さぁ、皮肉に告げるプロローグ。愚かなヒロインはステップを踏み始める。
備え付けの淡いクリーム色のカーテン越しに朝日に照らされて、私の意識は浮上した。布越しとはいえ、顔に直射日光が降り注ぐのはなかなかに眩しい。ジリジリと肌が焼けるようだ。まるで、起きろと訴えかけてくるような日の照り方に、何処か世話焼きな印象を受ける。
それでも、私は愚図るように枕に顔を押し付ける。眠い。激しく眠い。このまま二度寝してしまいたいくらいに眠い。
お布団の魔力は偉大だ。こんなフワフワだと眠気を振り切れない。なんでここのお布団はこんなに寝心地がいいんだろう。貴族様とかいるからだろうけど、それにしても眠い。しつこいくらいに眠い。もうこのまま寝て、入学式もサボっちゃえば――ああ、ぬくぬく気持ちいい……。
でも、なんだろう。何か、忘れているような気がする。心の何処かに引っかかりを覚え、それでもどんどん沈む意識に私は抵抗しない。
トントントン。薄れゆく意識の狭間に、ドアを叩く音が滑り込む。誰だろう? 気になるけど、眠い。
「アリスト殿、おはようございます。朝ですよー起きて下さーい」
――男の声。ダレルさんじゃない。でも、知ってる声だ。
トントントン。また、ノックの音。枕から香る淡い花の香りに、この寝具は誰が洗っているのだろうか、なんてぼんやりと考える。
「居留守してもダメっすよー? 今日は、朝からダレル様に頼まれた書物を探すって言ってたじゃないですかー? 起きなくていいんですかー?」
その言葉に意識がいっきに浮上する。ヤバい、すっかり忘れてた。
ガバッと体を起こして、そのままベッドから飛び起きる。完全に寝惚けていた。ダレルさんじゃあるまいし……不覚だ。
精緻な模様が施されている扉を押し開けると、そこには真新しい制服に身を包む金の髪が眩しい少年が微笑みを浮かべて立っていた。〔ハルト・ディアティ〕、私と相部屋の友人だ。
サファイアブルーの双眸と視線がかち合い、彼の笑みが深まる。今日もキラキラと輝いている彼が目に痛い。
「おはようございます、アリスト殿」
「おはよう、ハルト殿。わざわざありがとうね」
「いいえ。言っていた時間になっても起きてこなかったので、僭越ながら声をかけただけですので」
ハルト殿はそう謙遜するけど、私が起きてこなかったら、ダレルさんだと蹴り起こすからね。こんな優しく起こしてなんかくれないよ。――まぁ、ダレルさんだとお互い様になるんだけどね。私も蹴り起こすし。
つらつらと思考が飛び跳ねて、欠伸を噛み殺しながら乱れた寝間着を整える。その間にあちこちに跳ねている髪の毛をハルト殿が何処からともなく取り出した櫛で梳いてくれる。
「朝食は作っておきましたんで、よかったら食べてください。俺はお嬢のとこに行きますんで」
「了解。何から何までありがと、ハルト殿」
私の言葉に髪の毛を整え終えた彼が笑う。気の抜けた笑顔に、私も釣られてしまう。本当に、彼は眩しい。朝からどうしてそんなにキラキラとしていられるんだろう。そういえば、彼は朝早くから鍛錬する日課があったはずだ。そりゃ朝寝坊した私と違って彼は覚醒済み。それも健康的な一日を始めているんだから、爽やかさを感じても仕方ない。
くわぁ、と噛み殺しきれなかった欠伸が飛び出す。普通ならはしたないと窘められるんだけど、ここにはハルト殿と私しかいないからかその声掛けもない。
むにゃむにゃと口を動かし、眦に溜まった涙を袖で拭う。その一連の動作を見守っていたハルト殿が苦笑交じりに口を開いた。
「また教室で。遅れないでくださいよ?」
「わかってる。またあとでね」
お互いに手を振り返して、閉まる扉から視線を剥がす。心配性だ。とか、さっきまで入学式をサボろうと画策していた私を棚に上げて思う。ちゃんと起きたんだから、見逃してほしい。
さてさて。ハルト殿お手製の朝食を胃に運んだら、急いで身支度を整えてお使いを済ませに行こう。
決まった予定を頭の中で反芻しながら、私はホカホカと湯気を立てる朝食に祈りを捧げた。
「我らが神のお恵みに感謝いたします」
嗚呼、ハルト殿はいいお婿さんになる。なんて、口に運んだ朝食を咀嚼しながら、私は頬を緩ませた。
――というのに、今の私は嗤っていた。あんなに穏やかな朝を迎えたのにもかかわらず、機嫌は底辺を這いずっている。
外は私の機嫌とは裏腹に快晴。天気も今日の門出を祝ってくれているのだろう。ここに来るまでの私も、この天気のように雲ひとつない穏やかな気持ちでいたというのに。
穏やかでいて、一本芯の通った人好きのする。けれど相手に仮面だと悟らせない、いっそ完璧な――気味の悪い笑みを、今の私は貼り付けていた。
普段だったら、こんな笑顔を貼り付ける機会は巡って来なかった。仕事でなら、そりゃするけど。極力少なく割り振ってもらっていたし、その気遣いに甘えていた。こんな笑顔を普段から貼り付けていたら、私自身が疲れてしまうだろうしね。
さて。そんな私が、久方ぶりにこんなものを貼り付けていたのにも理由はある。
「……あの、僕に何か用かな?」
