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狐の盆還り  作者: 哀ノ愛カ
9/13

第八帳

可憐さん・・・

狂い狐として生まれ、狂い狐として育った。

その境遇をどれほどの年月呪っただろうか。

あの日も可憐は、父と母の亡骸を前にして、ただ呆然と立ち尽くす他なかった。

血に濡れた己の手の感触を生々しく覚えている。

「大丈夫。大丈夫だよ、可憐。これからは僕がお前を守るから」

そう言って泣く兄の優しい声も、嫌でも覚えている。

兄に抱きしめられながら、思わず殺してしまいそうになるのを堪えた。

己の理性に働きかけ、何とかして内なる牙を抑え、やっとの思いで「ありがとう」と応えた。


必死だった。

生きるために。


間も無く、両親の死は事故として処理された。屋根瓦を修理していた時に誤って落ちたのだと、兄が電話で他家の大人達に説明しているのを耳に挟んだ。

葬儀は身内だけで行った。兄と私・・・二人だけの葬儀だった。

屋敷まで悔やみを言いに来る陰陽家の人達もいたが、兄は決して屋敷の中には入れなかった。

会おうともしなかった。

もともと私達兄妹は両親以外の人間と接触する機会を著しく制限されていたので、今更そのことを不審に思う人はいなかったかもしれない。が、きっと、勘の良い人は気づくはずだ。

幼いながらにも可憐はそう思った。


両親は事故死ではなく、狂い狐に殺されたのだと。


「・・・何で、今・・・こんなこと思い出すかな・・・」

誰もいない静かな空間で可憐は独り呟く。

扇の結界は出ようと思えば容易に出られるものだった。でもそれは、心理的な檻となって、可憐の前に立ち塞がる。

扇は本気で殺そうとしている。

拘束され、社で夜明けを待てと言った時の扇の顔が忘れられない。憎悪とは、こんなにも恐ろしいのかと、身が震える思いだった。

「何か、言い残したことは?」

扇は、社を出ていく前に、処刑者にかけるお決まりのような言葉を掛けてきた。

しかし、それでもなお、可憐は口を開かなかった。

心を開かなかった。

声を挙げるには、遅すぎたのだ。


許してくれと、懇願するには――――私の罪は重過ぎた。



*        *         *



 何分経っただろうか。いや、何分も経っていないだろう。しかし既に羽根を掴む手には力が入らなくなってきた。

もう駄目だと思ったその時、一行を乗せた大きな羽根は減速を始めた。

「扇お兄ちゃんや!」

 羽根の下を覗き込みながら優衣が叫んだ。確かに前下方向に二の扇が確認できる。そして、その少し手前には伏見山神社が見えていた。

「もう、着いたのか!?」

 五分も経ってはいない。距離と時間から時速を計算しそうになって、思考を止める。知らない方がいい。

「社の中に入っていくで!もしかしてこのまま、殺す気じゃ・・・」

「楓お姉ちゃん、今更何言うてるん。扇お兄ちゃんは、狂い狐を殺すんよ。それを止めに来たんやろ、私らは」

 ふわっと、祭壇のある境内に降り立つと、急いで社を目指す。

 人一人分入れるほどに開いた扉を玉零ががらっと開けた。

「見るな!」

 途端に扇の怒声が響いた。

 追いかけて来たことを咎める言葉ではなく、なぜその言葉が出たのか分からないまま足を踏み出そうとして、止まった。

「っ!」

 優衣の悲鳴を押し殺した息遣いが耳を掠める。

「何?何なん!?」

 楓は夜目が効かないのだろう。辺りを照らそうとして、スマホの電源を入れようとしている。

 ブーブーブー

「わっ!」

 電源を入れたとたん、着信が入ったらしい。

こんな時間に掛かってくる相手は一人しか思い浮かばない。

「もしもし。あっ。ごめん。ずっと電源切ってて・・・」

 思考はそんな楓の一連の動作に向いていたが、視線は扇の先から一ミリも外せないでいた。

 赤、赤、赤――――辺りの床に散らばる無数の赤い模様。一際広範囲に塗られた赤の中心には、同じ色の着物を纏う何者かが立っていた。

赤い着物―――いや違う。

確かに下の袴は朱なのだと思う。だが、上の着物の布地の色は、本来白なのだと気づくのにそう時間はかからなかった。

白の着物と朱色の袴。いつも伏見山可憐が着ている巫女装束だ。

そして、金色の長い髪。

可憐の特徴と酷似しているが、普段よりも色素の薄い金の髪が人間のものとは思えないほど美しく、それだけに妖艶で、恐ろしかった。

 

これが、狂い狐・・・。


「飲み込まれた、か」

 誰かの呟きではっと呪縛が解け、視線を下方へと外す。

社の中央に佇むその妖怪の足元に何かが転がっているのが目に入った。

「楓、明かり消し!見るな言うてるやろ!」

 スマホの液晶画面の光でぼやっと周囲が明るくなっていた。

 まだ電話中の楓から血の気が引いていくのが気配だけでも分かる。そろそろ、普通の人間でも暗闇に慣れて来るころだ。

 狂い狐の足元に転がっているものは、者は――――

――――玉無風夏。

「な、つを・・・」

 か細い声が社の隅から聞こえてきた。

 視線を右に走らせると、鈴音が横たわっている。出血はないようだが、腹部を抑えて丸まっていた。自力で結界を解いて、流達よりも早くここまでやって来たのだろう。

 つまり、純白の着物を染めた全ての血は、風夏のものだと知り、腹の底から苦い液体が這い上がってきた。

「そんなことって・・・」

 楓がスマホを落とす。

 天井が照らされ先ほどよりも部屋が明るくなる。

 血に濡れた狐の妖怪と、ピクリとも動かない風夏、助けを求めるような鈴音の顔が一気に目に入る。そして、結界の中に鎮座したまま動かない、あの人は――――

『だから、可憐に欺かれてたんだよ。いや、』

 異常な静けさに包まれた部屋に隆世の声がスマホから漏れ出ていた。

『先の伏見山夫妻が画策したんだろうさ』

 今までずっと結界の前に佇んでいた狂い狐がのそりと、後ろを振り向く。

『庇いたかったのかもな、狂い狐として生まれた長男を』

 笑みをその赤い口元に浮かべて、狂い狐――――伏見山雅は流達を見た。

「おや、扇。来てくれたのか?やはり僕じゃこの結界は壊せなくてね。ここまで外を頑丈にしなくてもいいのに、君はいじわるだな」

 外が頑丈?

