めていく。
その心中の問答を悟るかのように、ジストは続けていく。
「さあな。独り言だからな。
そうなった者が次に取るのは、一歩、距離を取ることだ。
本心を打ち合わせるその前に、相手への影響を俯瞰して見るための距離だ」
「……それはそれでいいんじゃねえのか? 相手を傷つけねえってんなら、ちょうどいいだろ」
声を返しながら、ジェネの自らへのの問答は続いていく。
いつも可憐で朗らかに笑う彼女、その裏にある傷跡。
それを無視できるほど、彼女の存在はもう小さくはない。
生涯、自らを裏切り続けてきた出来損ないのこの翼、それさえも信じてくれたのだから。
それは間違いなく、親愛に類する感情だ。だが、ならば何故、あの時押し黙ってしまったのか。
それに答えるように、ジストはまた、続けた。
「だがな。その距離が丁度よいかどうかは、いつしか分からなくなっていく。
不安から生んだ壁を挟んで関わっているのだからな。そして増えた不安は、やがて距離を、壁を厚くしていく。
そして、支えるとは呼べない距離にまで離れてしまうものだ。
その果てに。強かったその心さえ脆くするのは、そうして生まれた孤独だ」
「……」
ジストの言葉に、ジェネは押し黙る。
尚も自分の作業を続けるジストとは対照的なまでに、ジェネの動きも止まっていた。
ちらりとそちらに目をやって、その心境を悟ったか。
彼からの返事を待つことなく、再びジストが口を開いた。
「……ネル女史から何を聞いたのか、俺は問うつもりはない。
リリアのお前に対する信頼、それを見込んだ上での話だったろうからな。
だが妙な遠慮に気づかないほど、鈍い子だとは思わんぞ」
「……だけどよ」
「配慮してやるような真似をするな、と言ってるわけじゃない。
だがあの態度の先には、そういうこともあり得る。それで少し、話させてもらった」
話の一区切りとともに、ジストは立ち上がる。どうやら荷物の整理も終わったようだ。
彼はそのまま、ジェネの眼前へと歩み寄っていた。
そして、あるいは自らの決意のように、彼に問いかける。
「リリアを守るのは、この作戦における大きな事項の一つだろう? 俺も、お前もな」
「……ああ!」
見開いて、合った視線。ジェネの瞳は、今も不安の色が揺れてはいた。
だがジストも、それ以上にものを言うつもりはなかった。
体格こそ並の人間を凌駕する彼だが、年齢としてはジストから見てもまだ若い。
迷い生きることに、問題がある年齢であるとは思わなかった。
「……悪かったな、おっさん。もう大丈夫だ。リリアんとこ戻ろうぜ」
「ああ」
そしてこの場を終わりを示すように、頷きあう二人。
再び部屋を出ると、隣のリリアに宛てられた部屋へと戻る。
大した時間も経ってはいないが、一度閉じられた扉だ。ジェネは一先ず、その扉を叩く。
「リリア、入るぞー」
だが、内部からの声はない。ノックの音や声が遮られる場所があるほど、広い部屋ではないはず。
思わず疑問符が二人の頭上に浮かぶ。
「……寝てんのか?」
「まあ、それならそれでいいが……確認だけするとしよう」
鍵は手動だ。一度彼女の部屋を出てからそう経っていないのあって、扉の鍵はかけられていなかった。
ジェネの手に合わせて、扉が開かれる。
直後、風が二人の顔を包んだ。部屋の中からの風だ。それは、つまり。
「入るぞー……は?」
彼らの視界に、部屋の全貌が入る。
誰も居ない部屋。風の入口と化した、全開の窓。その窓枠に付着した、靴の痕のような汚れ。
忽然と姿を消したリリアの、その行方を示すように。嫌な予感が、二人を襲う。
その思考が回り始めるのを待つことなく、呆けた声を出したジェネの顔に何かが張り付く。
「うおっ!? ん……?」
手にとって、それが小さな紙であることがわかった。
よく見れば、この宿が各部屋に置いてあるメモ用紙だ。その中心に残された文字に目が向く。
余程急いでいたのだろうか、その文字はかなり雑に殴り書きされていた。
『ちょっと出てきます リリア』
「……バカヤロおおおおおおおおおっっ!!!??」
姿を消した彼女にも、届かんとするような大声で。ジェネの怒号が、宿中に響いた。
――
時は少し巻き戻る。
二人が後にした、一人きりの部屋で。
ベッドに身を投げながら、リリアもまた思索に耽っていた。
(ジェネ、どうしたんだろう?)
