9 帰りたい
そうして部屋を出た李花を待っていたのは、無表情なのに苛立ちが伝わる不思議な表情をしているシガルだった。
「これが正装になります」
シガルは白色の布の塊を李花に渡す。その場で広げて見たかったが、彼の視線が怖くて素直に受け取るだけにした。
「それでは着替えが終わりましたら教えてください」
「あの、」
『下着は入ってますか?』そう聞きたかがったが、くるりと背を向けてしまったので、再度聞くには勇気が必要だった。
しかも男色の疑いが掛けられている。
「……私は手伝いません」
隣の部屋に入ろうとしない李花にシガルが背中を向けたまま、口を開く。
「ひ、必要ありませんよ!」
(何か誤解されたんだ。また!)
これ以上の誤解はごめんだと、李花は慌てて部屋に入った。
部屋は「彼女」が数時間前に着替えた時と同じ状態だった。
カーテンが閉められたままで、部屋は薄暗い。
時刻も夕刻に近いので、カーテンの隙間から入ってきた日の光もかなり弱まっていた。
明かりをつけようにも、電気式ではないので李花はどうやって明かりを点すかわからなかった。
「まあ、いいか。着替えるだけだし」
真っ暗ではなかったので大丈夫だと、まずはシガルから渡された布の塊を開く。風呂敷に似た布の結び目を開けば、中に入っていたのは深緑色のジャケットとズボンのセットだった。白色の薄地の布をその下に発見して安堵する。
「やっぱり下着はちゃんとあるんだ。宰相様は絶対に忘れていたんだ。いや、もしかして下着を履いていたと思っていた?」
(ま、いいか。そんなこと。あの人のことだからそんなこと全然配慮しなさそうだし)
着替えようと今穿いているズボンに手を掛けて、動きを止める。
(また、見ないようにしないと)
大きな溜息をついて、一気に二つのズボンに手を掛け下におろした。それがいけなかったらしい。二つのズボンは汗ばんだ足に絡み付いており、足のくびれ辺りで止まってしまった。その上勢い余った李花はそのまま床に転がる。
「大丈夫ですか!?」
運悪く、仕事熱心のシガルが部屋に飛び込んできて、李花は哀れな姿を見られることになった。
(死にたい)
シガルは唖然とした表情を見せたが、すぐに謝ると外に出て行ってしまった。
(助けてくれなくてよかった)
このときばかりはそう思い、李花はゆっくりと体を起こす。そして、ひとつずつズボンを脱ぎ、下着を身につけ、深緑色のズボンを穿いた。上着も着替え、薄暗い部屋で息を吐く。
「ああ、もう嫌。帰りたい」
男体化に夢を見ていた。変化した体に喜んだ。でも今はまったく喜んでいられなかった。早く元に戻りたい。日本に帰りたい、そう李花は願わずにはいられなかった。
★
あまりの恥ずかしさのあまりに、李花は着替えを済ませたが部屋に篭っていた。シガルに合わせる顔がない。
男色趣味と誤解された上に、下半身丸出しを見られてしまった。
このまま消えてしまいたいと思っていたが、メリルに強引に扉を開けられ、廊下に引き摺り出された。
思わずシガルの姿を探してしまう。しかし姿が見えず、安堵していると真紅のドレスを身に着けた迫力美人が視線を投げてきた。
「何かあったのか?」
「い、いえ。別に。係長は、偉く気合入ってますね」
口紅は真っ赤、目元には真っ黒なアイシャドウ。髪は高く結い上げられており、黄金の耳飾りに首飾り。泰貴の豪華絢爛な姿に李花は綺麗というより、凄いという印象を持った。
「俺じゃない。メリルがな」
そう言って大きな溜息を付く姿にも何故か気品を感じる。
「……係長。はまってますね。王妃って感じがしますよ」
「それは嫌味か?」
「ええ!嫌味です!私なんて、巻き込まれただけなんですよ。なのに、」
泰貴の立派な女体化と自分の貧相な男体化を比べ、李花の気分がどんどん暗くなる。今朝から自分の身に起こったことを思い起こし、それまで我慢していた何かが切れた。
「もう嫌だ。帰りたい!係長!帰してください!かかり、ちょう!」
李花の大きな瞳から大粒の涙がこぼれる。言葉は涙に濡れ、嗚咽に変わる。
するとメリルが扉を開け、李花を泰貴と共に部屋に押し込んだ。
「気持ちが落ち着くまで部屋にいらしてください」
何も感情の入っていない言葉であったが、今の李花にとってはありがたいことだった。
「コダマ。落ち着け」
部屋で二人きりになり、泰貴は泣き続ける李花の両肩に手を置き、優しい声で囁く。
顔を上げた「彼女」の涙を自分の指ですくい、その額に安心させるようにキスを落とす。
(かかりちょう?)
頬に触れた唇は柔らかく、暖かかった。
部屋はすっかり暗くなっていたが、その瞳が労わるように李花を見ているのがわかった。
「コダマ。俺がお前を絶対に元の世界に戻す。だから安心しろ」
「係長……」
泰貴の態度と言葉によって、荒ぶった李花の心が落ち着きを取り戻す。涙は止まっており、動悸も治まっていた。
(……本当はわかってる。係長のせいじゃないことは。確かに巻き込まれたのは事実だけど、係長だって被害者だ。なのに自分の気持ちばかり優先して、)
「係長。ごめんなさい」
李花は心の底から反省して頭を下げた。
すると、泰貴は「彼女」の頭を優しく撫でた。
「謝る必要はない。多分、というかこれは俺のせいだから」
「え?」
思いつめたような声に李花は顔を上げる。すると泰貴は「彼女」から逃げるように顔を逸らした。
「随分昔に祖母から聞いた話を思い出したんだ。多分、それが今回のことと関係があるかもしれない」
「……係長?」
「謝るのは俺だ。だから、絶対にお前を元の世界に返す」
それから、メリルが呼びにきて、李花がそのことを問い詰めることはできなくなった。