1 五月の雨と出会い
ねえ、覚えてる?君と出会う前、私の空は青かった。私は今まで自分の世界に固執して、小さな空を仰いでいるばかりだった。君が私に本当の空の色を教えてくれたんだよ。
姫、君がキャンバスの向こうに見ていた景色はどんな色だった?私はその向こう側を見ている君の澄んだ瞳が今でも忘れられない。まるで廃れきっていた私の心を晴らすように、果てしなく綺麗だった。未だにその景色を越えていけない。
今、東京の空の色はどんな色ですか?こっちはくすんでる。でも、朧月が薄く白を伸ばしていて綺麗だ。姫にもこの鬱蒼と深く闇を描いている空を見せてあげたい。姫ならこの空をどんな色で表現するんだろう。今、君に会いたい。
覚えていますか?
イラスト・com様
スマホのアラームが忙しく鳴る。私は手を頭の上に伸ばし、犯人を探った。
「んんー……」
右手で犯人を捕獲すると、開かない瞼でろくに画面も確認せずに、そいつの鳴き声を止めて、さてともう一眠りしようと、心地よく寝返りを打つ。異変に気づいたのは一瞬の間。ばっと身を起こすと一気に血の気が引いた。祈りを込めてスマホの画面を確認する。時刻は8時30分を過ぎている。私は声を上げた。
「う、うそだ……、やば。何で?私のバカ」
布団を豪快にひっぺがして起き上がると、ハンガーにかけておいた制服を手に取り慌てて着替える。朝の遅刻選手権の開幕だ。ありがたいスヌーズ機能が私を急かす。
「ああっもう、うるっさい! 」
意味のない叱咤を浴びせながら、シャツ、スカート、ジャケット、靴下と順番に、しかし乱雑に体に重ねていく。どうして制服っていうのはこんなに面倒なんだろう!仕上げに姿見の前で寝癖だらけの髪をクシで梳かし、鞄にスマホを放り込んで部屋を出る、と土壇場で踵を翻し。
「危な。忘れる所だった」
一万円のエレキギターが中途半端に収まっているケースの蓋を閉め、肩に担いで改めて部屋を出た。
襖を開けた先にある台所の、テーブルの上に置いてあった食パンを拝借。ここはスピード勝負。冷蔵庫を開いて牛乳で咀嚼したパンを一気に流し込んだ。顔を洗って歯を磨いた。ここまでおよそ15分。柊アキラ選手、怒涛の追い上げを見せております!マイクを持った男のアナウンサーが頭の中で大声を上げた。
「おいアキラ。うっせえぞ!」
向こう側から怒鳴り声が聞こえて私は物音を立てないように、何なら息を殺すように努めた。床が軋む音に配慮しながら静かに家を出た。
扉のポストには乱雑に、請求書やチラシが詰め込まれていた。その一枚を引っ張ると、未入金家賃のお支払について。と丁寧に文章が印刷されていた。私はまたそれを元の場所にくしゃりと潰しながら突っ込んで歩き出した。
五月の空は灰色。くすんでいてどこか寂しげ。雨が降っているのに気づき、扉の前に立て掛けてあるビニール傘を差し、足速に歩き出す。
近所の家の朝顔が咲き始めているのを見て、少しだけ穏やかさを取り戻した。
「別に遅刻しても……いっか」
鞄の中からイヤフォンを取り出そうとした。ギターと傘が邪魔で少し困難だったが何とか右手左手と持ち替えながらスマホに差し込んで音楽を再生した。saggyの“雨と猫”私の最近のお気に入りソング。アコースティックの雫が鼓膜から脳へ溢れ、私を別の世界へ運んでくれる。それにボーカルのリンの透き通っていて力強い声が加わり、どこまでも欲深く沈んでいける、そんな心地にさせてくれる。
コンクリートに張る水溜りの中の世界を飛び越えて、車の下で雨宿りをしている野良猫に心の中で挨拶をしてみる。こんにちは。猫は何も関心のない顔をして無視をした。意地悪な猫。私はべーっと勢いよく舌を出した。
