白い絹とレースの手袋は幸福をもたらさない
「お姉さま! 私の分もやっておいてね!」
籠いっぱいに積まれた紅月果を見るなり、妹のリュシーは快活に叫んで逃げ出そうとした。
紅月果とは指先程度の小さな果実で、この地域の特産品である紅月酒の原料となる。
最上の紅月酒を作るため、良い実とそうでないものを振り分けるのが、クロエとリュシーの仕事なのだ。
「リュシー……」
「だって、手が汚れてしまうんですもの。なかなか落ちないし、私の綺麗な手にはふさわしくないわ」
咎める声を出すクロエだが、リュシーは悪びれた様子もない。
「そもそも、うちだって男爵家とはいえ貴族なのに、どうしてこんな仕事をしなくちゃいけないのかしら。白い絹とレースの手袋がほしいわ。労働なんて必要ない、本当の貴族の証である綺麗な手袋!」
リュシーは大げさに嘆きの声を上げる。
クロエとリュシーは、田舎の男爵家の娘だ。暮らし向きは裕福な平民とさほど変わらず、華やかなドレスとは縁遠い。
日々の労働に追われてはいないが、最上の紅月酒となる原料の選別作業だけは駆り出される。高貴な乙女の手によって選り分けられた、という宣伝文句のためだ。
「ああ……具合が悪くなってきたわ……私は休ませてもらうわね。じゃあお姉さま、後をよろしく」
そそくさとリュシーは逃げていった。
残されたクロエは、大きなため息を漏らす。
「……クロエ、今リュシーとすれ違ったのだけれど……またあの子はあなたに仕事を押し付けていってしまったのかしら。仕方のない子ね」
そこに、男爵夫人がやってきた。
彼女は後妻であり、クロエは先妻の娘となる。リュシーは腹違いの妹だ。
だが、家族関係は良好で、先妻の娘だからとクロエがいじめられるようなこともなかった。
「お義母さま、よいのです。リュシーにはこのような作業よりも、ダンスの練習や礼法の勉強をしてもらったほうが有意義ですもの」
「そうね……あなたは、とても妹思いの良い姉だわ」
クロエが微笑むと、男爵夫人も目を細めて優しく答える。
男爵家はクロエが婿を取って継ぐことになっている。リュシーには、もっと良い家に嫁いでほしいと義母が願っていることを、クロエは知っていた。
良い姉であることが、この家でのクロエの役割なのだ。
「クロエ、久しぶりだね」
クロエの婚約者であるジュストが男爵家を訪れた。
彼は子爵家の三男で、婿入りする予定となっている。
家同士が決めた婚約者であり、燃え上がるような熱い想いはない。だが、手紙のやり取りを欠かすこともなく、穏やかに愛を育んでいっている。
「王都で流行っているという石けんを持ってきたんだ。クロエに使って欲しい」
「まあ……ありがとう」
差し出された小箱を受け取り、クロエは心が温かくなっていく。
リボンのかかった小箱からは、ほのかな花の香りが漂う。開けてみれば、薄紅色の可愛らしい石けんが入っていた。
「可愛い……」
「これなら、手を洗う気にもなるだろう? もう少し、きちんと手を洗ったほうがいいよ」
しかし、ジュストの言葉でクロエは冷水を浴びせられたような衝撃を受ける。
温かくなっていた気持ちが、一気に落ち込んでいく。
「これは……」
クロエは恥ずかしくなり、自分の手を隠す。
紅月果の選別作業で、どうしても手に色が染み付いてしまうのだ。指先での感触を確かめる必要があるので、手袋をすることもできない。
洗ったくらいでは簡単に落ちることなく、どうしても数日残ってしまうのだ。
「大切な仕事をしているのはわかっているよ。でも、リュシーはいつ見てもきちんと手入れをしていて、綺麗だ。少し見習ったほうがいいよ」
「……っ」
それはリュシーが作業をクロエに押し付けて、何もしていないからだ。
