彼女
私の名前は、アシュリー。ファミリーネームは、名乗ることも許されていない、わけありのしがない庶民だ。そんな私の一番古い記憶には、〔かあさま〕と〔レイ〕という二人の人物との別れがある。
連れ出された屋敷。そこから連れ出した〔かあさま〕の弟の親友という立ち位置にいた彼は、ひとつの場所に留まらない職に就いている人だった。彼の名前は〔ダレル・アバネシー〕。彼を一言で表すと、凄いのに不器用な人、だろう。私の異端の白い髪と特徴的な真っ赤な目を何かの術で髪は庶民に多く見られる紅茶色に、目も紅茶色。ただし、片目を眼帯で覆っている。ダレルさんも髪は同じ紅茶色に変えていて、目はアイスブルー。それにより私たちはあまり似ていない歳の離れた兄弟に見られる。
兄弟なのは、私が男装をしているからだろう。髪を女の子なら短めに、男の子なら長めに入る長さに揃えられた私は、中世的な顔立ちも手伝って女の子に間違われやすい男の子、を貫いていた。ダレルにぃさんに付いて行くなら、男のほうが勝手がいいのだ。
だが、彼と過ごしていくうちに、私は料理の腕も上達してしまった。彼はどうやら料理の腕は壊滅的らしく、出された料理に幼い頃は顔が引き攣った。不慣れながらも作り上げて、それを絶賛された私はそれからも彼に料理をして振舞うことから一日が始まる。
そして、今日もそうだった。繊細な模様が刻まれた銀色の懐中時計で時刻を確認して、起きてこない彼に溜息を漏らす。今日は非番だが、個人的な用事があるためいつもどおりの時間に起こしてくれと頼まれていたのだ。
仕事なら問題ないのだが、仕事から離れるとその寝起きの悪さはそれなりの付き合いである私でも頭を抱えてしまう。
でも、そうしていても仕方ない。私は踵を返し、ダレルにぃさんが眠る一室へとノックもそこそこに押し入る。案の定、彼は毛布に包まって寝こけていた。
「ダレルにぃさん」
「んー……んん? なんだ……リィか」
「なんだって何。僕じゃ不満? 朝ご飯できたよ」
「ああ……もうそんな時間か。すぐに起きる」
ゲシゲシとにぃさんの背中を蹴りつけて、私は部屋をあとにする。にぃさんが文句を言っていたみたいだけど、聞こえない。起きてこない人が悪い。
冷蔵庫からいつものようにミルクを取り出してコップに注ぐ。そして、食卓に出す。
「おーい、リィ。もうちょっと優しく起こしてくれよ」
「あれでも優しくしたんだけど。ほら、早く食べちゃってよ。支度に時間かかるってぼやいてたのにぃさんだよ」
「まぁ、そうなんだけど。……ああ、今日は遅くなる」
「そんなにかかるの? 夕飯は?」
「食事をしながらだからいらねぇな。はぁ、あいつと食事とか笑えねぇ。リィと食ってたほうがうまい」
「そう言ってもしょうがないでしょ。用事の相手とおとなしく食べなよ」
でも、にぃさんの言葉は嬉しかった。ちょっとだけ頬が緩む。
「なんだ、嬉しかったか?」
「なっ……ほら、もう食べるよ。我らが神のお恵みに感謝いたします」
「そうだな。我らが神のお恵みに感謝いたします」
二人で手を組み、我らが神に祈りを捧げる。これはにぃさんの習慣だ。
にぃさんは今でこそいろんな国を渡り歩く冒険者だが、親の庇護下にいた頃はそれなりに偉い家の坊ちゃんだったらしい。庶民でもその挨拶は普通なので常識なのだろうが、それすらも知らずにいた私ににぃさんはいろいろと教えてくれた。これはその中のひとつだ。
カチャカチャと食器が擦れる音がする。黙々とパンやスープを咀嚼していく。
「そういえば、お前このあとどうするんだ」
すると、にぃさんがパンを銜えながら訊いてきた。あんぐりと開けていた口を閉じて、にぃさんと目を合わせる。
「このあと? そうだな、久しぶりにシエリと会うよ。なんか付き合ってほしいことがあるんだって」
「シエリなぁ。あの時以来か。懐かしいな」
その言葉には私もうなずく。
「なんだっけ、パステトに留まっていた以来だっけ。ウェスパニア王国の」
「そうそう。あれから三年は経つのか……どうりであいつに呼び出されるわけだ」
「え、あいつってシエリの親父さんだったの」
まさかの人物に私の手が完全に止まる。それほど予想外だった。
目を剥いた私に、にぃさんは面倒くさそうにうなずく。うわぁ、マジですか。
シエリは私の友達だ。術で色を変えているにぃさんの本来の色を宿した少女。それも美少女。なのに残念な、行動力有り余る令嬢とは思えない精力的な友人。そんな少女の親父さんは、柔和な笑みを浮かべた食えない……どころか、敵に回したくない人だった。さすが当主様。腹芸がうますぎて、私でもあまり関わりたくない。親馬鹿だし。
「シエリから連絡が来て、まさかとは思ってたけど……転々とする僕たちを見つけるなんてさすがだね」
「本当にな。……ここ、違う大陸だぞ」
「ねぇー。規格外だと思ってたけど、あの家から隠れるなんてできなさそう。それじゃ、にぃさんは久しぶりにあの貴族然とした格好をするわけか。そりゃ時間かかるよね」
にしし、と笑みを向けると、にぃさんはうんざりとした表情でカップを煽った。心の底から面倒くさいらしい。まぁ、わかるけど。私もできるうる限りなら避けたい格好だ。
にぃさんと同じように私もカップを煽る。うん、今日も美味しい。
ガタン、とにぃさんが椅子から立ち上がる。どうやら食べ終わったらしい。
「じゃ、俺は準備するから。出かけるとき戸締りしっかりしろよ」
「にぃさんじゃあるまいし、ちゃんとするよ。早くその無精髭どうにかしてきたら?」
「言ってくれる。……って、本当に準備しねぇと間に合わない。あいつの説教は長いんだよなぁ」
ぶつぶつと文句を吐きながらも、にぃさんが洗面所に消えていく。なんだかんだ言いながらも、親父さんはにぃさんの友達。会えること自体は嬉しいんだろうな。
私も席を立って、空になった器を集めてシンクに片して行く。さっさと洗わないと、私も出かけられない。
「じゃあ行って来るわ!」
「いってらっしゃい、にぃさん。気をつけてね」
私の言葉に、にぃさんは笑って私の頭を撫でて飛び出していった。