第七帳
兄妹喧嘩勃発
さすがは、玉無家の跡取り。母からの英才教育を小さい頃から叩き込まれただけのことはある。
厳重な結界は、中からはびくともしない。西洋の術で砕こうにも、呪符も呪具も全部没収され、完全に打つ手無しだ。
しかも追い打ちをかけるように、眼前に居座り、本人が睨みを効かせている。
その血走った目を冷ややかに見つめながら、鈴音は思案した。
どうすれば、兄から逃げられる。
どうすれば、親友を助けられる。
どうすれば、その力を手にすることができる。
吐き出す息と共に目を閉じて、鈴音は今はない胸元の十字架を思い浮かべて祈った。
「・・・あいつら、やりやがった」
扇の暗い声が、僅かに聞こえた。
次の瞬間、目を開けた時には、扇の姿は消えていた。
「嘘。神様って本当にいんねんや・・・改宗して良かったー・・・なんて」
乾いた独り言を虚しく聞く。
神様なんて、いない。
全ての事象は人の思惑によって成り立つもの。
そこには、偶然か必然かの差しかなく、しかもほとんどの場合その差に意味はない。
「よくもこう、ベストなタイミングで来れたもんやな?」
扇と入れ違いに現れた中年の男に視線を向ける。
男は無精髭を擦りながら流暢に喋り出した。
「偶然ここを通りかかったら、偶然お前の兄さんが街へ飛んで行くのが見えて、偶然家の戸も空いていたことだし、偶然にもお前に会いたい気分だったから魔が差して、踏み入った奥の部屋で偶然お前を見つけた・・・ってだけだ」
堅苦しくビシッとスーツを着こなしているわりには営業トークは壊滅的だ。これでよくビジネスが行えるものだと、逆に感心してしまう。まあ、この男・・・武藤賢吾の扱うビジネスは真っ当からは程遠い類のものだが。
「そんなことはどうでもいいから早くして」
「どうした?今日はやけに積極的だな」
賢吾はネクタイを緩め、陳腐な恋愛漫画でしか聞いたことのないような台詞を吐く。
「分かってるやろ?京都で起こってること。人の命が関わってんねん。早よ出し」
そう、睨みながら言っても効果はないようで、賢吾は怠そうに欠伸をした。
「はあ~、俺はもう寝みぃんだわ。元からやりてぇ気分でもなかったし、お前の顔見て満足だ」
あまりの物言いにさすがに激昂しそうになるのを抑えて、鈴音は頼んだ。
「お願いだから、出して!」
「お願いときたか。でもな、鈴音。俺にお前を助ける偶然性はない」
この男は!
「ここまで来といてそれはないやろ!早よ出し言うてるんが分からんのか!」
必死に抑えつけていた理性は悉く、賢吾の意地の悪い戯言に砕かれてしまった。
「なるほどねぇー」
獲物に狙いを定めた猛獣の如き目で賢吾は鈴音を見据える。
「っ!あ、これは違うくて!」
怒鳴ってしまってから、我に返っても遅い。
「前言撤回。無性にお前に触りたくなった」
賢吾が一歩一歩と近づいてくる。結界は体が当たった時点で霧散し消えた。内側を強固にしていた分外からの衝撃には脆いのだろう。
「お前を助ける偶然性が出来て良かったな?」
賢吾は鈴音の頭をぽんぽんと叩きながらほくそ笑んだ。
この男は女のヒステリーに性的興奮を覚える変態なのだ。
「い、今はせぇへんよ!」
「いい。お前の髪に触れただけで十分だよ」
「っ!」
心臓がどくりと脈打ち、戸惑う。
悔しいが、今これ以上触れられて歯止めが効かなくなりそうなのは自分かもしれない。
偶然か必然か。
どちらにせよ人の思惑で成り立ち、目の前の事象は存在している。
偶然自由になれたのか、必然的に自由にさせられたのかは、この際関係ない。
今度こそ動ける身ならば、
「助ける。必ず」
最善となる必然は自分が作り出さなければならないのだ。
「俺も行こうか?」
「いい」
親切心からではないだろうその申し出を断り、鈴音は扇に奪われていたエクソシストの道具を懐に仕舞った。
「これも、だろ?」