 その疑問を口にするよりも早く優衣が口を挟んだ。

「考えたくないけど・・・扇お兄ちゃん、こうなること、見越してた?」

 欺いていたのは、伏見山だけではない。恐らくは、鈴音も風夏も知っていたのだろう。だからあれほどまでに可憐を擁護していたのだ。

 だが扇もまた、知っていて口を閉ざしていた。

「いつから!」

 衝動的に前に出ようとする優衣を玉零が片腕を伸ばして制す。

「無名が警戒しただけのことはあるわね。この、妖怪・・・策無しで突っ込めば、確実に死ぬわ」

「はっ。鬼が尻込みか?どうせ、お前らの助けなんていらん。言ったやろ。狂い狐は俺が殺すて――――風神の座主、名は気衛。彼の神に奉る。風・塵・鋭・粉・斬・絶・切―――急々如律令!」

 詠唱の後、一の扇を一気に開く。

「っ!」

 その直後、竜巻ほどの突風が扇を中心にして起こり、流達どころか、社の天井や壁までもが飛ばされていく。

「一旦、引くわよ。隼!」

 名を呼ばれた隼は突風の中を突っ込み、吹き飛ばされそうになっていた鈴音と風夏を背負って避難した。

 玉零も優衣と楓の腕を掴んで、雑木林の中まで走り、扇から距離を取る。

「どうなってるんだ・・・」

「こっちが聞きたいわよ。誰も本質を見極められていないって無名が言ってたけど・・・本当、何が真実なの?この状況を見て、貴女達には何か分かる?」

 玉零は、呆然とその場に立ち尽くす楓と優衣に問いかける。

「私は――――」

 優衣が何かを言いかけた時、鈴音、風夏を救出した隼が合流した。

「鈴音姉さん!」

 真っ先に駆け寄る楓に「大きな声出しな」とか細い声ながらも鈴音が諫める。

「私は大丈夫や。肋骨は何本か折れてるかもやけど。それより夏を・・・」

「分かってる。隼、傷を癒してあげて」

「ちょっと待ち!アンタらの助けなんか」

 動転した様子の楓に構わず、隼は命を遂行すべく懐から瓢箪を出すと、その中に入っていた液体を風夏の体にぶちまけた。

 隼の傷薬の効果は先の雪山の件で知ってはいるが、これほどの傷をそう簡単に治せるかどうか・・・

「う・・・うぅ」

「う、そ・・・傷が塞がっていってる」

 優衣が感嘆の声を漏らす。

 内臓が出てくるのではないかと思える程の切り傷が見事に塞がっていた。

「皮膚と血管の再生を促しただけよ。失われた血は戻ってないから早く病院につれていくべきだけど・・・あれを、どうにかしない限り無理でしょうね」

 玉零の視線の先には、扇と狂い狐。

 社は破壊され、建物の残骸が辺りに散らばっている。相変わらず二人の睨み合いは続いており、扇は次の攻撃には移らない。

「で、どうすんだよ。策無しにっていうか、策なんて考えられんのか?」

「乗るしかないんじゃない」

「乗るって?」

 すかさず聞き返したのは優衣だ。

「扇の策によ。まさか、あこまで啖呵切っておいて、何も考えてないわけじゃないでしょうよ」

「もとよりうちはそのつもりやけど」

 ようやく落ち着きを取り戻したらしい楓も会話に入る。

「――――それは、反対や」

 だが、玉零の提案に優衣は苦言を呈した。

「私は扇お兄ちゃんを止める。その目的を変えることはない」

「はあ!?アンタ、見たやろ?雅さんが狂い狐やってんで?兄貴には兄貴の事情があってうちらには黙ってたんや。兄貴は元から雅さんを止めるつもりで―――」

「そうじゃなかったら?」

 強い視線が楓を貫く。ここまで言うからには、優衣には何らかの確証があるのだろう。

「そうじゃなかったとしても・・・うちは兄貴に従う」

「そう」

 目を伏せ、優衣は駆け出した。

「ちょお!待ち!」

 それに続いて楓も走り出す。倒壊した社へと。そこに佇む狐と兄の元へと。

 隣で、玉零の溜息が聞こえた。

「ちなみに貴女はどうしたい?」

 残った鈴音に向き直り、玉零が問う。

「私の願いはいたって単純や。狂い狐を倒すこと。可憐以外の手で、な」

「なるほど。それが、貴女の後悔・・・ひいては悲願ってわけね」

 鈴音の言葉で、ある程度得心したようで玉零は足を進めた。

「おい、どうするんだよ」

「狂い狐と話をする」

「はあ?」

 今の状況で『狂い狐』と言うからには、可憐の方ではないのだろう。まだ、可憐ならば納得できたというのに、玉零はそんなことを言う。

「おい、妖怪に何の話を聞くってんだよ」

「妖怪と話をしても無駄だ、と?」

 隼にギロリと睨まれる。

 失言だと気づくも、訂正する前に玉零が再度口を開いた。

「あの時扇は、あれを『本物の雅さん』だと言い切った。私はその言葉を嘘だとも妄信とも思えなかったわ。ねえ、十年前に雅は本当に死んだのかしら?」

鈴音の方をちらりと見る。

全員の視線が集まる中、鈴音は掌を額に当て、自嘲気味に笑った。

「そんなん―――鎮魂祭に奴が現れた時点で夏も可憐も、恐らくは兄さんも、分かっとったんやない?私はあの忌々しい姿を見た瞬間に気付いたわ。やっぱり、殺し損ねてたんやなって。もしくは、あの人が――――」