そう叫びたい気持ちになりながら、クロエはじっと耐える。
良い姉として、そのようなことは決して言ってはならないのだ。
屈辱と苛立ちを必死に抑えつけるクロエだが、ジュストの言葉を思い返して、さらに引っかかりを覚える。
「……いつ見ても……?」
クロエがジュストと会うのは久しぶりだ。当然、リュシーとも会っていないだろう。
それなのに、まるでリュシーとはよく会っているような口ぶりだ。
すると、ジュストはしまったとでもいうように、焦りを浮かべた。
「い……いや、ええと……今日はこれを渡しに来ただけだから……それじゃあ、また来るよ……!」
ごまかして、ジュストは足早に去っていった。
あからさまに怪しい。クロエはジュストの後ろ姿を眺めながら、拳を握り締めた。
クロエがリュシーを問い詰めると、彼女はあっさりとジュストと会っていることを白状した。
しかも、後ろめたさなどかけらもなく、堂々としたものだ。
「だって、お姉さまの汚い手なんて、見ているだけでうんざりするっていうんですもの。私の綺麗な手が好きだっていうから、ちょっとお会いしてあげただけよ」
「……彼は、私の婚約者よ」
「まあ、誤解しないで。あの程度の男、私が本気で相手にするわけがないでしょう。たかが子爵家の三男なんて、私にはふさわしくないわ。私に気まぐれで相手してもらって、感謝するべきよ」
薄笑いを浮かべながら、リュシーは高慢に言い放つ。
クロエは唖然としてしまい、とっさに言葉が出てこなかった。
「お姉さまより私が良いのは当然だけれど、間違って本気になられたら迷惑だわ。私は上位貴族に嫁ぐのよ。おかしなことにならないよう、お姉さまもきちんと見張っておいてちょうだいね」
言いたいことだけ言うと、リュシーはさっさと自分の部屋に戻っていった。
怒りと悔しさ、情けなさでクロエは涙がにじんでくる。
クロエは衝動的に屋敷から出て、近くの森へと駆け出した。
誰とも会いたくなかったのだ。良い姉でいなくともよい、一人になれる場所に行きたかった。
「いつも……いつも、勝手なことばかり……! ふざけないでよっ!」
薄暗い森の中で、クロエは一人叫ぶ。
父も義母も、本当に大切なのは妹のリュシーだけなのだ。クロエが求められているのは良い姉という役割で、だからこそ家族と認められている。
どれだけ腹立たしくても、直接文句を言うわけにはいかない。
それでも我慢できなくなったときは、この森にやってきて叫ぶのが、クロエの息抜きだった。
この森には危険な動物は確認されていない。小動物くらいしかいないので、一人で叫ぶのにはもってこいの場所だった。
「……そこのきみ、ちょっといいかな」
ところが、誰もいないと思っていたはずなのに、木陰から声がした。
クロエはぎょっとしながら、声のした方向を見る。
すると、一人の青年が木にもたれかかって座り込んでいたのだ。
しかもクロエがこれまで見たことがないほど、華やかな雰囲気の漂う、整った顔立ちの美青年だった。
「は……はい……」
クロエは思わず青年に目を奪われながら、答える。
それまでの激情が一瞬で引っ込むほどの衝撃だった。
「狩りに向かうところだったのだけれど、少々足を痛めてしまってね。迎えを呼びたいので、この森から出るのを手伝ってもらえないだろうか」
落ち着いた声には、命令慣れした響きがある。
間違いなく、身分の高い相手だ。クロエは緊張しながら、頷く。
「こ……この近くに、私たちの屋敷があります。よろしければ、そちらにご案内いたします」
「ああ、よろしく頼むよ。ところで少し支えてもらえないだろうか」
「は……はい……」
おどおどとしながら、クロエは青年に手を差し出す。
青年は微笑んで、その手を取って立ち上がり、クロエに寄り添いながらゆっくりと歩き出した。
