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2 紫陽花

 約束した日も、雨が降っていた。空も景色も灰色。待ち合わせ場所にした円覚寺山門前の階段下には、しかしそんな天気にもかかわらず大勢の人が行きかっている。雨空と同じ色の傘や透明のビニール傘が、階段を覆うカエデの葉の下を流れてゆく。濡れた石段が、その表面に木の葉の色を映してかすかに発光しているように感じたが、その光の色さえ何となく灰色がかっているように彼には思えた。


「おまたせー」

 声をかけられてそちらを向いた蒼馬は一瞬眉を顰め、そして次に苦笑を浮かべた。

「何よ」

 腰に手を当て頬を膨らました愛桜衣の、その姿を蒼馬は改めて頭から足の先まで見まわした。お団子ヘアーに黒ぶち眼鏡、灰色のスーツ。いつも教室にいるときと同じいでたちだ。


 休日なんだから、普通もうちょっとリラックスした格好をしないか。そのスーツ一体何着持っているんだよ。


 蒼馬がそのことを指摘すると、愛桜衣は毛先をいじりながらちょっと斜め上に視線をそらし、

「い……いいのよ、これで。あんまり違う格好して誰だかわからなかったら、待ち合わせに困るでしょ」

 あなた、年下のくせにちょっと生意気だよ。そうどもりながら言ってさっさと歩きはじめる。愛桜衣のさした茜色の傘に、カエデの葉から落ちた雨滴が軽やかに跳ねた。


 谷筋の道にできた長蛇の列に並び、しばらく辺りの風景を眺めながら人々に合わせてのろのろと足を動かす。道の突き当り、明月院の山門前に立つと、空気がわずかに湿気と涼気を増したかのように思えた。

 山門の向こうのうっそうとした林。丘の斜面になっているその林床の薄暗い茂みに、無数の丸い水玉のような花々が灯っている。


 咲いている……というよりも「灯っている」と蒼馬は思った。


 紫陽花。それはすべて紫陽花だった。

 まるで祭りの夜を提灯の連なりが飾るように、それよりももっと圧倒的な数で、これら玉の花々は陽の差し込まぬ境内の谷底を照らしているのだった。それも単一の色ではなく。白や蒼、赤や紫といった色彩をとりどりに織り交ぜながら。


「ちょっと。あんまりくっつかないでよ。このスケベ」

「僕だって不本意です。しょうがないでしょ。混んでるんだから」

「とか言っちゃって。ほんとは喜んでるくせに」


 こんなやり取りをしながら愛桜衣は楽し気に紫陽花の花にカメラを近づけシャッターをきる。延々と紫陽花に挟まれた坂の小道にも人はいっぱいだ。見渡す限りの紫陽花。そしてその間を大勢の人が列をなして縫ってゆく。そんな人ごみをものともせず、彼女は気に入った色合いの花に顔を寄せてはうっとりとそれを見つめる。


「ねえ。この花と一緒に写真撮って」

 いくつかの白い紫陽花の咲く植え込みの隣に立ち止まって、彼女はポーズをとった。

 蒼みがかった白色の花たち。それぞれの花弁やガクがちょっと透き通っているように見えて、まるでガラス細工のようで。内から光が漏れているのかとさえ感じさせる。そして繊細極まりない美術品を守るかのように、濃い緑の葉たちがこの花を抱いている。彼らの緑がいっそう花の色を際立たせる。


「ねえ。はやく撮ってよ」

 紫陽花の傍に立つ愛桜衣がほほ笑んだ。一瞬雲間より陽が差し込み、彼女の肌と紫陽花に宿った水滴をきらめかす。光はすぐに薄くなり、雨粒が数滴パラパラと彼女たちの上にあたる。


 ああ、もう少し。もう少しだけ照ってくれ。


 そう思いながらカメラを構えたその時、後ろを通った人に押されて、蒼馬は前につんのめった。

 バランスが取れずに倒れこんだ先には、愛桜衣の姿が。

「先生。ごめん」

 そう謝るのと、彼女の体に抱きつくのとが一緒だった。何とか転ばずにすんだが、蒼馬は愛桜衣を抱きかかえた姿勢のままかたまってしまう。なんという醜態。彼は一生懸命言い訳を考える。悪意はない。いや、好意も。そっちの方が困るな。好意があるなどと勘違いされてしまったらどうしよう。


「ちょっと。蒼馬君」

「あ。悪い。わざとじゃないんだ。転びそうになったからで。先生のことは何とも思って……」

「手……」

 視線を下げる。愛桜衣の刺すような眼差しと、彼女の胸に置かれた自分の手が映り込んだ。

「胸。ずっと触ってるんですけど」

「あ……」

 そして謝る前に、熱い痛みがすねにはしった。


 帰り道、明月院から駅まで愛桜衣は無言だった。胸を触ってしまった申し訳なさから、蒼馬もなんとなく声をかけることができない。ただ二人並んで線路沿いの道を歩き、時々左手に連なる丘の風景に目をやる。


 ちょっと気まずい。怒ってるのかな。怒ってるよな。謝らなくちゃな。


 蒼馬が声をかけようと口を開きかける。それと同時に突然愛桜衣は立ち止まった。そこは円覚寺山門の階段下だった。彼女は階段に覆いかぶさるカエデの枝々を眩しそうに見上げてつぶやく。


「紅葉。楽しみだな。紅葉狩りにも付き合ってね」

「え。紅葉も……ですか」

 蒼馬が聞き返すと、愛桜衣は彼と向かい合い、わざとらしく眼鏡に指をあてた。

「そう。紅葉も。その前にもう一か所、紫陽花。そしたら、夏の海にも行きたいな」

「欲張りですね」

 蒼馬は思わず苦笑いする。しかも混んでるとこばっかりだ。今度は穴場をすすめるとしよう。


「何よ。色々みておきたいの。君も、私の水着姿、みたいでしょ」

 愛桜衣はちょっと頬を膨らませて本気か冗談かわからないようなことを口走る。なぜかスクール水着を着たお団子ヘアーの彼女の姿が思い浮かぶ。レンズを光らせた眼鏡に指をあてて。ああ、この人の水着はちょっと見てみたいような、みたくないような。そんなことを想いながら蒼馬はカエデの枝に視線を向ける。その時初めて、そのカエデの葉が水気を吸った鮮やかな浅緑色をしていることに、彼は気づいた。


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