■scene 1-1■
■scene 1-1. 齎されるは贖罪と容赦の慈悲■
工業地帯から飛ぶ粉塵の混じる埃っぽい風を受ける孤児院の裏庭で、破れた跡を何度も繕って原型を留めなくなったお下がりの服を、それでも、整えようとした努力が垣間見える着こなしの少女が、ヨハンに問いかける。
「ヨハン先生!」
「……どうか、しましたか?」
長身痩躯であること自体が、窮屈だと言わんばかりに折り畳んでしゃがんだヨハンの目線は、それでもなお、子らのそれより高かった。
「どうしたらいいか、わからないの……。」
教会の裏にある孤児院で暮らす少女は、神罰の代行者たる上級異端審問官に対して、お手本のような問いを真剣な眼差しで投げかける。それは、幼い時分に抱く最初の壁の一枚だった。
曰く、自我が目覚め、独占欲が強く出てしまった結果、皆が皆、特別を求めて起きた諍いを仲裁するために、どうすれば良いのか。
幼い少女は両対の手を精一杯に動かしていた。まだ訓練をしていないのだろう。
「……ああ、それは、ですね。こうすれば良いのです、よ。」
退魔師の表情を巧みに隠した柔和な笑顔。子らを、慈しむ姿は、ヨハンが敬謙なる神々の信徒たる側面を映し出している。
「誰も彼もが特別で在りたい。そして、誰にも彼にも公平であれ。……難しいでしょう、ね。だからこそ、誰かの特別を、共に祝うのです。」
「……??」
常の怜悧な表情を崩し、慈愛に満ちた眼差しと、子らを撫でる手の平。その温もりは、少女がヨハンに敬愛の眼差しを向けるのに十分だった。
「ちょうど、7人いますね。それぞれが、一日ずつ特別になれる日を、設けるのです。今日は、あなた。明日は、あの子。パンのひと欠けらでも多ければ、少し特別な気持ちになれるでしょう? 皆が皆、同じ理不尽を分け合うのではなく、それぞれの幸福を祝い、分け合うのです。」
「――! はいっ、ヨハン先生!」
「仲間を、隣人を愛すのです、よ?」
「はいっ。」
いまだ、人の手の温もりが残っている右手で、少女を撫でれば嬉しそうで、満足を隠せず相好を崩してしまう。
そんな暖かな日常の一時に、ヨハンは癒しを求めるのだろうか? 遠くから近付く馬車の音に、ヨハンの表情は引き締まっていく。
「――ああ。もう、行かなければなりません、ね。」
「あっ、じゃあ最後にもう一つだけ聞きたいことがあるの。」
「なんでしょう、か?」
「それでもワガママな子が、毎日特別じゃなきゃヤダって言ったら、どうすれば良いの?」
「……私、や、他の先生を頼りなさい。救いを求めることは、あなたの罪にはなりません、よ。」
少女を撫でる手は温かいまま、ヨハンの表情は確かに一瞬強張った。しかし、その些細な変化に少女は気づかない。
「私をお救いください?」
「よく、勉強しているのです、ね。……私から、院長先生にお話を、しておきましょう、か。」
「えへへ。」
少女を解放したヨハンは、そして門へと向かう。すでに外には豪奢な4頭立ての機械仕掛けの馬車が停まっており、二人いる従僕が台を置きドアを開けているところだった。後ろから蒸気を上げる馬車の中から出てきた黒髪のメイドのヘッドドレスには、白のレースに紛れることない赤いリボンが目立っていた。整った顔立ちの猫人族のメイド、吸血鬼の姫に仕えるメイだった。メイドの仕事を最優先したような、動きやすいおかっぱから覗く猫人族特有の耳先はしなやかに伸びて、吸血鬼アリスに仕えていることを誇りに思っているだろうことは明らかだった。
穏やかな表情で進むヨハンの胸中に渦巻いていたのは、しかし、激情だった。『それでもワガママな子が――、』先の童の言葉を明晰な頭脳で反芻する。
(本当ならば、聞き分けのない子には、お仕置きが必要です、ね。……ですが、ああ。こんなことではいけません、か。)
これからの仕事内容と重ね、平静でなくなっていた心を鎮めるヨハン。身嗜みを整え、そして最後に懐から取り出した櫛で髪の毛を撫で付けた。
その動作が、ヨハンの怜悧な切れ長の目の色気を、際立たせていた。
「お待ちしておりました。ヨハン様。お嬢様がお待ちです。」
「それは申し訳、ありませんでした、ね。」
メイドの皮肉に対するヨハンの、謝罪とも言えない謝罪の言葉をおかっぱ頭が受け取った。馬車へ上がる台の横で、頭を垂れたまま僅かにも面を上げないという、仮にも主人の客に対して礼節の欠片も持ち合わせていない態度だった。貴人と顔を合わせてはならないという類の仕来たりに則ったものではなく、家の品格が疑われるような攻撃的な行為であり、ヨハンを歓迎せざる客だと認識していることが見て取れた。
