最終章九話「暖かい感覚」
「いい加減諦めるの」
無限に等しい矢の雨を受けながら、クリスは気にした様子もなく肩をすくめていた。
彼女の全身に矢が刺さり、肉をえぐっている。だけど一瞬で逆再生のように傷は消えていた。クリスは攻撃を食らった端から再生魔法で回復しているのだ。
圭太たちを見送ってからずっと同じ光景の繰り返しだった。硬直状態と呼べるかもしれない。その割にはクリスは呆れ返っているだけで、汗を滲ませながら弓矢を放ち続けているナヴィアとは対照的だったけど。
「私に普通の攻撃は通用しないの。光の速度で木っ端微塵にでもされない限り、私は死なないの」
「殺すつもりなんてありません」
クリスも不死身ではない。再生魔法が間に合わない速度で攻撃されればすぐに倒れるだろう。それこそ琥珀が少しでも本気を出せばクリスに勝ち目はない。
しかし逆を言えば光の速さで動ける琥珀でもなければクリスは倒せないということだ。圭太やナヴィアではクリスを止めることはできない。
クリスの挑発めいた薄い笑みを、ナヴィアは首を横に振って否定した。
「あなたを殺せばきっとケータさんは傷つくでしょう。わたくしはあの方の悲劇は望みません」
圭太はクリスが死ぬことを望まない。もちろんナヴィアが傷つくのもよくは思わないだろうが、さすがに任せてと言った手前傷つかないとは考えていないだろう。圭太は現実主義者だから、楽観的な期待に頼るような性格ではない。
短い時間とはいえ圭太という人間の性格を理解したナヴィアの言葉は間違っていないはずなのに、なぜかクリスは目を丸くしていた。
「ケータさん? いつの間に他人行儀になったの?」
「何の話ですか?」
「あなたとケータは深い関係だと思ってたの。もしかして見当違いだったの?」
クリスは聖女としてたくさんの人間の悩みを聞いてきた。恋愛相談や日々の不満などをそれこそほぼ毎日。
だから彼女は人の機微に聡い。クリスは圭太とナヴィアが並々ならぬ関係だと思っていたからこそ、今のナヴィアの言い方には首を傾げてしまう。
クリスはこの白い空間の外で起こった出来事について何も知らないのだ。
「詳しく聞きたいですね」
「……まあいいの。どうせ先に進んだ連中はキテラが足止めしてるはずなの」
クリスは圭太たちを追い払う役目を担っている。だからあまり流暢に話をしていたいとは思えない。
自分の後にキテラが控えていることをクリスは知っている。きっと頼れる魔法使いである彼女なら圭太たちをまとめて相手にしているに違いない。そう考えることにしてクリスは小さく息を吐いた。
「あなたはケータの奴隷だったの。だけど単純な服従関係では語れない親密な関係だったの。まるで恋人同士みたいだったの」
「恋人? わたくしとケータさんが?」
「確か二人は結ばれたって聞いたの。キテラの話だから嘘だとは思えないの」
ナヴィアは初めて聞かされる話に目を丸くしていた。まるで実感がわかないし信じられなかった。
自分が圭太の奴隷で恋人だった。つい数日前に初めて会ったというのに、そんな親密な関係になっているわけがない。
クリスが動揺を誘おうと嘘を吐いているようにはとても見えなかった。
「まさかあなた、記憶を失ってるの?」
ナヴィアの様子は、圭太との日々が消失してしまったようにしか見えない。
クリスは鍛え抜かれた洞察力で正確に言い当てる。ナヴィアの表情がわずかに強張った。
「わたくしは誰かを待っていました。誰かも分からない状態で一人ずっと待ってました」
ナヴィアは自分の中にある感情をゆっくりと話し始めた。
クリスは静かに聞いている。彼女は聞き上手でもある。纏う雰囲気だけで話の続きを促していた。
「ケータさんの顔を見てからは待ち人が来たような暖かい感覚がするんです。その理由を説明するためには確かに記憶喪失が都合いいです」
「やっぱり忘れてるの。じゃあナヴィアがケータのために戦う理由はないの。さっさと引き返すの。引き返してアダム様を布教するなら見逃してあげるの」
「それはできません」
クリスはナヴィアが圭太の恋人だからこの場に残ったのだと思っていた。恋する乙女の頑固っぷりは琥珀やキテラを見ていたからよく知っている。きっとナヴィアも力尽くじゃなければ言うことを聞かないと思っていたのだ。
だけど圭太との大切な記憶がないのなら、ただ頼まれたから戦っているのであれば、命を賭ける理由がない。
二度とアダムに逆らわないのなら見逃してあげる。クリスの優しい提案は、ナヴィアに即答で拒否されてしまった。
