34 日本へ
李花たちがアヤーテ王国に来たことは、公式に記録されず、公にもされない。
それが国民のためだとされ、最後の日であったが、特別なことがあるわけでもなかった。
ただ、シガルは近衛兵の仕事を休んでおり、別の者が李花の最後の警護兼世話係を担当していた。
「あいつ、本当。アホか?」
公的記録に残すわけにはいかないため、盛大に送別の宴ではなく、ささやかな昼食会が中庭で開かれていた。
マグリートにからかわれるサイラルを面白く見学していた泰貴は、シガルの姿が見えないことに気がつき、あきれた声を上げた。
「アホじゃないですよ。私は、それでよかったです」
自分の気持ちを自覚していたので、今日会ってしまったら一生忘れられなくなりそうで、李花はシガルが不在なことに内心安堵していた。
昨晩シガルと一緒にいたこの中庭は、太陽の光が庭内に満たされ、木々や花々が光で輝き、眩しいくらいだった。
(でも、昨日、私はここに彼といた。泣いてしまった私をボットさんは抱きしめてくれたっけ。まあ。謝られたけど。あれは結局どういう意味だったんだろう。まあ、私の気持ちに気づいていて答えられないっていう意味かな)
昨日、二人に部屋に戻るように言われた後、散々考えだした結論がそれであった。
だから、李花の帰る今日は出勤していない。
(気まずいからかな。まあ、男の私に好かれてもね。でも女の姿だったとしても、駄目だったかも。私は馬鹿だし、迷惑かけてばかりだから)
明るい雰囲気で盛り上がる昼食会にも関わらず、李花の表情は冴えなかった。
「李花。忘れろ。俺たちは日本に帰るんだ。帰ったら色々忙しいぞ」
「……そうですね」
(帰ったらまずお父さんに怒られるし。会社からは解雇か。本当、忙しくなりそう)
慰めるつもりが李花はますます落ち込んでいく。
「うわ。すまん。そういう意味じゃないんだ。心配するな。俺が未来の夫としてお前をきっちり守ってやるから」
「いや、係長。それはちょっと」
(係長のことは前みたいに嫌いじゃないし。どきりとすることもある。でも、恋ではない。だから無理だと思う)
「最初から否定するなよな。まあ、俺も色々努力してみるから。それからでもいいだろう」
「努力?いえ、そんなものは必要ないですよ。本当、私なんて」
「お前さあ。俺は仕事上でかなり厳しくしたが、そんな捨てたもんじゃないぞ。粘り強いし、真面目で、素直だろ。素直っていうのは大事だ。まだ若いし、色々経験して……」
そう言いながら泰貴はあることに気がつく。
「ああ。だから、俺は「係長」としか思われないのか。説教モードだった。とりあえず、俺はお前が好きだ。素直なところとか、正直なところとか。あと馬鹿なところな」
「馬鹿って何ですか。馬鹿って!」
「あ、僕もコダマちゃんのそういうところ好きだよ」
いつの間にかマグリートが二人の傍に来ており、空になったワイングラスを玩んでいた。
「本当は面白いから君に戻ってきてほしいけどね。まあ、陛下が決めたことだし。僕はそれに従うよ。あ!あの二人、また抜けがけしてる。だから、お嫁さんは僕が決めるって言ってるのに」
財務大臣のリカルドと国防大臣のジャンは、今度はサイラルに狙いを定めており、マグリートが李花たちの傍にきてことで、彼を出し抜こう動きを見せていた。
「じゃ、またね」
マグリートは慌てて王の傍に控えるサイラルのところへ走り、二人を牽制する。
「にぎやかだな」
「そうですね」
正に物語の終焉とばかり、明るく賑やかに昼食会は続けられた。
しかし、李花の心中はハッピーエンドとはほど遠く、胸から絶えず血が流れているように痛みが続いていた。
★
日が沈み、闇に包まれる。しかし、上空で輝く丸い月が地上に暖かな光を送り、暗闇を忘れさせていた。
「大きいな」
「そうですね。日本で見た月よりも大きい感じがします」
李花は白のブラウスに黒のスカートに着替えていた。男の体で女性ものの下着を穿くのはかなりの抵抗があったが、どうにか耐えた。服は胸とお尻の大きいため、サイズが大きく、男の身でも窮屈に感じなかったが、靴は違った。身長が伸びたせいか、足のサイズも変化。おかげで、パンプスは履くこともできなかった。しかし、アヤーテ王国のものを持っていると帰れない可能性もあるので、こちらの靴は履かず、裸足のまま、王宮の池の傍に立っていた。
