■scene 4-6■
■scene 4-6. 盲目の信者は幻想に縋るよりほか術を存ぜず■
ヨハンは適当だと思われる会話の区切れを見逃さず、ザルトリアス大司教の執務室を辞する。
執務室の前室には、大司教付きの見習いが先の手紙を持っていた。反対の机では、幾人かの修道士やそれをまとめる助祭が某かの机仕事をしていた。
その勤勉な姿にヨハンは、フッと笑みを浮かべ、次の瞬間には折り目正しく前に視線を固めて、自身の行く末、進むべき道、そしてその間の困難を見通しながら、それでも強く進む退魔師の孤高を思わせるかのように、歩を進めた。
その姿を盗み見ていた者たちから、溜め息が漏れた。
その恍惚は、修道士のひとりがヨハンのために扉を開けて、そして扉が閉まるまで続いた。
外の廊下で、ヨハンは思案していた。
ザルトリアス大司教の言葉と姿の乖離に、違和感を覚えていた。
(ミーシャ・ロウが、仮に偶発的に攫われたのではないとするならば、下手人の動機は何、でしょう、か。誰の指示なの、でしょう、か。そして、どんな目的がある、というのでしょう、か。)
右手に握った舌のない銀の鐘を握り締め、そして弄ぶ。何気なく、何かを弄っていると良案が浮かぶこともある。
そしてまた、そういった物思いに耽る間に、誰かと出会うこともあった。
その声は、少年のように張りがあり、尚且つ落ち着いて聞こえるという矛盾を孕んでいた。
「……これは、これはヨハン司祭ではないですか。」
白い髭をたっぷりと讃えた好々爺。教皇庁の図書館長、ケイマン大司教であった。
「ケイマン大司教猊下。」
「いえいえ、私に猊下など滅相もない。」
ケイマン大司教は、叡智の化身を信奉する図書館派の頂点であり、教会内でも屈指の知識人である。ザルトリアス大司教の、高齢者特有の衰えて肉の付いた姿と比べ、頬こそ弛んでいるものの、適度に痩せた姿は、知性を重んじる図書館派のトップとして申し分なかった。
「ヨハン司祭猊下こそ、大司教区には……ああ、ザルトリアス大司教に報告でしたか。」
「ええ、ええ。」
「それで、これからまたどこかへ?」
「私も忙しい身です、から。」
「なんとなんと、いえ私も執務室でなければならない色々を済ませたら、また図書館へ向かおうと思っているところです。ああ、猊下がいらしたらつまらない仕事の前に喫茶を楽しめるかと。」
かつて、教会が組織として形作られる前、神々を讃える神官は二人いた。それぞれがそれぞれの権能で以って神の僕として仕えていた。
現在、片方は教皇として表面上、教会組織の頂点に君臨している。
そしてもう片方は当時の呼び名、司祭の名前のまま異端審問官の頂点として、表面上はザルトリアス大司教下の内部監査部門長として本来の身分を偽っている。
その無名の事実を、ケイマン大司教は知っていた。
ヨハンの本来の権限は教皇に並ぶ。そのことをケイマン大司教は知っていた。しかしそれは、ザルトリアス大司教ですら知らない事実であった。
純粋に、異端審問官として教皇ですら異端審問を行うことが出来るという権能を除けば、ヨハンの振るえる権能の範囲は狭く、教会組織そのものを揺るがすような事実ではなかったからだった。
そう。
通常、大司教ほどの立場の者が異端審問にかけられる事など、有り得ないのであった。
「それは、またの機会に、でも。」
「ええ、はい。心よりお待ちしておりますよ、猊下。」
そして、ヨハンたち異端審問官も教会内での権威になど、興味がなかった。それゆえに異端審問官足り得るのかもしれなかった。
「それでは私はこれで。」
「ええ、ええ。」
その言葉を背に、去っていくケイマン大司教の足取りは、心なしか軽そうに見えた。
廊下での暫しの立ち話の後、ヨハンが次に向かったのは教皇庁の地下、異端審問官の詰め所であった。ヨハンの机には、ありとあらゆる異端の証拠が散らばっており、ゆえに地下でなければその存在を隠しておくことも難しかっただろう。
