まだスタート前の学園へ
約束の時が来た。
私はこの半年間で少しだけ伸びたアプリコットオレンジの髪を背中で一つに束ねて、黒を基調としたシンプルな装いでこの地に足を踏み入れた。
紅茶色の瞳には、この最低でも三年間在籍する象牙色の城のような外観を持つ学園ひいては赤レンガの外観を持つ寮が映し出されている。
ここは始まりの地。もうすぐにでもプロローグは皮肉に告げるだろう。
「問題を起こすなよ、リィ」
「ダレルさんこそ、問題起こさないでよね?」
職員が入る寮へと消えていった、本来の名前に戻った男――〔ダレル・デューク・ベレスフォード〕の嫌味に、私は呼び慣れていた敬称付き呼びに戻し、笑顔を浮かべて見送った。それもついさっきの出来事。
「――さて。これからどうぞよろしく、ハルト・ディアティ殿」
「本当に同室なんだな……。こちらこそよろしくお願いします、アリスト・ノイジィ殿」
ドサッと大きなバッグを床に置き、爽やかな笑みを貼り付けて振り返れば、そこにはげんなりと顔を歪ませる美形な少年が頭を下げた。思ったとおりの反応だ。でも、だからこそ不憫に思う。彼が雇われている伯爵家が有言実行とばかりに女の私と同室にしたのだから。
だからといって、私は慰めの言葉を容易に彼にかけない。何故なら、彼自身がもう既に切り替えていて、真剣な眼差しで先ほど渡されたパンフレットを開いて目を通しているからだ。
私は、私たち二人に宛てがわれた部屋を見渡す。今いるところは共同利用の居間だろう。備え付けの四人がけのテーブルと椅子がポツンとある。食事ができるように予め用意されているのだろう。抱えていた封筒から寮内にある設備と寮則が記載されている資料を取り出す。一応、目を通しておいて損はないだろう。
しばらくは紙を捲る音と私が室内をうろうろする音だけが室内を満たしていた。
「入学式は明日ですね。……クラスは予想通りの最高位。明日から波瀾万丈の学園生活が始まりますね」
「あぁ。……はは」
口を開いたと思ったら、憂鬱そうに溜息を吐いた彼に、私もそれを思って憂う。それについては否定しない。けれど、大仰に肯定もできない。そんな、複雑な気持ち。
手に持っていた資料をテーブルに放り投げてから、抱えていた封筒から同じパンフレットを取り出して彼に倣う。右に左に文字を流していき、頁を捲る。そこで目に付いた“名前”に眉根を寄せた。
「同じクラスなんだね、彼女」
「シナリオ通り、と言うべきかと。でも、彼女だけではありません」
「と、言うと?」
パンフレットを近くのテーブルに放り投げて視線を移すと、彼もこちらに視線を流したところでかち合う。その碧眼は、少しだけ信じたくないという願望が見え隠れしていた。
どうしたというのだろう。私は内心首をかしげながらその視線を真っ向から受け止める。
「彼、もう一人の主人公が同じクラスに居ます」
意図せず掠れた声がこぼれ落ちる。こみ上げる感情に、天井を仰ぎたくなった。
それでも額に手をやり、放り投げたパンフレットをまた引き寄せて、記憶の彼方に飛ばしてあった名前を掘り起こしながら探す。そうしながらも口は勝手に動いていた。
「それ、不確定要素じゃなかった?」
詰るような言い方になってしまい、慌てて額から手を口元に移動させる。これ以上、心無い言葉が外に飛び出さないようにするために。
それでも、思わず舌打ちなんて下賤な真似をしそうになる。そんなことをしても、この動揺を消し去ることなどできるはずないのに。
そんな私を知ってか知らずか、視界の隅でハルト殿は頭をゆるゆると振っている。冷静になろうと努めているのだろう。少しだけ青褪めた顔色に、先刻の自分を殴りたくなる。
私は変わらない。変われない。わかりきった答え、それはいつでも私に事実を突き付けてくる。
思考の波に飲まれそうになった。けれどそれを断ち切るように文字を辿っていた指先と目が止まる。
〔フレッド・シーガル〕――確かに、昔手渡されたノートに刻まれた名だ。
喉がコクリと引き攣った。彼も存在している。
「フレッド・シーガル、ね。……彼、どんな役割だったかな」
「彼、は。ヒロインと変わりなく……幼少期、何処にでもあるような平々凡々な日々を過ごします。けれど、転機は突然に訪れた」
彼の手が、己の金に光る髪の毛に伸びる。昔、それこそスラムに居る頃、彼の髪はその色を持っていなかった。――そこまで思い出して、私はふと気付く。
「……夜に加護を授けられた、か。祝福を受け、守護を与えられた神子は居るからね」
そして、陽に加護を授けられた少年が、目の前の彼。あとは、〔ヒロイン〕もそうだったはずだ。物語通りに話が進んでいるのならば、だが。