怪我人を助けているだけとはいえ、美青年と寄り添って歩くという状況に、クロエは戸惑う。
やがて屋敷の前にたどり着くまで、二人とも言葉を発することはなかった。
「……もしかして、あなたは男爵の二人いる令嬢のどちらかかな?」
屋敷を目前にして、青年が口を開く。
「は……はい、長女のクロエと申します……」
「そうか……私は王都から来ていてね。王都には、あなたのように心癒される令嬢はいない。もしよければ、これからも私に寄り添ってもらえないだろうか」
「え……?」
突然の申し出に、クロエは耳を疑う。
もしかしてこれは、プロポーズではないだろうか。
つい先ほど出会ったばかりなのに正気だろうかと、クロエは唖然として立ち止まってしまう。
「実は、最上の紅月酒を作り出す乙女の話を聞いてやってきたのだよ。土産も用意してある」
そう言って、青年は二つの小箱を取り出す。
華やかな装飾の豪華な小箱と、飾り気のない素朴な小箱だ。
「これらは『華麗な栄光』と『素朴な幸福』の箱だ。血縁者が二人で同時に開く必要があるという、不思議な箱でね。その名のとおりの運命を開けた者にもたらすそうだ。二人の男爵令嬢にプレゼントしようと思って持ってきたのだよ」
青年はクロエに二つの小箱を差し出してくる。
つい、クロエは受け取ってしまった。
「私の名はエミリアンという。願わくば、あなたが華麗な栄光を掴むことを。では、私は男爵に挨拶してこよう」
ゆったりとした足取りで、エミリアンと名乗った青年は屋敷に入っていく。
残されたクロエは、呆然としたまま立ち尽くす。
エミリアンとは、この国の王太子の名前だったはずだ。堂々とした立ち居振る舞いに支配者の声は、まさに本人であると物語っている。
「まさか、そんな……」
たった今、クロエは王太子からプロポーズされたということになるのだ。
信じられない思いで、クロエは屋敷の前で一人たたずむ。
「……お姉さま!」
ややあって、屋敷の中からリュシーが出てきた。
「先ほどの方、いったい……あら? 何を持っていますの?」
リュシーはクロエが手に持ったままの二つの小箱に気付く。
そして、豪華な小箱をひょいと取り上げて、開けようとする。
「……ちょっ……開きませんわ……」
だが、小箱は開かない。
血縁者が二人で同時に開く必要があるという言葉を、クロエは思い出す。
「その箱は、二人で同時に開く必要があるそうよ」
「じゃあ、お姉さまも一緒に開けましょうよ。お姉さまは、そっちのつまらない、ちっぽけな箱でよいでしょう?」
当然のように素朴な箱を押し付けてくるリュシー。
クロエは、はっとして考える。
これらの箱は、『華麗な栄光』と『素朴な幸福』だ。その名のとおりの運命を開けた者にもたらすのだという。
つまり、豪華な箱を開ければ、これまで良い姉というリュシーの影でしかなかったクロエが栄光を掴めるのだ。
実は中身は見た目に反しているのだとでも言えば、リュシーを言いくるめるのはわけもない。
クロエは迷う。
華麗な栄光を掴むか、素朴な幸福を求めるか。
つまらない、ちっぽけな存在から抜け出すチャンスなのだ。自分の力だけでは得られないであろう、貴重な機会が訪れている。
華やかな世界への扉は、目の前で開きかけているのだ。
「……実は、その箱は──」
迷った末、クロエは決断すると、静かに口を開いた。
クロエは一人、蕾をつけた小さな木の世話をしていた。
結局、クロエが選んだのは『素朴な幸福』だった。
中に入っていたのは種で、植えてみたところどんどん芽が伸びていき、あっという間に小さな木になったのだ。
リュシーが開けた『華麗な栄光』には、純白の手袋が入っていた。
