13 係長と異世界の王妃の関係
王宮敷地内には、王と王妃達が住む王宮以外にも、大会議場がある政治の場の政堂、図書館と王立学院が併設されている文堂、兵団本部と宿舎の武堂、メイドなどの使用人が住む支堂、と四つの建物が存在していた。
泰貴の学ぶ学習室は図書館と王立学院に挟まれた中庭の側に設置されている。
光溢れる中庭をシガルと李花は足を進めた。彼は話を聞いた後、すぐに泰貴のいる場所を教え、案内を買って出た。
静寂の中、学習室近くまで辿り着く。大きな窓を覗くと髪を一つに束ね、泰貴が紙に羽ペンを走らせている姿が見えた。
「話されますか」
「はい」
隣に立つ彼は冷たい近衛兵ではなく、李花にとって頼りがいのある青年になっていた。
「私がマーベル様を呼び出すので、その間にあなたはナガイ様と話をしてください」
シガルはそう言うと「彼女」の傍を離れた。学習室に入り、教鞭を取っていた人物――マーベルが部屋に連れ出す。
「よし」
李花は気合を入れると静かに部屋に侵入した。
「どうしてお前がここにいる?」
「係長。お話があります」
「俺は話すことはない」
李花の存在に気がついた泰貴は一瞬驚いて顔を上げたが、すぐに視線を机の上に落し、羽ペンで文字を書き続ける。
(無視、無視なの?人が心配しているのに!)
「彼」の態度に頭にきた「彼女」は机の傍に行き、その羽ペンを取り上げる。
「邪魔するな!」
「係長は卑怯です!」
「卑怯?どういう意味だ?」
李花の放った言葉は泰貴を怒らせるには十分で、「彼」は立ち上がると「彼女」に対峙する。
視線の鋭さに怯えはしたが、怒りはそれを克服する。李花は羽ペンを机の上に叩きつけ、「彼」を睨む。
「自分が犠牲になって私を助けようなんて。最低です!偽善者もいいところです!」
「偽善者って。お前!俺が、お前のためにどんな思いで決めたと思っているんだ。原因は俺だからしょうがないけど。それをなあ!」
感情が高ぶるまま言葉を続けようとして、泰貴は言葉を止めた。
「な、何ですか?」
急に「彼」が勢いを失い、瞳を大きく開いていた。
「お前、泣いてる」
「え?」
指摘され、李花は自分の頬に触れ、頬を濡らす水滴に気がつく。
(うわ。泣いている。なんでこんなときに。怖いわけじゃないのに。ただ悔しく泣いているだけなのに)
「係長。ごめんなさい。別に怒られて泣いてるわけじゃないんです。ただ悔しいんです!」
そう詫びて涙を拭い止めようとするが、一度溢れた涙はなかなか止まらなかった。
「泣くな」
ぐいっと引き寄せられ、抱きしめられる。
同じくらいの背丈なので、李花は泰貴の肩を借りることになり、その艶のある髪が頬を優しく撫でた。
「ああ、胸を貸してやりたいのに」
悔しそうに言いながら、泰貴は自分の肩で泣く李花の頭に触れた。
「俺が悪かった」
「悪いって」
「俺のせいだ。だからお前を巻き込んだことになって後悔してる。傷つけたくなかったのに」
「係長?」
泰貴は李花の背中に両手を回し、抱きしめる。
「この世界に来たのは祖母の田舎が関係しているはずだ。昔祖母の田舎で神隠しがあったそうだ。神隠しにあった女性は曽祖父の姉と従姉妹で、最初は従姉妹が神隠しにあって、一度戻ってきたが、子を為したと言ったため、鬼にかどわかされたと村から追い出された。しばらしくして、今度は曽祖父の姉がいなくなった。彼女は戻ってこなかったそうだ。村人は鬼の祟りだと恐れ、村は衰退していったとか。俺は聞かされた時、鬼のことばかり印象に残っていて、内容までよく考えなかった。でも、今、この状況と照らし合わせると、曽祖父の姉達が伝説の異世界の王妃ではないかと思っている」
(え?ちょっと、どういうこと。係長の曾おじいちゃんのお姉さんと従姉妹が百年前、この国の王妃?)