(そういえば、アリス嬢は、いかがお過ごしでしょう、か。)
すでに、吸血鬼の姫たるアリスが教皇庁の隣、教会の地下に囚われて数日が経っていた。ヨハンは、異端審問官であるがゆえに独自に捜査を進めていたために、アリスの異端審問は他の者が行っているハズであった。
ヨハンは、詰め所の金庫から『迷い子の呼び鈴』と呼ばれる魔道具を取り出して懐に仕舞っていた。いずれ、それを使うこともあるだろうという予感が、あった。
そして、わずかに考え疲れたかのように、椅子を軋ませて体を楽にしていた。
「あらぁ……。これはこれは司祭ヨハネス・コルネリウス上級異端審問官さまじゃ、ないですかぁ。」
「……メルクリウス焚書官です、か。」
そんな折、ヘンリエッタ・メルクリウス焚書官が、詰め所よりもさらに地下階から上がってきた。布で、汗を落とすも次から次へと浮かぶために、どうしようもないと諦めた困り顔であるのに、その瞳の奈落よりも深くて恐ろし気な雰囲気は、隠せていなかった。
しかし、それでもメルクリウス焚書官が現れて以来、鼻腔から他のすべての香を押し出すほど強い、女が発情したようなクリームの甘い匂いが、風通しの悪い地下階に充満した。
メルクリウス焚書官が、自身の職権でもって地下階のワンフロアをすべて占領し、毎晩、拷問器具で自身を戒めるために澱んだ匂いだった。地下階をワンフロア鎖したのは、行為の最中の嬌声が、漏れ出て聞こえないようにいくつもの扉が必要だった、ということもあった。
ともかく、この雄の本能を弥が上にも奮い起たせる香に、眉根ひとつ動かさないのはヨハンだけである。
「はぁい。」
(そういえば、メルクリウス焚書官は、あの膨大な書類の山を、ほとんどすべて仕分けていたのでした、ね。)
「――ひとつ、訊ねたいことが、あるのです、が。」
詰め所、その執務室の明かりを見て立ち寄っただけのメルクリウス焚書官はすでに背中を晒して立ち去るところであった。
その足が止まり、振り向く。
「なんでしょうかぁ??」
「いえ、この前、アリス嬢の屋敷で仕分けしていた、書類のことなのです、が。」
「はぁい。」
「……例えば、商人か、何かを暗に示したような物で、そうです、ね。屋敷に食材を卸していた御用商人か何かの、そう……メモか、何かの書き付けなどは、ありませんでした、か?」
メルクリウス焚書官は漆黒の瞳をより深く揺らめかせ、不気味なほど不均衡な笑みを浮かべる。まるで、口の所に三日月の裂け目を入れたかのようであった。
そして、先よりもさらに女の匂いを撒き散らして、軽やかにステップを踏むようにヨハンに近づいて、そしてヨハンの机に手を突いて告げる。
その姿勢は、まるで興奮を抑えられない幼子のように無邪気なものだった。しかし、汗で身体に張り付いた祭服が、自らを戒めるために小さなサイズの仕立てであったから、メルクリウス焚書官の身体の官能を、より際立たせているだけであり、それゆえまるで、閨に誘われているかのような錯覚を覚えるようでもあった。
「私が、未だ仕分けていない中にありましたかしらぁ??」
「なるほど。」
「私は焚書官ですからぁ。」
権限の範疇でないことに対し、自己判断での口外を一切許さないがゆえの報告の怠慢。しかし、権限の範疇でメルクリウス焚書官も仕事をしていた。
後ろ手に提げるのは、身の丈ほどもある杖であり、その先端に銀の鐘を模ったランプが揺れる。
真に重要なものは、パーティの招待客名簿などはない。残されたそれらが目眩ましや時間稼ぎの類であることは間違いない。それがいかに小物でも、事実、罰しなければならない対象であることに代わりがない。しかし、根本を断てる資料でなければ、次の事件までの潜伏期間を与えるだけである。
件の違法奴隷商は、新興貴族のようなものであった。ならば、その御用商人も新顔だらけであるハズで、つまり、御用商人を口利きした人物がいるハズである。その人物を仲介した別の人物も、その御用商人と繋がっているのであるのは間違いない。
