第三話 初陣
昭和二〇年一一月二五日 ヒューシュリック大陸クラウス山岳地方
長い間手入れがされていないため草木が生え、ひび割れているなど荒れ果てている道路に、馬と兵士が駆ける。
切羽詰まっていることを示しているかのように、馬は全速を出して後ろから迫りくる何かに逃れようとしていた。
馬に乗っている兵士は手綱を力強く握って尻の痛みに耐えながらチラリチラリと後ろの様子を確認していた。
少しずつ距離を詰めてきているおぞましき何かの姿に、彼は顔を強張るのを感じた。
実に醜態な姿であった。数は二〇から三〇程。二種類の生き物で構成されている。
一つは、人よりも小柄で小回りが利いて素早そうだ。肌は緑色で眼窩から少し飛び出している瞳は金色に輝いている。鋭く尖った爪を前に出して今にも飛びかかろうとしている。
二つは、人よりも大型で動きは怠慢であったが、人を殴り殺せる位の太い腕、木を荒削りして作ったと思われる棍棒を握っている手など肉弾戦ではとても強そうであった。焼け焦げた木の如き灰色の皮膚、口元から出ている鋭い犬歯が獰猛さを醸し出していた。
彼はこの生き物たちを知っている。だが、それらは伝説や民話、ファンタジー作品内の存在で実在していない筈だ。
今、彼は強く認識した。ここは地球とは違う世界であることを。夢ではない。大抵は敵役である彼らの攻撃によって飛んだ小石が頬をかすった際の痛みがこれは現実だと主張した。
「――ゴブリン、そしてオーガ」
オーガと呼ばれた灰色のモンスターの一匹が棍棒を彼に向かって投擲する。それは彼の少し離れたところの地面に命中した。衝撃によって飛んだ土と小石が彼に襲いかかる。
投擲と命中が繰り返される。なぜかオーガ共は一斉に投げることはせず一匹ずつ投げてきた。
そのことに最初は疑問を抱いていたが、あることに思い当たり彼は怒りがこみ上げてきた。
遊んでいるのだ。このバケモノ共は。
反撃したい衝動に駆られるが、多勢に無勢、一方的にやられるだけなので歯ぎしりして耐えるしかなかった。
感づいたことを悟っているかのように、命中位置が徐々に彼がいるところに近づいていく。
「何で……」
堪らず彼――早川秀一は叫ぶ。
「こんな目に遭うんだ!!」
己の運命を激しく呪う。意図せずにこの世界に訪れ、思いかけずにこの任務を引き受けたことに、何かの因果を感じずにはいられなかった。
始まりは三日前にさかのぼる。あのとき早川は不慣れな草むしりに悪戦苦闘していた。
◇
現地住民から《クラウス山岳地方》と呼ばれるこの山岳地帯には大中小の盆地が複数存在している。現地住民たちが住宅や畑に使用している場所を除いた殆どの場所は草木がうっそうと生えており人の手が入るのを拒絶していた。
かつては全ての土地は耕作地であったようだ。山の中や地下に都市を築き上げたものたちが何かの技術を用いてここを食料生産地としていたのだ。
人がいなくなってからどれぐらいの月日が経ったのか分からなくなる位に経った後に、再び人が入ってきた。偶然都市を見つけて住み着いた日本人たちである。繋がっていた通路からここを発見した彼らはただちに畑を作り始めた。食料を自給する体制を整えなければ飢え死にするからであった。
現地住民の協力を受けながら、軍では農村出身者を含め農業経験のある将兵を中心に明治期の屯田兵のような営農部隊が編成され、民間でもこの土地を開拓する開拓団が結成されるなど官民挙げての大作業となった。
森林や草原、荒れ野であった土地は急速に開拓されていき畑となっていった。時期が厳しい冬間近であったため、作物の栽培は春頃になるのだが、その準備も整えられていた。
ここは、都市群の西の端にある四つの盆地のなかで最も大きく広い平原が広がっており、元の名前は分からないが《天府の地》と呼ばれている地である。
