1 異世界トリップ
古玉李花。
それが彼女の名前だ。
歳は二十二歳。
本人は自覚がないのだが、巨乳の持ち主。その上、お尻もこれまた程よく大きい。所謂安産型の模範のような体をしていた。
けれども李花は自身の体型を好んでおらず、スリムな友人達を羨んでいた。
なので、彼女に起きた変化は彼女にはとても嬉しいことであり、性別が逆転していたとしても、彼女にとっては喜ぶべき変化であった。
☆
(あれ?)
李花が目覚めると視界を覆ったのは灰色の天井だった。
しかもコンクリートでもなく、石造りで、彼女は驚いて体を起こす。
寝ていたのは木製のベッドで、すぐに体に違和感を覚えた。
いつもの息苦しさがなくなっており、反射的に胸に目を向ける。
「え?」
胸の膨らみがなかった。
寝ていると息苦しくなり、乳房の下に汗をかくこともよくある。
それがぺったんとなくなっており、嬉しくなる。
だが股の間に何が挟まっている感じでしておかしかった。
買った覚えのない黒のズボン。上着も見たこともない綿製。作りも手縫い感が漂うもの。
(まあ。それは置いといて)
自分の体の変化のことが気になったので、李花はズボンの上からそっと股の間を触った。
「え?えええ?」
「なんだ。うるさいぞ、古玉!」
口調は横暴、しかし艶のある高い声で怒鳴られた。
股間を触って、固まっている李花の隣のベッドで体を起こしたのは、長い黒髪の女性。睫毛が長くて、色白で、お人形のような美人。彼女は目を細めて李花を凝視していた。
「古玉?」
(名を呼ばれた?しかも苗字?)
よく見れば、李花が苦手とするあの人の面影があった。妹がいたらこんな感じだろう、それくらい似ていた。
しかも記憶を辿り、目を覚ます前まで一緒にいたことを思い出す。
「お前、古玉なのか?なんで、そんな」
言い方があの人そっくりで、李花は嫌な予感がした。
自分の体の変化、それならあの人も変化していてもおかしくない。
「……もしかして係長ですか?」
「そうだが?お前は古玉だよな?」
「はい」
「なんで、お前。胸がないんだ?しかも、髪まで短くなって。背も高くなってるようだし。まるで男みたいだが?」
係長――長井泰貴は李花を睨んだまま、横暴に放つ。
以前なら、おびえてしまった李花だが、美人に色っぽくそう言われても迫力がなかった。
(係長?気づいていない?髪も長くなって、背も縮んでるのに。だいたい小さいけど胸もちゃんとあるみたいなのに)
李花はおかしくなって笑い出してしまった。
「……何がおかしいんだ?」
「だって、係長。私が男みたい。いや、男になっちゃったみたいなんですけど。そういう係長は、女の人になってるみたいですよ」
「あ?」
泰貴は李花の言葉に自分の体を改めて確認した。まずは髪の毛、それから顔に触れ、最後に胸に目を落としていた。
小さいが女性的膨らみをそこに見つけ、彼は絶叫した。
「なんだこりゃーー!!」
★
話は数時間前に戻る。
「古玉!」
「はい!」
泰貴に呼ばれ、李花は溜息をつきそうな自分を抑えて、返事した。立ち上がり、顔を向けるといつもの鬼係長が、その二重瞼の涼やかな瞳を細めて睨んでいた。
(なんだろう。もう嫌だな)
四月に、人材派遣会社「箱舟」に入社した。
大学卒業後、就職浪人をすることもなく、正職員に採用されたため、父親は大変喜び、李花は安堵した。
しかし仕事は甘くなかった。女性が多い職場だと思いきや、女性は少なく、係長の泰貴は唯一の新人社員の李花に厳しかった。
ゴールデンウェークに退職の考えがよぎったくらいだ。だが、「働かざる者食うべからず」の信条の古玉家では、ニートなど許されない。
なので、仕方なく仕事を続けている。
厳しいのはなぜか係長だけで、先輩方は親切な人ばかりだった。
「聞いているのか?」
「は、はい?」
(しまった。なんだっけ。確か書類の、)
「古玉!何度言ったらわかるんだ。正式な文書に口語体で書くな!」
怒鳴られて渡されたのは、今朝作成した求職者リストだった。もちろん氏名は伏せてあるが、性別、年代、および希望給料、所持資格など特徴を明記している。
人材を採用してもらうため、月一で各企業に郵送やメール送信でリストを送っている。
「……明るく、協調性があってアパレル企業にはピッタリ?ピッタリとはなんだ?ここは適正がある、とかだろうが!」
(はは、なんか勢いでピッタリって打ってたなー)
ノリノリで皆さんの特徴、いわゆる短いプロフィールを作っていたことを思い出し、李花は苦笑いを浮かべる。
「やり直しだ。赤で修正してやったから、今日中に終わらせろ!」
「はい」
ご丁寧に赤丸、しかもコメントまでついた文書を受け取り、李花はとぼとぼと席に戻る。
「どんまい」
隣に座る一つ上の先輩が近づき、しょんぼりしている彼女の肩を叩いて励ますと、雷が彼に落ちた。
「そこ!竹下!サボるな!お前も残業したいのか?」
「いえ、とんでもない!」
彼女のいる竹下は、慌てて李花から離れると自分の机に戻り、キーボードを叩き始めた。