突然語られたことに驚き、李花の涙が止まる。
泰貴は李花から離れると、机に腰掛けた。そして小さく息を吐くと「彼女」を見つめる。黒い瞳は寂しげで口元は自嘲気に歪んでいた。
「メリルから百年前の伝説を聞いて、俺は祖母の昔話を思い出したんだ。それで一気に話が繋がった。今回、俺はなんらかの儀式を行って呼ばれた。でも俺は男で、女になるために側にいたお前が利用された。そうして性別が入れ替わってしまったのではないか、俺はそう思っている」
「え?」
与えられた情報を李花のあまり活躍しない脳が頑張って処理していく。そうして数秒後理解して、気がついたことがあった。
「それなら係長。私だけが戻っても、私は男のままじゃないんですか」
「………」
その可能性をまったく考えていなかった係長は、目を丸くして口をだらしなく開ける。
「ははは。係長も間抜けな顔ができるんですね!ははは。楽しい」
先ほど泣いていたのは誰なのか、李花は妙におかしくなって笑い出した。
「……くそ。なんで思いつかなかったんだ。そうだ。移動するときに性別が逆転しているのであれば、古玉一人戻っても、性別は元に戻らないままだ。くそ」
「ははは。係長。めちゃくちゃおかしい!」
いつもは馬鹿にしている部下に腹を抱えて笑われ、泰貴は恥ずかしいのか少し顔を赤らめ悪態を付く。
「係長。だから、私たちは二人で帰るんです。王妃なんてなったらだめですよ。それとも、女性の本能に目覚めたとか?」
「そんなものあるか、馬鹿野郎。本当、頭にくるな。戻ったら覚えてろよ!」
「はいはい。覚えてますよ」
李花の心はたくさん笑ったせいか、すっきりしていた。泰貴の脅しも聞き流すくらいの余裕ができるほどに。
「お二人とも十分楽しそうですね」
しかし冷たい声が部屋の入り口から聞こえ、李花の心を凍らせる。
冷え冷えとした声の持ち主はサイラルで、冷徹な表情を浮かべ二人を見ていた。
★
「コダマ様。ナガイ様の勉強の邪魔をしてはいけないですね。休憩は十分に取られたでしょう。マーベル殿、引き続き指導をお願いしますね」
「はい」
サイラルの背後から先ほどシガルと共に出て行ったはずの白髪の老年の紳士が姿を見せた。
(ボットさんが裏切った?まさか)
信頼して真実を話した。
それが誤りだったのかと李花はきゅっとジャケットの裾を掴む。
「俺は勉強などしない」
「……だめですね。ナガイ様。お忘れですか?コダマ様はまだ私の手元にいるのですよ」
(ボットさんが!)
やはり彼が李花の監視役だったのかと予想したが、それはサイラルの後方から足を踏み出した男の姿によって否定される。
「彼が新しくあなたの警備と世話に当たります。シガルは命令違反により一か月の自宅謹慎です」
(ボットさん、ボットさんじゃなかったんだ。でも自宅謹慎って。私のせいだ。ボットさんはキリアンの叔父の立場だから謹慎で済んだけど、他の人だったらどうなっていたかわからないかも)
人を巻き込むことによって、その人の立場を狂わせることもある。そのことを理解して李花は唇を噛む。
「ナガイ様。勉強にお戻りください」
「わかった」
机から降りると泰貴は李花の傍に通る。
「今はおとなしくしてろ。わかったな。婚儀までは時間があるはずだ。方法を探ろう」
その時にそう小声で言葉を伝える。
李花は頷き、泰貴を目で追う。
「彼」は「彼女」の視線に気が付き、微笑むとマーベルの傍の椅子に腰を下ろした。
「何を考えているか予想はついてますよ。さあ、コダマ様。お部屋に戻っていただきましょう。サギナ、コダマ様を部屋まで案内してください」
「はい」
サギナは微笑み、李花の前に立った。
「さあ。コダマ様。参りましょう」
彼の声は穏やかで優しい。
しかし彼はサイラルの部下であり、監視役であることは間違いなかった。李花は心を引き締めると彼の案内に従った。
王宮内を歩くのも回数を重ね、少しずつであるが「彼女」にも場所の違いがわかるようになっていた。
そうして見覚えのある場所を通り過ぎそうになり、ある考えが浮かんだ。
(ダメもと。運を天に任せてみる)
「あの、急に厠に行きたくなったのですが、行ってもいいでしょうか?」
廊下の隅の小あさな部屋。
壺だけが置かれているトイレを指さし、李花はサギナに許可を求めた。
「いいでしょう。どうぞ」
部屋には窓はない。
入り口で見張っていれば逃亡の危険はないと判断したのだろう。
サギナは笑みを湛えたまま頷く。
「あ、ありがとうございます」
一応扉を軽く叩き、使用者がいないことを確認すると扉を開けた。
アンモニアの匂いが鼻に突き、李花は鼻を押える。
(嫌だけど、またトイレにいきたくなるかもしれない」
異世界に来てかなり図太くなった李花は見慣れたあれにも動揺することなく、言い訳ではなく小をした。
(どうか、会えますように)
扉を開けると、メイドが廊下の隅から走ってきた。
偶然だと思っていたがトイレ用のメイドがいるようだった。
桶を差し出された李花は手慣れたもので手を洗い、布で拭くとそれをメイドに返した。
(……来ないかな。だめかな)
先を促すサギナに従いながらも、李花は願いを込めて目を閉じる。
「おや。リカ。偶然だな。お前は……サギナではないか?シガルはどうしたのだ?」
「陛下」
「キリアン!」
(やった。願いが通じた!)
サギナは笑顔を凍らせ、首を垂れた。李花もそれに一応習う。
「シガルは自宅謹慎中です」
「自宅謹慎?それはなぜだろうな」
「……申し訳ありません。サイラル様にお尋ねください」
「キリ、王様!あの、お話したいことがあります」
「コダマ様!」
会話に割り込んだ李花をサギナは咎める。
「コダマ様。コダマ様はお部屋にお戻りください」
「サギナ。余はまだ返事をしておらぬ」
逆に諌める言い方をされ、サギナは大人しく口を閉ざした。だが視線は激しく李花を責めていた。
(怖い。怖いけど)
「リカ。余も退屈をしていたところだ。よいぞ。話し相手になってやろう。場所はそうだな。お前の部屋でどうだ?サギナ、リカを部屋に連れ戻すのがお前の仕事であろう。これで責務も果たせるだろう」
「はい。仰せのままに」
サギナは不服な態度を見せることなく、深く頭を下げた。
「あ、ありがとうございます。キリアン!」
李花はキリアンの提案に感謝し笑顔を浮かべると、お辞儀をする。
キリアンはそれを愛しそうに見た後にサギナに視線を向けた。
「サギナ。案内しろ」