早川はそこで痛みを放つ腰を曲げたり伸ばしたり、手でトントンと叩いていた。
「ああ、腰が痛い」
と痛みが出ている箇所に刺激を与えることによる快感を覚えながら愚痴を漏らしていると現場監督の将校に怒鳴られる。
「こらぁ!! 腰を叩いている暇があった作業しろ!!」
慌ててしゃがんだ早川は両手を使って草をむしる。今の彼の役割は整地された土地に生えている雑草を根ごとむしり取って回収するという、整地された土地の手入れであった。
「上官の奴、威張りちらして。楽でいいなあ」
軽く見ていた草むしりは経験がない者には以外と重労働であった。何せしゃがむ、中腰などきつい姿勢を長い時間維持しないといけないからだ。農業を手作業でやっていた頃の農民が歳を取ると腰の骨が変形する理由を、早川はこの身で経験していた。
草刈機が便利なんだろうなと早川は内心で愚痴る。
慣れている奴にやらせれば効率がいいのに、整地させるのに最優先のためか、草むしりは学生とか農業未経験者とか未技術者と非学者など特に秀でたものではない者にお鉢が回ってくる傾向があった。戦闘によって所属先の部隊が壊滅してしまった生き残りの将兵、新兵、戦傷兵で構成されている《臨時編成混成部隊》も例外ではなかった。
漂流してしまった日本人のなかで最も働いている営農部隊や開拓団の面々に不公平感を抱かせないためだろうか?
「――案外そうではないよ」
最高についていないと早川が思っていると、誰かが彼に話しかけてきた。坊主頭が目立つ、温厚そうな顔立ちで笑顔が眩しそうな男だ。彼の名は西村篤。歩兵上等兵であった。この部隊に配属されたばかりの早川によく話しかけていた。早川は彼に悪い印象を持っておらず、別のところや時代からここに流れ着いたせいで何も分からない自分に色々と教えてくれるありがたい存在として、良好な関係を築いている。
「どういうことだ?」
「現場監督の責任がある以上、予定通りにいかないと現場の管理能力に問題ありと評価が下されるからね。あの人たちも必死なんだ。こんな作業でも例外じゃないんだ。放置していたら後にどんな影響を及ぼすか分からないから神経質になっているんじゃないかな……」
「だけれどもな。八つ当たりにしか思えないぞ」
早川の言葉に、西村は首を振る。
「それに厳しい冬が来る前に整地しないと、来春の作付けに間に合わなくなる。こうなったら俺たちは飢え死だ……」
そう言われると西村は何も反論できない。発見された都市群は長い年月放置されたにも関わらず状態が完璧に近いほど良く、使い方が判明し使われるとすぐに機能したという。それは各都市に存在した食糧倉庫内にあった食料も同様であり、作られた当初の姿と品質を維持していた。そのお蔭で、数百万の日本人は飢えることはなかった。
だが、倉庫にある食料は無限にある訳ではない。どうやら必要最小限の量しか各倉庫にはなかったようだ。この地、クラウス山岳地方に流れ着いた《漂流日本人》の胃袋を満たせられるのは良くても一年以内らしい。
そのことを軍と臨時に設立された行政府が発表していたことを他人の口から知った早川は詰んだと思い軽く絶望したと思い出す。
「それに働かざる者食うべからず……さあ楽しい労働を行おう」
「畜生、これだったら腕立ての方がマシだぜ」
そう吐き捨てて再び作業を行う西村の姿に、早川はため息をついてもうやけくそだと言わんばかりに体を動かし始める。
何も考えたくないから課せられた役割を黙々と果たしているのか、先のことを恐れて何もしないよりも先を変えられる可能性を高めるために努力しているのか、あまりの衝撃にやけになることができずに達観に至ったのか、彼らとは違う立場であるが決して神様ではないごく普通の人間である早川には分からなかった。