あるいは、ジストの言葉は正解であったのだろう。
先のジェネの様子は、リリアにとっても引っかかる物だった。
「なんか、気に障ること言っちゃったかなぁ」
ただ正確には、自分への態度というよりは、突然の雰囲気の急変に対してのものだった。
他ならない彼への信頼、親愛が尚更、その不安を大きくしていた。
独り言として、その不安が口に出る。大きく息を吐きながら、リリアは身を起こした。
状況は理解している。これからこの町に来た本番が始まるというのに、塞いだ気持ちで居るわけにもいかないという事も。
そのまま立ち上がると、リリアは窓側へと歩みだす。気分転換に、それを開けた。
部屋は三階だ、それなりの高さがある。それに宿自体も、海面からすれば高所に作られている。
体を包む浜風、そして広がる海の景色に、リリアは少なからず心地よさを感じていた。
「んーっ……!」
背伸びをして、そして目を開くリリア。やがて視線が、海から下側へ下る。
この窓からは港町の様子も、それなりに広い範囲が見えた。
水夫や商人で溢れる町。闘技大会が故か、それとも平時からかは分からないが、誰も彼も忙しく動いている。
船から見たときと同じように、この町の活気が伺えた。
そのまま、リリアは窓から見える範囲で視線をどんどん移して行く。
人影の多く集まるところから、そうではない、閑散とした場所まで。
「……ん?」
そこで。リリアの目は、捉えてしまった。
船着き場と比べれば、だいぶ近い距離にある裏路地。
その顔までは見えないが、何をしているかを見るには十分な距離だ。
女性と思われる出で立ちの人影が、粗暴な風貌の男達に囲まれ。捕縛され樽の中に入れられている、その瞬間を。
それが、何の現場であるのか。脳で組み立てるより前に、リリアの決心は固まった。
「……っ!! っあ、でもっ」
その勢いのまま飛び出そうとして、しかしジェネ、ジストへ思いがそれを止めさせる。
だが時間の余裕がないのは明らかだ。近いと言える距離ではない。
見回して、窓の隣にある机が目に留まる。ほぼ直感で、リリアはその上の用紙、そしてペンに手を伸ばした。
字の汚さを考慮できるような場面ではなかった。
もはや自分が書いた文字を見返すこともなく、置き手紙となる用紙を机の上に置く。
「これでよしっ……!」
再び窓から身を乗り出して、先程の一団が路地裏の奥、ここからの死角に消えていくのが見えた。
間一髪と言える状況、現れた精霊たちを全身に纏ったリリアは、今度こそ窓から飛び出す。
三階の高さの衝撃、それを無事に受けて、そして呼吸の間もなく駆け出した。
――
「ふむ……そろそろ降りてきて良い頃なのだがな」
多くの水夫や商人たちの行き交う船着き場。
そこに今、異質とも言える一団が現れていた。美しい意匠の鎧を身に着けた戦士。いわゆる、騎士と呼ばれる者たちだ。
中央に立つ、周囲の騎士たちと違い鎧を身に着けていない、しかし上等な装いの男がぼやく様に口を開く。
装い、そして立ち振舞いからも、彼が一団の主であることが伺えた。
「こちらからもダッドを迎えに出しています。じき戻ってくるはずです」
「海から遠い場所で暮らしていたと聞いている。
船旅は負担になるだろう、大事がなければよいのだがな」
彼の言葉に、周囲の騎士が反応する。
周囲からすれば明らかに浮いている集団であるが、しかしこの場で、彼らを奇異の目で見るものはいない。
それも当然だった。彼らが胸に下げる標章、繋がった星々を象ったそれは、
王国、アスタリトの従臣であることを示すものなのだから。
その最中、一団の一人が辺境伯に声を掛ける。
「しかし……ドグマ辺境伯直々に出迎えとは。余程の待遇なことで」
「ここの所、モースには散々世話になっておる。
名前が出たと思えば騒ぎを起こしていた、どこぞの王国の勇者殿と違い、