隣に立つのはパンツスーツ姿の美女。ジャケットが大きく、彼氏の服を借りた彼女状態。靴もかなり大きくて、全体的に珍妙な格好になっていた。
王宮の森の中の、池
それが王宮の池であり、国民には聖地とされていた。
王宮自体、一般市民が簡単に入れるものではないので、池を訪れるのは王か貴族。
しかも、貴族の場合も許可を必要としており、王宮の池に近づくものはほとんどいなかった。それでも手入れは定期的に行われており、周りの草花は邪魔にならない程度に刈られ、王宮の池を囲んでいた。
池の端に作られた祭壇にはサイラルが立っており、儀式用に作ったと思われる真っ白な丈の長い上着を身に着け、銀色の鞘の短剣を手にしていた。
祭壇の横には立派な椅子が置かれており、そこにキリアンが正装で座っていた。
儀式の様子を見たいとマグリートを始め、ほかの大臣も主張したが、王家の秘密ということで退けた。
この場にいるのは、異世界の二人――泰貴と李花、そしてキリアンとサイラルの四人のみである。
「始めましょうか」
「いいぞ」
「はい」
いないとわかっているのに、李花は振り返ってしまう。
やはりその場にいるのは四人だけで、「彼女」は自嘲した。
「李花。日本に帰るぞ。この世界のことは忘れろ」
泰貴は「彼女」の耳元でそう囁き、李花は瞼に痺れを感じながら頷く。
(泣くわけにはいかない。キリアンは笑顔が見たいって言ってたし。ボットさんにもそう伝えてほしい)
「リカ。この世界に来てくれてありがとう。余は感謝している。あとナガイもな」
「俺はついでか。まあ。楽しかったよ。女になるなんて、ありえない経験だしな」
「私も、いろいろ辛いこともあったけど、楽しかったです。食べ物も美味しかったし」
「食べ物か。本当、リカは美味しそうに食べていたからな。サイラル。お前も何か言うことがあるか?」
「ございません。私はあなた方を呼んだことを後悔していません」
「本当。頑固な奴だよな。お前、嫁さんは大事にしろよな」
「余計なお世話です」
「あーまたやってる」
泰貴とサイラルがまたいがみ合いはじめたので、李花は頭を抑えた。キリアンは楽しげに笑う。
「サイラルも、すっかり明るくなってよいことだ。笑顔を浮かべてはおったが、明るくはなかったからな」
「陛下。どういう意味ですか?」
「そういう意味だろ」
「あなたには聞いてません」
「ああ、もう!」
帰る前だというのに、厳粛な雰囲気など少しもなく、李花はそっと息を吐く。
(でもしんみりしなくていいのかな。たった十六日間だったけど、なんかすごく長かった気がする。そんで、恋もしちゃったしね。男の姿だったのに)
李花は再びシガルのことを思い出して、泣きそうになった。でも泣かないと決めたので、歯を食いしばった。
「お前、すごい顔してるぞ。ああ、我慢してるのか。日本に帰って元に戻ったら存分に俺の胸の中で泣いていいぞ」
「はあ。それはどうも」
(あんまり嬉しくない。っていうか係長は女性のままでいてほしい。いや、それはだめか。私も戻れなくなるし)
「さあ、いいですね。陛下、始めてもよろしいですか?」
サイラルがキリアンに伺いを立て、彼は李花を食い入るように見つめた。
(ごめん。キリアン)
言葉に出すことができずに、「彼女」はキリアンにただ視線を返す。
「さらばだ。リカ。ナガイ。サイラル、始めるのだ」
王の言葉を合図に、サイラルは小剣の鞘を抜き去る。そして手の平に切っ先を当て、引いた。
「サイラル!」
「え?大丈夫ですか?」
手の平に綺麗に線が入り、そこから血が流れ出す。
「大丈夫です。心配無用です」
痛みを感じているはずなのに、顔色すら変えず彼は手を池に向ける。
すると血の雫が一滴、また一滴と落ち、水面が輝き始めた。
「今です」
「え?でも手の傷は?」
「大丈夫。すぐに光の中へ。長くは持たないと思います」
「李花。いくぞ!」
真っ赤に染まるサイラルの右手、光り輝く池の表面。
動揺する李花の腕をつかみ、泰貴は光の中心に飛び込んだ。