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5 紅葉

 鎌倉の紅葉は遅い。十一月終盤に染まり始めたカエデなどの葉が方々の谷や寺の境内を鮮やかに彩り盛りを迎えたのは、十二月に入ってからだった。


 円覚寺前には今日も駅から降りた大勢の人が行きかっている。山門前の階段下から頭上を見上げる愛桜衣は、何度も感嘆の声をため息とともに漏らした。

「すごいね! 綺麗だね」


 階段の左右から覆いかぶさるカエデの枝々。その小さな手のひらのような葉たちがみな鮮やかな紅色に染め上げられ、さらに上の木々の間から注ぎこむ陽光を透かして淡く光っている。石段の上に散り落ちた一葉一葉も、まだ生命を持っているように美しい紅色を保ち、地面からその色の光芒をほのかに放つかのようだ。


 その空気まで紅色に染められたような空間の中で、愛桜衣はカメラを手に何枚も写真を撮っていた。

「先生。はやく入りましょうよ。人が多いし。ほかにも行きたいところがあるから」

「わかった。でもその前に蒼馬君。私を撮ってよ」

 そして彼女はカメラを蒼馬に押し付けて階段わきに立った。


 周りにも絶え間なく人が流れているので、蒼馬は適当にアングルを定め急いでシャッターをきる。しかし写った画面を覗きこんで愛桜衣は眉をひそめた。

「うーん。こうじゃないんだなあ。アングルが、何か違う。蒼馬君って、写真撮るの下手?」

 そう言ってささやくように笑う。楽しそうな、うれしそうな笑い。

 蒼馬もまたにこやかに笑んで、大きなお世話ですよ、と返して階段を上る。

「ああ、ちょっと待ってよ」

 愛桜衣の弾んだ声が、すぐに蒼馬を追いかけてきた。


 陽の暖かさ。カエデのさざめき。木々の色。そこに溶け込む、愛桜衣の声。そのすべてが蒼馬には心地よかった。彼は愛桜衣の表情と紅葉を交互に見やりながら思う。もっともっと。この日が、この時間が、もっと長く続けばいいのに。


「すごいね。きっと、桜の季節も、きれいなんだろうな」

 写真を撮る手を休めて、木々の梢を見上げながら愛桜衣がため息まじりに言う。

 桜、という言葉が蒼馬の胸をチクリと刺す。

「桜……。好きですか」

 愛桜衣はためらいなく元気にうなずく。

「そりゃもちろん。大好き。四季の風景の中で、一番。いろんなきれいな景色があってどれも好きだけど、一番はやっぱり桜かな」

 蒼馬君は? 問うように首をかしげて彼女は蒼馬を見つめた。


 蒼馬は彼女の視線から逃れるように、首の後ろをさすりながら空を見上げる。逡巡が一瞬言葉を詰まらせる。そうだよな。みんな、桜が好きだよな。でも自分は……。

「まいったな。先生。実は僕は桜が苦手なんだ。どうか花見には誘わないでくださいよ」

 冗談っぽく言ったつもりだったが、声が硬くなった。うまく笑顔がつくれなくて、自分を見つめているであろう愛桜衣の方に顔を向けることができない。


 愛桜衣からの返事はない。恐る恐る横を見ると、そこにはすでに彼女はいなかった。数歩先のカエデの木の下でしきりにカメラのシャッターをきっている。思い出したように彼女が振り向き、笑顔で手招きをする。

「ねえ。ここで私を撮って」

 蒼馬はため息をついて苦笑いし、手をあげて彼女に応えた。


 紅葉に彩られた円覚寺を散策した後も、二人は北鎌倉界隈の寺院を観てまわった。


 東慶寺。浄智寺。明月院……。


 小春日の陽の散る境内をぶらりと歩きながら、愛桜衣は口を笑みの形で開けたまま、頭上を見上げ身体ごと視線を巡らせる。その眼鏡には紅葉の、紅や黄色の織りなす模様が映り流れていく。写真を撮る手も忙しい。黒光りするカメラを両手で握りしめ、彼女はしばしば立ち止まっては、かがんだり背伸びをしたりしてそれを目の前に構える。シャッター音とともに様々な風景が切り取られ、蒼馬の心を彩っていく。


 縁側のガラス戸に紅く浮かび上がる庭のカエデ。

 低い板塀と小さな門の瓦屋根にかかる色鮮やかな枝。葉の紅色は陽光をためて発光し、その色が瓦にも石段にも散っている。

 座敷の奥の丸い障子窓。丸く切り取られたその向こうの庭の風景は、ただただ燃えるようで……。


「ふうー。疲れた。今日はよく歩いたね」

 畳の上で足を延ばし、愛桜衣がそう言って空を見上げた時には、もう夕方の風情が山際にも表れていた。


 二人が最後に訪れたのは長寿寺。その方丈の座敷の縁側に腰を下ろし、彼女は橙色に染まった雲をしばらく見つめていた。

「もうすぐ終わっちゃうね。今日」

 そして庭に視線を戻し、その風景をいとおしむように目を細める。


 低い瓦ぶきの屋根に三方を囲まれた小さな庭園。砂利を敷き詰めた敷地の中に、絨毯のようなコケに覆われた島が浮かぶ。苔の鮮やかな緑には噴きつけたようにカエデの葉の紅が散っている。島や砂利に長い影を落とすカエデの枝々は夕暮れ時の陽光を絡ませて、所々にその紅に橙色がかった彩りを織り交ぜる。


 カメラも構えずにじっと庭を見つめる愛桜衣の姿を、蒼馬は声もかけずに見守っていた。

 周囲の人々の会話のさざめきが、遠のいていく。ただ目の前の庭にそよぐ風の音。葉のささやきが彼の胸の底を静かに通り抜けてゆく。


 やがて愛桜衣は深呼吸するように大きく息を吸い、そしてそっとはいた。

「最後だね。最後の……、紅葉」

 そうつぶやくと、彼女はふいに己の眼鏡に指をかけ、ゆっくりとそれを顔からはずした。

「何を……」

 問いかけた蒼馬を愛桜衣は一瞥してほほ笑み、そしてまたすぐに庭に顔を向ける。


 言葉を飲み込んだ蒼馬は、口をつぐんでそんな彼女の横顔に見入る。庭に向けられた愛桜衣の眼差しがあまりにも優しく、慈愛に満ちていて、そして哀しそうだったから。眼鏡のレンズを通さずに見た彼女の瞳があまりにも美しかったから。


「見ておきたいんだ。私の目で」


 やがてその瞳から一滴の紅葉色のしずくがこぼれる。あの、夏の日のように。


「見えるの?」

 蒼馬がやっと発することができたのはそんなつまらない問いで、彼女にハンカチを差し出した手はわずかに震えていた。


 愛桜衣は肯定も否定もせずにハンカチを受け取って目もとを軽くふき、そしてその布にじっと視線を落とした。


「ねえ。このハンカチの色って、灰色でいいのかな」


 その言葉を聞いた瞬間、蒼馬の胸が大きく鼓をうち頭から血が引いた。灰色なんてどこにもなかった。彼の差し出したハンカチは、鮮やかな青色をしていたから。


「先生。ひょっとして、色が……」


 彼は息をのみ目を見開いて愛桜衣を凝視する。気まずそうに、ちょっと恥ずかしそうに彼を見つめる愛桜衣の瞳の色は黄昏時の空のように紫がかっていて、その中に小さな光の粒がいくつも散らばっていた。


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