この町にも多大な貢献をしてくれているものでな」
「……昔の話です。あまり持ち出さないでいただきたい」
「そうはいかんぞ? 私があの時、どれだけお前に悩まされたか! ハッハッハッハッ!」
その会話は、先の騎士と交わしたものよりも随分と軽い口調だった。
ドグマと呼ばれた彼が冗談のように言ったそれは、どうやら、声を掛けたその者へ向けられた皮肉のようだ。
周知のことなのだろうか、周囲の騎士たちからも笑いが上がって、思わず押し黙ってしまう。
かの者の様子は、騎士たちとは明確に異なる出で立ちだった。
軽装の衣服に身を包み、そして騎士たちのそれとは、僅かに意匠が異なる標章を身に着け。
そして何より、周囲の目を引くほどに整った、可憐、流麗、そうした表現が似合う顔つき。
男所帯のこの一団、その紅一点のように見えた。
「辺境伯ーッ!!」
「む? ダッドか」
して。朗らかな雰囲気が一団を包んだ中、その雰囲気を吹き飛ばす一声が飛び込む。
どうやら、先に使いに出されていた兵士だったようだ。
しかし大声を上げ駆け寄ってくるその様子は、ただ事ではないことが見て取れた。
「どうした、ダッド?」
「一大事ですっ! 船内にて護衛の3人が倒れているのを発見しました、エリス嬢の姿も見当たりません!」
「何っ!?」
その報告に、先頭に立つドグマを始め、一団全員に緊張が走る。
出迎えるはずの者の姿が見えず、そして護衛が打ち負かされていること。
非常事態であることは、考えるまでもない状況だった。
「どこから漏れた……? まあ、今はよい!
エリス嬢に何かあればモースに申し訳が立たん、今すぐ捜索を開始せよ!
ダッド、ナイル! お前たちは港の警備団と連携して検問を強化せよ、怪しいものは港から出すな!
残りの者で町内を探せ! 各地の詰所にも早急に連絡を回すのだ!」
「はっ!」
僅かな思索の後、直ぐ様それに対する命令を出していくドグマ。
緊迫した状況の中、部下たちも足早にそれに答えていく。
その最中。再び先の、ドグマと親しげに話していた軽装の戦士がドグマへ申し出る。
「辺境伯。私も捜索に加わりましょう」
「おお、リーン! だがお前には王命が……」
「貴方に協力しなかったとなれば、それこそ王に叱られます」
何かしらの事情を知っているのか、
遠慮するドグマへ、リーンと呼ばれた軽装の戦士は微笑んで返す。
僅かに目をつぶって考えるドグマ。だが状況は長考を許さない。
苦悩の中、確かに喜びを浮かべて、彼の申し出に答えた。
「王命を遮ることになるのは心苦しいが……ありがたい! お前が居れば百人力だ!
リーン、お前には北側の捜索を頼みたい! 残りの者で南側を捜索せよ!」
「はっ!」
その指示のもと、騎士たち、そしてリーンが一斉に駆け出す。
一見、極端な配分にしか思えないような割り振りだ。先頭を走るリーンへ、後ろの若い騎士がそれを案じる。
「リーン殿、お一人で大丈夫ですか?」
「問題ない、俺もこの町で育った、よく知ってる。南側は頼む」
「はっ……えっ!?」
直後、かの騎士は目を疑うことになった。
言葉を最後に、先程まであったはずリーンの姿が、一瞬にしてそこから消えていた。
瞬きすら忘れる切羽詰まった状況、集中した状態。だからこそ、何が起きたのか理解できなかった。
「何驚いてんだ、知らねえのか?」
「じ、実際にお会いしたのは初めてなもので……!」
「おいおい、常識も常識だぞ、特にこの町ならな!」
狼狽を隠せない彼に、周囲の騎士たちから口々に文句が飛ぶ。
先の様子から見ても、リーンと親しい者も少なくはないようだ。
だがそれ以上に常識という言葉が、その存在の大きさを示していた。
「じゃあ覚えときな!
紡ぐ星の剣士・英雄エレナに準え星の異名を戴く、王直属の二人の近衛騎士、その一人!
あれが"閃く星の勇者"、リーン殿だ!」