喜んでそれを身に着けたリュシーは、王太子エミリアンに見初められて、側妃となった。
側妃は準王族であり、大層な出世だと男爵夫妻も大喜びだ。
王都へと出立するリュシーの勝ち誇った顔が、クロエの脳裏によみがえる。
「……あの子のことなんて、いいのよ。私は……」
「クロエ!」
物思いにふけるクロエの元に、息を切らせて駆け込んできた姿がある。
婚約者のジュストだ。
「申し訳なかった!」
ジュストは突然、クロエの足下に平伏した。
野外だというのに何をやっているのかと、クロエは唖然とする。
「きみの手のことをけなしてしまった。実はリュシーが仕事を放り出し、その分も全てきみがやっていたと聞く。それを僕は考えなしに、浅はかで愚かなことを……恥じ入るばかりだ……」
平伏したまま、ジュストはかすかに震える。
「リュシーとは何回か会ったが、手に触れる以上のことはしていない。僕の婚約者はクロエ、きみだけだ。どうか許してくれ……」
地面に額をこすりつけ、ジュストは許しを請う。
クロエはしばし呆然とそれを見つめていた。ややあって、膝をかがめてジュストの肩に触れる。
「……いいの……わかってくれたのなら、いいの……」
少し涙ぐみながら、クロエは囁く。
これまでの憂いが晴れていくようだった。
真実に目を向けて反省してくれたのなら、クロエはそれで満足だ。
二つの箱のどちらを開けるか迷ったとき、頭に浮かんだのはジュストの顔だった。
素朴で優しく、華麗な栄光とは結びつかない顔。
だが、穏やかに愛を育んできた、愛しい婚約者の顔だ。
「一緒に、この地を盛り立てていきましょうね」
「クロエ……ありがとう……」
顔を上げたジュストの瞳は、感動に潤んでいた。
その手を取り、クロエは優しく微笑む。
二人の後ろでは、小さな木に宿った蕾が、愛らしい花を開かせていた。
*
リュシーが側妃となってから二年が過ぎた。
クロエはジュストと結婚し、それを機に父である男爵は爵位を譲って隠居することとなった。
華やかさはないが、穏やかで幸福な日々を過ごしているところ、クロエに王太子から招待状が届いたのだ。
リュシーが会いたがっているとのことで、クロエは招待を受けることにして、王都へと旅立った。
「よく来てくれた、クロエ嬢……ではなく、今は男爵夫人だったな」
王太子宮の一室にて、王太子エミリアンがにこやかに口を開く。
クロエは緊張しながら、淑女の礼を取った。
「そうかしこまらなくてもよい。いわば、身内の集まりだ。妹と会うのは久しぶりだろう」
エミリアンは鷹揚に笑う。
「わたくしも、リュシーの姉であるあなたにお会いできるのを楽しみにしておりましたのよ。いらしてくださって、嬉しいわ」
エミリアンの隣でしとやかに微笑むのは、王太子妃であるアドリーヌだ。
彼女は公爵家の出身で、将来の王妃となるべく教育を受けた正妃である。
クロエは体が強張り、足下がおぼつかなくなっていく。
正妃であるアドリーヌにとって、側妃のリュシーなど邪魔者ではないのだろうか。
「どうぞ楽になさって。リュシーの愛らしさには、わたくしも心を慰められていますの。本当の妹のように思っていますわ。重責を担う殿下を支えるのが、わたくしたちの役目。リュシーの働きには、わたくしも頭の下がる思いですわ」
艶やかな美貌をやわらかくほころばせ、アドリーヌはリュシーを褒め称える。
王都の上位貴族として生まれ育った彼女のこと、どこまでが本心かはわからない。だが、クロエの目から見た姿には嘘偽りは一切感じられず、何という度量の深い方だろうと感銘を受ける。
「ときには私を差し置いて、二人で仲良くしていることもあってね。まあ、妃たちの仲が良いのは結構なことだが……少々妬けてしまうこともあるくらいだ」
