4 君の見る空
「そんな、人に聞かせられるもんじゃないって」 私はそう言いながらも横の椅子に座りギターケースからギターを取り出した。近所の楽器屋羽鳥 で低価格で購入したこの黒のエレキは、他のギターに安っぽく見えても私にとっては格好良くて馴染みのあるギターだ。いつかはグレードアップしたいとは思ってるけど。姫川くんは、子供が 新品のおもちゃを目にした時のように瞳を輝かせながら、わあっと声をあげて拍手をした。そんなに大したことないのに。軽くチューニングを済ませて、saggyの一番好きな夢追い人という曲を簡単なコードで弾いた。ゆっくり、穏やかでメロデアスな曲を弦にのせる。
ボーカルのリンのように伸び伸びと軽やかに鼻歌を唄ってみる。姫川くんは瞼を閉じ体を小さく揺らしながら真剣に音に耳を傾けてい た。Aメロとサビを歌い切って深呼吸を一つした。姫川くんの顔を伺う。長い睫毛を持ち上げて一言「日向ぼっこしてるみたいな気分になった」と言った。私はその感想を素直に嬉しく思った。
「私、こういう曲が好きなんだよね。騒がしい感じより」
「うん、僕も今の曲、好きだな」
「だ、だよね! 」
「音楽のことはよく分からないけど、柊さんの声によく合っていると思った」
褒められ慣れていないせいか、単純に耳朶が熱くなる。
「あ、ありがとう」私は小さくお礼を告げた。
「ねえ今の曲は誰の曲? 」
「saggyっていうバンド。このバンドの曲ね、物語みたいで好きなんだ。絵本を読んでるみたいで」
「ちょっと可愛らしい曲だもんね。saggy、saggy……。今度聴いてみる。柊さん、ギター聴かせてくれてありがとう」
「別に。こんなもんでいいんなら。つーか、さん呼びじゃなくていいよ。柊でいい」
「なら、下の名前で呼んでもいい? 」
「そっちの方が全然いい。私はなんて呼ぼうかな」 私は姫川くんの顔をみると咄嗟にその呼び名を零した。
「姫。姫って呼んでいい?」
「姫?それ、前の学校でのあだ名だった」
「嫌だったら別の名前にする」
「ううん、嫌じゃない。そう呼んでも構わないよ」
その時廊下の方から先生の声がして、
「おーい、お前たちもう帰れ。お化けが出るぞー」とからかうように言った。 私たちは扉の方に顔を向けて、はい!と返事をした。姫は腰を持ち上げてバケツとパレットを手に、帰り支度をし始める。 私も一緒に腰を上げた。
「手伝うよ」
「あ、じゃあこの絵の具、色揃えて並べてもらえたら助かる。この前落としちゃって。お願い出来るかな? 」
25色の色とりどりあ絵の具が所狭しと箱に収まっていて、蓋の裏面には絵の具の色順が文字で記されている。対して、実際の絵の具はそれと比べ、チグハグに置かれている。私はキャンバスの中の栗色の空を見てはっと気づいた。確信は持てないけれど、もしかして姫は色が区別できないのかもしれな いと。洗面台で、蛇口から水の流れる音が聞こえる。パレットを洗う後ろ姿を眺めた。私は何も 聞かずに絵の具を順番に揃えた。
また明日隣で。雨の降る校門の別れ際、そう言った姫の傘は赤かった。
帰宅すると、親父は居間で焼酎を飲んでいた。今日は雨だしバイトもないし、家でギターの練習もで
きないし。いつもなら最悪と口走っている所だ。だけど今日はいつもよりは最悪じゃない。私は、親父の背中の狭い通路を静かに通り、後ろの襖に手をかける。
「おいアキラ」
私は立ち止まると、心が一瞬にして曇った。
「お前ちゃんと学校行ってんのか? 」
「行ってるよ」死んだように答える。
「ちゃんと勉強しないと仕事できねえぞ。お前に働いてもらわねえと俺が困る」 何を偉そうに。何も知らないくせに父親面をすんな。私は奴を視界から追い出すために素早く部屋に入り襖を閉じた。
制服のまま箪笥に背をもたれて座りこんで、膝を抱える。私の存在が誰にも悟られないように。心の奥で襖を蹴っても虚しかった。
この箪笥は母が昔骨董品屋で買ったもので、私が物心つく前からある。母は私が中学二年の頃、不倫相手とどこかへ消えた。父はそれから頭がおかしくなった。昔は無口でも優しかったのに、今は会社も辞め酒に溺れる毎日だ。父の気持ちも分からなくはなかった。けれどたまに私はどこかへ消えたくなる時がある。脳内に海を描いて、私はいつも遠くを眺めている。溺れそうになると、今度は音楽を聴いてここから逃げる。
saggyと出会ったのは、中学三年生の頃。友達だったミキに影響されて再生ボタンを押したあの時の私の指に感謝したい。再生回数は少なくても、saggyの音楽は私の心の支えだ。
スマホにイヤフォンを刺して、鼓膜に蓋をする。saggyの音楽を再生する。
『何もない今日の、何もない空の下、何もない朝に今、君と出会った』
私はリンの歌声に手を引かれ、栗色の空を飛んでいた。どこにでも行けるよ。リンは私にそう言ってくれた。私は安心して音楽の風に身を任せて泳いでいける。そんな気に迷っていた頃、明日隣にいる姫の横顔が浮かんだ。私にとってそれは新しい風景だった。