最終章二十九話「レノ」
「そして各々の道を歩き出した後サンは人間の国を、シャルロットは魔族を、そしてキテラとシリルは二人が取りこぼした弱い人たちを、助けていきましたとさ」
ナヴィアはそこまで読んで、あの日のことを忘れないようにと綴った本を閉じた。気温が高いせいでじっとしているだけで汗が出てくる。ナヴィアは大切な本を濡らさないために袖で額の汗を拭った。
神を倒したあの日、魔王城で人間の英雄たちと別れたナヴィアは自分の家に帰ってきた。それからまた、圭太と再会する前の生活に戻った。
一つ違うのは、今度はナヴィア一人ではないということだ。
「ウッソくせえー!」
「こらレノ。お母さんのおとぎ話を笑わないでください」
ナヴィアのおとぎ話を聞いていたレノ、緑の髪に黒い瞳の少年は大声を出した。十歳そこそこの少年の、まるで信じていない生意気な様子にナヴィアは目を細めて口を尖らせる。
レノと呼ばれた少年は、圭太とナヴィアの一人息子だ。今は神となった捻くれ者の、この世界に残る唯一の軌跡でもある。
「だってありえねえもん! 母さんが勇者様を倒したとか神様を倒したとか。ぜんぜん強そうに見えないのに」
「それはわたくしの夫であるケータ様の仕業です。もちろんわたくしも手伝いましたよ」
レノが生まれてから何度も繰り返してきた昔話。昔はすごいすごいと手を叩いて喜んでくれたのに、今となってはちっとも信じてくれない。嘘ホントを見分けられるぐらい成長したと言えば聞こえはいいけど、生意気盛りなだけな気もする。
どこかで育て方を間違えただろうかという不安はあるが、ナヴィアは大きく胸をはって答える。今思い返すととても素敵な出来事たちだ。嘘のような本当の話である。
「絶対嘘だ」
「嘘じゃありません」
まだ信じてくれないレノにナヴィアも正面から見つめ返す。まだ他人を試す気概はないのか数秒で耐えられないとレノが先に目をそらした。
「じゃあ証明してくれよ! 強いんだろ?」
「それはできません。わたくしはもう戦わないと決めました。力を示すために戦うことはありません」
ナヴィアは平和な世界で生きると決めた。
彼女の実力はエルフの中ではスカルドに次いで強いし、人間たちの大陸に渡れば役立てる場面も多いだろう。しかしナヴィアはもう進んで争いごとに首を突っ込むつもりはなかった。圭太と約束したのだから。
「だからあなたに強くなって欲しいんですよレノ」
ナヴィアは愛おしい息子の頭を撫でながら、慈愛に目を細める。レノはくすぐったそうにナヴィアの手を受け入れていた。
レノは、圭太の息子でもある。圭太の息子なら強さが役に立つこともあるだろう。ナヴィアとしてはあまり厄介ごとに手を出して欲しくないのだが、圭太なら仕方ないと笑っているだろう。だからまだ子供である今のうちにできることをしておきたいのだ。
「まあ、おれならどんな相手でも負けないけど?」
ナヴィアに撫でられ続けながら、レノは自信満々に腕を組んだ。
「また調子に乗って。そんなんじゃ英雄たちに並べませんよ?」
「母さんでも肩を並べられるなら余裕だし!」
「……いいでしょう。なら今日は五つの的を同時に撃ち抜くまで夕飯はなしです」
どうも生意気盛りな息子に過小評価されているらしいナヴィアは、少しだけ頭に来たのでちょっと厳しい条件を出した。
レノの武器はナヴィアと同じ弓だ。そしてレノが同時に別々の的に矢を射った最高記録は四。決して無理難題ではないはずだ。
「嘘でしょ!? そんなのできるわけないよ!」
「できます。わたくしの最高記録は十三です」
「絶対嘘だ! 見たことねえもん!」
案の定というべきかレノが駄々をこねる。今までの訓練を見てきたナヴィアからすれば頑張れば可能な範囲だと思うのだが、こればっかりは本人次第だ。
なのでナヴィアがすべきは子供のように鼻を高くして自慢することである。
逆に反感を買うと想像できないのだから、ナヴィアがかつて英雄たちと肩を並べたと信じてもらえるわけがない。
「……はぁ。戦い、とはならないから良しとしますか。起きてヒリア」
このまま口で説明したところでレノが信じてくれるとは思えない。おそらくレノはナヴィアがバカにされた腹いせで意地悪をしていると思っているだろう。あながち間違ってないけど。
