第三章十四話「覗き」
ナヴィアに抱き着かれてどれくらいの時間が経っただろうか。
体勢を変えて圭太のにおいを堪能するようにナヴィアは顔をこすりつけてくる。美少女に顔をすりすりされるのはとても嬉しい状態ではあるものの、いささか堪能しすぎだ。
「……もう満足したか?」
「あっはいっ! 申し訳ありませんでした! つい心地よくて」
圭太が声をかけるとナヴィアは神速で圭太から離れた。
動きが見えなかった。圭太はちょっとショックを受けた。動きが見切れなかったことと離れるあまりの早さに。
「謝るなよ。怒ってるわけじゃないから」
何度もペコペコ頭を下げるナヴィアに、圭太は苦笑して首を横に振る。
怒っていない怒るわけがない。我々の業界ではご褒美です。
「でもケータ様の時間を取らせてしまって」
「気にするな。俺も気持ちよかったから」
「えっ?」
圭太は慌てて手を口に当てた。気を抜いてつい本音がこぼれてしまった。
ナヴィアがきょとんとしている。よかった。意味がよく分からなかったようだ。
「それにしてもシリルは遅いな」
圭太は半ば強引に話を切り替える。
シリルはまだ帰ってこない。気を使って外で時間を潰しているわけではないだろう。圭太もナヴィアも他人が近付いたら気付けるぐらいには気配に敏感だ。こちらの様子を探られたらすぐに分かる。
「そう、ですね? 水浴びできる場所は遠いのかもしれません」
先ほどの言葉の意味を考えていたナヴィアはわずかに反応が鈍かったが、すぐに意識をこちらに集中してくれた。
これで圭太が口を滑らせた事実は消滅した。
「ちょっと様子を見てこようか」
「えっでも」
圭太があごをさするとナヴィアが困り顔になった。
ははーん。さては覗きに行くとか思っているな。誰が小学生男子の体に欲情するか。
「俺たちは追われている身だ。あまり離れ離れになるのは得策じゃない」
とっても真剣な顔で、圭太は自分の判断理由を説明する。
「それは、そうですが」
「大丈夫だって。別に覗きをするつもりはないから。とりあえず探ってもらえるか」
「了解しました。こちらです」
ナヴィアは納得してくれたようで、すぐに案内を開始する。
自分で言っておいて思ったが、ナヴィアが魔力を探知できるのだからわざわざ様子を確認しに行く必要もなかったのではないだろうか。
木々に囲まれている森の一角に、広く開けた場所があった。
泉だ。深さは圭太の腰程度。水は澄んでおり魚が泳いでいる姿も確認できる。清流とはこういうものを言うのだろう。流れてはないけど。
「――ふぅ」
シリルが水浴びを楽しんでいるのは遠目からでも分かる。気が緩んでいるのか艶っぽい声だ。色々と大変だったから疲労も溜まっているのだろう。
「こんなところに泉があったのですね」
ナヴィアが水浴びしている様子を眺めながら呟いている。心なしか声が弾んでいる気がした。
「目が悪くて助かった。まさかここまで見晴らしがいいとは」
圭太は物陰へと隠れて肩をすくめる。
隠れているのはシリルに気付かれないようにするため、ではない。圭太がシリルの姿を視界に入れないようにするためだ。
「これなら一人でも大丈夫かもしれません」
「並みの兵士が相手なら、まあ巻けるだろうな。周りは森だ。鎧を着て泉を横断するわけにもいかない」
泉は広く、捕らえようとすれば腰まで水につからなければならない。鎧を着た兵士たちが泉に入れば動きが鈍るのは必須。裸で丸腰でも逃げるだけなら可能だろう。
「だが、キテラには通じない」
普通の兵士なら逃げ出せるのは確かだ。だけど普通ではない魔法使いが相手だったらどうだろうか。
キテラなら水を操ることも泉を干上がらせることもできるはずだ。細かいコントロールができるかは謎だが空だって飛べるだろうし、水辺というアドバンテージは一切通用しない。
「あの人間は確かそれなりの地位のはずです。こんな森の奥地まで来ないのでは?」