「それではヨハンさまぁ。私はこれでぇ。」
と、今度こそ、煽情的な女の肢体のシルエットや、張り付いた服のシワが崩れて行く様を惜し気もなく無防備に晒してヘンリエッタ・メルクリウス焚書官は再度、地下階へ戻っていく。また、自身を痛め付けるためだろう。
(私は……病院へ、行きましょうか、ね。)
体に纏わり付く匂いを払うような仕種は、やはりヨハンといえどもメルクリウス焚書官のフェロモンに、何らかの情動があったのだろうか。
すでに、外はふたつ目の月が昇り始めていた。
宵である。
面会時間の限界が迫っていた。
さて、教会組織の収入源は喜捨、病院の収入、国からの助成が主である。貴族などが大口の喜捨をし、ザルトリアス大司教などが、ある種の後見を得ている状態になる。一方、国からの助成は、慈善事業や知識の探究、もしくは国防のための助言などによっての対価としての意味合いが強い。この、知識の探究の頂点がケイマン大司教であった。
残る収入源のひとつ、教会による病院事業の総本山が、教皇庁から程近い病院であった。
先の地獄から救い出された者たちが隔離されていた。
精神的な回復が見込めない者も多かった。
ヨハンは、その中でも比較的に応対が可能な娘に、面会を求めた。年頃の娘の雰囲気は、名家の出であることを思わせた。
「私は、ヨハネス・コルネリアスと、申します、ね。」
冷たい風貌のヨハンは、それでも柔和に見えるよう、柔らかな笑顔を浮かべていた。
「神父さま?」
「はい。」
彼我の距離は、ある種の詰めがたい雰囲気で以って、2歩ほど離れていた。ヨハンは、自身が長身であることを知っている。そして、すでに宵である。
ゆえに、速やかに軽やかに、手近な椅子を引き寄せて、何事もないというふうに座ってみせた。
「神父さま……は、あのとき、助けてくださった……?」
「ええ、はい。私です、よ。」
しかし、ぎこちない雰囲気は、娘がヨハンを認識するに至って、ある種の信頼へと傾いた。
「神父さま。」
「はい。」
「少し、見苦しい姿、を、お見せ、っ、いたし、ます。」
娘が独りで悲しむことが無いように、直ぐにヨハンは娘が泣き止むまで胸を貸し、そして落ち着いた頃、何事も無かったかのように柔らかな声で娘に訊ねた。
「ひとつ、お聞きしたいことが、あるのです、よ。」
「はい。神父さま。」
「ザルトリア……いえ、ツァーリという名前に、」
「ツァーリ!?」
「知っているのです、か?」
「はい、はい……っ!!」
娘はまた、大粒の涙を零した。
「その名前は、あの子が、あの、、、ミーシャが何度も何度も何度も叫んだ、名前です。」
その記憶は、封印したいものだろう。しかし娘は目の前の神父の役に立つならば、と、気丈にも感情を抑えて努めて平坦に語った。
「私たちの中で、ミーシャが一番ひどいことをされました。……っ、」
「言わなくても良いのです、よ。」
「ありがとう、ございます。……でも、でもっ! その間にも、いつでもミーシャは『ツァーリさま!』『ツァーリさまぁ!』と何度も何度もその方の名前を叫んでいて、、、あるとき、私、訊ねたんです。『ツァーリさま?』って? って。そうしたらあの子は『私の光、私の支え、私のすべて。』だなんてツァーリさまが助けに来てくれるって、疑いもせずに、最期の一瞬まで、声が小さくなっていく中でずっと、譫言みたいにツァーリさまの名前を……っ!!」
それは、凄絶な告白だった。しかし、続く言葉にヨハンは絶句する。
「ねえ、神父さま? 私、汚れているんです。元から淫乱なんですって。だって、あの子が穢されていく間に私たちは、あの子のようになりたくなければ誠心誠意ご奉仕しろだなんて悍ましいモノを愛したの、」
「もう、良いのです。」
「でも神父さま? 男女の交わりは、神様たちも祝福することで、私たちは自らの意志であの子に苦しみを、」
「それ以上は、いけません。」
ヨハンは自身の表情が固くなっていることを自覚して、そしてその顔を見られたくなくて娘を胸に抱いた。