呪詛のように恨めしく吐き捨てながら、鈴音はのそりと立ち上がった。

「その怪我でどうするつもり?生憎、隼の薬は傷しか治せないの。貴女は動かない方がいいわ」

「それはお生憎様。痛覚を遮断する術は私の師匠の十八番でね、私の十八番でもあるんよ。足手まといになるつもりはないから放っておいて」

 のそのそと、でも確実に災厄へと近づく鈴音を誰も止めることはできなかった。

「で、俺達も行くのか?」

 狂い狐と扇にまだ動きはないが、それも時間の問題だろう。

 優衣と楓と鈴音が加わったところで、勝ち目があるとも思えない。それに、あの兄妹達それぞれの意思は点でばらばらのような気がする。

「そうね」

 刀の鍔に手を掛けながら、玉零が呟いた時だった。

「それはちょっと待って下さい」

 森の陰から白い獣の耳がひょこっと現れたのは。

「貴女は?」

「可憐さんの式神だよ」

 怪訝な顔の玉零に、短く説明をする。

 確か名を小夏といったか。

「これが待てるような状況か?」

 相手の正体を知ってもなお警戒心を剝き出しにして、隼が短刀に手を伸ばす。それを静止しないところを見ると、玉零も敵か味方か測り兼ねているのだろう。

「私を怪しいとお思いでしょうが、話だけでも聞いて下さい。彼らの話もまだ終わらないでしょうし」

「確かに、さっきから動きがないと思えば、ずっと何かを話し込んでいるようではあるけれど」

 社があった場所を見やれば、確かにそんな雰囲気だ。

「きっと部外者が加われば、話も終わってしまいます」

「でなくても話は終わるかもよ?」

「この問答をしている間に、ですね」

 お互いに、時間の無駄だと牽制して、折れたのは玉零の方だった。

「分かったわ。でも、動きがあればすぐに向かうわよ」

「それで、構いません」

「陰陽師もそれでいい?」

「え?ああ」

 鎮魂祭の時のように『にゃん』という語尾がない。それだけで、なぜか魅かれるものがあったから、流に異存はなかった。

 小夏が息を吸う。

 そして、吐き出した。

「狂い狐を退治する・・・その一点において、可憐様、鈴音様、夏様、扇様に違いはありません。しかし、それぞれの思う終着点は全く違うのでございます。時間もないので今ここでそれを詳しくは言いませんが、私はどれも間違っていると・・・いいえ、私がそう思うのではなく、私の真の主がそうお思いになられているのです」

語尾のにゃんが消えた式神は、そう切り出した。

「真の主って?」

 薄々は気づいていたが、あえて聞いてみる。

「私を作った方です。お名前は」

「隅田隆凱」

 想像通りの答えに、思わず先に声が漏れた。

「はい。唐突ではございますが、十年前の鎮魂祭では果たせなかった約束を・・・今、果たしてはくれませんか?貴方の手で」

 大きな猫の目に見つめられる。

 その瞳に映っているのは紛れもない自分で・・・。

「はい?」

 思わず素っ頓狂な声が出た。

「十年前、誤った方法で狂い狐を倒そうとしたから、このような事態になっているのです。ですから、今度こそ正しい方法で、貴方が、狂い狐を倒すのです」

 被せて、はっきりと言われた言葉に、何も言えないでいると、玉零が「どうしてこの人なの?」と横やりを入れた。

「それは、貴方が神咲の陰陽師だからです。鎮魂祭で霊力を注いだ神器・・・おかしいとは思いませんでしたか?あれは対狂い狐用の呪具だというのに、どうして誰も使わないのか、と」

 確かに。

 でもそれは、使えば乗り移られている人間も殺してしまいかけないものだからだと思っていた。

 そんな考えを読み取ってか、小夏は続ける。

「あの呪具は、器である人から妖狐を引きはがし、彼岸へと送るものなのです。もちろん器が死ねば妖狐も彼岸へと戻りますが、伏見山の呪いはその血によって器となり得る人間を生み出してしまうことにあります。狂い狐が現れる度に身内を殺していては、血は絶えてしまうでしょう。それに、狂い狐となるのは、霊力が取り分け高い者。陰陽家として、その血を継ぐことなく殺すのは避けたかったと思います。ですから、鎮魂祭というものを設定し、他家の力を借りて、神器を守ってきたのです。そして、その神器を使える者は、水の陰陽師である神咲家の者でした」

「ちょっと、待て、そんな話」

 聞いていない。

「少なくとも、隆凱様がご存命の時には周知のことでしたよ。しかしながら当時子供だった鈴音様や夏様は知らなかったようです。扇様は・・・分かりません。可憐様はもちろん渦中にいらっしゃったので知っておいででした。でも十年前は――――」