つまり、ヨハンに対する仕打ちは純粋にこのメイドがヨハンと顔を合わせる気がない事を告げていた。しかし、ヨハンは眉ひとつ動かさない。今に始まったことではなかったからだ。そんなメイの所作を余所に、ヨハンは6人乗りの大きな馬車へ入り、お嬢様――アリスの隣に間を一つ設けて腰掛けた。
そう。アリスもまた、ヨハンを歓迎してなどいなかった。ホストであるアリスが、ヨハンの対面ではなく横に座ったままということは、つまりアリスにはヨハンを持て成す意思が、まるでないということである。その態度にさえヨハンは何事もなかったかのように振舞っていた。続いてメイも乗り込んで、御者台に背を向ける形で柔らかな席に着くと間もなく、馬車が重そうに動き出した。
工業地帯を大きく迂回して、目的地へと向かうのだろう。
「……気が重くなるような、いい天気ね。妾は大嫌いだわ。――太陽なんて。」
この世に生を受けたすべての少女が夢見るような、たっぷりのフリルが配われた真紅のドレスに身を包み、カーテンの隙間から外を眺めていた美少女が振り向きながら言葉を紡いだ。自慢の髪の毛を惜しげもなく主張するようなツイテールは揺れ、チェリーを想わせる唇は艶めき、そしてドレスより深い紅の眼がヨハンを真っ直ぐ見据えた。
「……天上の神々を、冒涜するかのようです、ね。」
「そういう意味じゃないわ。ただ、吸血鬼は目が良いでしょう?」
「明るすぎるのです、か。」
「そういうことよ。」
採光用の窓は硝子ではなく雲母が用いられ、車内は薄暗かった。しかも、追い風が吹いたのか、蒸気が前に煽られて、水滴が景色を濁している。馬車は街端の教会からずっと、石畳の凹凸が酷い道を進んでいるというのに、揺れは少ない。他にも何か色々と仕掛けがあるのだろう。その中で、吸血鬼の姫たるアリスと異端審問官であるヨハンが談笑しているのだから、ゾッとするような光景であった。
「……それ、で。アリス嬢がここに来たということは、彼らの尻尾を掴んだのでしょう、か?」
「せっかちね。もう少し噂話を楽しむ余裕は無いのかしら? これだから教会の人間は嫌だわ。」
「我々は、救いが必要な弱き者ですから、ね。」
「いいわ。どうせ、これから乗り込むのだから、少しくらい情報を渡すわ。」
「ええ、助かります。」
アリスの視線の意図を受け取ったメイが、嫌々ながらも渋々といった気配を悪びれもせずに出しながら、後に処分しやすい書類の束をヨハンに渡した。ヨハンには燭台かガスランプでも欲しいところではあったが、そんな不満を億尾にも出さずに読み進めた。
「……これは、奴隷、ですか。」
「そう、奴隷。といってもただの奴隷じゃないから問題なの。」
そこに記載されていた調査結果には、およそ尊厳を微塵も守っていない、口に出すことも憚られるような地下牢での出来事の数々と、その犠牲者についての生々しい現状がありありと綴られていた。調査書を作成した者の精神さえ侵したのではないか、と思われるほど凄惨で冒涜的な行為、その内容には誰でも吐き気を催すだろう。
思わず、ヨハンは握りつぶしそうになったものの、この調査書も報告書に沿えて提出する資料であることを思い返して、留まった。
「いるのよ。こういう……力を授かった、だなんて勘違いして妾たちさえ怒らせるような、本当の愚物が。」
「ええ、実に、実に、愚かです、ね。」
「妾が言うことでもないのだけれど、言うわ。この件に関して、妾たち隣人は一切の報復を行わない、と。」
「ええ、ええ。隣人の方々も、怒り心頭でしょう、ね。」
静かな怒りを湛える異端審問官ヨハンと吸血鬼アリスを、真正面に向かえる猫人族メイドのメイは、しかし、内心で溜め息を漏らした。ヨハンとの仕事は、隣人の取り締まりが主で、ほとんどがその粛清であった。ゆえに、アリスは知りたくもない他人の穢れた内面を直視しなければならず、怨嗟の沼を掻きわけるような仕事をこなさなければ、ならなかった。
それが、メイには堪え難かった。だからこそ、隣人たちを取り締まる仕事を持ち込むヨハンを敵視するという、幼さを隠せないでいた。
一見すると、極めて冷静に進んだ会話も途切れたころ、馬車が貴族街の端に建てられた、真新しい屋敷の前に停まった。
件の愚物が住まうという屋敷の正門前であった。
~to be continued~