振り向きざまに首にかけられたのは、鈴音が肌身離さず持ち歩いている十字架だった。
「ありがとう」
思わず感謝の言葉を述べてしまったが、勘違いするなとばかりに顔を寄せながら賢吾が言い含む。
「忘れんな。これは、お前の枷だろうが。逃れられると思うなよ。・・・お前の罪は、重い」
そんなことは、分かっている。
自分の行動も思考も全ては贖罪によるもの。それを知っているのは、自分と、賢吾の二人だけだ。
「そんな顔すんな。言っただろ。一緒に背負ってやるって」
緩めたネクタイを締め直して、賢吾は破顔した。
その言葉だけは真実だと信じたい。
心を壊し、行く当てなく彷徨っていた私を受け入れてくれた彼の真意を、邪推などしたくない。
「頼もしい神父様だこと」
鈴音は負の思考を打ち払うように微笑んだ。
首から掛かる十字架の重みが半減したような気がする。気のせいだと分かっていてもそういうことにする。
鈴音にエクソシストとしての基礎を叩き込んだ師匠ともいえる人物は、真綿で人の首を締めてくる。
そんな歪な優しさから逃れる術を鈴音は知らない。
でも、それでいい。
例え、賢吾が自分とは異なる方を向いているのだとしても。背負うものが根本から違うのだとしても。
心が同じではなくても。
それが、偶然か必然かを問う意味など有りはしないのだから。
「懺悔の時間は終わりや、賢吾。私は、可憐と夏への贖罪を果たす」
賢吾は黙ったまま、鈴音の後ろを歩く。
外へ出ると、雨は止んでいた。
薄っすらと覗く月は青い。年相応にくたびれた顔が虚ろにこちらを向く。
「また降るだろうから、傘持ってけ」
賢吾は玄関に置いてあるビニール傘を手に取り、放って寄越した。
「ありがとう」
今度は本心から礼を言う。それに対して、賢吾も「いいって」と、苦笑した。
* * *
京都の東、白川通りを北へと進む。扇は恐らく流を追ってくるだろうから、わざと反対側へと足を運んだ。これで、可憐を助けに行った風夏からは、目を逸らせる。
深夜とはいえ、盆地の真夏は厳しい。雨上がりということもあり、少しは涼しいかと思いきや、湿気が熱となって体中をせり上がってくる。
もう、無暗に歩き回るのも無駄な気がして、流は適当なところで休むことにした。
「ここでいっか」
と見つけたのは、アパートの駐車場だった。三階建てのかなり古びたそのアパートの住居者は車を持っていない者ばかりらしく、一台も止まっていない。
少し雑草が生え、寝ようと思えば寝れる気がする。が・・・。
「こんなところで、どうしたの?」
その声に、流の眠気は吹き飛んだ。
「あんたこそ、どうしてここに」
質問を質問で返すと、駐車場の隅っこで丸くなっていた少女が、くすっと笑って隣のアパートを指さした。
「だって、ここに住んでるんだもの」
「は?ここに?」
意外すぎて、間抜けな声が出た。
従者まで従えている鬼の姫が、こんな苦労人の京大生が住むようなアパート暮らしをしているなんて。
「意外?苦学生が住むようなところに紛いなりにも一家の当主が仮住まいしてるなんて?」
「おい、心を読むな」
「読んでないわよ。今は人の姿をしているでしょ?」
そうだった。白の鬼は「白木零」の姿でそこに蹲っている。
たった一人で。
いつもならすぐ近くに控えている隼の気配はしない。
「もしかして、家、追い出されたか?」
そんなわけないとは思いつつも、聞いてみる。
「逆よ。出ていかれたの」
玉零は苦笑交じりに答えた。
その声に、明らかな後悔を感じ取って、興味本位で「何で?」と疑問を口に出す。
「私なりに今回の件のこと考えてみたの。私は、白鬼は、どう動くべきかをね」
「それで?」
「もちろん初めは介入する気満々だったわよ。玉無扇の気持ちを宥めて、伏見山可憐を救うつもりだった」
だった・・・過去形で話すということは、今は違うのだろう。