「俺が、いなかった」

 神器を使える者がいなかったから、大人たちは動かず、何も知らぬ鈴音と夏が実力行使に出たというのか。

「だったら、二十年前はどうだったっていうの?」

 助け舟のつもりか、それとも単なる好奇心か、玉零が問う。

「二十年前は、俺の母親が失踪していた時期だよ」

「えっと、じゃ、じゃあ三十年前は?」

 前者の方だったのだろう。玉零は気まずそうに掘り下げていくが、墓穴を掘っているとしか思えない。

「三十年前は雅様はまだ狂い狐ではありませんでした。十歳以上にならなければ器が完成しないのです。ですから、龍子様が姿を隠されたのと時を同じくして、雅様は狂い狐に。雅様のご両親である春輝様と奈緒様は、その事実を隠し通すほかなくなったのでございます。ほどなくして、可憐様がお生まれになり・・・可憐様を狂い狐に仕立て上げたのは、雅様から世間の目を逸らしつつ、狂い狐が現れたことを触れ回ることで、何とかして龍子様を呼び戻したかったからかと。ですが、時は遅く、龍子様はお亡くなりになり、伏見山夫妻も不運な事故で亡くなられました。ああ、そんな気を落とさないでください。十年前とて、貴方は七つ。とてもじゃありませんが、神器を使いこなすことはできませんでしたよ」

 慰みにはならない。

 顔も知らぬ母が何を思い、狂い狐になる要素を孕んだ子供の存在を置いて、姿を消したのかは分からない。

 でも、確実に言えるのは――――

「俺の・・・神咲の血を俺の代で絶とうとした祖父は、伏見山のことを何一つ考えちゃいなかったんだな」

 神咲の血を絶えさせる理由は真っ当だと思う。俺が寿命を全うできるようにという配慮なのだから。

 だが、そのことで伏見山の血を絶えさせるのは、真っ当ではない。狂い狐が現れても、妖怪だけを黄泉へ送り返す術があるならば、神咲のように絶望に染まってはいないはずなのに、生みの母親と育ての祖父は、伏見山夫妻を絶望に染めた。

 不運な事故?

 それとは違う理由を考えてしまい、顔から血の気が無くなる。

「しっかりして!」

 玉零に叱咤され、負の思考に歯止めを利かせた。

 落ち込んでいる暇などない。

「分かった。要は俺が神器を使って雅さんから妖怪を引き離せばいいんだろ?」

「そういうことです。ですが、もはや引き離したところで雅様は助からないでしょうが・・・」

小夏の目が僅かに伏せられた。長いまつ毛で影ができる。

「はあ?何でだよ!」

「それは・・・」

 小夏を引っ掴もうとした手を制して玉零が言い淀む。

「それは、雅がもうこの世の者ではないからだ」

 はっきりと答えたのは隼だった。

「本来なら、十年前に死んでいるはずの男がそう都合良く生者としてこの世に存在していると思うか?」

「っ!」

 隼の発言にぐうの音も出なかった。

「あくまで推測だけど」と言い置いて、玉零が続ける。

「雅はこの十年、自然ではない力で生かされていたと考えた方が良いわ。つまりは妖狐の力で、よ。妖狐をその体から切り離した時点で、雅は自力では生きていられないでしょうね。そうでなくても、人の生き血を啜ってしまっている。半妖と言えば分かりやすいかしら?神器が彼を妖怪だと判断したら、生身の肉体もただでは済まない」

 覚悟を決めろと、皆の目がそう言っている。

 人間とも妖怪ともつかぬ男の命か、その他大勢の命かを、選べと。

 ―――――シロオニ、お前は本当にそれで良いのか?

「陰陽師」

「・・・分かった」

 口に出して問うまでもない。

 良いはずがない。

 だが、現状これしか方法がないから――――玉零も覚悟を決めたのだ。

「しかし、一つだけ問題があります」

 決意した矢先、小夏が待ったをかけた。

「貴方が不純物を抱えてしまっていることです」

 不純物・・・小夏が何を言いたいのかは分かった。

 水の陰陽師であるはずの流には、氷の妖怪が張りついている。

「水術は使える・・・」

「ですが、全力でとなれば無意識に凍ってしまうのでしょう?」

「それは・・・」

「それでもいいって言ってあげなさいよ」

 玉零が胸に手を当てて口を挟む。

「十年前に果たせなかった約束を果たしてもらうんでしょ?それが具体的に何なのかは知らないけど、貴方の悲願を押し付けてんだから、大目に見てちょうだい。不足な分は私が補うから」

 小夏はまあるい目を見開いて、しばらく玉零を見ていた。

 そして、「これが、噂の白鬼か・・・」と目を細め、申し訳ないような顔をしてこちらを向いた。

「流様。くれぐれも、陰と陽の流れに気を付けてくださいね。どちらにも飲み込まれてはいけませんよ」

 さすがは隆凱の式神。言っていることも祖父そっくりで、先ほどまで怒りの矛先が向いていた相手であるというのに、何となく笑ってしまった。

「で、神器は槍の形をしているわけだけども、貴方は槍を扱えるの?」

 先ほど吹き飛ばされた神器が森の茂みから、その頭を覗かせている。玉零はそれをちらりと見ながら問うた。

「いえ、もはやあれは槍としては使えません」

小夏はいそいそと森へと入っていき、神器を持って帰ってきた。

「ご覧ください」

「罅?」

「そうです。これは十年前に使われた際、粉々に砕け散り、何とか隆凱様が修復したものなのです。このままこれを投げつけたとしても、刃に込められた力は四方へ飛び散ってしまいます」