「まあ、殿下」
冗談交じりに笑い合う二人を見ると、どうやらリュシーは可愛がられているようだ。だが、肝心のリュシーの姿が見当たらず、クロエは内心首を傾げる。
「実はリュシーなのだが、風邪をこじらせてしまってね。やっと良くなってきたのだが、まだ声が出ないのだ。せっかく姉のあなたに会えるのを楽しみにしていたというのに……」
「まだ長い時間起きてはいられないのだけれど、どうしてもあなたに会いたいというので、準備していますわ。そろそろ来る頃でしょう」
二人の言葉を裏付けるように、侍女に連れられてリュシーが現れた。
幾重にもフリルを重ねた豪奢なドレスを纏い、白い絹とレースの繊細な手袋で肘まで覆われている。
顔は美しく化粧が施されていたが、少しやつれているようだ。風邪をこじらせたのが、まだ治りきっていないのだろう。
リュシーはクロエの姿を見ると、顔を輝かせた。
「……ぁ」
嬉しそうに手を伸ばしてくるリュシーだが、声はかすれていて聞き取れない。
透けて見えるほど繊細な手袋を眺め、クロエは微笑みを浮かべる。
「労働なんて必要ない、本当の貴族の証である綺麗な手袋を手に入れたのね……いいえ、手に入れましたのね。お喜び申し上げますわ、側妃さま」
「……っ!」
他人行儀にクロエが述べると、リュシーは驚愕の表情を浮かべる。その目が絶望に染まっていった。
「おや……」
「まあ……」
姉妹の再会を見守るエミリアンとアドリーヌも、意外だといった声を漏らす。
「いくら姉妹といえども、礼儀はわきまえないといけませんわ。本日は、側妃さまに献上いたしたく、新しく誕生したお酒をお持ちいたしましたの」
クロエは穏やかに微笑むと、籠を差し出した。
優美な曲線を描くボトルが二本、中に入っている。
「私どもの領地で新たに採れるようになった果実を使用したお酒ですわ。最上の紅月酒を超える味わいと自負しております」
『素朴な幸福』の箱から出てきた種が育ち、採れた実から作ったのがこの酒だ。
凄まじい速度で成長した木だったが、まだ採れる量には限りがあり、わずかしか作れない。
「最上の紅月酒を超える味わいか……それは興味深い。リュシー、せっかくだからここでいただいてはどうだろうか」
エミリアンの声に、リュシーはどことなく呆然としながら、首を縦に振る。
侍女たちによってグラスが用意され、ボトルが一本開けられた。
まずはクロエが毒見とばかりに一口飲むと、エミリアンとアドリーヌもグラスを口に運んだ。
「……素晴らしい。これほどの味わい、初めてだ」
「まあ……心が幸福に包まれるようですわ。素朴な味わいから、徐々に深みが……」
エミリアンとアドリーヌは絶賛する。
「まだこのお酒には、名前がございません。もしよろしければ、王太子殿下に名前を賜ることができれば光栄に存じます」
「そうか……何がよいだろうか……」
クロエの申し出に対し、エミリアンは考え込む。
名前を考えているようなので、名付け親になってくれるようだ。
「来年もこのお酒を献上したいと存じます。私はこれから領地に戻り、さらに良い味わいを得られるよう、精進してまいります」
クロエが決意を述べると、エミリアンとアドリーヌは一瞬だけ驚いたような顔をした。だが、すぐに元通りの穏やかな表情に戻る。
「……っ……っ……」
侍女に一口飲ませてもらったリュシーが、すすり泣いていた。
かすれた呻き声が、部屋に響く。
「そうだ、名前は『リュシーの涙』にしよう。愛妃リュシーが感動のあまり、涙を流したことからだ」
「まあ、この透き通るような味わいによく似合っていますわ」
エミリアンが名前を決めると、アドリーヌも同意する。