ナヴィアはため息を吐いて、不満を黙らせる手段に実力行使を選択した。
およそ十年ぶりにピアスになっていたヒリアが目を覚まして本来の姿に戻る。
「えっ? 弓が」
「これがお手本です」
初めて見る突然の弓にレノは狼狽えていた。しかしそんなことは関係ないとばかりにナヴィアは小屋の周囲に広がる森の中から適当に十本選別して魔力でできた弦を引き絞る。
ナヴィアの指が弦から離れると同時に、持ち主の意思に従って十本の魔力の矢が正確に木々を粉砕した。
「あっ、やり過ぎてしまいました。薪割りを手伝ってください」
「い、えぇっ!?」
ちょっと穴を開けるつもりだったのだが、粉砕してしまった木々が重たい音を立てて倒れこむ。
倒した木はそれなりに急いで処分しなければならない。じゃなければ邪魔になってしまうからだ。じわじわと肌を焼く暑さだけど、全部薪に帰るまでは休めそうもないだろう。
やれやれと息をこぼして小屋まで斧を取りに行こうとするナヴィアに、レノは大きな声で叫んだ。
「なっ、ちょっ、いや待ってよ母さん!」
「はい? どうかしましたか?」
これから大変な作業が待っているので早く片付けてしまいたいナヴィアは、不思議そうな顔で首を傾げる。
そんなに驚くようなことをしたつもりはないのだが。
「どうかしましたか? じゃなくて! これ! なんで隠してたの!?」
「これ? 木ですか? 別に隠してませんけど」
レノは大げさに大きな動作で何度も倒れた木を指差していた。
森の中にある小屋なのだ。どうやっても木々を隠すことはできない。何を今さら驚くことがあるだろうとナヴィアはさらに首を捻った。
「木じゃなくて! 弓! 母さんの実力だよ!」
「ああ、そっちですか。別に隠してませんよ?」
ようやく合点がいったとヒリアをピアスに戻したナヴィアは手を叩いた。
そういえばレノにヒリアを見せたのは初めてな気がする。だから驚いているのか。急に騒ぎ出したのも納得できる。
「わたくしは最初から英雄たちと肩を並べて戦ったと言ってましたし、力を示すような戦いはもうしないとも言いました」
ナヴィアは圭太とは違う。堂々とした演技なんてできないし、あまり大きな嘘も吐けない。だから何一つ嘘は言っていなかったしまったく隠そうとも思っていなかった。
「レノが信じなかっただけでしょう?」
ナヴィアは何一つ嘘を言っていないというのに、生意気盛りなレノが勝手に疑ったのだ。ナヴィアに非は一切ない。
「そうだけど! だって面影すらなかったじゃん!」
「そうですか? そうですね。レノはわたくししか他人を知らないから」
戦わないのだからナヴィアの実力を知る機会はない。
正確には魔物がたまに襲ってくるのだが、簡単にあしらうナヴィアを見て育てばそういうものだと思ってしまうのも仕方ないのかもしれない。
レノはナヴィアしか他人を知らない。なおさら誤解を深めてしまう環境だろう。
「何それどういうこと!?」
「他のエルフはもっと弱いということです。魔物を一人で退治できません」
「嘘っ!?」
エルフは集団で囲って一匹の魔物を倒す。実力よりも安全を優先した戦いだ。人的消耗も少ないし、圭太と一緒に旅をするまではナヴィアも最適な方法だと思っていた。
今のナヴィアが本気を出せばエルフの若い衆が束でかかってきても追い払える。そんなことも知らなかったレノは驚きで目を丸くしていた。
「人間はもっと弱いですよ? 束になってもこちらの魔物は倒せません」
もちろん例外はありますが、と付け加えてからナヴィアがレノの様子を確認すると、生意気盛りな少年はもはや大口を開けて言葉を失っていた。
「わたくしを基準にすればまだまだ子供ですけど、外に出れば立派な英雄の卵ですよ?」
圭太と旅をして英雄たちの中で揉まれてきたナヴィアに比べれば、レノはまだ幼い。だけど既にエルフの若い衆に負けずとも劣らない実力は身につけている。きっとエルフのほとんどは複数の的に矢を当てることはできないだろう。
まだ発展途中のレノだ。成長したときを思うと今から楽しみで仕方ない。
「全然そんなことないと思ってた。そっか母さんって普通じゃないんだ」
「なんだか嬉しくない言い方ですが客観的に言えばそうですね。ケータ様の気持ちが理解できたような気がします」
ナヴィアは自分をどちらかといえば一般人に近いと考えている。だから普通じゃないとか言われるとちょっと面白くない。