ビニール傘の透明な窓から別世界を覗き込む景色が好きだ。輪郭のぼやけた風景を見るのが。やがて校門が訪れると、呆気なく創り出した世界は崩壊する。私は傘を持ち上げ、現実と対面した。凪高校の門の手前には、いかつい顔をした体育教師の村上が腕を組んで待ち構えている。あいつは地獄の番人だ。正直大嫌い。
イヤフォンを外して鞄に押し込み、真面目な顔を繕いながらそろりと鬼の横を通り過ぎようとした。しかしそんな上手くいかなかった。村上は私を睨みつけて「おいアキラ。五分遅刻だぞ」と低い声で言った。
私はへらりと笑って、「ご、ごめんなさい」と頭を緩く下げた。
「ダッシュ!!」
唾を飛ばしながら村上は叫んだ。私は「はい!」と勢い良く返事をしながら駆け出した。
2年B組の扉を開ける。担任の教師は幸いまだ来ていないようだった。雨の日でも相変わらず、クラスはいつものように騒がしい。教室の左から二番目の、後ろの席へ行き机の上に鞄を降ろしてすぐにギターケースも後ろに立てかけて置いた。
一息ついて椅子に座ろうとした時、「おはよう!アキラ!」と、親友のミキが眼前に現れた。
「おはよう。今日も元気だねぇ。なんかいい事あった?」鞄の中から教科書やノートを出しながら言った。
「まあね。昨日のMflowで遊くんが出ててさあ。もうすっごく格好よくて!」
「え、saggy出てたんだ。私も観れば良かったな」後悔の溜息を吐く。
「大丈夫!ちゃんと録画してるからアキラにも今度ダビングしてあげるよん」ミキは顔の手前でピースサインを作った。
「えっいいの?超助かる……」
「親友じゃーん」
赤津ミキは、私が小学校の頃からの同級生だ。ミキは私と違って性格も明るく、見た目も性格も女の子らしかった。私はミキの手首に嵌められている黄色のマシュマロのようなシュシュを見て心の中で、女子力……と呟いた。私には到底補えっこないものだった。制服のスカートですら煩わしく思えるのに。
「おい、おっとこのこー。宿題やってきたか?」
失礼すぎる呼び名で私を呼んだのは隣の席の前田健一だ。
「何だとケン、コラ」私は拳をつくりながら言い返した。
「だってお前男の子じゃん。髪型とか声とか。名前も男の子みたいだし」
「はあ?うっせえ。ばか。私に話しかけんな」
無視を決め込もうと顔をそらした。が、こいつは私の方へ顔を近づけてきた。
「な、何?」
「あれ?お前今日、これねぇじゃん」
前だが自分自身の胸元を指差す仕草につられて、自分の胸元を見下ろしてみる。私ははっとした。
「あっ、クソ。ネクタイ忘れた!もう嫌」
完全に脱力をして私は鞄に顔を埋める。ミキは優しく肩を叩いてくれる。
「まあまあ、今日はあんま運がよくなかったんだね。そんな君には後で焼きそばパンを奢ってあげよう」
「うう、ミキ。マジで私の天使」
「小山が来た!」
扉付近の生徒が口にすると、全員一斉に自分の机へ急ぎ、位置につく。
担任の小山は靴底を鳴らして教室に入ってきた。顔は中の上くらい、少し童顔の爽やかな男教師。女子からはまあまあ人気だ。私は全然タイプじゃないけど。最近テレビによく出ているお笑い芸人の顔に少し似ているけど、名前は思い出せない。
「起立!気をつけ!礼」
学級委員の号令で朝の挨拶が始まる。
「今日は転入生を紹介する」
「転入生……?」
教室中がざわめきだした。小山は名簿の角を机にトントンと叩きつけて制した。
「静かに。転入生の姫山怜君だ」
「姫だって」
と、どこかで男子の嘲笑するような声が聞こえた。ガラガラと扉が開く。入ってきたその人を見て私は、本物の姫だ、と思った。