「神父さま? 神父さまも愛を知っているのでしょう?? だって、こんなにも愛の香を纏っていらっしゃいます。」
それはおそらく、メルクリウス焚書官の濃すぎる事後のような匂いが移っていたためだろう。
「私、舌が上手だって言われるのですよ?」
ヨハンは、救いとは何かと迫られていた。
この娘にとっては、死こそが救済なのではないかと思える。実際に、破壊と破滅こそが救済であるという教義もある。ああ、死とは、生の形を変えるだけであるという教義によって、ヨハンは上手く答えを出すことが出来なかった。
しかし。
それでも娘が娘のままであることは、不幸であることは間違いない。
娘が不安に思う、家族や社会からの爪弾き。その膨大な将来の圧迫感を慰めるために、ヨハンは唯ひとつの誘いを投げかけた。
「この世の中に藻掻いて、どうすることも出来なくなれば、私たち異端審問官が歓迎いたします、よ。愛も、春も、この世のすべてを信じること、が、出来なくて。この世のすべてを憎むとして、も。それでも人のままでありたいなら、ば、頼りなさい。」
「神父さま?」
「助けます。我々は、あなたを受け入れます、から。」
それが、ヨハン司祭という、神の従僕の愛であった。
下賤な男が、娘に投げかけるような劣情ではない、博愛の情であった。
「……ごめんなさい。ごめんなさい、ごめんなさい。」
その先は、言葉にならなかったために、ヨハンは落ち着くまで今一度、娘に胸を貸し続けた。
ゆえに深夜。
月夜である。
ヨハンは病院から徒歩で帰っていた。すでに教会の者を遣わせて馬車を帰らせてあった。馬は、夜道であっても走らせることができた。しかし、ヨハンはある種の予感があった。
そういった予感というものは、概して当たるものだ。
「よう、こんばんは。……ヨハン司祭だな?」
5人。
「ええ、ええ。……また、私の首の賞金でも、上がりました、か?」
「よくわかってるじゃないか。」
これである。
異端審問官という職業柄、ヨハンらは暗殺者など、裏社会の住人からの襲撃も多かった。
「ええ、先日。またひとつ、あなた方に不利益を齎しました、から。」
「それも、飛びっ切りの、な。」
この暗殺者は間抜けではなかった。
暗殺のイロハを知らなくとも、襲撃対象に話し掛けることがどれほど愚かなことか、わかるだろう。それだけを切り取れば、やはりこの暗殺者は間抜け以外の何者でも無い。
しかし、これまでもヨハンがそういった暗殺者たちの凶刃を退け、生き残り続けている例を鑑みれば、ただ潜むだけが能ではないと気付く。
殺し屋には、暗殺者の他にも壊し屋や賞金稼ぎなど、様々な兵科の者がいる。
そう、役割を増やし、戦略を練り上げ、用意周到に場所を決め、味方を犠牲にして、虚を突くより他に、すでに取れる策という策が残されていなかった。
それほどまでに、退魔師ヨハネス・コルネリアス上級異端審問官という男は、強かった。
「さて、御託はよろしい、でしょう、か。」
「ああ、……と、そうだな、いつも言われてる事だろうが、俺にも言わせてもらおう。」
「どうぞ。」
すでにヨハンの裏社会での賞金額は、一族五代以上が遊んで暮らせるほどだという。
暗殺者の男は、優雅な動作で懐に忍ばせた得物、一見するとただの短刀に見えるそれを取り出した。
「今日がお前の命日だ……良かったな、明日から背中に意識を向けなくて良くなるぞ。」
「それは、それは。どうもご丁寧、に。」
ヨハンは、言葉の間にも優雅に左手の手袋を取って、ポケットに仕舞う。続いて左手を軽く振ると、カシュン、と小気味良い機械仕掛けの作動音とともに、折り畳まれた戦嘴が展開されていく。
「ありがとうございます、ね。」
最後、小型並列7気筒魔導蒸気機関が白煙を排出して取回しの良いところに重心を動かして、展開を終えた。
「……なんだ、ご自慢の爪、左手のそれは、使わねえってのか。舐められたモンだな。」
「いえいえ、人の体を裂くには、この爪ではあまりに、も、過剰なものです、から。」