しかしこの動じていない姿に、早川は彼の基準では昔である日本人は逞しく思えた。どんな精神構造をしていればこんな態度が取れるのか疑問であった。自分なら自暴自棄になる自信があった。そうなっていないのは集団の圧力によるものだ。
そんな彼らのなかに混じって生きていく覚悟と生き残る自信が今の早川にはなかった。
誰かの呼び声が聞こえてくる。自分の名前ではないので早川は無視した。
言われている奴が作業に集中しているのか、呼ぶ声が止まらない。その声が途切れやっと気づいたかと呼ばれた奴の熱心さに呆れ半分、感心半分の感情を抱いていると――。
「早川秀一郎!!」
「は、はい」
早川の祖父の名前を呼ぶ、半ば怒鳴り声に等しい声が後ろの近いところから聞こえてきた。そのときになってやっと早川は自分が呼ばれている頃に気づいた。しまった、今俺は既に戦死した筈の祖父だと周りに偽っているのだと自分の迂闊さを悔やみながら慌てて反応した。
「何をやっている……」
「作業に熱中していたため気づきませんでした。申し訳ございません」
言い訳を答える早川に対し、彼を呼んだ少尉は疑念に満ちた視線を向けた後にワザとらしいため息を吐いて問いかけてくる。
「貴様は確か馬に乗った経験があったようだが、本当か?」
「はい。兵士となる前からよく馬に乗っていました」
嘘は言っていないと早川は内心で呟く。
ノモンハンで戦死した祖父が残した手記や身内で伝わっている逸話によれば生まれである華族らしく乗馬を嗜んでおり、不本意ながら軍に入った際に騎兵となるのを志す位に馬に乗ることが好きであった。祖父の影響か、早川も青春時代は馬術大会で結果を出すために乗馬に明け暮れていた。
就職したことで疎遠となったが、今でも腕に自信があった。祖父が散った地を訪ねた際、モンゴルの伝統衣装テールの格好となって久しぶりに乗馬したが難なく乗りこなした。まあ、そのお蔭で巻き込まれてしまったのだが……。
「そうか……蒙人の世話になっているときも馬に乗っているだろうな。ならば俺について来い」
癪にさわる発言をした少尉に、早川は少々立腹したがそれを顔に出すことはなく付いていくことにした。
「頑張れ」
「おう」
後ろから聞こえてくる西村の簡潔な応援に、早川は簡潔に返した。
◇
(それで……雑草狩りという重労働を逃れたと思ったら、偵察任務という重労働が待ち受けていた)
バケモノの魔の手から必死になって逃れている早川は呼ばれた後のことを思い出す。
乗馬の実力を試され、尉官に見下されたことに対する怒りと苛立ちが残っていたためそれらを晴らすために全力で乗りこなしたら、上官から、兵士だけしか踏み込んでいない北の領域の偵察を指示された部隊に早川の編入が決められた。
詳しいことは上層部しか知らされていないが、早川が上官の口から知っていることは、北部を偵察していた全部隊が何かに襲われているという連絡を残して全員消息を経った。一体何が起きたのか確認するためと行方の捜索のために再び部隊を派遣することになった、そして自分がこの部隊に編入されることになったということだ。
航空偵察を行えばいいのだが行わないことを見ると、飛行場は未だ設営中で離陸することができないか、貴重な戦力とそれに使う資源と労力を考えればことが大きくならない限り上層部は投入しないつもりなのだろう。
自動車や戦車も燃料が貴重で山岳の移動に適していない。そこで燃料を消費しない騎兵に白羽の矢が立ったということだ。歩兵よりも素早いため小隊を行方不明にさせた存在から逃れられると上層部は考えたのだろう。
