8 その絵の色は
白いペンキで塗った小屋に消えていく姫を追って中へ足を踏み入れた。
「わっ」
思わず言葉が溢れてしまった。入った瞬間、どこか別世界に迷い込んだかのようだった。
「これ全部父が描いた絵なんだ」
色鮮やかな絵たちに目を輝かせて、四方に瞳をちらつかせた。踊るぷちトマト、水々しい苺。優しそうな金髪の女性は生き生きと微笑んでいる。一方で気難しそうなおじさんの絵も。
「すっげー、天才じゃん、姫のお父さん。この苺なんて本当に食べられそうだよ」
「本当に食べてみてもいいんだよ」姫は笑顔でそう言った。
「い、いや、やめとく」
「アキラはここにある絵の色が何色か分かるんだもんな。どんな色なんだろう。どんな色を使って、父は人を魅了したんだろう」
姫は言いながら、キャンバスの中の鮮やかな絵を指で辿った。
「姫は、将来画家になりたいの?」私は、少し踏み込んで尋ねた。姫はこっちを向いて小さくした唇を噛んで視線をそらす。
「父さんは僕には無理だって言ってる。画家には色彩センスがないとそれだけ表現に縛りも出来るし。個性にだって縛りが出来る」
「でも、私は姫の描く絵が好き……だよ」
本音を口にするのは気恥ずかしくて、自分でも分かるくらいたどたどしい発音だった。すると、姫の顔がほんのり曇って一瞬言葉を詰まらせた。
「君も見ただろ。あの汚い空の色。どんなに綺麗事を言っても、結局僕の絵には光がない。僕なんて無意味な絵しか描けないんだ」
うつむいて、どこか堪えるように肩を強張らせている。
「ごめん。アキラにこんな事話しても意味ないのに」
「ううん。気にしなくていいよ」私は情けないけど、真剣に悩んでる姫の姿に適当な事を言いたくなくて、かける言葉を見失った。
足元に視線を落とすと、壁の隙間に一枚の絵を見つけて私は何故だか気になってその絵を両手で拾い上げた。
「これって」
姫にそっくりな絵だった。どこかを眺めて笑っている。その表情は本物みたく生き生きとしている。
姫が首を傾げると、私はその絵をひっくり返して見せた。
「この絵、姫にそっくりだな」
「……その絵どこで?」
「そこに置いてあった。ごめん、勝手に」
「ちょっと見せて」近づいて、その絵を両手で受け取りじっくりと見つめ合っている。
「多分、この絵は僕だと思う」
「やっぱり、どうりで似てるなと思った」
「初めて見た。こんな絵」姫は照れ臭そうに自分の耳を触れた。
「その絵、姫のために描いたんじゃない?」
「父さんが?僕のために……。僕には呆れて失望してるのかと思ってた」
「だってその絵、唯一色がないから」
「え?」
「全部、黒と灰色と白、濃淡をつけて描いてる」
姫はすぐ近くの、色のある絵と見比べて呆然とした。
「はは、そうなんだ。やっぱ父さんはすごいなあ。色がなくてもこんな鮮やかに見えるんだから」
「もしかして姫に教えたかったのかも。色を頼りになんかしなくても、自分の世界を表現できるって」
「色を頼りにしない」姫はしばらくの間、その絵を大事そうに掴んで離さず、絵をみつめていた。まるで、絵を通して姫のお父さんと会話しているかのように思えた。
揃って小屋を出て、穏やかな気候に映し出された木陰のシルエットを眺めていたら、良かったらお茶でも飲んでいかないかと誘ってくれた。私はすぐに帰りたくないという我儘からすぐに頷いた。家の進路に沿った敷石を踏んで歩く最中、私は姫の背中に話しかけた。
「ねえ」
「ん?なに?」
「今日の服、格好いいね」
「え?本当に?」
姫はまた耳の所を触った。どうやら恥ずかしいとそこを触れる癖があるようだ。新たな発見。
「本当! めちゃくちゃ似合う、モデルさんみたい」
「そっか。こういうのマネキン買いって言うんだっけ。してよかったな。いつもトンチンカンな服で変って言われるから」姫は困ったように笑う。私は反射的な自己防衛で、
「あ! 私の服は別に無理して褒めなくていいから! これ安くて適当に買ったの、近所のミムラで」
「アキラもカジュアルで格好いいよ」その声は優しかった。きっとお世辞だろう。
「私、普段オシャレとかしないんだ。ミキみたいに可愛かったらさ、もっと違うんだろうけど、この顔だし。ケンには男の子ってバカにされるし」思い出したらちょっと腹が立ってきた。
「僕はその服アキラらしくて好きだな。それに僕は、男の子だとも思ったことないよ、アキラは可愛い顔してるもん」
親戚やお婆ちゃんが褒めてくれる時以来の単語だった。その単語は、男子から貰う事をすっぱり諦めていたのに。私は一気に頭のてっぺんまで熱くなる気がして、そんな自分がまた気持ち悪くなって首を緩く振った。
「そ、そんなことねーし。てか、姫の横に立つと自信なくなるんだっつーの」私はそう言って今度は虚しくなって溜息を吐く。一人で忙しく感情を往来して勝手に疲れた私は肩を落とした。当の本人はあっけらかんと、頭の上に疑問符を浮かべているし。