きっと最愛の人も同じ気持ちを味わってきたのだろう。自分は一般人だと言っていたけどナヴィアを含めた周りはそう思えなかった。ちょうど今のナヴィアとレノと同じようにだ。
「ならたまには旅にでも出ますか?」
「えっいいの!?」
このまま偏った知識だけを身につけられてはレノのためにはならないと判断して、ナヴィアは何でもないように提案する。途端にレノが目を輝かせた。
「はい。レノのの実力なら一人でも問題はないはずです。皆さんにも用事がありますし」
「用事?」
「今年で十年になるんです。久しぶりに皆で集まらないかってシリルから手紙が来てました」
ナヴィアは懐かしそうに目を細め、心なしか早くなった鼓動を感じていた。
圭太が戦い、圭太と別れたあの日から十年が経った。
久しぶりに会って話をしないかとエルフの村宛に手紙が届いたらしく、先日エルフの若い衆が持って来てくれた。内容に目を通してからちょっとだけウキウキしている自分がいることをナヴィアは自覚していた。
「凄え。魔法を打ち消すヒーローから手紙が来るんだ」
「正確に言えば魔力の動きを阻害するだけです。というかどうしてレノはシリルの魔法を知っているんですか?」
「ギクッ!」
何だか初めてに感じるレノの憧れた視線を向けられているナヴィアは、目を細めて呟いた。シリルや他の英雄たちの戦闘スタイルまでは話していなかったはずだ。
図星を突かれたのか、レノは大きな声と仕草で痛いところを突かれたとばかりに固まった。
「演技力はわたくしに似てて良かったです。もしもケータ様に似てたらと思うとゾッとします」
嘘を吐く上手さが圭太に似ていれば、きっとナヴィアは見破れなかっただろう。そこだけは父親に似なくて良かったと心から思う。
「エルフの子たちが、遊びに来てて」
「こことエルフの村は同じ森の中ですが決して近くはありません。正直に言わなければ夕飯はサラダのみですよ?」
「遊びに行ってました。おれ一人で」
ナヴィアが夕飯を使って脅すと、レノはあっさりと自白した。
どうやらナヴィアに内緒で遠く離れたエルフの村まで一人で行っていたらしい。森には魔物が少ないとはいえ危険がたくさんあるというのに。
「やっぱりですか。でも、それならどうして自分の実力が桁外れだと気付かなかったんですか?」
「魔物に襲われなかったから。一緒に逃げたほうが安全だと思ってたし」
ナヴィアの知らないところでとはいえ、外に出て他人と接触したのなら自分がどれだけの実力者かも把握できるはずだ。決して機会は少なくないだろう。単純な身体能力だって、レノは同年代を遥かに凌ぐのだから。
「まさか武器を持たずに遊びに出てたのですか!? 危ないという話を超えてます!」
「ご、ごめんなさい」
村へ行くだけならレノに危険はない。いや心配だし今後はやめてほしいけど、ちゃんと帰ってきているのであまりキツく言うつもりはなかった。
しかし丸腰となれば話は別だ。もし魔物から逃げられなかったら待っているのは恐ろしい結末だったのだから。
「いいえ、いいんです。ちゃんと教えなかったわたくしにも比はあります」
ナヴィアなら魔物を簡単にあしらえるし、レノも弱い魔物なら一人で倒せる。
だから教えてこなかった。森の中には他にも危険がたくさんあるのだと。思わず感情的になってしまったけど、ちゃんと教えなかったナヴィアにも非はある。
「じゃあレノのことは心配いりませんね。わたくし面倒見ませんから」
「嫌だぁ! ごめんなさいもうしませんからぁ!」
ナヴィアが冷たく言い放つとレノは涙を浮かべながら抱きついてきた。
まだまだ子供だ。親と離れるのは寂しいらしい。
「――冗談ですよ。一緒に行きましょう。でももしまた内緒で危ないことをしたら許しません。いいですね?」
レノの背中をポンポンと叩きながら、ナヴィアは優しい声音で諭す。
もしまた同じことを繰り返されたらナヴィアでも面倒見切れない。これから長旅をするのだからなおさらだ。
「はい!」
「いい返事です。では準備しましょうか」
ぐしぐしと目をこすって力強く頷くレノに微笑みかけて、ナヴィアは小屋に戻った。
シリルたちに再会するのを楽しみだが、準備を急がなければならない。夫ほどではないけれど、決して近くはないのだから。