「俺がいるからなあ。魔王を引き連れた首謀者をみすみす見逃すとも思えない」
圭太は困ったように渇いた笑いを出した。
余計な話をしてしまったかもしれない。圭太が作戦を考えているなんて言わなければよかった。
キテラがこの場に来る理由があるとすればただ一つ、圭太を直接捕まえようとするからだ。
「そうでしょうか。ケータ様を見逃せないのなら牢獄で処刑することもできたのでは?」
「危険なんだ。俺を殺すのは簡単だ。だけどそれでイブが暴れだしたら?」
圭太は首を振って、ナヴィアの考えを否定した。
「ナヴィアも知っての通りイブは普通じゃない。魔力量も扱える魔法の種類も。魔力阻害の首輪をつけているのに平然と魔法を使うような奴だ」
ナヴィアは知らないだろうが、イブが圭太を召喚したときも彼女は封印されていた。
本来なら魔法が使えなくなる状態であろうとも魔力量で無理やり魔法を使うぐらい簡単なのだろう。とことんチートだ。
「下手に怒らせたら手に負えない。俺を殺すのではなく拘束していたのは、魔王への対策が不十分だったからだ。そう簡単にできるとも思えないけどな」
圭太があのまま囚われていたら、キテラはイブの研究に専念できる。いつになるかは分からないが対策をとることも可能だろう。そうなれば圭太は用済み。内々に処刑されていたはずだ。
現にキテラは何度もイブを殺そうと試していた。結果としてすべて通じなかっただけで、キテラは殺意十分だ。
「なるほど。でしたらケータ様が手中にない今の状況をあの人間はよく思っていないのですか」
「だろうな。俺はイブを捕まえる拘束具の一つだ。安全と引き換えに行動を制限させることもできた。内心でキテラは焦ってるかもしれない」
キテラのことだ。イブの反抗を止めるために圭太をダシにして脅していた可能性が高い。
暴れだせば圭太を殺す。
イブが大人しく殺されていたのも納得だ。忌々しいが、圭太の性格が移ったというのは本当らしい。
「本当は一か所に滞在するのは悪手なんだけどな」
物陰に隠れているから見えるわけではないのだが、圭太は泉の方向に視線を向けた。
いつ襲撃があるのかも分からない。戦力は圧倒的に不利で、今は逃げるしかないのが実情だ。
一か所に留まり続ければ自然居場所を突き止められる可能性も高くなる。本当は転々と場所を変えるのがふさわしい。
「あの子供に配慮して、ですか」
「あの子はキテラにすべてを奪われた。復讐するんだって躍起になっている」
放っておくわけにはいかない。
復讐に囚われてすべてを失ってしまう人間はたくさんいた。まだシリルは子供だ。将来を捨てるには将来が多すぎる。
「利用するしか道がないとはいえ、さすがに思うところがあるよ」
「誰が、誰に思うって?」
圭太が隠れている物陰に、ため息交じりの声がした。
「うおっ、しり……る……?」
やっぱり気付かれたか覗くつもりはなかったのだから素直に謝ろう。と考えて振り返り、圭太は動きを止めた。
一糸まとわぬ姿のシリルが仁王立ちしていたからだ。
「隠れて覗きか? の割にはベラベラと話してたな。隠密行動は苦手なクチか」
「違います。わたくしたちは護衛をしようと」
「ハンッ! それなら必要ないぞ。オレは耳がいいからな」
シリルの見立てが間違っているとナヴィアは声を荒げるが、本来の目的は必要ないと鼻で笑われてしまった。
しかし、圭太は二人のやり取りなど耳に入っていなかった。それだけシリルの裸が予想外だったからだ。
白くきめの細かい潤った肌。先ほどまで水浴びをしていたのも原因だろうが、やはり若さもあるのだろう。
何も服を着ていないのだから当然ボロ切れのような外套もない。赤みがかかったオレンジの髪は水が滴っており、子供のくせに艶っぽかった。
だが、それも問題ではない。圭太は見てしまったのだ。男にあるはずのものがないと知ってしまったのだ。
「お前、女だったのか!?」