「でもね。隼が言ったの。伏見山可憐は人か妖か、一体どっちかと。私は人だと答えたわ。扇は妖怪と見做しているから可憐を倒そうとしているのかもしれないけれど、そうじゃないって言いたくて。隼はその通りだって言ってくれた。伏見山可憐は『人』だ。人だから――――人である扇に人である可憐が裁かれることに、何の不思議があるのかと、彼は言った。人が人を裁くことに、白鬼は口を挟むべきじゃない。私の考えが改まるまで、帰ってこないって、出て行っちゃった」
ああ、それで。
隼に言い負かされてしまい、いつものお節介を発揮できなかったというわけか。
でも、それとは別に思うところもあったのだろう。隼の言い分はごもっともだが、頑固な玉零が納得するのには不十分だ。
「それにね、貴方にこれは陰陽師の問題だって言われたし・・・」
ああ、本当に。この鬼は。
長年仕えてきた従者の忠言よりも、付き合いのずっと浅い人間の言葉に心を動かされてしまう。
この性分・・・いや、白鬼の特性は、きっとこの先、足を掬われてしまうだろう。
だから、
「現状報告。可憐さんの処刑に疑問を持った俺と優衣さんで、玉無の地下牢に捕らえられていたナツさん・・・この人、玉無の次男だったんだけど、その人を牢屋から出して、可憐さんの救出に向かわせた。で、俺と優衣さんで囮になって、楓さんをおびき出した。楓さんの相手は優衣さんがしてて、俺は逃げてここまで来たってわけ。可憐さんのお兄さんの雅さんが、実は偽物って話も浮上してる。今、京都で起こってる切り裂き魔はその偽物の仕業じゃないかって俺は思っている。そのことを無名に伝えて、偽物探しを手伝ってもらえることにもなった。・・・人は人を裁くものだ。でも、これは法に則って、裁ける事案じゃない。正しく裁くには、時間もかかるだろうし、いろんな人の意見も要るんだよ。もし仮に、狂い狐である可憐さんが本当に人を傷つけているようなら、なおさら慎重に吟味する必要がある。その見極めの助けをあんたにもお願いしたい」
この優しい鬼が、転んでしまわないように、手を取る。
「・・・分かったわ。隼はもう戻っては来ないかもしれないけれど」
のっそりと立ち上がった玉零の目には、何かの決意が宿っていた。
「いや、あの従者なら焦ってすぐに戻って――――」
「静かに。誰か来る」
突然、玉零が流の手を引いた。流は引かれるまま、その場にしゃがみ込む。
「あそこ、見て」
玉零の指先を目で追い、アパートの屋上を見る。
さっきまではなかった人影がそこにある。と、思ったら、続けてもう一人、屋上に降り立つ者が見えた。
二人は何かを話し込んでいるようだったが、その会話はほとんど聞き取れない。
「一体どこから現れたんだよ。見間違いじゃなかったら、どっかから飛んできたみたいに見えたんだけど」
「このアパート、屋上へ上がる扉には鍵がかかっているの。だから、そういことなんじゃない?」
「そういうことって?」
「だから、貴方の推測で正しいってことよ」
そんなことってあり得るのだろうか。
否。
それができる人達を流はよく知っている。
しばらくして、また一人やって来た。
どうやら方角的に向かいのビルから飛び移ってきたようだ。
そして、その人物が屋上に降りる直前、顔を確認することができた。
「楓さん・・・。ってことは、先についたのは優衣さんと扇さんか?」
「そうでしょうね。何となくだけど、気配があの姉妹のものと似ている感じがするし」
つまり、優衣は扇をおびき出すことにも成功したわけだ。
これで、鈴音が屋敷から脱出できる可能性が高くなった。あとは、扇が張った結界を自力で解けるかどうかだが・・・。
「なあ、今から玉無の屋敷に行けるか?鈴音さんを囲った結界を解いてほしいんだ。俺じゃ、家まで戻るのに時間がかかる。あんたなら――――」
「何の相談や!」
一際大きい声が、はっきりとした言語として頭上に降る。それは間違いなく流達に向けられたもので、既に存在を知られていたことに顔を歪めた。
