■scene 4-2■
■scene 4-2. 盲目の信者は幻想に縋るよりほか術を存ぜず■
「あらぁ……? これはこれは司祭ヨハネス・コルネリアス上級異端審問官さまじゃ、ないですかぁ。」
ヨハンと同じく、異端審問官を示す黒色のローブと肘丈のケープに身を慎んだ淑女、助祭ヘンリエッタ・メルクリウス焚書官は、アリスの執務室をひっくり返して、書類を選り分けていた。室内には、その乱暴を、どうすることも叶わずにおろおろと佇む、屋敷のメイドたちがあった。
そして今まさに、手に持っていた本に目を落とし、嫌悪感を隠しもせずに冷酷に「これも。」と無造作に積まれた書籍の山に投げる。
「~~~~っっ!!!!」
その、あまりの光景に絶句して、直後、激昂したのは、人猫のメイだった。が、しかし、その出鼻はヨハンに挫かれる。メイの眼前に、ヨハンの背中があった。それは、呼吸の間隙を縫ってヨハンが、一歩先んずるという、武術の歩法のひとつであった。
「メルクリウス焚書官。」
「なにかしら?」
「ここまでにして、もらえませんか、ね。」
「それは、命令かしらぁ??」
「この場は、私が預かります、から。」
「ふふふ。強引ですことぉ。」
ムチムチと豊満な身体のメリハリを、まるで強調するかのごとく、ワンサイズ小さな祭服に身を包んだメルクリウス焚書官は、しかし、確かに正義の召使いであった。その真意は、極限まで規則に縛られ、自らも縛り付けられる事を是としたことにあった。ゆえに、自身を慎むために、身体の拘束の感覚を欲した。それが、祭服のサイズにまで表れて、却って不謹慎であるかのような事態に陥っていた。聖書の言葉に最も忠実であるからこそ、その言葉を清く正しく正すため、焚書官を志望した狂人だった。
「元々、私がいる間は、私が異端審問の担当官です、から。」
「ええ、そうでしょうともぉ。もっとも、ヨハン司祭にはぁ、帝都を離れる調査命令があったと記憶しておりますわぁ。」
「ええ、ええ。近日中には、向かうでしょう、ね。」
そも、異端審問とは、異端の疑いをかけられた者の身体の自由の総てを奪い、その財産の一片まで検めて、異端の是非を問う。
それが、人間の安堵と隣人への見せしめのため、アリスという帝都に於ける隣人の頭目に対しては、形骸化して形式的に行われるという本音があった。しかし、聖書という建前で、規定本来の異端審問を行うのが、ヘンリエッタ・メルクリウスという女であった。どうでも良いことではあるが、ヘンリエッタは信徒として教会の扉を潜って以来一度も、貞操帯を外した事がなかった。それは、淫蕩への堕落を防ぐためではなく、一種の願掛けに近かった。それが、強迫観念の域に達していて、すでに、開錠のための鍵を、永久に失う術理によって未来永劫へと飛ばし続けている。
この貞操帯に付与された魔術が働く限り、ヘンリエッタ焚書官は、死後も純潔を守り続けられ、その遺体が腐敗することはないだろう。
さて。
ヨハンは、隣人が引き起こした重大事件の波紋を広げさせないために、教会が隣人を制御下に置いていることを喧伝する目的として、大司教によるアリスへの異端審問の決定に、一定の理解を示していた。そう、この時点では、ヨハンは大司教の行いを信じていた。しかし、担当官がヘンリエッタ・メルクリウス焚書官では、本当に字義の通りの異端審問が行われてしまう。
(担当官が、メルクリウス焚書官である、と、ご存知なかったのでしょう、か。)
令状にも担当官の名はなかった。つまり、令状を発行する段階では、メルクリウス焚書官が担当すると、知らなかったのだろう。そのように、ヨハンは考えた。しかし、その誤解こそが、ザルトリアス・ウィンカーロッチ大司教の策略であった。ローブの上から鎖を巻いたメルクリウス焚書官が、大司教自身にとって不利となり得る書類の一切合財を区別なく、燃やし尽くすと期待していたのだった。
確かに。
ヨハンが、イェリンガ市の調査のため、既に帝都を離れていたら、その寸法のままに図面を引けただろう。しかし、実際にはヨハンは帝都に残り、イェリンガ市からの商団を待っていた。
単に、大司教が商団の動向を知らなかった、という策の綻びであった。
そして。
この綻びが、やがて肥大していくこととなる。
「まぁ、規則は規則、ですからぁ。この状況はヨハネス司祭に引き継ぎますわぁ……ちゃぁんと、差し押さえて、然るべき処置をしてくださいなぁ。」
このあと教皇庁へ帰り、若き助祭たちの煩悶を引き出すだけ引き出して、ゴミ屑を見るような視線を投げるヘンリエッタ焚書官は、焚書申請を提出することとなる。
これを無かったものとして、揉み消すこと自体は難しくないものの、内部に少なからず軋轢の記録を残すこととなるために、ヨハンは頭を悩ませることとなる。最終的に、アリス邸で発見された禁書目録の書類・書籍を、ヨハン・コルネリアス司祭の預かりとして、保管所としてアリス邸の書庫を利用する、という抜け道を真っ当な手段でそれらしく飾るだけのために、難解な文章に仕立てて目眩ますよう腐心するのだった。
「ええ、ええ。わかっています、よ。」
「お願いしますわぁ。私はぁ、異端者の監視をしましょうかぁ……拷問をするにはぁ、時間が必要なのはぁ、どうなのでしょうかぁ。」
ジャラジャラと鎖が煩く、優雅に、もしくは不安になるほど儚げに歩く長身で猫背のヘンリエッタ焚書官の、ミステリアスなストレートヘアが零れて顔を隠した、その切れ目から覗く視線には、戦慄するほど精気が無かった。
その手には、焚書官として信徒を導くための、身の丈程になる長い杖があった。杖の頭には、敬虔な信徒として、煤んだ銀の鐘の意匠を模ったランプを提げている。
そんなヘンリエッタにメイが飛び掛からないよう、ヨハンは、背中でメイを押し止め続けていた。
「……メイさん。」
「……はい。」
「メルクリウス焚書官は、良くも悪くも規則を遵守します、から、アリス嬢に悪態こそ吐け、その身体を害することはないでしょう、ね。」
「はい。」
「そして、異端審問の期間を、延長できるような証拠も有り得ません、から、そのまま開放されるでしょう、ね。」
「はい。」
「その時に、暖かく、アリス嬢を迎えて、」
「存じております。」
「それは失礼いたしまし、た。」
とはいえ、ヨハンは異端審問自体には、一度も謝らなかった。それが、彼の職務であったからだ。
しかし、気丈に振る舞う人猫のメイが落ち着くまでの間、アリスの執務室に無残に積まれた書類をつまみ上げて、申し訳程度に整理するのであった。
「……これは、報告書にあった、被害者のリストです、か。」
やはり、残虐な所業の記録として存在したリストは、焚書の対象であったようだった。その一幕だけ切り取れば、違法奴隷として魂まで虐げられた者たちを見捨てさえすれば、清廉を保てるとでもいうような、齟齬を来したような違和感があった。
ヨハンは、焚書官としての責務を頭に浮かべ、やり切れない思いをポーカーフェイスに隠した。それでもリストを掴む手に力が籠り、縒れた紙束を、さらに歪めてしまっていた。
(初めからこんな事実がなけれ、ば、この世はどれほど美しいものでしょう、か。)
実際のところ、焚書官の仕事とは、歴史を綺麗に整えることに、等しかった。
~to be continued~