ゆえに、ヨハンは左手の爪は展開しなかった。
確かにヨハンの武力を語る上で、爪を除くことは出来ないだろう。しかし、ヨハンが今の今まで怜悧な風貌に傷ひとつなく過ごせた最大の理由は、その攻撃力ではない。
狂犬と言われるほどの、機動力と瞬発力である。
手が付けられないと思わせる、速度なのである。
ゆえに。
「――っっ!!??」
「がっ、あっ!」
眼前のヨハンが消えたと思った次の瞬間、ヨハンを隠れて囲っていたひとりが、通りに投げ出され地面に伸びていた。その呻き声の数瞬前、声と重なるように何かのギミックが作動したような機械音があった気がした。
ヨハンと語らった暗殺者が認識出来たことのすべてがこれだ。
「降参します、か?」
遅れて現れたヨハン司祭は、道で伸びる男を蹴り転がした。
その右足から微かに蒸気が漏れていて、暗殺者は、これがヨハンの機動力の高さの源だと認識を改める。情報の通り、超常の域に達しているからこそ、超常の存在と渡り得るのだ。
「なぜ?」
ならば、4人になった暗殺者たちも、相応の行動を取るまでだった。
それは、狂化魔術の一種であった。
全身に広がる紋様は、人を、何者でもない者を、何者かに堕とす魔術紋様である。人を、魔族へと変じる者である。
それは、ひと目見てヨハンにもわかった。
ゆえに。
「――いけません、ね。」
ひとり、変じ切る前に頭部を潰され、吹き飛ばされた。ヨハンが戦嘴の裏、金鎚になっている部分で、高速のままの威力を乗せて、振り切った結果であった。
しかし、その者がいたのは建物の屋根の上であった。右足では蹴り抜いてしまう恐れがあり、ヨハンは常人の速度で駆けて降りたが、当然他には間に合わなかった。
「ちっ。それだけの速度で、おつむがまともに働くたぁ、薬でもやってんのか?」
ヨハンと語っていた男は、地面に転がっていた男を片手で持ち上げ、盾としていた。先はそれゆえに、ヨハンは攻撃をしなかったのだった。
「日々の研鑽があれば、こそ。」
ヨハンは、静かに怒気を高めていた。
異端審問官は日常を脅かすすべての超常から、すべての者を護る盾である。すべての隣人が、異端の力を持つからといって、それを行使するか否かは、各人の良識に因る。
つまるところ異端とは、意志である。
それを暗殺者たちは踏みにじる。そも、狂化魔術こそが、魔術の研究成果の悪用である。人になりたかった隣人が、その研究過程で逆に人を隣人へと変じる術を発見し、何者かが悪用方法を広めたために名付けられた悲劇なのである。
そういった、正しき人の感情の歴史を想うからこそ、ヨハンは異端を厭うのだ。
「『しかし、我が主はお救いになるだろう。青き剣の輝きの威光をもて、かの暴龍を諌めんと果てより来る使者に鐘の音を齎すのだろう。』」
「あ?」
「『従者三人と黄金の風をもて、弥栄を寿ぐのだ。行く末を照らすには、未だか細い灯と知って、鐘の音を残すのだろう。』」
「なんだって言うんだ!」
静かに、そして確かに何かの準備を終えて、ヨハンは眼光を鋭くした。
口から漏れる言葉は、聖書の断片である。
「『そしてまた、破壊と破滅の結晶は、閉じたる環の中で永遠を寿ぐ。与えられる者は、幸である。求める者は、幸である。』」
「うるせえよ畜生め!」
激昂した男が、ぐったりと気絶する肉の盾を捨て、土を蹴った。
暗殺者の男の動態視力は、先と比べものにならないほど上がり、そして体の動きも素早さに順応していた。
それでもやはり。
「『救済を。』」
「か゜?」
ヨハンには敵わなかった。
多くを語った男も、物言わぬ肉となって果てた。
「『我が主の望むものは、安らかな眠りである。』」
「ぐあっ!」
次に狙われたのは、路地裏から出てきた男であった。
それもやはり、一撃。
「あっ、あっ。」
最後のひとり。それは女であった。暗殺者というよりは、狩人や斥候、盗賊と言った方が当てはまる風体の、しなやかな身体付きの女であった。