朝の静けさが降り注ぐ、この学園の白亜の図書館に訪れた私は、気の赴くままに館内を歩いていた。所狭しと並べられている本棚は壁にも存在していて圧巻の一言に尽きる。その本棚に立てかけられるように梯子があるのを見つけ、魔法をうまく使えなくても本を手にできるように配慮されているのに感嘆の吐息をこぼしていた。
そして、とある一角で足を止めて、その本棚に陳列する古書たちに目を通しているところに、初対面の少女が立ち塞がったのだ。それも、隠しきれていない好意ありありの眼差しを湛えて。
私はその眼差しに仮面を貼り付けて応対する。相手がもじもじと口を閉ざしているその間に記憶を洗うが、やはり見覚えのない少女だった。――ある一点を除けば。
私は眼帯で覆っていない片目で、気付かれないようそっと少女を観察する。
私の友人シエリと違った系統だが、可愛いという印象を受ける顔立ち。くりっとしたエメラルドグリーンの瞳。ある程度の胸の膨らみ、真新しい制服から伸びる手足は少女らしい細さ。そして、緩やかに波打つ金糸の髪。――陽の加護持ち。
もう一人の陽の加護持ちを思い返し、私は心の中で嘆息する。彼女には彼から伝わるようなキラキラを感じないのだ。宝の持ち腐れ、という言葉を思い出し、そのとおりだと溜め息を漏らす。彼女はその加護を受けてから、その身を研鑽してこなかったのだろう。少女らしい――貴族の子女のような優雅な筋肉を持ち合わせてもおらず、それでいて町娘のようなしなやかな筋肉も持ち合わせていない。事前に知らされている情報と照らし合わせても、彼女が庶民の出なのはわかりきっているのだけれど、それでも腑に落ちない。あべこべなのだ。
「あ、の……驚かせてしまってごめんなさい。私、朝なら誰にも会わずにゆっくりと館内を回れると思って、それで……あなたがいるなんて、思わなかったから」
ようやく口を開いた彼女は目を伏せて弱々しく私にそう言った。そんなことを聞いているわけではないのだけれど、彼女には伝わらなかったらしい。
「へぇ」
白々しい。彼女を前にして、そんなありきたりな感想を抱く。
今さら、彼女の演技に付き合う暇もない。答えにもなっていない返答に、私はわざとらしく本を閉じて棚に戻す。それにビクッと肩を揺らす彼女に、仮面は一層顔面に貼り付いてくれる。
「人目を憚る理由は、その髪にありそうだけど。……もうそろそろ鐘が鳴る。入学式に遅れたくないなら早く行ったほうがいいと思うよ?」
言外に、これ以上の会話を望まないことを匂わせる。果たして彼女は読み取ることができるかな?
「あのっ、あなたのお名前はっ?」
その言葉に、真顔になる。あまりのことに仮面が剥がれ落ちた。お使いの本まで落とさなくてよかった。
胸元で組まれた手、私のほうが背が高いからか自然と上目遣いで見つめられる。――トキメキもあったものじゃない。私は異性でもなければ、彼女を好ましく思ってもいない。シエリにやられても、まぁ、ときめかないのだけど。
「名乗るほどの者じゃないよ。それと、自分は名乗らないで相手から名乗らせるのは礼儀知らずとされるから、気を付けたほうがいいよ? ココは、貴族様が威張り散らすところでもあるからね」
そんな彼女に、笑顔のままサラリと釘を差して私は背中を向けて歩き出す。十分に阿呆らしい。つくづく思うが、とんだ茶番だな。
「あの――っ」
彼女が声を張り上げた途端、カラーンカラーンと鐘が鳴る。朝――それも、朝食の終わりをを報せるものだ。時間通りに動いているのならば、そろそろ合流しないと拗ねさせてしまう。
「キミ、庶民でしょ。ここは三階、ちょっとした歴史書が連ねられている階だよ。キミが学ぶべき指南書は、一階にあるから読んでおいたら? 無礼を働く前にね」
尚も言い募ろうとした彼女に、笑みを消し去って警告を置いておく。聞き入れてくれるかはわからないけど、言うだけ言っておこう。
ついでに、私は彼女に気付かれないようにある魔法を発動させておく。物心つく頃には使えていた、初歩中の初歩。風の精霊様に音を拾ってもらうものだ。
立ち去る私の耳に、彼女のこぼしたつぶやきが届く。魔法を使われたとは思ってもいない、無防備でいて愚かしい声。
そのつぶやきに、私は口許を歪ませる。
「バッカだなぁ。キミのことを思って言ってやったのに」
「――これでトゥルーエンドルートに入れたのよね? それにしても、いいのは顔だけじゃない! 何が礼儀知らずよ! 私は〔ヒロイン〕なのよ!? どっちが無礼よ!」
「ねぇ? 主人公?」
世界が自分中心に回っていると信じて疑わない、愚かで哀れな転生者さん。
これから、彼女にはたくさんの嘲笑が届けられることだろう。本当に、可哀想に。
うねりを上げる風、空へと飛んでいく色とりどりの花弁とそれに彩られた学園を見つめていた私は、始まりを告げる彼の音を聞き逃していた。
その音を拾えていたら、きっと――未来の私は、少なくとも笑えていたはずなのに。
「さあ、始めましょう?」
蝶が舞う。それを使役する彼の者が、私を視て無邪気に笑っていた。