「じゃあ、どうすれば良いっていうんだよ?」

「弓を」

小夏はそう言った。

『弓を』

それは一瞬、隆凱の声と重なって聞こえた。

あたかもそうなることを予見していたかのような。

「どうしたの?陰陽師」

心配そうな玉零の声にはっとし、静かに流は応えた。

「小夏。槍の刃を砕けるか?矢にする」

「なるほど・・・貴方、弓矢の心得が?」

「小さい頃から爺さんに教え込まれてたんだよ。十年以上も前のことだ。それでも、この時のためかって、思わざるを得ないけどな」

 小夏は「準備は整えてあります」と仰々しく頭を下げた。

「でも、はっきり言って、自信はないぞ。もう久しく弓に触れてない」

 こんなことなら、高校でも弓道部に所属しておけば良かった。

 だが、そんなことは杞憂だったようだ。

「馬鹿ね。私がいるのよ。貴方は自分の霊力を込めて矢を放つだけでいいわ。力の増幅も矢のコントロールも私に任せなさい」

 悔しいが、これほど頼りになる味方はいないだろう。 



*        *         *



「ひどいじゃないか。うちの社をこんなにして」

 ちっともひどいとは思っていないような涼しい顔で雅は嘯く。

「雅さん、飲まれてしまったんやな」

 悲しげに呟けば、「いいや」と否定の声がした。

「僕は僕だよ。夕焼け空の下で君と約束をした、伏見山雅だ」

「っ!」

 茜色の空。

 いつかの夏の日。

 鮮明に思い浮かべることができるのは、兄と慕った人の悲しそうな笑顔。

本当に、彼はまだ飲み込まれていないというのか。

妹に怪我を負わせ、見た目も化け物そのものだというのに。

「何をそんなに不思議そうに見てるんだい?扇・・・僕は君の知ってる僕だよ」

「みや、びさん・・・」

思わず縋りそうになった気持ちは、可憐の甲高い笑い声で掻き消えた。

「ははははははは。本当におかしい人。玉無の次期当主さん。貴方の知っている雅は、そりゃ目の前のこいつでしょうよ。だってそうじゃない?貴方が出会った時にはもう、これは狂い狐だったのだから!」

 薄い笑みを称えながら、可憐が声高に叫んだ。

 その様は狂気を孕みつつも、哀れだった。

 神咲龍子が失踪し、伏見山は頼みの綱を失くした。それがどうして、兄と妹の立場を反転させるという愚策に出たのかは知らないが、可憐にとってそれが大きく心を歪めるほどのものであったことは理解している。

 だが、

「黙れ。外道」

 他の道を模索せずに、雅に手をかけたこいつだけは許せない。

「殺す必要があったんか?雅さんは狂い狐として完全に覚醒はしてなかった。理性を保ててた。それを!」

「何を言い出すのかと思えば。理性を保っていたなら、どうしてわたくしの両親は殺されたのよ!」

 演技とは思えない可憐の形相に、扇は息を飲んだ。

「お前っ・・・何も、覚えてないんか?」

「は?何言って・・・」

 とぼけているわけではないのだろう。

 彼女は本当に、覚えていない――――あの惨劇を。

 伏見山春輝、奈緒夫妻が他界したのは、今から十七年前のこと。

 公では、屋根の修繕をしていた夫妻が誤って転落し命を落としたということになっているが・・・。

 そんな嘘は、暗黙の了解で黙されてきた。

「お前の両親は・・・」

「扇!僕との約束を反故にする気かい?」

 十七年前、茜色の空の下で約束した。

 妹を守ろうと。

 陰陽家の長男という肩書など関係なく、ただ血を分けた妹を守ろうと。

 その時に、雅は打ち明けてくれたのだ。

 本当の狂い狐は自分だと。

 そして俺は、無条件で惨劇の事実を母親と同じく隠すことにした。

 だが、ここまで来て、隠す意味は無い。

 虚しさをこれ以上負う義理も無い。

「反故にするも何も・・・雅さんの方やんか。約束を破ったんは。俺の妹達を傷もんにしといて、自分の妹ばかり無傷ではいやさせへんで」

 殺意を込めて、扇は雅を見据えた。

「弟と思った君にそんな目で見られるのは不本意だけど・・・。まあ、その通りだ。でも、可憐に真実を告げる気なら、誰だろうと容赦はしない」

「ちょっと、待って!何の話をしているの!?真実って何?この化け物が、父さまと母さまを殺したのよ!私は目の前で見てたわ!あの血の海の光景を忘れるはずがない!この狂い狐が、全部・・・私を手に入れるためにしたことだっていうのも、分かってる。そしてあの日からこいつは私をっ!」

 可憐が結界の中から叫ぶ。

 そこへ、タイミング悪くも優衣と楓が居合わせた。

「・・・扇お兄ちゃん、隠し事はうんざりや。知ってることは全部話して」

「兄貴・・・」

 妹達の静かな圧に、怯みそうになる気持ちを奮い立たせる。

「お前らが、知るべきことは何もない・・・」

「そんなっ!」

 勝手なことは重々承知。

 それでも――――

「はははは。そうだね。そうなんだよ。可憐、」

 優雅な金の髪を靡かせて、雅は結界へと近づいて、見えない壁に手をついた。

「お前だって、何も知る必要はない」

 可憐の顔がみるみる青ざめていく。

その様子を見て、扇はとてつもない虚無感に襲われた。

 自分と雅が同じ穴の狢だと、はっきりと突きつけられて、自身の中にある正しさが揺らぐ。

 隠したり、目を逸らさせたり、遠ざけたりすることは、『守る』こととは違うのだと言われているようで――――。



『僕が狂い狐なんだ』

 そう言われた時の衝撃は今でも忘れられない。

『君のお母さんは気づいていると思うけど、両親は事故死じゃないんだ』

『それって・・・』

 言葉の続きを口に出すのは憚られた。

 雅は夕焼け色に染まる顔を寂しそうに歪めて、話題を変える。

『そういえば、優衣ちゃんはどうしてる?』

 去年生まれた妹の優衣は、ようやくつかまり立ちができるようになっていた。

『さすがに下に四人もいたら煩い時もあるけど』

『けど?』

『やっぱり妹ってのはかわいいですから』

 小さくて、可愛くて、守ってあげないといけないって思う。

 だから、

『何があっても妹を守ろう』

 雅が差し出した小指をすんなりと受け入れたのは、自然な流れだった。

 親を殺したのかもしれない、そんな疑心は拭えなかったけど、雅が悪い人ではないと、本能が告げていたから、狂い狐が絶対悪だと言い切れなかったから、扇はその正しさを信じた。