「素晴らしい名前をありがとうございます。これでこのお酒が広まっていけば、側妃リュシーさまの名も、ますます華麗な栄光に包まれることでしょう」
クロエが礼を述べると、エミリアンとアドリーヌはにっこりと笑う。
穏やかに微笑み合う三人を横目に、リュシーは涙を流し続けていた。
「リュシー、残念だったね。でも、嘆くことはない。来年もまた来てくれるだろう。約束はそのときも有効だ」
クロエが退出した後も涙を流し続けるリュシーに、エミリアンが声をかけた。
すると、絶望に染まったリュシーの瞳に、わずかな希望が宿る。
「さて、自室で休むとよい。早く体を治してもらわねば。爪を全て失ったその手では、グラスを持つのもままならぬだろうからね」
エミリアンに促され、リュシーは侍女に連れられて部屋を出ていく。
「……予想外の展開でしたわね」
「ああ、うまいこと逃げられたね。でも、もっと面白くなったよ」
「来年への希望ができましたものね。長持ちしてくれそうですわ。あの絶望の表情と、希望を抱く姿……たまりませんわ」
「姉妹で飼うよりも、こちらのほうがずっと楽しそうだ。それにあの酒……リュシーの涙はまたぜひ飲みたい」
「ええ、そのためにも彼女はそっとしておきましょう。それよりも、早くあの子の可愛い声を聞きたいですわ。代わりがくれば解放されるなんて信じているあの子のいじらしさが、本当に愛おしいのですわ……」
「きみも好きだね……」
にんまりと笑い合う王太子夫妻。
彼らに嗜虐趣味があることは、あまり知られていない。
クロエは王太子宮を離れ、街の宿に戻ってきてやっと一息ついた。
あとは領地に帰るだけだ。
「クロエ、お疲れさま。どうだった?」
ジュストがクロエを気遣う。彼は招かれなかったので、待っていたのだ。
「ええ……緊張したわ。リュシーは側妃として立派になっていたわ……豪華なドレスに絹とレースの手袋を身に着けていたの。そうそう、王太子殿下からお酒の名前もいただいたわ。感動のあまりリュシーが涙を流したことから、リュシーの涙ですって」
「そうか、リュシーも幸せなんだね。よかった」
「……華麗な栄光に包まれていたわ」
含みのあるクロエの言葉には気付かず、ジュストはのほほんとしていた。
そして、思い出したようにジュストは小箱をクロエに差し出す。
「これ、待っている間に買ってきたんだ。これから寒くなるから……」
「まあ、ありがとう」
少し照れたようにジュストが差し出すプレゼントを、クロエは受け取る。
中には厚手の手袋と、クリームが入っていた。
手袋は小さな花の刺繍が可愛らしいが、優雅さはなく、実用品だ。リュシーの身に着けていた絹とレースの長い手袋とは違う。
だが、ジュストの心遣いがとても嬉しく、素晴らしいプレゼントだとクロエは感動する。
「……リュシーの手袋と比べると、みすぼらしいだろうけれど」
「いいえ、そんなことないわ。あんな薄い手袋では何も隠せはしないもの。私にはこの手袋のほうがずっと素敵に見えるわ」
透けて見えるほど繊細な手袋では、傷跡も火傷の跡も、何も隠せはしない。
「……きみの手は、素晴らしいものを作り出す、尊い手だよ。僕はきみのことを誇りに思う」
ジュストは気遣わしげにそう言い、クロエの手をそっとすくいあげると口づける。
宝物に触れるような扱いで、クロエは頬が熱くなるのを感じる。
紅月果の選別作業の時期は過ぎているため、今はクロエの手も汚れなどない綺麗な状態だ。
だが、ジュストはクロエの手が汚れている時期でも、今のように褒め称えてくれる。
己の浅はかさを反省したジュストは、その後とても良い夫となったのだ。
白い絹とレースの手袋など、クロエには必要ない。
クロエにとっては、温かく包み込んでくれるジュストの手こそが、素朴な幸福の形だった。