■scene 4-1■
■scene 4-1. 盲目の信者は幻想に縋るよりほか術を存ぜず■
教会に駆け込む者は、神々への救いなど求めていないことが多いことが、経験的に知られている。何か、吃緊に希求することがあって、縋る相手を思い浮かべて、駆け込むものだ。
「ヨハン様! ヨハン司祭は……はあっはあっ、いらっしゃいますか!」
真昼の教会。
中途半端な清浄魔術によって工業地帯のスモッグを浄化した、繁華街と歓楽街の狭間にあって、喧騒から離れた教会の礼拝堂。そこには、数名のシスターと若き助祭だけが見えた。やはり、日が高くある間に、この教会へ助けを求める者は少ないのだろう。
「メイさん? そんなに急いで、」
「アル助祭! ヨハン様は……っ!」
若きアルフレッド・サン=パトリツィア助祭は日課である祈りの途中の、突然の来訪に大きく驚くことなく対応して見せる。しかし、その言葉には、教会に度々足を運ぶメイへの、仄かな恋心が透けて聞こえるようだった。普段であれば、メイも、その匂いを嗅ぎ取って、それとなく遇ったものだ。しかし、今のメイにとっては、ただ、煩わしいだけだった。
常ならば、お着せのメイド服にシワの一つでもあれば、己の恥と慎む優秀なメイだ。おかっぱ頭の髪の毛も、いつもであれば、流れるように零れていて、ヘッドドレスがズレることなど、有り得なかった。
しかし、脂汗が前髪を額に張り付かせ、頭に土埃が着くことを厭わず、しかも、服が僅かに煤んでいて、靴には泥が跳ねていた。
明らかな、異常事態。
「私が――どうかしました、か?」
丁度よく、街の司祭としての顔の、ヨハンが現れる。
常ならば、彼も日課の祈りを捧げていただろう。しかし、先日の騒動から現在に至るまで、様々な対応に追われ、祈りを後回しにせざるを得ない状況にあった。
あれから数日も、経っていた。
「ああっ、ヨハン様…………よくも、よくもっ!!」
疲れの痕跡を上手く隠して折り目正しくいたヨハンに、疲れを隠すことなく僅かに――しかし決定的に――汚れの見えるメイは、駆け付けて掴み掛からんばかりに訴える。
「なぜ、お嬢様が異端審問にかけられているのですか! 今! こんなときに!」
「――はて。」
メイの怒りを受け、しかしヨハンが浮かべた表情は困惑だった。
「なぜ……でしょう、か。私は、何も聞かされては、いません、ね。」
「ですが現にお嬢様は、大司教の名の下に、連れて行かれて……っ!?」
メイは、官吏から渡された令状を、ヨハンに差し出した。
「……そんなことが。」
それは、ヨハンとしても晴天の霹靂だった。神罰の代行者である異端審問官の中で、帝都において最高位のヨハンが、帝都内での異端審問を関知していないということは、そう、あることではない。
(大司教猊下が、直接指示を出しているのです、ね。)
「!?!? なぜヨハン様が存じないのですか!?」
「――しかし、異端審問の本質を鑑みれば、不思議なことでは、ありません、ね。」
「なんですって!?」
その言葉は、到底メイが容認できるものではなかった。善良に暮らす貴族が、ただ隣人というだけで数日とはいえ、身体を拘束されて然るべきハズなどない。そういう当たり前の感情に、理不尽への激昂を重ねているのだった。
「――ああ、そういえば、これは、いけません、ね。」
「何が!?」
今にも、ヨハンから令状を取り返して、何処へと身を翻そうとしたメイだったが、しかし、ヨハンの言葉に動きを止める。
「この令状には、担当官の名が書かれていませんが、今ならば……メルクリウス焚書官、異端審問官ヘンリエッタ・メルクリウス助祭が応対するでしょう、か。しかし、彼女がアリス嬢の屋敷に入っては、間違いが起きてしまいそうです、ね。」
「ヘンリエッタ!? あのキチガイがっ!? どうして!?」
「ええ、ええ。しかしメイさん、言葉遣いが淑女では、ありません、ね。」
さしものヨハンとて、メイの率直な物言いに苦言を隠せなかった。
「そんなことは――」
そう言いかけて、メイは、アリスのメイドであるという事を思い出して。居住まいを正した。スカートの裾を叩いて落ち着いた。
「――いえ、しかし、どうしてあの女、いえ、メルクリウス焚書官が?」
「私が、数日後には、この帝都を離れるから、でしょうか?」