 でも、今は――――。


「十八を過ぎて、陰陽京総会の幹部入りを果たした時に、十七年前の伏見山夫妻死亡の調査報告書を読んだ」

 淡々と語りだした扇の声に、優衣も楓も、そして可憐も、雅のがなり声を無視して耳を傾けていた。

「夫の春輝は腹部を刃物で刺されての出血死、妻の奈緒は焼死。全身に大火傷を負っていたんだ。それを、二人とも屋根から落ちて死んだだなんて、ようくもまあ、そんな嘘を押し通せたもんやと思うわ。総代に頼んだんやろ?頼まれて引き受ける母さんも母さんやけど。どっちにしろ、『殺された』っちゅうことは、小学生やった俺にも容易に想像はついていた。問題は、『誰が』ってことやけど・・・」

「その犯人捜しに、意味はあんの?」

 その凛とした声に、一瞬、現当主がやって来たのかと思った。

「・・・鈴音」

 動けるような怪我ではなかったというのに、鈴音は平気な顔をして目の前に立っている。

「僕も、鈴音ちゃんの意見に賛成だなー」

「貴方と意見が同じで嬉しいわ。反吐が出るくらいに」

 笑顔に明らかな憎悪を込めて鈴音が牽制する。

 お前と一緒にするな、と。

 だが、傍から見れば同類だ。そして、扇も同類だった。

「なあ、鈴音。もちろん、お前もあの報告書見たんやろ?」

「ええ。母さんが書いたあれ、ね。でも、あれって、事実なん?」

「はあ?何言って・・・」

 そんなこと考えもしなかった扇は、虚を突かれた。

「確かに、鈴音姉さんの言う通りや。うちはその報告書に何が書いてあんのか読んでないから知らんけど、母さんだけが作ったものや言うんなら・・・正確さを疑うわ」

「楓までっ」

 鈴音と楓はこういう所、息が合う。

 母親に対する考え・・・否、感情が同じなのだろう。

「でも、一応は知りたいかな。その報告書の中身」

 今まで口を閉ざしていた優衣が扇に詰め寄る。

 優衣が初めて何にもつかまらずに立った時のことを思い出す。あんなに小さかった手には、大ぶりの槌が握られていた。

 今年、十八の誕生日に当主から譲られた術具だ。優衣が使いこなせるようになるには時間がかかると思っていたが、案外すんなりと手に馴染んでいる。

「刺したのは、雅さんや」

 白状するように、肩を落として呟けば、即座に甲高い叫び声が降ってきた。

「何よ!やっぱりそうじゃない!!兄さまが殺したんじゃない!」

 狂乱した可憐の声は耳障りなほど、頭に響く。痛みを打ち払いたくて、堪らず扇も叫ぶ。

「でも!母親を焼死させたんは、お前とちゃうんか!」

「は、い?」

 何も、分からないというような顔だ。

 それは同時に、何も、知ろうとしない顔でもある。

「報告書にはそれ以上のことは何も書かれていなかった。だから・・・俺は知りたい。あの時、何があったんかを。そして、何で、十年前、雅さんを殺したんかを。俺の予想が正しいなら、雅さんは!」

「それ以上はいけないよ、扇」

 低い、窘める声が聞こえた。

「それを言ったところで、可憐は何も思い出さないし、状況が変わることもない。僕が狂い狐である限り、ね」

「何を・・・」

「ねえ、君は、誰を殺しに来たんだい?」

 唐突に、雅は楓の方を向いた。

「え?う、うちは、兄貴の敵を打つまでや」

「じゃあ、君は?」

 今度は優衣に。

「それを貴方に言う必要はないと思うけど」

「扇があれだけ可愛いと言っていた末の妹が、これか。ふん、まあ、いい。じゃあ、君は?」

鈴音が笑顔を消して「貴方よ」と即答する。

「扇、最後に君に聞こう。君は、誰を殺す?」

 鈴音のように即答できない。

 今の今まで、はっきりとした答えを持っていたというのに。

 巷で騒がれている通り魔事件。犯行現場には必ず狐の毛が落ちている。

 犯人は別の妖狐かもしれない。そんな希望も持っていた。しかし、鈴音達を目の前で傷つけられた。そして、彼の纏う禍々しい妖気が全てを物語っている。

あれは、人の魂を吸った証だ。

 ここまで落ちてなお、人間の意思を保っていられるはずはない、のに。

 奴の持っている記憶が、精巧に伏見山雅を形作っているものだから、勘違いしそうになる。

 否、可憐の言うように、狂い狐と意識を共有し共存してきた、目の前の存在こそが『雅』その人なのかもしれない。

 

雅を救いたい。

 

ずっと、願っていた。

 もしも、次があるなら。

 そんな、夢のような機会が訪れるなら。

 俺の目標として、生きて、存在してほしいと、願ってしまうのは罪なのか。

でも、それは――――――

「しっかりしなさい。その器はとうに朽ちているわよ」

 視界に、白が映った。

「もう、終わりだ。狂い狐」

 白い鬼の脇には、弓を構えた流が立っている。

 龍子さんの息子が見つかったのは、奇しくも雅が消え、可憐が当主となり、鈴音と風夏が家を出ていった後だった。

 それを嘆いても仕方ないと、笑顔で迎えはしたが、先日の修学旅行の時、流に偉そうに言ってはいても、遣る瀬ない気持ちは確かにあった。

 そして今、頼るべき神咲の血筋が存在しているのにもかかわらず、狂い狐への対抗策を口に出さなかった理由は一つだけ。

 妖力で維持しているだけの肉体は、狂い狐を追い出せば、朽ちてしまう。

そうして、狂い狐は―――――

約束は果たさなければならない。

「待っ―――――」

 青い閃光が、容赦なく雅へと飛んでいく。 

 辟易するような妹自慢をしていた頃の雅の顔が忘れられない。

 何だかんだ言って、自分もシスコンだから、雅の気持ちはよく分かった。

 兄として生きる信念ってやつを教えてくれた相手を、狂い狐だからといって簡単に切り捨てられないのは当然で・・・。

 