「わたくしはケータさんに助けられました。ケータさんに助けてと求められました。ならあなたを倒さない理由はありません。引き返すなんて論外です」
「私を倒すつもりなの? 今までのやり取りで無理だって分かってるはずなの」
「いいえ、通用しないとは限りません。事実わたくしの矢は貫いています」
「そのすぐ後には回復するから意味がないと言っているの。もしかして私と我慢比べでもする気なの?」
ナヴィアの瞳に迷いはなかった。クリスが現実を叩きつけても彼女の意思は変わらないようだ。
クリスはサンほど硬いわけではない。だからナヴィアの矢でも簡単に貫ける。勝機があると思われるのも仕方ない気がした。
しかし不満でもあった。相手との実力差を正しく理解していないらしいナヴィアが。
「それもいいかもしれません。少なくとも足止めはできます」
「冗談はやめて欲しいの。私はケータたちを止めないといけないの」
「させません。ケータさんの邪魔だけは」
再び矢の雨が降り注ぐ。
しかしクリスは防御すらしなかった。雨に打たれながら、ゆっくりと足を進めていく。
「なら本気で来るの。通用しないって教えてあげるの」
「通用します。あなたの特性は大まかに理解しました」
空中でぶつけ合うことで軌道を変えた魔力の矢が左右からクリスの両足を貫く。どうせ肉を吹き飛ばすだろうとまるで気にも留めなかったクリスは、足を引っ掻けて盛大にこけた。
顔を打って鼻から流れ出た血を手の甲で拭って、クリスは自分の両足を見る。つい先ほどまでは当たれば消えていた魔力の矢がクリスの両足を縫い留めていた。
「矢の種類が、変わったの?」
「簡単な話だ。クリスが得意としているのはあくまでも再生。なら再生できないように異物を埋め込んでいけばいい」
はてと首を傾げている間にナヴィアが誰かの真似をするように声を低くして呟き、肩や脇腹に次々と矢を撃ち込んでいく。どれも普通の矢のように刺さって抜けない。瞬く間にクリスはハリネズミになった。
「あの人ならそう言うでしょうね」
「猿真似なんて不愉快なだけなの」
記憶はないくせに圭太の真似をされても不愉快なだけだ。きっと彼もほぼ同じように答えると予想できるから余計と気に入らない。
「でも確かにいい判断なの。再生を妨げれば、私の動きは抑制できるの。誰の真似かはあえて聞かないけど、一番近くで背中を見てきただけはあるの」
体を起こそうとしてクリスは小さく顔をしかめた。彼女の体に刺さる矢は動きを阻害するのに最適な位置にばかり刺さっていた。例えば脇腹に刺さっている矢が突き抜けている先は左の手の甲だったりする。これだけで左手は思うように動かせない。
「でも私の力を再生だけだと思わないで欲しいの」
このままでは動けない。だけど力が入らないわけではない。
クリスは全身に力を入れていく。彼女の常人離れした筋線維が膨れ上がり、ミシミシと全身から何かが軋むような音を鳴らした。そしてすぐに結果は出た。魔力の矢が、単純な筋力だけでへし折られたのだ。
「化け物ですね」
「失礼なの。私はただのシスターなの」
「わたくしは人間に詳しくありませんが、人間の言うシスターとやらは皆筋力で刺さった矢をへし折れるわけありません」
およそ常識的ではない光景にナヴィアが苦笑いを浮かべていた。魔物が相手だったときは見たことがない力技だった。クリスは不満を表すように唇を尖らせているが、やっていることは紛れもない怪物の所業だ。
「確かに見たことないけど、皆隠してるだけなの。だってシスターのゲンコツがとても痛いことは私が一番知ってるの」
「……今ほど人間を恐ろしく思ったことはありません」
「そんな話はどうでもいいの」
ナヴィアが知らないだけで人間というのは恐ろしい者ばかりなのかもしれない。下手したら身体能力で優れているエルフ以上に。
もはやナヴィアが乾いた笑いを浮かべているのをよそに、クリスは短く口の中の血を吐き捨てた。
「今までよくやってくれたの。今度は私の番なの」
「もしかしてその腕でわたくしを殴るつもりですか? シスターは慈悲深いものだと聞いた覚えがあるのですが」
滴っていた血は既に止まっている。破れたシスター服から覗く平時なら細いクリスの腕は、今やサンと遜色ないぐらい太くなっていた。
殴られればただでは済まないのは明白だった。
「心配しないで欲しいの。苦痛を味わう暇もなく頭を粉砕してあげるの」
「それはとてもありがたいですね。絶対に味わいたくありません」
殴られた側に配慮して即死させてくれるらしい。
クリスの変に配慮された慈悲に、ナヴィアは顔を厳しくして再び弓の弦を引き絞った。