しかし、全身には赤い魔術紋様が広がり、しかも、それは手の施しようの無い状態であった。
いや、ただひとつあった。ゆえにヨハンは殺すのだろう。
「『主は――、』」
「神父さま!」
それは、敗北を悟ったからだろうか。命請いだろうか。
「お救いください! 神父さま!」
「――はい。」
鋭く、真っ直ぐに突き刺すほどの眼光に、人の温かみが戻った。
「わ、私は、、、このように死にたく、ありません。」
「はい。」
女は、すでに戦意が無くなっていた。
傍らには頭を潰された死体がいくつか。
「行くも、帰るも死、です、から。」
「はい。」
「神父さまに、死を、いただき、たく、て。」
本能が、心を折ってしまったのだろう。女は本当に、一瞬で生のすべてを放棄して、懺悔を始めていた。
「はい。」
「勝手なこと、です、から、神父さま、」
言いながら、女は武器をすべて落とし、素顔を露わにし、そして、上半身の素肌を晒した。
「痛みを、ください。」
女は、異端審問官が行える秘蹟を求めた。
それは、生きたまま心臓を抉り出され、血管が繋がったまま一切の罪を浄化する炎で焼く姿を、死に行く中で見つめるというものであった。
それは、あまりにも自分本意な懺悔であった。
しかし、ヨハンが異端審問官として、職務を全うするならば、その声を無下にすることなど出来ようハズがなかった。
「わかりまし、た。」
ヨハンとて、件の違法奴隷商と眼前の女を同一視することが罪であると認識している。この者は、金に目が眩んだ善良なる殉教者であるのだ、と、いつも自身に言い聞かせている。
ヨハンは、左腕を真下に伸ばした。直後、腕にまで収納されていた爪が真っ直ぐ落ちてくる。
ヨハンの仕込み爪は、肘や手首などの可動部に支障がないように、多段式であった。爪にも関節があって動くというそれは、引き裂くときしなやかに曲がる為ではない。
今回のように、異端者を殉教者として、身動きが取れなくするための、檻である。
左腕、一本ほどもある長さの爪がパックリと開いて、そして胸を晒した女を掴んだ。
そして、義手の手の平から真っ直ぐ杭が伸びて、女の胸の間の肌を割いて、華やいだ。
「あ……あ゛。」
そのまま胸の間の骨を開いて、心臓を抉った。
「う゛っあ゛あ゛っ。」
その身体の痛みは、魔族化で和らいだとしても、激痛であっただろう。
「あ゛……あ゛……。」
声にもならぬ声を上げ、そして燃やされる。
最期まで、女は抵抗らしい抵抗をしなかった。
こうして、女は殉教した。
「はあ。」
身体まですべて焼き切って、灰を小瓶に集めて、そしてヨハンは溜め息をひとつ漏らした。やる瀬ない思いというものが、少しだけ浮かんでそして消えた。
灰色の街で、ヨハンは息苦しそうであった。その苦痛は、無常からくるのだろうか。
静かな夜、ヨハンは白い手袋でまた、義手の武骨な姿を隠した。
ひとり残った暗殺者を、警邏の者に突き出せば、それでお終いである。この者から辿れる程度も知れたものだ。
仕方なしに魔道具で連絡を取って、しかし、ヨハンはサン=パトリツィア教会へと帰っていた。
「ああ、私、も、修行が足りません、ね。」
ヨハンはひとり、自身の無力さを嘆いていた。それは、ややもすれば傲慢とも思えるほどの、悩みであった。
月夜。
ヨハンは、サン=パトリツィア教会の屋根の鐘の近く、意匠を凝らした窓の側に背中を預けて退魔の薬効のあるハーブを練り込んだ、煙草を燻らせていた。
「ヨハン司祭。」
それは、教会の人間の声音ではなかった。
教会の暗部の者の声である。異端審問官の中でも特に暗い仕事をこなす者の声であった。
所属は退魔師である。ただ、それだけのことである。
「はい。」
ヨハンは、密かに放っていた影の者の報告に耳を傾け、そして、帝都の安寧を願った。
「永久を。」
それを願わずにはいられなかった夜であった。
~to be continued~
最後の場面が、ウニさんからもらったFAの様子になります。







