第九章二十話「何もしてなければ」
「待てよ一桜。俺の負け? 俺はまだ戦えるぞ」
血を流しすぎたせいか震えが止まらない体が倒れないように杖替わりのイロアスで支えている圭太は、せっかくの戦いに水を差した一桜に抗議の視線をぶつける。
圭太はまだ動ける。動けるのだから戦うことだって可能だ。邪魔される理由はない。
「どの口でほざいているのですか? 武器を手にしても相手を傷つけるつもりはない。それは戦いではなく一種のプレイですわ。そういう趣味なら止めませんが?」
「痛みを感じない俺がやっても無意味だろそれ」
あいにく圭太は痛みに興奮するような性癖ではない。むしろ真逆に近いだろう。圭太は痛みを認識できないのだから。
一桜の冷たい目と言葉に、圭太は呆れたように反論することしかできなかった。
「なら勝負は決していますわ。攻撃できないケータの負け。それでいいでしょう?」
「だからって」
「これ以上口答えはいりませんわ。わたくしも譲れないものがありますもの」
一桜の言い分はもっともである。このまま戦ったとしても圭太はナヴィアを傷つけることなんてできない。つまり圭太に攻撃の手段がないのだ。勝つ方法がないのだから圭太の負け。とても理にかなっていると思う。
だけど正論だから納得できるかどうかはまた別の話だ。
まだ説得しようとする諦めの悪い圭太を、一桜はとても冷めた目で一瞥して別の方向に目を向ける。
「……そうだよ圭太君」
一桜の視線の先には、まるで恋人が拷問を受けているさまを目の当たりにでもしているような悲痛な表情の琥珀がいた。
「まるで死にたがってるみたいだよ。そんなのボク許せないし、ナヴィアだって悲しむよ」
「そんなつもりじゃ……いやナヴィアが傷つくのは確かだな。悪かった」
言い返そうとして、圭太は首を振って言葉を飲み込んだ。
圭太はどれだけ自分が傷つこうとどうでもいいと考えている。だけど琥珀やナヴィアは違うだろう。知らなかったとはいえ自分が傷つけたと分かれば、ナヴィアが傷つくのは避けられない。だからもう戦うなと言うのであれば、不服ではあるけれど従わなければならない。
「分かればいいですわ。では治療します。これ以上抵抗しないでくださいね?」
「分かってるよ。頼む」
「初めからそれぐらい素直だったらわたくしも楽なんですけどね」
もうほとんど自力で動けない圭太を、泥が包み込んだ。一桜が体の一部を泥のように伸ばし、圭太を運んでくれるみたいだ。今度から自分で動けないときは彼女に頼むのもいいかもしれない。
「ねえナヴィア」
「何ですか勇者」
圭太が戦線を離脱してもナヴィアはヒリアを構えたままだった。琥珀は圭太の代わりとばかりに光の速さで先ほどまで彼が立っていた場所に移動し、まっすぐナヴィアを見つめながら口を開く。
「君は記憶にないかもしれないけど、多分圭太君のことを覚えているんだよ」
「覚えている? わたくしとあの人は初対面ですよね?」
やっぱり記憶にはないらしく、ナヴィアは困惑したように首を傾げている。
だけど琥珀には確信に近いものがあった。ナヴィアなら圭太を忘れるはずがない。かつて想い人の気持ちを奪い合ったライバルの強さは誰よりも理解しているつもりだった。
「違えよ! ケータとナヴィアがオレを助けてくれたんだ!」
「わたくしがシリルを助けた? でもどうやって……」
「覚えてんだろイブだよ! 魔王が捕まったから助けてくれってオレに力を貸してくれたんじゃねえか!」
シリルが苛立たしそうに頭をガシガシとかいて叫ぶ。
十年前、まだ幼かった彼女の復讐を助けたのはナヴィアと圭太だ。かつてシリルは二人の背中に憧れた。それなのに、当の本人は覚えていないと言っているのだ。いい気分ちはお世辞にも言えなかった。
「イブ? 魔王? この大陸は神であるアダムが守ってきたんですよね?」
「じゃあどうやってオレと出会ったんだよ! 言ってみろよ!」
「えっと、シリルとは牢屋で……でもどうしてわたくしは牢屋に?」
ナヴィアが忘れているのはあくまでも圭太とイブのことだけだ。それ以外の記憶は中途半端に覚えているらしい。
圭太とイブのせいで牢屋に押し込められ、そしてシリルに助けられた。シリルとの出会いは覚えているからこそ、ナヴィアは自分の記憶に疑問を抱いてしまう。
「ボクと出会ったときのことは覚えてる?」
「ええもちろんです。人間の大陸であなたを倒そうとシリルと一緒に」
「じゃあボクは誰に負けたと思う?」
「それはもちろん――あれ? わたくしではないですよね?」
もっとも大切な場面のはずなのに、まるで思い出せない。