二日かけておそらく大陸最北端である現地住民が住む村にたどり着き、そこで協力者と合流し消息を絶った場所に向かう。その途中で洞窟を発見、隠れやすい場所と判断した部隊長はそこに陣地を設営、完成すると騎兵と協力者二人一隊で編成された騎兵隊を、扇状に描いた索敵線に則って放った。
それで、捜索の結果は――今の鬼ごっこという訳だ。
詳しく説明すると、捜索の途中で馬が興奮し道の先に行きたがらなくなるという異常が発生した。やむをえず下馬し徒歩で先を進んだ早川は血の臭いがしてすぐに血痕が地面に付いていることを確認された、しかも引きずられた痕でずっと先まで続いていた。残されて血塗られていた物品からしてこの血痕は消息を絶った部隊のものであるのは明らかであった。遺体、肉片すらも見つからず何かの不気味さを覚えさせた。
早川と一緒にその光景を見てしまった協力者の一人である若いドワーフは青ざめた顔で『ゴブリン……オーガ……緑のバケモノがこの地に戻ってきた』と意味深なことを発言、問い詰めようと思ったものの先に本隊に伝えることが重要と判断し連絡を送り指示を求めた。
本隊からさらに詳細に調べるようにという指示が来たため、協力者の案内のもと、先の景色が詳細に見える高所に移動した。その場所にて山間にある谷底を沿って移動している緑色の集団を確認。拠点がある南方には向かっていなかったものの、西の方角にある一番高い山々に向かっている様子であった。
その様子を写真に収め、現地住民から貸与された通信石を通じて本隊に連絡していると、正確な場所は分からないが比較的近いところから咆哮が聞こえてきた。まるで仲間に知らせるように一定の間隔で同じ声が響き、それに早川は何か胸騒ぎを覚えすぐに本隊に連絡しながら馬を置いた場所に戻った。
乗馬してすぐに地響きが聞こえてくる。馬たちはおびえた声を漏らし言うことを聞かなくなった。
脅したりして何とか言うことを聞かせた瞬間――奴らが来た。濃厚な殺意を全身に纏いながら二人に迫りくる。
それに早川は協力者を先に逃がして、拳銃でゴブリン一匹の頭部を撃ち抜きことで集団を挑発、目が自分に向かうように仕向けた。この策は見事に嵌る。この鬼ごっこは三〇分も続いていた。
「どうしてこうなった」
早川は頭を抱える。
自分を、面識はなかったが尊敬していた祖父を敗残兵と蔑んだ上官に頭が来て実力を出し過ぎたのは不味かったのだろうか? こんな疑問が脳裏に過る。
簡単に腹を立てたことに今は後悔しかなかった。それだったら馬鹿にされたまま草むしりをした方がマシであったと心に潜む怠惰が早川を咎めた。
同時に移動するバケモノの集団、血痕しか残っていない現場などが脳裏に浮かび上がる。
今は後悔している暇はない――早川は自分自身を叱咤し目に力を込めた。
右側にある高所に複数の影が見えた。ゴブリンである。先にある崖に待ち構えていた。
「……」
待ち伏せされていたことに動揺することはなく、早川は腰に下げていた大きな袋から四四式小型擲弾発射器を取り出す。銃口には少しだけ膨らんだ風船のような形状をした榴弾が差し込まれていた。
機会を見計らって、崖に沢山のゴブリンが集まったと見えたときに乗馬したまま立ち上がって引き金を引いた。
発射音が周囲に轟いた。
強い反動が早川の両腕に襲いかかった。危うくバランスを崩しそうになるが、天性のものと思える乗馬のセンスで辛うじて落馬を防ぐ。自衛官を辞めたことをいいことに鍛えるのを止めていたら地面に頭を打ち付けていたと早川は思う。
真っ直ぐに飛んだ榴弾はゴブリンの頭上で炸裂。破片と内部に埋め込まれた金属球がゴブリンを殺傷していった。流石は大口径の榴弾、信号弾サイズの小型榴弾と比べて威力と殺傷範囲が大きかった。
今まで沈黙してきた相手にいきなり反撃を受けたことに高所のゴブリン共は混乱した。その隙を突いて早川は崖の下を通過する。