「――え?」
今度は、メイが驚く番であった。
「ともかく、アリス嬢の屋敷へと、向かいましょう、か。私としても、不本意なことが起きそうです、か。……アルフレッドさん、馬車を、回してくださいません、か。」
「はい!」
遠くで会話に耳を欹てていたアルフレッド助祭が、そのことを咎められたと気付かない笑顔で答えた。この、朗らかな応えに、メイも落胆を隠せず嘆息を漏らした。
直ぐに、駆け足が遠くなる。
「……前回の報告の後、猊下より私は、イェリンガ市方面への出張を、命ぜられまし、た。もちろん、今回の件で、奴隷が連れて来られた経路を、探るためです、ね。」
教会の裏に繋がれた馬と馬車――といっても、二人乗りの簡素なもの――の方へと、ヨハンとメイも足を向ける。
「しかし、屋敷を強襲した時点で、それを監視していた者が、いるハズです、から。」
「後から追うことは、意味がない、と?」
「ええ、ええ。ですから、あちらの方……中継都市コロナにいるリルケ助祭に、すでに連絡を入れているのでした、が。」
この世界、都市は魔物の襲撃に備えて強固な城壁に囲われ、開放された往来はなかった。もちろん、城壁内外への通行は記録されている。これを活用すれば、商団の人数などから、怪しい者を炙り出せた。
当然、奴隷商もそれを知っている。故に、下手に商団の人数を減らすことなど出来なかった。帝都へと運ぶ途中の違法奴隷は、どうにかして誤魔化すより他なかった。それでも、情報が有るのと無いのでは、差が大きい。ヨハンがリルケ助祭に依頼したことは、万が一、違法奴隷商がイェリンガ市へと引き返した際の、備えだった。
本命は、明日やって来る予定の商団。その中に潜む違法奴隷商を捕まえ、そしてイェリンガ市での拠点を白状させ、然る後、イェリンガ市へ赴いて、リルケ助祭などの助力を得て叩き潰す、というものだった。
「それで、数日中に帝都を離れる、と。」
「ええ、ですから、その間、私の代行としてメルクリウス助祭に引き継いでいたのですが、ね。」
すでに、アルフレッド助祭が申し出た御者働きを固辞し、アリス邸へと向かっている。道中、市場を抜ける大通りに差し掛かり、矢庭に喧騒に包まれた。
この二人乗り馬車は、傘こそあれ、オープンタイプのクーペであり、アリスが持つような大型のキャリッジタイプではなかった。それどころか、いまだに魔導蒸気機関すら搭載していない、旧型であった。
「……そういえば、メイさん。」
御者台に座ったヨハンが、後ろのメイに声をかける。
「喉は、渇きません、か?」
「は?」
この重要な時に、急いで戻るにしても、暢気なようなヨハンの問い掛けに一瞬、メイは混乱した。
「教会まで、走って来られて、そして、今まで一度も何も口にしていません、ね。」
「構いません。」
そもそも、メイドとしてアリスに侍る傍ら、飲食の自由など、メイ自身が、存在しないものだと考えていた。現に、今、喉の渇きを覚えていても、動作に支障が出るほどではなかった。
「ええ……なるほど。」
といって、馬車を停め、果汁の水割りを路上販売している者から2杯、ゴブレットにジュースを注いで貰った。それは僅か、鉄貨2枚であった。
「ヨハン様。」
当然、メイは咎めた。購入の場で苦言を呈さなかったのは、単に体面のためである。対してヨハンは――そんなことを意識していないだろうが――、ミドルエイジの妖しげな色気を流し目に乗せ、常に懐に忍ばせていた、今はジュースが注がれたゴブレットの中身を煽って、そして唇を舐めて口角を上げる。
「美しい恵です、ね。」
「今は!」
「メイさん。」
ぴしゃりと、静かで穏やかな声で、メイを御する。
「窮地に陥ったときほど優雅に、あらねばなりません、よ。それを、アリス嬢が先ほど、体現なさったでしょう、ね?」
「――っ。」
見ていたハズの無い出来事を、ピタリと言い当てた。確かにアリスは、理不尽かつ突然に来訪した官吏に抗うことなく、教会の馬車に優雅に乗って行った。
メイは、それを思い出して一息に、果汁の水割りを煽った。
「……不味い。」
それは、普段アリス邸で供される食物に比べずっと、質が劣っていたからだった。
そして、普段ヨハンが口にする食物と比べてもずっと、質が劣っていたのだった。
~to be continued~