「はぁっ? 何言ってんだよ」
圭太の渾身の叫びにシリルはうるさそうに眉を寄せた。
「もしかしてケータ様気付いていなかったのですか?」
「だってオレって。マジかよオレっ娘だったのか」
ボクっ娘まではよく見るけど、そう言えばオレっ娘も需要があるんだった。見た目が子供なのもあって完全に見落としていた。
「なんで頭を抱えているんだ?」
シリルが裸で前を隠すこともなく首を傾げた。
普段だったら恥じらいが云々カンヌンと説教してやったのだが、さすがに裸の少女にそれをする度胸も余裕もない。
「悪い。覗くつもりじゃなかったんだ。とりあえず全力で離れるから許してくれ!」
圭太は一度全力で頭を下げてから、宣言通り全力で走り出した。途中曲がり切れず木に衝突しそうになるが、三角飛びの要領で器用に避けていく。ついでに浮きあがったのも利用して枝を掴み、ブランコのように体を振って少しでも距離を稼ぐ。
「あっおい! なんだよあの動き。ホントに人間か?」
呼び止めようと手を伸ばして、同じ人間として異次元過ぎる走りで急激に離れていく圭太に、シリルは呆れずにはいられなかった。
「ケータ様曰くパルクールというらしいですよ? 障害物を利用して移動するのだとか」
本当はパフォーマンス、移動法ではなく見世物としての技術なのだがそんなことは露ほども知らないナヴィアが真剣な表情で圭太の背中を目で追う。
いつか取り入れられる日が来るかもしれない。ナヴィアは勉強熱心だった。
「たかが裸を見たぐらいで逃げ出すような奴に仕えてお前も大変だな」
やれやれと肩をすくめてシリルはナヴィアに同情するような視線を送る。相変わらず隠そうともしない。まさに生まれたままの姿だ。
「わたくしの理想のご主人様です。愚弄するなら許しませんよ?」
「なーにが理想のご主人様だ。人の足元を見るような下種野郎じゃねえか」
ナヴィアはヒリアを構え、照準をシリルに合わせる。
至近距離、ナヴィアの腕を合わせれば必中だ。全裸のシリルでは間違いなく死んでしまう。
「撤回してください。死にたくなければ」
「さすが魔族。動きがまったく見えなかった」
シリルは両手を上げて降参した。
ナヴィアは人間とは次元が違う。多少なりとも狩りで慣れているシリルでも抵抗できないと痛感させられていた。
「わたくしはエルフです。魔族と一緒にしないでください」
「どうしてお前みたいな奴があんな男に仕えるんだ?」
ナヴィアの訂正は無視して、シリルはずっと聞いてみたかったことをたずねた。
圭太は人間だ。魔王と一緒というのは嘘だろうが、魔族と一緒に旅をしているのは間違いない。だけどその理由は謎。魔族は人間の敵だったはずだ。
ナヴィアほどの実力者が脅されているというわけでもなさそうだ。それどころか信頼すらしているようである。
事情をまったく知らないシリルからすれば、それはとても不思議なことだった。
「わたくしはあの方に助けていただきました」
「どう助けてもらったんだ? 背中の痒いところを代わりにかいてもらったとか?」
脅されたお返しとばかりに半笑いでバカにしてみるが、ナヴィアにはまったく効果がなかった。
「わたくしは奴隷の身なりをしていますが本当は奴隷ではありません。しかし故郷で本物の奴隷になりかけました」
本当に一度だけ、エルフの村が襲われたあのときに。
父親のそばにいれば奴隷商に捕まることはなかった。圭太たちのせいにすることもできない。完全に自分の不手際が原因だ。
「ケータ様がわたくしを救い出してくれたのです。勇者の一味を相手にしてまで」
そもそも死ぬ気で助けてくれた圭太のせいにするなんて、自分が許せなくなる。
「ホントかよ。とても信じられないが」
「本当です。ケータ様が助けると言ったのなら、きっと貴方の復讐は成功するでしょう」
かつて助けられたナヴィアは、預言に近いレベルでそう確信していた。