「本当に、加護の出血大サービスだね」
そう吐き捨てたくなるのも仕方ないだろう。それほどに、加護持ちが多い。その心情をハルト殿は汲んでくれ、その端正な顔に苦みを走らせる。
そんな顔をさせたいわけではなかったというのに。八つ当たりも甚だしい。感情の揺れ幅が大きくなっていることに、私は苦い思いがこぼれる。
まずは落ち着こう。私は椅子の背もたれを引き、ドカッと座り込む。深く息を吐きだして、また吸う。それの繰り返しで精神を宥めにかかる。その間にハルト殿がキッチンに向かってカチャカチャと何かを準備し始めるのが目に入る。どうやらお茶を淹れてくれるみたいだ。有り難い。
「……さて。少し振り返ってみようかな」
虚空に手を差し伸べ、私はその手に落ちるように、かつて手渡されたノートを取り出す。
表紙には、〔日本語〕で彼女のかつての名前が書き写されている。何も知らない者から見たら、それは面妖な紋様だっただろう。ちょっとした振るいかけを指先でなぞり、私は久方ぶりにそのノートを捲った。
二人の転生者、シエリとハルト殿が語ったストーリー。それは、世間には壮大な夢物語だと揶揄される代物。私にとっても絵空事のような、現実味のないものだった。
ゲームの最初にプレイヤーは自分の分身〔主人公〕を二人の男女から選べる。男の〔フレッド・シーガル〕、女の〔アイラ・ステイシー〕、これがデフォルト設定された名前だ。
プレイヤーはどちらかを選んで、プロローグをプレイする。そして〔主人公〕それぞれの地元から始まるチュートリアルをクリアして、いよいよアスカディア学園へ希望を胸に入学を果たす。
学園では有力者たちと知り合うことができて、過ぎる長閑な時間に〔主人公〕は束の間の青春を謳歌する。
しかし、忘れた頃にやってきたもの。〔主人公〕が学園に入学を果たすきっかけともなった〔チュートリアル〕で語られた危機。静寂を保っていた〔セカイに降りかかる危機〕が、養育の現場に舞い落ちた。
果敢に挑む者、我が身可愛さに逃げ出す者が右往左往する中、偶然にもその場に居合わせた〔主人公〕がその身に受けた加護を駆使して退けることに成功する。
そして、守護を与えられた〔神子〕とともに〔主人公〕は戦いの日々を送ることになる。目指すは、セカイを貶めようとするラスボス。そいつを倒した先にある平和。そして戦いの最中、結ばれた愛しい人との穏やかな生活。
そんな、何番煎じとも思わなくもない、マイナーなネット配信されていたゲームだったらしい。それでも人気が出て、声優付きで改めて発売されたそれは、本来配信された内容と少しだけ変わっていたそうだ。
そして選んだ〔主人公〕で出てくるキャラクターに差異が出るが、それも気にならないほどに面白かったらしい。
何より、おとなしい少女と快活な少年。そんな二人が正反対な加護を授けられたことで、その心根に宿る本質がわかる。彼らが表に見せている性格の根底は、きっと周囲に溶け込むために押し込められてしまったのだろう。ゲームが進むうちに、プレイヤーだった二人はそう感じたらしい。
陽と夜、天照の神子と宵闇の神子、それぞれの〔神子〕と手を取り合って、ときには切磋琢磨し、数多くのバッドエンドを通りすぎ、定められたトゥルーエンドを目指すゲーム。
当たり前に主要キャラクターには必ず大事な人が居て、その大事な人が重要な鍵になる。いいほうにも、悪いほうにも。それは強力な作用を齎すのだ。
〔アイラ・ステイシー〕目線では〔悪役令嬢〕だったシエリ、〔フレッド・シーガル〕目線では〔悪役従者〕だったハルト殿。どちらの目線でも〔故人〕である〔アシュリー〕。
〔悪役令嬢〕は〔アシュリー〕を失い壊れ、〔神子〕であり〔アシュリー〕に瓜二つの少年に依存してしまう。しかし果てには悲しい結末が待っている、そんな悲惨な少女。
〔悪役従者〕は〔悪役令嬢〕のために加護を授けられた自分をラスボスに捧げてしまう。そして、友だけではなく主を死に至らしめ自分から奪った〔主人公〕に牙を向ける。
二人に共通しているのは、大事な人が皮肉にも〔アシュリー〕だったということだろう。そして、選ぶ選択肢によっては〔アシュリー〕の保護者をしていた放浪貴族〔ダレル・デューク・ベレスフォード〕と本来なら手助けをしてくれる〔宵闇の神子〕が高確率で敵に回ってしまう。少しでも選択をミスると味方が誰もいなくなってしまうこともあるらしく、そうなってしまうとバッドエンド一直線。特に〔天照の神子〕よりも遥かに堕ちやすい〔宵闇の神子〕を敵に回してしまったら待ち受けるのは鬱エンド。意外と繊細な物語みたいだ。人気は出たけどマイナーに留まったのは、そういうところを厭う人たちに敬遠されてしまった結果だろう。
