■scene ?■
本作の略称は「黒舞」でお願いします!
■scene ?. 咎人に鬻ぐ祝福の鐘の音■
それは、鐘の音だった。
かつて十三騎士は、神々の鳴らした鐘の音に集ったという。以来、鐘の音は神々の福音として、教会が民に時を知らせ、魔を払う象徴として管理されている。
「こんな、地下にさえ……神々は祝福を与え給うのです、ね。」
穏やかで、低いバリトンの声。
長身痩躯の上級異端審問官、ヨハン。現役の退魔師として最高位の司祭を拝命する彼の、螺旋階段を下る音が谺する。
シルバーブロンドをポマードで撫でつけたオールバック、怜悧な印象の風貌、気難しそうな視線を際立たせる丸眼鏡、折り目正しい祭服から覗く機械仕掛けの左手の義手という出で立ち。そして、その左手には神々の言葉や、それを聞いた者の声を集めた聖書が提げられていた。見たところ、齢は知命を迎えるあたりか。
白熱灯がジリジリと雑音を作る、地の底へと続く階段は『煩悶の徒花』と呼ばれ、下る者にも上がる者にも等しく祝福を与えるという。曰く、「靴音の残響に、虚無への問いを積み重ねた先に、何もないと気づくための螺旋回廊である」と。それが祝福であるという。
その地の底に、吸血鬼の姫が囚われていた。
「……あら、遅かったじゃない? ずいぶんと遠くから、その蒸気の音が聞こえていたのね。」
鈴を転がしたような声音。
ティーカップをソーサーに置く際に音を立てないのは、さすが貴族、といった風情か。
吸血鬼、アリス。真昼のように明るい独房で、プライバシーを剥奪された姫。漆黒の長髪は、鴉の濡れ羽色に艶めいて、白磁の肌と上気した頬を可憐に演出する。齢十四、五と言われれば誰もが頷くだろうことは、想像に難くない。しかし、アリスは人が、魔が差して成り果てた吸血鬼の真祖であった。
その、絶望の上で哄笑する狂喜の姫君は、しかし、獄に繋がれている。聖句の刻まれた鉄格子は、魔族を閉じ込めるのに十全に機能していた。錬金術学の粋を集めて作られたそれは、アリスをかくも美しく閉じ込める専用の舞台装置のようでさえあった。鉄格子によって牢屋の中が見通せなければ、貴族の屋敷の一室と誤解してしまうような内装だった。
「私も、仕事は多いのでね。……タバコを吸っても?」
「止めていただけないかしら? 外と異なり、ここでは煙が篭ってしまうでしょう?」
「――これは配慮が足りませんでした、ね。普段のアリス嬢は、気にされてなかったものですから。」
咥えかけたタバコをケースへと仕舞いながら、疲れたような表情を浮かべるヨハン。心なしか、首にかかった司祭の帯も草臥れて見える。
「あら? 普段から大嫌いよ、あの臭い。ただ、それを吸う理由を知っているし、それに、外なら口煩くするなんて、はしたないじゃない?」
ヨハンの吸うタバコには退魔に効果的なハーブが練り込められ、そして聖別されている。
「……それで? ヨハンがただ、妾に会うためだけにこんなところまで、時を食いつぶしにいらっしゃるとは考えられないの。」
「いつもながら察しが良くて助かりますね。……これを――」
懐から取り出したのは、真鍮で出来たハンドベルだった。シンプルなシルエットながら、表面に彫られた意匠は華やか。春を思わせる草花が軽やかに配われており、魔術的な文様と装飾美を両立していた。
「――届けに。」
「『迷い子の呼び鈴』? ――まあ、高かったのではなくて?」
「始めに訊くのが、これの値段とは。」
「あら? それも聖別されているのでしょう? この牢の束縛は、すり抜けて当然ではないかしら?」
「ご存知……で、しょうね。」
「ええ、存分に。」
この場に、アリスのメイドはいなかった。故に、その呼び鈴を受け取る者も、届ける者も存在しない。しかしてアリスは貴族の矜持から、動くことをしなかった。常ならばメイドのメイが受け取りに来るために、ヨハンは待ちぼうけを食らったかのような、ぎこちない沈黙を経て、頭を振って、そして鉄格子近くの台に、それを置いた。
アリスは、ティーカップから昇る香りを楽しむばかりで、まるで「去れ。」と言わんばかり。その態度に何かを感じたか、ヨハンは嘆息を一つ漏らして立ち去った。
(アリス嬢も、存外に、疲弊しているのかも……知れませんね。)
『煩悶の徒花』を上がるヨハンの脳裡に、先のアリスの姿が浮かぶ。振る舞いこそ普段のアリスと変わらないようでもあったが、決定的に異なる部分があった。
ご自慢のツインテールが、見当たらなかった。
(世話をする者がなく、何も口にせずとも死なぬ。情けとばかりに、ひとつ水瓶あるだけなのです、ね。……確かにアリス嬢の魅了を怖れたとして、これは人の為すべき業に非ず。)
『煩悶の徒花』。上る者にも下る者にも等しく思索を促す螺旋階段。
(ただ、時を告げる鐘の音によってのみ知らされる日の移ろいに……アリス嬢は何を思うの、で、しょうね。あの香。香り袋のハーブティーを戻して、香だけを楽しんでいたのでしょう、か。)
その問いは虚空へと投げかけられ、消えていった。
(いけません、ね。この螺旋では、いつも益体のない事を考えてしいます、ね。)
これから大司教猊下に謁見する予定を入れているヨハンは、懐から取り出した櫛で、髪の毛を撫で付ける。まるで、アリスの様子を思い出し、自ら慎むために行っている様な、極めて機械的な動作であった。
「リンゴーラ・リンゴーロ・リンゴール。」
地下牢から上がった先に、重厚な扉が待っていた。地下世界を異界と見做していた時代に、魔を封じるために用意した、重苦しい装飾が施された扉だった。その門扉を開けた先は、倉庫のような空間で、そしてその先は大聖堂へと繋がっている。
神々の偶像の前を通り過ぎることなど出来ないヨハンは、「神々が齎した鐘の音を聞いた者が伝えた、その音色」を表す祈りの言葉を捧げた。当然、敬謙な信徒がするように、頭を垂れながら左手は胸に、右手は鐘を鳴らすかのように前へ差し出して祈る。ただの信徒と異なるのは、実際に彼が、右手に鐘を提げているところだろう。それは、ヨハンが常より首にかけている、舌のない銀の鐘だった。
「救済を・繁栄を・永久を。」
古来より、鐘の音を鬻ぐ者とは聖職者を指し示し、道標を齎す象徴としてステンドグラスにも画かれている。ヨハンもまた、敬謙な信徒として、斯くあれかしと祈りを捧げていた。
~to be continued~
本作は、タヌキさんが描かれた↓のイラストと、その設定を原案に書き上げたものになります。