第八章三十話「次は負けない」
潮の香りが鼻を抜けていく。
木目の浮かんだ足場が揺れる。水面が波打ち、影響を受けているのだ。足場が揺れているというのに穏やかな流れのせいで段々眠たくなってくる。
圭太たちは船に乗っていた。目的は言うまでもなく魔族たちが住む大陸へ移動するためだ。
「おぉー、これが海ってやつか」
「わたくしも初めて見ましたわ」
シリルと一桜が初めて見る海にテンションを上げてさっきから船の上を走り回っていた。まるで子供のようだ。年が近いから姉妹のように見えるかもしれない。本人たちに言ったら間違いなく酷い目にあうので口が裂けても言葉には出せないが。
「よかったね。船が出てて」
「ああ、走らなくて済んだな」
前の戦いで共に戦った戦友とただならぬ仲の親友が仲良く走り回っている様子に目を細め、まるで保護者のように見守っている琥珀が圭太の隣にそっと並ぶ。
圭太はニヤリと口元を綻ばせて、冗談めかして彼女の肩を叩く。
圭太たちが船に乗れているのは琥珀と一桜の交渉のおかげだ。圭太には脅すことしかできないが、二人は溢れるオーラで人をあごで使うことができるらしい。今も船を操縦している船長は光栄ですとばかりに何度も頭を下げていた。
「ボクとしてはそれでもよかったけどね」
「やめてくれ。俺はまだ死にたくない」
「よく言うよ。いっつも死にかけてるくせに」
光速での移動に耐えられない圭太がうんざりとした顔で答えると、琥珀はどこか責めるような目を圭太の横顔に向けてきた。
いつも死にかけている。それはどう取り繕おうと事実なので、圭太は曖昧な笑みを浮かべて誤魔化す。
「……今回は作戦あるの?」
「アダムを倒す? ねえよそんなもん。あったらあんな無様しねえっての」
アダムを倒す手段なんてあるわけがない。あったら先手を打たれるような無様はしていない。
琥珀とイブが揃っていればまだ勝ち目はあるかもしれないが、圭太にどうこうできるようなわけがない。文字通り格が違う相手なのだから。
「だからまずは情報収集だな」
だからこそ、圭太は最善を尽くすしかない。
「争いの歴史をなくしたんなら、きっと向こうの大陸は聖地扱いだ。情報も多いはずだぜ?」
「さすがだね圭太君。怖いとか思わないの?」
「思わねえな。次は負けない。燃えるだけだ」
負けて悔しいと思ったのは初めてだった。
圭太はこちらの世界でも向こうの世界でも戦いに明け暮れていた。泥を舐めたのも一度や二度ではない。だけど今までは相手のほうが強かったと割り切ることができた。
圭太の中で渦巻く炎。これが戦意だと初めて自覚したのだ。
「ボクは怖いよ」
自分を焦がしそうな闘志に燃えている圭太とは違い、琥珀は目を伏せて自分の体を抱き締める。
「アダムと戦えば、どちらにしてもこの関係が終わる。エドワード様を殺したアダムは絶対に許せないけど、この関係が終わるのも嫌だな。もう大切な人は失いたくないのに」
圭太がアダムと戦えば、そこが圭太のゴールだ。
琥珀との関係はもちろん、様々なことが変わるだろう。日常だって、誰かに敵意を向けるような生活も終わるはずだ。もしもそうなれば、平和を生きられないと話していた圭太がどうなってしまうのか。琥珀には予想ができなかった。
もしかしたら、今のように圭太に触れて体温を確認することもできなくなるかもしれない。
「心配すんな」
心配そうな琥珀の頭に、圭太はそっと手を添えた。
「俺が負けたときは物理的に終わりを迎えるだろうけど、そんな未来を受け入れるつもりはない。俺が勝てたなら、琥珀との関係が終わるわけがない。何度も言わせんな。俺はお前とずっと一緒にいたいんだ」
「でも……」
「まあ、琥珀がどうしてもって言うなら考え直せとは言わないさ」
圭太は当然琥珀との関係を終わらせるつもりはない。死ぬつもりもないし、今さら彼女を手放すつもりもない。
だけどそれでも琥珀が心配するというのなら、これ以上圭太は文句を言うつもりはない。心配するなと言ったのだ。それでも不安なら、多分抱えておいたほうがいいだろう。何かの助けになるかもしれないし。
「でも今はアダムを倒すことに集中してくれ。俺を殺したくないならな」
「うん。そうだね。不意をついたとはいえイブを上回ったんだ。ボクも気合いを入れないと」
「そういうこと。今はとりあえず、一点に集中しないとな」
琥珀はイブを倒せずに封印した。だけどそんなイブでさえもアダムは凌駕した。不意打ちという卑怯な手を使ったが、それが現実だ。
気合いを入れている琥珀に、圭太は小さく微笑んだ。
「アダムを倒してイブを助ける。話はそれからだ」
すべては終わってから考えればいい。それまでは、彼女に不安を感じないでもらいたい。
なんとなく現実に起こるような気がするから。