このノートには、〔アイラ・ステイシー〕目線でのストーリーが書き写されている。と、いうことは、私は〔フレッド・シーガル〕目線でのストーリーをほとんど知らないのだ。唯一知っているのは、物語を左右しやすい〔宵闇の神子〕と手を組むこと。
本筋から離れていないのは、〔役持ち〕二人の大事に思う人の一人に〔アシュリー〕である私が含まれていることだろう。難しい顔をしながらも、用意した茶菓子を例のごとく「あーん」してくるハルト殿に、私はなんとも言えない気持ちになる。
「ハルト殿、それも手作り?」
虚空へノートを手放しながら、横目でそんな彼に問いかける。差し出した体勢のまま、ハルト殿はキョトンとして首を傾げた。
「当たり前じゃないですか。お嬢の従者たるもの、ご令嬢に好まれるお菓子作りもできますよ」
「キミの場合、趣味だと思うけどね。……で、あーんはやめてくれないんだね」
「嫌ですか?」
「……もう慣れたよ」
パクッと彼の手から焼き菓子を食み、もぐもぐと咀嚼する。相変わらず、彼が作る菓子は美味い。まるで売っているもののようだ。
「……ねぇ、アリー」
今度は自分の手で焼き菓子を摘み上げると、ハルト殿が目を伏せたまま昔の呼び方をした。
珍しい。彼は、その呼び方をしないで線引きをしていたからだ。
「何、ハルト」
だからか、私は咄嗟に“殿”を抜いて彼に応えてしまっていた。
珍しく、彼は、私を見ない。そのサファイアブルーに、迷いを宿している。
「……アリーは、〔フレッド・シーガル〕の目線は知らないんだよね」
「知らないよ。キミらが指す〔主人公〕のストーリーなんて、僕が直接見たわけじゃないんだし」
当たり前だ。二人の話を聞いて、絵を付けて説明されてもよくわからないのが本音。何故なら、この世界にそんなもの在りはしないのだから。
サクサクサク、と小気味よい音が咀嚼するごとに響く。
「……そう、ですよね」
彼の声が不意に沈む。持ち上げた手で瞼を覆い、深く、深く息を吐いた。どうしたというのだろう。
「ハルト?」
「アリー、あなたは、俺らの知ってるアリーだよね。〔アリスト・ノイジィ〕は、世界を放浪するときにあなたが考えた名前、なんだよね」
「そうだよ。この名前は、僕が生きるために考えて使い始めた名前さ」
私の言葉に、ハルトはそれでも顔を曇らせている。何が気にかかるのか、私にはわからないけれど。彼は、必死に頭を働かせて何かを考えている。その邪魔だけはしたくない。
少し冷めてしまった紅茶を口に含み、私はじっと焼き菓子を見つめたまま動かないハルトに視線を定める。
天使の如し美しさと儚さを併せ持つ、元スラム出身には見えない少年。加護を授けられる前の髪色は――私の今の髪色と同じものだったが、今は見る影もなく金に染まってしまっている。元々でも十分綺麗だろうに。陽の神は、余計な手を加えてくれたものだ。
そんな考えが不意に頭をよぎり、私は無意識のうちに彼へと手を伸ばしていた。
「……生きる、か」
彼は、私の手にも、こぼれた本音にも気付かない。それにほんの少しだけ安堵して、私は伸ばした手を握りこむ。
この手には、きっと、――
「従者くん、そろそろお嬢様の元へ馳せ参じなくていいのかい?」
「え……っうわっもうこんな時間!? いいい行かなきゃ!! アリスト殿、行ってきますね!」
「転ばないようにね、ハルト殿」
ヒラヒラと手を振って、慌ただしく扉の向こうへと消えていく彼に目を細める。
変わらない。穏やかで、ゆったりとした時間。
ポケットから、繊細な紋様を施された銀色の懐中時計を取り出して、手の中で弄ぶ。
チッチッチッ。
針の進む音が静かになった室内に木霊する。
その音はまるで歌うように、針を進めていく。
平等でいて、それでいて残酷な調べ。時を刻み、知らしめる道具。
チッチッチッ。
この時計は見せられない。この学園には貴族とその関係者が多いのだから。大切な友達にも見せられない。終わってしまうから。
チッチッチッ。
この音が止まるとき、どうなってしまっているのだろう。世界が、友達が、お世話になった人たちが――彼方に存在する〔かあさま〕と〔レイ〕が。そして、私も。
変わらないものなんてないけれど、その変化は今もまだ見えない。
チッチッチッ。
チッチッチッ。
チッチッチッ。
チッチッチッ……。
「なんだ、休眠状態か? 折角夕飯をご相伴に与ろうと思ったんだがな」
次第に私は眠りに誘われていった。
その最中に聞こえた低く、そして甘さを孕んだ声と、髪を梳く無骨な手に、私は知らず頬を緩ませた。彼だ。その確信は、私の眠りを深くする。
「……明日から、大変だぞ。リィ」
あなたもね。
「――る、さ」