子どものいる風景 ~スキップ~
最後に担任したのは三年生のクラスだった。その学年を進級させて、私は他の学校に異動した。移った先では自分の学級を持たなかった。
何ヶ月か経ったころ、用事があって前任校の近くまで出かけることがあった。そこで当時の子どもの一人に出遇った。
信号待ちをしている私の車の前を、父親と二人で横断歩道を渡っていた。彼は、もちろん、運転席の私に気付くはずがなかった。
父親と一緒に散歩中なのか、それともどこかへ出かけるところなのかは知れないが、ゆっくり歩く父親のとなりを、彼は如何にも楽しそうにスキップしていた。
三年生とは思えない程、自立した子どもたちだった。私があれこれ言わなくても自分たちで色々計画し、見事に実行した。担任としては非常に助かる学級だった。毎日が楽しかった。
学習場面でも学級活動の時間でも、自分たちでどんどん取り組んでいく姿がいたる場面で見られた。担任と教え子という関係より、彼らは、いわば同士を感じさせる存在だった。
その中でも、今私の目の前を通過している彼は、クラスのリーダー的存在だった。
自分の意見をちゃんと述べ、しっかりした考えで、周囲を納得させていた。人望があり、学級のみんなから好かれていた。
担任である私の意図をよく理解し、それをクラスに浸透させてくれた。とても十才前の子供とは思えないほど、頼りになる存在だった。
久しぶりに見る少年は、しかし、かつての同士ではなかった。スキップしながら如何にも楽しそうに私の前を横切るその顔は、父親にじゃれる、幼い子どもそのものだった。私は嬉しいような、けれど何故かしら寂しいような心持ちになった。
十五、六年ほども前のことだが、今でもふと思い出す光景だ。
子どもがスキップする光景は、街なかや学校でもよく見られる。そして、スキップする子どもは必ず楽しそうな表情をしている。
私は子どものスキップが好きだ。スキップしている子どもの姿を見ると、自分までが嬉しくなってくる。スキップは、気持ちが満たされているときに自然に出てくる仕草だからなのだ。
大人でも、どうかするとやりかねない。私もそんな気分になるときがある。けれど、学校の廊下を校長がスキップしている姿は如何にも不自然だから、こらえているのである。