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最終章十一話「治せるんですか?」

 クリスの言葉をナヴィアが正確に理解するのに数秒を費やした。


「えっ、あのその、できるんですか?」

「何度も言わせないで欲しいの。できないわけないの」


 狼狽えるナヴィアに、クリスは嘆息をこぼす。

 彼女の傷がゆっくりと埋まっていく。受信機が破壊されたのならまずは受信機を治せば済む話だ。本調子ではないけれど、聖人として何度も治してきた経験が彼女の体を癒していく。


「それに、ナヴィアを引き止めることになるの」

「ああ、そういうことですか」


 とりあえず腰を下ろした姿勢で全身の疲れを吐き出すように息を落とすクリス。彼女の言葉にナヴィアは合点がいったように手を叩いた。

 クリスの洗脳はまだ完全に解けていない。だから記憶を取り戻す作業もナヴィアを足止めするために行うのだ。可能不可能は置いといて合理的な判断だと思う。


「でも記憶を戻すのは本当なの。そっちも悪いことではないと思うの」

「それはそうかもしれません。シリルや勇者の態度を見る限り、わたくしには記憶を取り戻してはならない理由があるみたいですし」


 シリルも琥珀も、そして圭太も不必要にナヴィアの過去を刺激しなくなった。十年ぶりに再会したシリルと昔話を楽しもうとしても彼女はどこか気まずそうにぎこちなく瞳を泳がせていた。どうも圭太の言動を真似ているみたいだけど、嘘を吐くのはまだ下手みたいだ。


「でもあなたの手を借りるかどうかはまた別問題です。敵になったあなたの言葉は信じられません」

「私は聖人なの。少なくとも嘘は吐かないの」

「でもわたくしを足止めするつもりでしょう? 敵の思惑にハマるわけないじゃないですか」


 記憶を取り戻したい。それは紛れもない願望だ。だけど今すぐかと言われれば首を捻る。

 ナヴィアは戦うと決めている。記憶があれば何かしらの助けになるかもしれないけど、なかったとしても困るわけではない。すべての戦いが終わった後、アダムを倒した後に記憶を取り戻す方法を探したってかまわないのだ。わざわざ敵であるクリスの思惑に乗る理由はない。


「この先に進んでも足手まといになるだけなの」

「……」


 クリスの端的な言葉を、ナヴィアは否定できなかった。


「本当は分かっているはずなの。アダム様を倒せるわけがないって。もし可能だとしても異世界から来た勇者にしかできないって、理解してるはずなの」

「やってみなければ分かりません。あなただって倒せました」

「私で苦戦するようじゃ付いていけないの」


 きっとアダムはずっと強い。神の力を借りていただけのクリスでもこれほどてこずったのだ。もしもアダム本体と戦えばナヴィアは矢を放つ暇もなく消滅するかもしれない。

 生物としての限界、いつからか見ないようにと目を逸らしていた現実を突きつけられて、ナヴィアは反論にもならない言葉を飲み込む。


「コハクもケータも普通じゃないの。例えこの世界の神様が相手でも二人なら勝てるかもしれないの」


 ナヴィアもよく知っている。琥珀は言うまでもなく、圭太も格上であるはずの父親、スカルドに勝利した。オンネンという恐ろしい力を持っていたのは確かだけど、圭太の本質がそこではないのはなんとなく直感していた。

 圭太も琥珀も、不可能を可能にする才能がある。明確な確証はないけどそう断言できる。

 言葉は交わせても自分とは本質的に違う生物なのだと、断言できる。


「でもこの世界の住人である私たちでは絶対に勝てないの。少なくとも私たち三人には無理だったの」


 サン、クリス、キテラの三人は間違いなく最強候補の一角だ。

 今のナヴィアは知る由もなかったが、圭太や琥珀といった異世界からの来訪者を除けば彼ら彼女ら三人は間違いなく世界最強の人間である。

 だが、それでもアダムに歯向かうことはできなかった。


「だから手を貸そうなんて思わないほうがいいの。私を倒した時点でナヴィアの仕事は終わったの」

「それでも、わたくしにしかできないこともあります」


 弱点を過去に聞いていたとはいえ、クリスを倒したのは大金星だ。ナヴィアにできる仕事では大きな成果であることは間違いない。

 だからここで引き返すべきだ。そんなクリスの忠告を、ナヴィアは首を横に振って拒絶する。


「アダムを倒せなくても注意は引けます。ケータさんたちの手助けにはなれます」

「彼らはそんなの望まないの」


 きっと圭太も琥珀もナヴィアに無理してまで手助けしてもらいたいとは思わない。

 むしろ彼らならこう言うはずだ。危ないから下がっててくれと。


「今の私なら回復魔法に関して言えばアダム様に近い力が使えるの。きっとナヴィアの記憶を妨げる何かも治せるはずなの」

「でも敵です」

「まだ戦うつもりならとっくに手を出してるの」

「……」


 クリスの体から大きな傷は消えていた。こぶしも治っているから、また戦おうとすればできるだろう。弱点をクリス本人に知られてしまったため、次は勝てないかもしれない。

 だけどクリスは座り込んだままで襲ってくる気配は微塵もなかった。彼女の戦意がないのは見れば分かる。


「本当に治せるんですか?」

「聖人に不可能はないの」


 ナヴィアが改めてたずねてもクリスは意見を変えない。それどころか自信満々に頷かれてしまった。

 きっとクリスに頼って記憶を取り戻しても不都合はないだろう。嘘を吐かないと自分で言っているのは気になるが、少なくとも記憶を取り戻すまではちゃんとしてくれそうだ。その後混乱したところを襲ってくる可能性はあるだろうが。