(うう、先輩はいい人たちばかりなんだけど。係長が怖すぎて誰も助けてくれない)
手元の紙は赤で修正されすぎて赤く染まっている。
残業は確定事項だった。
「古玉。早く帰りたければ、早く修正始めろ。修正するときは、注意されたことをよく考えて、修正しろ!」
パワハラではないだろうか、いつもそう思うが口に出すこともできず、李花はただ頷いて、仕事にかかった。
リストをよく確認すると、修正はさほど多くなかった。なぜ赤く染まっているかと思えば、コメントが多いためだった。
泰貴の文字は荒い口調とは異なり、繊細なものだった。美しい字で読み易く、李花はコメントを読みながら修正を続けた。
「終わった!」
最後の求職者の欄まで辿り着き、思わずそう声が出てしまった。
いつの間にか部屋には誰もいなく、いや違った。
泰貴と李花が残されており、彼女の声が独り言であるのにやけに響いた。
「終わったのか。一、二度は確認しろよ」
「はい……」
(わかってますよ。それくらい)
少し休憩した後に確認する予定だった。座りっぱなしで肩と腰が痛くなっていた。
「古玉。販売機に行くなら、俺の分も買ってきてくれ。その分は奢る」
「え!本当ですか?」
ちょうどコーヒーを買いにいこうと思っていたので、李花は渡りに船だと、浮かれてしまった。
たった百円だが、人に奢ってもらうのはうれしい。
「ほら。三百円。お釣りは駄賃だ」
「え、駄賃はいらないですよ!奢ってもらうのに」
(なんだか、へんだな)
妙に優しい泰貴に違和感を覚えながら、彼の手の平から、百円硬貨を三枚受け取る。
「なんだ?」
「なんでもないです」
「俺はカナルのブラックコーヒーな」
「了解です」
首をかしげながらも、妙に優しいのはおかしいとは言えず、李花は部屋を出た。
販売機で、ミルクコーヒーとブラックコーヒーを購入し部屋に戻り、お釣りをしっかり渡す。
「ご馳走様です。いただきます」
一応ぺこりを頭を下げた後、李花はタブを開け、コーヒーを飲む。口に甘味と苦味が同時に広がり疲れを癒した上、香りが更に気持ちを落ち着かせる。
それから確認を二度して、李花はリストを印刷した。
「終わりました」
「ありがとう。お疲れ様」
言葉とは裏腹に顔色を変えずに泰貴はリストを受け取る。
「今、目を通すからちょっと待ってろ」
(うへー。これで間違っていたらアウトだな。でも二回も見直したし大丈夫。きっと)
緊張しながら待っていると、泰貴はふと顔を上げる。
(何?間違っていた?)
うろたえる李花に対して、彼は何も言わず、再び下を向いた。
(何なの?)
意味がわからず、眉が自然に八の字になる。
「変な顔だな」
(顔のことか!失礼な!)
再び顔を上げ、暴言を吐いた泰貴に苛立ちを覚えたが、その後に微笑まれ毒気を抜かれる。
イケメンの笑顔は破壊的だった。
しかもいつも怒鳴ってばかりいる彼の笑顔だから余計である。
「間違いはない。帰っていいぞ」
「はっ、ありがとうございます」
笑顔に見惚れていた自分を心の中で叱咤し、李花はぺこりを頭を下げた。
そうして残業を続ける泰貴に挨拶をして、会社を後にする。
その予定だった。
だが、パソコンの電源を切って、空き缶を捨てて、部屋を出ようとする呼び止められた。
「俺も帰るから。ちょっと待ってろ」
(ええ?)
戸惑う李花に構うことなく、泰貴は自分の机の上を物凄い勢いで片付け、その側に立った。
「帰るぞ」
(ええ?)
会社のビルの警備員に、意味ありげに微笑まれ、李花達はビルを出た。
「もう九時だから。駅まで送っていく」
「え、いや、大丈夫ですから」
李花はゆっくりと駅への道を散策して帰るのが好きだった。泰貴と一緒であれば、緊張してそれどころではなかった。
しかし、彼は彼女の意思を無視して、その隣を歩く。
「嫌そうだな」
歩きながら溜息を思わずついていたらしい。
李花はぎくりとして愛想笑いを浮かべる。
「まあ、俺はいつも怒鳴ってばかりだからな」
(わかってるんだ。だったらなんで)
苛立ちながらも上司なので、自分の気持ちを押さえ、黙って歩く。
何分そうやって無言で歩いていたのか、李花の目の前に急に水溜りが現れる。
六月の梅雨の時期。
水溜りがあってもおかしくはない。
「係長?」
だが、隣を歩いていた泰貴は足を止め、その水溜りの表面を凝視していた。
「古玉。おかしくないか?月が映ってる」
「え?」
(何言ってるの?係長)
そうは思ったが、真剣な口調だったので彼女も水溜りの表面に目をやる。
「本当、ですね。月?なんで?」
空に月は浮かんでいない。それどころか、空は曇っており、頭上には星ひとつも輝いていなかった。
しかしその表面には丸い月が映っている。
「係長!」
霊的なものを想像し、李花は怖くなって、隣の泰貴の腕を引っ張る。
だが急に腕を引かれ、バランスを崩した彼は足を水溜りに突っ込んだ。
「お前!」
水しぶきが飛び、ひやりと冷たい感触がした。
泰貴の怒鳴り声がかき消され、眩い光が李花の視界を覆った。