 ――――――可憐が狂い狐ならと、何度願ったか分からない。



*        *         *



「やった、か?」

 玉零の手が背中から離れる。

 力を制御した分、玉零が霊力を分けてくれていたのだ。

「あれで仕留められていないなら、もう打つ手無いわよ」

 全ての水飛沫が地面へと落ち、辺りに静寂が訪れる。目を凝らすと、人の形をした雅が横たわっていた。

「雅、さん」

 ゆっくりと近づく扇に、雅は鋭い眼光を向ける。

「ごめん、なさい。俺は・・・」

 扇が雅の傍らにしゃがみ込む。最後の力を振り絞って、雅の口は何かを言いたげにパクパクと動いていた。

「ごめん。本真に、ごめん」

「兄貴?」

 楓は扇が必死に謝っている理由が分からないようだった。

「ごめん・・・・雅さんとの約束っ!」

口から血を吐き出しながら、雅が扇の肩を掴む。

「・・・・・・・った・・・のは、き、みの・・・せい・・・・・。ぼ、の・・・が、た・・・ら・・は、・・・やく、そく・・ぼく、を・・・当、主、に・・・・・・・・・れ」

「分かってる。すぐに片付けたる」

 既に優衣は大槌を構えている。楓はようやくその意味を理解したのか、表情を強張らせていた。

「兄さん、初めからこれが目的やったんか!?」

鈴音の怒号に臆した風もなく、扇は立ち上がった。

眼前に見据えるのは、妖狐となり果てた―――――伏見山可憐。

 いくつもの尻尾に覆われその顔は見えないが、確かに伏見山可憐その人だと察しがついた。いつの間にか扇の結界は消えていた。

「代わりに憑かれたのね。それとも・・・」

 玉零の声がやけに遠い。理解が追い付かない。

「どういう、ことだ?」

「説明は後」

 直後、炎が地面を這い、流達の足元を焦がした。

「退避!」

 扇の声に鈴音さえも従わざるを得ないほど、その場は一瞬で焼け野原と化した。


 期せず、その場の全員が一堂に会することになった。

「流君、あの矢!あれで、もう一回狂い狐をやっつけられへんの?」

 楓の問いに答える前に鈴音が口を挟む。

「それが無理やから、兄さんは結界を解いたんやろ。狂い狐を倒す方法は一つ。可憐の肉体を滅ぼす他ないんよ。あーあ、これで万々歳って!?黄泉へ還った狂い狐が現世に現れることはない。器がなくなるんやからな!これで、満足か!?」

 怒り任せに怒鳴る鈴音を優衣が制す。

「鈴音お姉ちゃん、落ち着いて!今は身内で争ってる場合やないやろ!」

「はっ。争うなやて?矢が飛んできた瞬間、こいつが印を結んだんが見えたんや。こうなることを狙ってたとしか思えん!」

「それは・・・」

鈴音の訴えに、優衣は押し黙り、扇の顔をちらりと見やった。だが、扇が口を開く様子はない。

確かに、印を結んだところは流にも見えていた。しかし、何かが食い違っているように思えてならない。

辺りを漂う気が・・・重い。

そして、視界はどす黒い霧に覆われた。

(陰陽の流れ!)

「扇さん!」

堪らず声を掛けると、扇の肩がぴくりと動くのが気配で分かった。それでもなお、俯いたままの扇に代わり口を開いたのは、玉零だった。

「間に合わなかったのは、君のせいじゃない。僕の力が足りなかったからだ。果たしてくれ、約束を。僕を最後の当主にして、終わらせてくれ」

 扇が、やっと顔を上げる。

 恐らくは、扇にしか届かなかった、雅の言葉だ。妖怪である玉零には遠くからでもしっかりと聞き取れたのだろう。

「結界を解いたのは、可憐自身よ。扇は結界を結び直そうとしたに過ぎないわ。間に合わなかったようだけどね。扇、貴方は賭けをしていたんじゃない?」

「賭け?」

 鈴音が声に出した疑問は、皆の疑問そのものだった。

 扇はやはり何も答えなかったが、視界の霧はすっと消えていった。

 そうこうしているうちに、狂い狐が再び攻撃を繰り出す素振りを見せる。

 だが、攻撃は来ない。

「ここは、見逃してもらえませんか?」

予想外に落ち着いた声。

一瞬、誰がとも思ったが、この高く澄んだ声の持ち主は、可憐で間違いない。

「やっと見つけた、わたくしの器・・・返すわけにはまいりません。この機を逃せば、わたくしは二度と現世に戻れなくなってしまうのでしょう?」

 だが、そこに可憐の意思は微塵も感じない。

これは、妖狐の言葉だ。

「狂い狐やねんな?もとの可憐さんよりまともっぽいっていうか・・・」

 楓の言葉に、隼が続ける。

「妖怪が皆、狂った者達ばかりだとでも?狂気を孕むのは人間の方だ。妖狐に惑わされた人間を指して、我らは『狐狂い』と呼ぶ」

 狐狂い―――――。

 狂い狐―――――。

「そこの妖の言う通りです。わたくしの妖力にあてられた哀れな人の子が、歴代『狂い狐』と呼ばれてきました。『狂い狐』がそのような存在だとは、ほとんど知られていなかったでしょう。わたくしも、できる限り力を潜め、『狐憑き』だと知られないよう各時代を生きてまいりましたから。それでも、近くにいる者を狂わしてしまう運命からは逃れられなかったのです。自分の意思ではどうにもならず、かと言って、己が『狐憑き』だと白状することもできず、わたくしはただ黙って『狂い狐』たちを見送ってきました」