絶好の機会をふいにした高所のゴブリン共は意固地となったのか追跡を諦めない。
ならば次の手段を使うまだ。早川は散弾を少しだけ大きくしたような小型榴弾を装填し飛びかかろうとするゴブリンにめがけて撃ちまくった。骸となったゴブリンがみるみるうちに増えていく。
「……」
意地の悪い笑みを早川は浮かべた。
何を思ったのか、排出した小型榴弾の薬莢を後ろから追いかけているゴブリンとオークの集団に向けて投げた。その薬莢は風に煽られて集団の先頭にいたオークの一歩手前の地面に落ちた。勢いよくそれを踏んづけた棍棒を持ったモンスターはすってんころり後ろに転んでしまう。後ろにいたゴブリン数匹を下敷きして……。
その光景を見ておかしさのあまり、早川は大笑いをする。
「はっはっは、ざまぁみろ!!」
すると、腰にぶら下げているもう一つの皮袋から音が聞こえてきた。通信か? と思いながら袋から通信石を取り出した。球形をして弱い輝きを放つ鉱石から人の声が響いていた。早川に初めて目にして手に持ったファンタジー的アイテムだ。近距離での交信ができる持ち運びが便利な原理不明の通信機器であった。
『こちら捜索隊本隊、早川上等兵、様子はどうだ?』
「こちら早川上等兵、芳しくない。バケモノ共がたいぶ浸透していて追いかけてくる数が多い。私は今、本隊本部の一歩手前、あと少しで《岩の橋》に到達します」
通信兵の問い掛けに、周囲を見渡しながら早川はこう答える。山々と山々を唯一繋いでいる橋の形をした岩に石を付けて補強した強固な橋であった。これがなければ徒歩で交互に行くことができない。山々と山々の間にある地獄まで届いているのかと錯覚する位に深い谷からでの移動は不可能だ。
『早川上等兵……』
大変いいづらそうな声の後に音声が一旦途切れた。しばらくして怒声が聞こえてきた。その後に別の男性の声が聞こえてくる。
『捜索隊部隊長、宮島中尉だ……岩の橋の数か所には既に工兵によって爆薬が設置してある……いつでも爆破できる態勢になっているということだ。それで、君に聞きたい、敵はどれぐらいの規模だ?』
最初は何を言っているのか分からなかったが言葉を何度も反芻したことで意味を理解する。そして報告するために早川はチラリと視線を後ろに向けた。
後ろにいる集団は、いつの間に続々と合流していたのか道幅を埋め尽くす規模となっていた。部隊の規模から考えて数で押しつぶされるだろう。それどころか、コイツらの重さに岩の橋が耐えられるか心配であった。一か所だけ崩落するならまだしも一気に全て崩落すれば早川は深い谷底に吸い込まれる。
「……」
そう言ってありのまま正確に報告するのは躊躇われた。
正直に報告すれば、この部隊長が何のためらいもなく部隊生存のために自分を見捨てて橋を爆破する気がした。自分が中尉の立場なら、という基準で即座に出した憶測であった。どちらにしろ、早川は助からないことになる。
ここで終わるのかと早川は深い絶望に陥ってしまう。
気づいたらこの世界に漂流してしまいその拍子か気絶し衰弱していたときに、運良く自分を発見した分隊の分隊長が放置することをせずに助けてくれたお蔭と死んでいる祖父と偽ることで、何とか生き永らえたこの命はほんの短期間の延命で過ぎなかったのか? 早川は自問する。
前の世界にいたときも今の世界にいたときも特に変わったこともなく面白くないつまらないことはない普通で振り回されるばかりの日々であった。そのせいか生きることに執着は特になかった。死ぬことも特に変わったことのないのだろうか? とふと思っていると――。
右腕に鋭い痛みが奔った。骨は折れてはいない。オークの投擲によって飛び散った破片のなかでそれなりに大きさのあるものが右腕に当たったようだ。
一筋の血が零れていた。いつの間にか傷ができていたことに始めて気づいた。
