46 シガルの決意
それから李花は忙しい日々を迎えることになった。
シガルの実家に行く。それは結婚を意味することでその準備が進められる。
シガルの両親はすでに亡くなっており、ボット家は彼を残すのみだった。彼自身、通常は武堂の宿舎で生活しており、時折実家に戻る程度だったため、すでに使用人達には暇を出していた。
それでも荒れ果てないように、時折人の手をいれて掃除をしているため、李花が住むことには問題はなかった。
問題は彼女の髪と瞳の色彩で、異世界の者であることは明らかなので、周りへどう説明するかが話し合われた。
結局最初の設定を利用し、異世界の血をもつサイラルの親族であり、先祖がえりということで纏まり、異世界からきた事実は伏せられることになった。
心が通い合ったあの日以来、李花は日本に戻りたいとシガルに言うことはなかった。
彼もそのことに触れることなく、数日が経過した。
李花が女性として戻ってきたことを大臣だけには明かし、彼らのからの要請で、広間でささやかな晩餐会を開くことになった。
「これは、コダマ様。なんと豊満な体、いやいや、可愛らしい女性だったのですね」
「驚きましたぞ」
出会い頭に財務大臣と国防大臣に、なにやら訳のわからないほめ言葉を言われ、シガルは寒くもないのに、自分の着ている近衛兵の上着を李花に羽織らせた。
胸もお尻も大きい李花用にマグリートが贈ったドレスは、彼女の魅力を存分に引き出すもので、目に毒であった。
しかし断るわけにもいかず、シガルは彼女が着る事に合意したが、結局は最終手段に出た。
向かいに座る大臣達は、豊満な胸が隠れてしまい明らかに残念そうで、シガルは怒りのため身分を忘れそうになっていた。
(確かに胸が大きく開きすぎだったもんね。上着は暑いけどあったほうが安心)
彼の気遣いに李花は嬉しくなる。
そうこうしていると、キリアンが部屋に現れ、晩餐会が始まった。
「リカ。お前がボット家に行ってしまうと寂しくなるな」
「そうおっしゃっていただき光栄です」
「おっ。コダマちゃん。近衛兵の妻らしい受け答えができるようになってきたじゃない?」
近衛兵は、兵団の中ではエリートであり、実力のある者がその地位につける。兵団は近衛兵団、警備兵団の二つの組織からなる。警備兵団はさらに国内警備隊と国境警備隊に分けられている。
シガルは、王妃であった姉の後押し等と揶揄されたり、やっかみもあったが、その噂をねじ伏せるほどの実力を見せて、近衛兵になった。そうしてこれまで周りからの信頼を得てきている。
そういうことをメリルから聞かされ、李花は近衛兵の妻になるに当たって、勉強していた。
先生は勿論メリルで、サギナの妹らしく見事なスパルタ指導だった。
しかし、以前よりは二人は打ち解け、この国に心が許せるものが少ない李花にとってはメリルは大事な同姓の友人となりつつあった。
メリルの指導の成果をみせつつ、無事に晩餐会は終わる。
サイラルの親戚でシガルの婚約者として、王宮で知れ渡ることになり、李花の仮の住まいは小屋ではなく王宮内に移った。
以前借りていた王妃の隣の部屋とほぼ同じ大きさの部屋を当てがられ、メリルが専属のメイドになる。
部屋に戻り、メリルの手を借りドレスを脱ぎながら李花は思い浮かんだ疑問を口に出す。
「あの近衛兵の奥さんって、家事とはどうするんですか?」
「ボットさんの実家であれば、使用人を雇われると思います。そういうことで、ご心配はいりません。あと厠も部屋にありますし、湯浴みもできるはずです」
メリルは泰貴の世話をしていたこともあり、異世界人の生活様式をすこし理解していた。そんなことで李花はますます彼女に頼り、元々姉御気質だったのか、彼女も言葉は冷たいままであるが無下に扱うことはなかった。
そんな風に、李花は慌しく毎日を過ごしていたが、少しずつシガルの態度に疑問を持つようになっていた。
一緒に話していても、考え事をすることが多くなり、虚ろで彼らしくなかった。
聞いてみたが、説明をすることなくはぐらかされる。
李花がアヤーテに戻ってきて十五日後、いよいよ婚儀は一ヶ月に決まり、それに向けて準備を始めなければならないが、彼は完全にやる気を失っていた。
「シガルさん!どうしたんですか?」
その態度に彼女はとうとう我慢できなくなった。
「別に何も」
しかし、いつもどおりの返事で李花は完全に頭にくる。
(結婚したくないの?やっぱり馬鹿な私に嫌気が差したとか?)
「シガルさん。私との結婚を後悔しているとか、私のことを嫌いになったのであればはっきり言ってください。マグリート様に頼んで就職先を探してもらいますから!」
胸をもまれた事実は腹立ちならないことであったが、それ以外の部分でマグリートは李花のよき相談相手になっていた。
シガルの浮かない様子も相談し、面白そうに笑った後、就職先の斡旋を提案してくれたのも彼であった。
「マグリート様?あなたはそんなことを彼に相談していたのか?」
「だって、シガルさん。本当に嫌そうじゃないですか!私が馬鹿で物覚えが悪いから、嫌になったんですか?」
あれから何度かシガルと公式の場に出ているが、どうもうまく振舞えていなかった。なぜか人に絡まれ、その度にシガルに救出されるという構図が出来上がっている。
「それは違う!ただ、リカはやはり元の世界に戻りたいのか?」
「元の世界、」
(日本)
シガルの情緒不安な様子を見てから、李花は考えないようにしてきた。
しかし彼から話を振られ、一気に父と弟、そして思い出が溢れ返る。
「明日は満月だ。あなたが戻りたいなら力を貸す。俺は、」
「シガルさん!私は、戻りません。あなたの側にいますから」
(ああ、だから彼はおかしかったんだ。私が帰りたいと言ったから)
自分が嫌われていないと知り、李花は安堵する。そして同時に彼の側で一生を過ごすと決めた。
(私はこの人が好きだ。だから悲しませることはしたくない)
彼女はシガルの胸に飛び込む。その体が微かに震えているようで、その背中に手を回す。
「シガルさん。好きです。愛しています」
愛など語るのは小説や映画の中だけだと思っていた。しかし、この胸に宿る気持ちは恋ではなく、相手を守りたい、大切にしたいという恋よりももっと確かな、深い感情だった。
★
翌日の朝、李花はいつも通りの朝を迎えた。
異変が起きたのは夜だった。
夕食を食べた後、記憶がなかった。
気がつくと彼女は日本の服を纏っており、王宮の池の畔にいた。
そこにいるのは、シガルと李花だけで、彼は普通の近衛兵の服を着ており、儀式用の服ではなかった。しかしその手には小剣が握られており、彼がこれから何をするか物語っていた。
空には美しい満月が浮かんでいる。
「なんで、シガルさん!」
「俺は、あなたに後悔してほしくない。だから、あなたをもう一度ニホンに帰す。十六日後、あなたが俺を、この国を選んでくれるなら、もう一度戻ってきてくれ」
シガルはそう言うと小剣で親指の先を切った。
血があふれ出し、池に一滴、また一滴と垂らす。池の表面が輝き始めた。
「シガルさん!」
足を踏み出そうとしない李花を抱え、彼は池に入った。
「リカ、愛している」
シガルがそう囁いた後、彼女の体が光り始めた。そうして空気のように消えてしまった。予想通り、異世界に行けるのは女性だけ。泰貴の場合は李花を巻き込んだ例外だった。
シガルは親指から流れる血を止めようともせず、握り締めると、空を仰いだ。