 そう言って、めそめそと泣く妖狐を見て、緊張が緩む。

 妖狐自体は、話の通じる奴なのかもしれないと。

 だが、

「ああ、可憐。可哀そうな可憐。両親の死以降、心を病んだ彼女は、わたくしの妖気にあてられて、狂ってしまったのです。その様は、歴代の『狂い狐』の中でも飛びぬけて―――――――面白かった」

 妖狐に何かを期待したのは束の間だった。

 整ったはずの可憐の顔は異様な笑みに歪められ、数多の尾が不気味に広がっていく。ピンと立った耳と、弓なりに細められた目は、獲物を前にした時の獣そのものだった。

 真夏の夜だというのに、寒気が止まらない。焼け焦げた匂いさえ凍り付くかのようだ。

「陰陽師」

玉零の呼びかけで、無意識のうちに発動していた力を弱める。左目に触れると、わずかに凍っていた。

「狂気を孕むのは人間の方だとか何とか抜かしてなかったっけ!?」

「楓お姉ちゃんが、元よりまともっぽいとか言うからやん・・・他人のこと言いなよ」

 優衣の最もな発言に楓が押し黙る。一方の隼はバツの悪そうな顔をしてそっぽを向いていた。

「狂気なんて、誰にでも潜んでいるもんじゃないの?私から見たら、貴方たちの執念の方がよっぽど狂気じみているわよ。ま、その諦めの悪さは嫌いじゃないけど」

 扇と鈴音の間に割って入ると、玉零は刀を抜いた。隼も主人に倣い短刀を取り出す。

「おや。わたくしに刃向かうのですか?鬼風情が」

 ゆらゆらと蠢く炎を両手で操りながら、いつでも仕留められると言わんばかりに妖狐は嗤う。

 だが、この白の鬼は怯まない。

「賭けをしましょう」

「また、賭けの話ですか」

 玉零の提案に妖狐が溜息を吐く。

「昨日も同じようなやり取りがありましたねぇ。可憐の結界を解けるか否か。玉無の餓鬼が考えるにしては面白い話だったので乗りましたが・・・。雅の人としての意思が勝てば、可憐は安全な結界の中にいて、妖狐に憑かれることもない。雅自身も妖狐を制御できることが皆の前で証明され、伏見山家当主に復帰できる。ですが、そもそも雅の意思はとうの昔になくなっていたのですよ?もう、可笑しくて堪りませんでした。でも、雅に賭けていたわけではなかったようですね。本当は、可憐に賭けていたのでしょう?扇」

 妖狐の目がすっと細められる。

 扇はその挑発的な瞳に観念したかのように、ようやく重い口を開いた。

「可憐を結界に閉じ込めた後、結界から出るなと強く念を押しといた。出れば殺す。一生、そこから動かへんいうんなら、処刑は取り止めたるってな。お前の言う通り、俺は可憐の生きたい意思に賭けた。それが、一番確実で、最善のものやと思ったからや。雅さんを信じたい気持ちはあったけど、それだけでは心許なかった。せやから、可憐に近づけんよう、あの二人については手を打っといたんやけどな・・・。流と優衣のおかげでおじゃんやわ」

流が動かなければ、鈴音と夏が襲われることもなかっただろう。二人の怪我が自分のせいだと認識させられ、身体が竦む。しかし、それに対して優衣は黙っていなかった。

「扇お兄ちゃんが、計画を私らに言うてたら話は変わったんとちゃうの?しかも、鈴音お姉ちゃんらが怪我しても、可憐さんは結界から出て来おへんかったやん。どっちみち、こおなってたんとちゃう?」

 その開き直りもどうかとは思うが、今は優衣の言葉に救われた。

「そこのお嬢さんの言う通りです。扇は、わたくしがあの二人をわざと痛めつけて、可憐を外へおびき出そうとしたと思っているのかもしれませんが、わたくしにそのような意図はありませんでした。彼女らを傷つけたのは、単にわたくしに攻撃したからですよ。そう、単にその純粋さが鬱陶しかっただけです」

 妖狐は初めて、笑みを消した。

「愛だの恋だの・・・人は、愚かしい生き物だと、つくづく思いましてね」

 炎が揺らめく。

 妖狐は、もう息をしているのかしていないのか分からない雅の身体にそっと触れ、玉零を真っすぐに見据えた。

「それで?賭けとは?」

 やはり、妖狐の中で一番脅威に感じているのは陰陽師ではなく、同族である妖怪ということか。もはや流達のことなど眼中にないようだった。

「可憐を生かしたまま、貴方を倒せるかどうか。さあ、どちらに賭ける?」

 隼が一歩、玉零の近くに寄った。

 そこで、流は悟った。

 玉零の意図に。

「俺は、『できる』に賭ける」

 流の言葉に呼応するかのように、優衣も手を挙げた。

「私も」

 二人で玉零の元に歩み寄る。

「元から私もそのつもりや」

 鈴音も。

 これで、五対二だ。

「兄貴・・・。分かってるんやろ。これは――――」

 ほぼ、心を決めていた楓が扇に詰め寄る。

「分かってる!」

 そうして、ようやく最後の二人がやって来た。

「なるほど。貴女の目的は・・・。どうして、陰陽師の味方をしているかは知りませんが、人間を守りながらの戦いは容易ではありませんよ」

「何言ってるの?勘違いも甚だしいわね。私の言葉に皆がついたわけないじゃない。貴方の脅威は私じゃない。可憐を生かしたまま、貴方を倒す望みは、全て――――」

 小夏に託された弓を握りしめる。

 玉零が懐に仕舞っていた矢を一本取り出し、流に渡した。

「貴方は彼に倒されるのよ」


 そう、全ては―――――


 水の陰陽師、神咲家の血筋を引く、神咲流に賭けられた。


主人公よ、この危機を救ってくれ

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