ナヴィアは困惑した。勇者を倒そうと思ったのは魔族の平和のためだ。なのにどうして誰が勇者を倒したのかを思い出せないのか。まるで記憶に蓋でもされている気分だ。
「うん。ボクはナヴィアに負けるつもりはないしシリルの魔力の影響も少ない。魔力量だけなら人間で一番多いからね。阻害された程度じゃボクは止められない」
琥珀は紛うことなき最強の力を持っている。光の速度で移動すれば、ほとんどの相手は成すすべもなく敗北してしまうからだ。倒せるとすれば不死に近い速さで再生するか罠にかけるしかない。
真っ向からの勝負じゃ絶対に琥珀に触れることすらできないし、魔力を阻害された程度では有り余る魔力を使って強引に魔法を発動させられる。ナヴィアとシリルだけではどうやっても琥珀を倒すことなどできないのだ。
「で、でも勇者は確かに倒しました。だからあなたはこの大陸で働くことになったんですから」
「そうだよ。ボクは負けた。そこの勇者にね」
「あの人に?」
初めて狼狽えた様子を見せるナヴィアだったが、過去は変わらない。
ナヴィアたちはどうやってか琥珀を倒した。それが現実だ。肝心の方法こそ思い出せないが、きっと十年の間に忘れてしまったのだろう。
そんなナヴィアに見せつけるようにして、琥珀は圭太を指差した。
「ギリギリだったけどな。勝てたのは正直言って運が良かっただけだ」
「運だけで負けたくはないかな」
「ケータは動かないでください。傷だらけなんですから」
実際に琥珀を倒した圭太は、一桜の近くで倒れたまま力なく手を振る。真剣な表情で治癒魔法を使用している一桜に怒られてしまった。
「ボクやシリルとのことは覚えてても、どうやって出会ったのかは覚えてないみたいだね。それも当然だけど」
「まさかすべてそこの倒れている人間が関係しているとでも言うつもりですか?」
ナヴィアとシリル、琥珀を繋いだのは間違いなく圭太のおかげだ。彼がいなければ牢屋でシリルの助けを借りようとはしなかっただろうし、琥珀と出会うこともなかった。それどころか魔界を出ることすらなかっただろう。
「関係どころか中心だっての」
「そうだね。そして君の涙がその証明だよ」
シリルが呟き、琥珀もしっかりと頷いた。
圭太の存在の大きさは、彼を知る者なら誰でも理解している。今の状況を作ったのもすべて圭太がいたからなのだから。
「記憶はなくても確かに覚えてるんだよ。だから再会できたことが嬉しくて、涙が出るんだ」
「そんなわけ、ありません。わたくしはずっと一人で生きてきました。誰かを待ち望んでいたような気はしますが、誰のことか分からないんです。きっと気のせいなんです」
覚えていると言われても、納得できるわけがない。
誰かを待っているような感覚はある。いつか必ず迎えに来てくれるような予感はあるけれど、誰かは思い出せない。そんな不思議な感覚はある。
だけどもう十年経った。
きっと気のせいで勘違いなのだ。誰もナヴィアを迎えに来てくれるわけがない。そんな諦観を抱き始めていた。
「ああもうっ! じれってえ!」
シリルが苛立ちを露わにして、もう一度頭をガシガシと乱暴にかきむしった。
もう面倒くさかった。理屈じゃないのだ。なら行動に移すしかない。
「ナヴィア! 動くなよ!」
「えっ? シリ――!?」
突然ビシッと音が出そうな勢いで指を差され、ナヴィアはとても困惑したように目を泳がせる。
そんなエルフにシリルはズンズンと大股で歩み寄り、後頭部に手を回して強引にナヴィアの唇を奪った。
「――ぷはっ! これでどうだ!?」
「シリルお前、そんな趣味があったのか……」
「何勘違いしてやがる!! 違えよ! オレの魔力を注いだだけだ!」
口を離したシリルに圭太は信じられないものを見るような目を向ける。シリルは顔を赤くして勢いよく吠えた。
「正直に話してみな。笑ったりしないから」
「だから違えって言ってんだろ!」
圭太は治療中で指一本動かせないが、ニヤニヤと笑みを浮かべる。シリルは耳が痛くなるぐらいの大声で叫んでいた。照れ隠しだろう。
「いい判断ですわ。シリルがケータを覚えていたのはその特殊な魔力のおかげです。ならナヴィアの記憶を取り戻すこともできるかもしれません」
治癒魔法の合間に話だけは聞いていたらしく、一桜は何度も頷いていた。
「アァァアアアァア!?」
「ナヴィア!?」
「一桜の言う通りだ。普通なら、それで記憶は取り戻せるかもしれない」
ナヴィアが頭を抑えて苦痛に叫ぶ。
突然の悲鳴にシリルは目を丸くする。反対に圭太は至って落ち着いていた。
「アダムが何もしてなければな」
ナヴィアもあの場にいた。
アダムが手を出していないと考えるのはあまりにも楽観的だ。