「それなら、一度だけ」

「待て」


 願望実現への甘い言葉に手を伸ばそうとするナヴィアを、背後から止める声がした。

 クリスではない。もちろんナヴィアでもない。二人は同時に背後を、ナヴィアたちが来た方向へと目を向ける。


「シャルロット? サンまでいるの?」


 二人の視線を集めながら、何でもないような顔でシャルロットがゆっくり歩いている。その背中におぶさるようにしてサンも一緒だ。


「ゴメン、クリス。負けちゃったよ」

「サンには最初から期待してなかったの」

「相変わらず手厳しいな」


 サンが首だけを動かして頭を下げると、クリスは当然のように言い放った。仲間のあまりの容赦のない言葉にサンはつい苦笑いを浮かべてしまう。


「わたしが強いからな。仕方ない」


 シャルロットは当然だと鼻を高くして、クリスの近くまで運んだサンを背中から落とした。サンが苦悶の声を漏らしたが、シャルロットもクリスも気にした様子はない。

 クリスは目の前に降ってきた傷だらけの仲間に手を添えた。それだけでサンの傷がどんどん塞がっていく。


「そんなことより、ナヴィア。記憶を取り戻してはダメだ」


 サンの治療が始まったのを尻目で確認してから、シャルロットはナヴィアへと向き直る。

 そして彼女の願望をあっさりと否定した。


「な、何故ですか? あなたに分かるんですか。わたくしがケータさんを呼ぶたびに皆がガッカリしたような表情になっているのを。そんな皆の顔を見るたびにわたくしの胸を締め付けるような感覚があることを」

「わたしはお前ではない。理解できたとしても本人の想いと同じとは限らないだろう」


 ナヴィアは知らないが、かつて彼女は圭太を様付けで呼んでいた。奴隷という役に徹してきた影響だ。実際は演技であり圭太もナヴィアを奴隷扱いしたことなど一度もないが、それでも呼び方が変わるというのは大きな問題だ。しかも他人行儀になっているのだから。琥珀もシリルも当然圭太も何も感じないわけがない。


「だが止める理由なら説明できる。ケータたちは黙っていたみたいだが、ナヴィアには呪いがかけられている」

「呪い? わたくしに?」

「そうだ。ケータのことを思い出せばお前は死ぬ」


 あり得ないと否定できなかった。シャルロットのあまりに端的な言葉が嘘を吐いているように見えなくて、冗談を言っているようにも思えなかったからだ。堂々としているからこそ、説得力があった。


「な、なんで断言できるんですか。試したわけでもないのに」

「試した。だから言えるんだ」


 シャルロットはあくまでも短く端的に答える。彼女は何も嘘を言っていない。そう信じさせるには十分だ。


「その人間なら記憶を取り戻すこと自体は可能だろう。シリルとかいう小娘でもできたぐらいだ」


 シリルが暴走し、強引にナヴィアの記憶を取り戻そうとしたとき、シャルロットもその場にいた。

 シリルの魔力が普通とは違うという話は聞いている。だけどアダムの再生魔法を扱えるクリスも似たようなことができるのは容易に想像できる。人間にできてアダムにできないわけがないのだから。


「だが、呪いがある限り記憶を取り戻させるわけにはいかない。ケータたちが悲しむのが目に見えているからな」


 圭太たちは戦いが終わるまでナヴィアの記憶を取り戻さないと決めていた。アダムを倒すことを最優先にしたいかららしい。シャルロットとしてはどうでもいいが、アダムを倒した英雄が想い人を失って消沈するような様は見たくない。せっかくなら勝利の美酒を楽しみたいものだ。


「じゃあどうしろって言うんですか。ずっと訳が分からない消失感に耐えろって言うんですか?」

「ケータは解決の目処をつけている」


 もちろん何も考えていないわけではない。圭太は既に解決策を考えている。悪知恵一つで自分やスカルドも超えてきた圭太だ。きっと悪いようにはしないだろう。


「だからナヴィアがすべきはあの男を信じて待つことだ。それともケータを信用できないか?」

「そんなことはありません!」

「なら一緒に先に進もう。戦いに参加するためではなく結末を見届けるために」


 シャルロットがからかうように笑みを浮かべると、ナヴィアは大きな声で反論した。

 圭太を信じられないわけがない。彼は処刑されそうになっていた自分を助けてくれたのだ。彼ならきっとナヴィアを助けるために尽力してくれる。


「わたしたちにできるのはそれぐらいのはずだ」


 だからシャルロットたちは見届けなければならない。

 誰からも信頼されている圭太が勇者としてアダムを倒す姿を、脳裏に焼き付くまでしっかりと。

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