それが萎えていた生存本能が一気に燃え上がり、自答が返ってきた。
「いや……死んでたまるか。お前だってそうだろ?」
早川は自分と同じく漂流に巻き込まれてしまった愛馬に話しかける。その馬は当たり前だと言わんばかりに力強い声を出した。お前を信じるぞと呟いてその馬の頭を軽く撫でた後、報告を行う。彼の脳裏には生き残るための方策が浮かんでいた。
「こちら早川上等兵、敵は道を埋め尽くす程の規模です。橋の一部を爆破して下さい」
『……跳べるのか?』
「それしかないのに、やらないよりやった方がマシです。谷底に落ちても後悔しません」
『分かった、やってみろ。その代わりに俺を後悔させるなよ』
「了解!!」
部隊長の言葉に、早川は力強く答える。やってやるぞ、やってやるぞと心を奮い立たせた。
岩の橋の姿を早川の双眸が捉える。すると、爆音が響き渡り、煙が空高く上がる。岩が崩れ落ちる音も聞こえてきた。吹き付ける強い風が煙を払いのけて急速に視界が回復する。
早川は息を呑む。橋の一部、彼が今いる道と繋がっていた部分が崩れ落ちていた。落ちた距離は相当なものであった。馬が飛んで無事に橋に乗れるか不安になってしまう。
「馬鹿野郎!! 決心したんだろ!! すぐに逃避するな!!」
自分自身に罵声を放つことで鼓舞しながら馬の速度を上げる。一部が欠けた橋の景色がみるみるうちに大きくなっていく。
あとは跳ぶタイミング、機会は一度だけ。失敗すればあの世に一直線だ。
血走った表情、あくまで早川の私感であるがそんな表情を浮かべているのであろう愛馬に、お前に命を預けるぞと内心で呟く。
ギリギリまで接近し、今だ!! と思った瞬間、馬を跳躍させた。
馬が宙に舞い。内臓が浮かぶ感触が早川にはした。
ある一定の高さまで上がると重力に引かれて落ちていく。早川の目にはゆっくりと見えていた。頭が真っ白となっていた。ただ鬼の如き形相で前を眺めている。
「よし……」
そんな声を早川は漏らす。これにさほど間を置かずに橋の上に着地した。やり遂げたのだ。
だが、安堵している場合ではない。何が崩落する音が聞こえ、音がした後ろの方角に視線を向けてみると、何と橋が崩れ始めていた。
元々老朽化していたところに爆発によって生じた衝撃のせいで一気に限界が来たのだ。また、人一人と馬一頭の耐え切れなくなったのか、自分たちがいるところにもヒビが生えていることに、早川は気づく。
ここに長居する必要はないようだ、馬は再び駆け出した。
その瞬間に崩壊の激しさが増す。ほんの少し前までいた場所が崩壊に呑み込まれた。茫然としていたら早川は馬を道連れに谷底に落ちていた。そう考えると、早川の胆が大いに冷えた。
早川を呑み込もうとしているのが崩壊の速度が上がっていく。馬は必死になって駆ける。
「うおおぉぉぉ」
喊声を出しながら、目の前にある石を積み上げて作った障害物を馬術競技の要領で飛び越えた。最後の難関を乗り越え、今自分が地面にいることを確認すると、早川は馬を一旦止めて後ろを見る。
ゴブリンとオークが次々と谷底に落ちていく姿と橋が完全に崩落したことによってできた空間が確認できた。
緊張の糸が切れて疲労感と恐怖感が一気に湧きあがった。よくまあ生き残れたものだと早川は自分自身に感心してしまう。
上から歓声が聞こえてくる。見上げてみると部隊の兵士たちが笑顔で早川を見ていた。すごいな、お前と早川のことを褒めていた。
早川はなぜかやり遂げた表情を浮かべて、右手を勢いよく挙げてガッツポーズを取った。
生の実感を噛みしめていた。
捜索のために派遣された部隊が怪物に襲撃された事実は、即座に支那派遣軍司令部に伝わることになった。
戦火は、収束するのか、それとも拡大するのだろうか?