見上げれば、アパートの屋上の際に片足を掛けた扇の姿が目に入った。
「バレてるみたいね。どうする?確かに私ならすぐに行けるけど・・・」
言葉を濁すのは、ここで変化するのが憚れるからだろう。玉零としては、百花の友達の「白木零」を名乗った以上、正体を隠し通したいはずだ。それは玉零の正体を知る流や、隆世にとっても同じこと。
だが、この状況を容易く切り抜けられるとは到底思えない。
「みなさん、こんばんはー」
玉零は大きな声で扇達に手を振った。
「こんな時間に流と密会してるやなんて百花が知ったら泣くでー。それとも何か?まさかとは思うけど、京都の陰陽家の事情に立ち入ろうなんて思ってへんよな?白木零ちゃん」
扇の棘のある物言いに「まさかー」と玉零は笑顔で返した。そのやり取りを、優衣と楓は何も言わずに眺めている。
三人の間を流れる空気が淀んでいる。そして、風とは逆の方へとゆっくり動く気配がする。宮古学園の神隠し事件以来、度々見えるようになったそれは――――陰陽の流れ。
ぞわっと、背筋を何かが這う感覚に襲われた。驚いて、辺りを見回す。
「どうしたの?」
玉零の問いに、どう答えていいものかと悩んだ。
「あれ」
「あれって?」
流が指さす方に玉零が顔を向ける。屋上にいる三人も釣られて向いた。
京都の街の空を。
広範囲に渡って空に何かが渦巻いている光景を。
「空がどうしたの?」
玉零は異変に気付いていないようだった。
「はあー。今時、あそこにユーホーが!みたいな手に引っかかるわけないやろ。鈴音を連れ出そう思てるみたいやけど、二対二や。分散しても一対一やからな。そう上手くはいかへんで」
同様に、扇も気付いていない。
つまり、これは――――
「陰陽の流れ・・・」
ぼそっと呟いた言葉に玉零が眉根を寄せる。
「見て!あそこ!」
その時、優衣が大きな声を上げた。
扇と楓が一斉に西の方角を見るが、残念なことに、下にいる流達には何も見えない。
「・・えてる・・・」
楓の悲壮な声は小さくて、はっきりとは聞こえなかった。しかし、優衣が機転を利かせて下へ向かって説明をしてくれた。
「京都の街が燃えてるんよ!一か所や二か所やない。結構な範囲に点々と炎が見える!」
同時多発的に起こった火事。
それは、人災かそれとも――――。
サイレンの音が四方から聞こえる。
「陰陽師・・・陰陽の流れはどんな風に見えるの?空に何が写っているの!?」
切羽詰まった玉零の声に、それを聞く理由を考えるのが怖くなって口が思うように開かない。
「ねえ!」
身体がびくっと跳ね、「空に雲とは違う何かが渦巻いている」と、ようやくそれだけ言えた。
「よく聞いて。昔、馴染みだった陰陽師も、貴方が見ているものと同じものを見たと言っていたわ。関東大震災が起こった時よ。私は陰陽の流れなんて見えないし、よくは知らないけど、推測ぐらいはできる。空全体に渦巻く陰陽の流れは天災級の異変なんじゃないかってね。もう、悠長になんて構えていられないわ。京都の街が焼け野原になる前に――――っ!」
「あぶない!」
横目に、扇が扇子を構えるのが目に入った。楓の悲鳴が聞こえる。三人とも屋上から飛び降りようとしているのが分かる。
どうして?
その理由に気付くのが遅れたのは、怪談話よりも怖い玉零の言葉に耳を傾けすぎていたからなのかもしれない。要するに、ビビったのだ。天災級の異変が起きていると言われて。
だから、自分の頭上に突如として降ってきた火の玉に気付けなかった。今ならはっきりと、自分に纏まりついている黒い帯状の気が見えるというのに。
術を発動させるには、時間が無さ過ぎた。
「はあー。己の身も守れず、何が陰陽師よ。せめて、幼気な少女を庇う真似ぐらいはしてほしかったわね」
迫っていた熱は、もう感じない。冷ややかな玉零の声を傍で聞き、二人とも無事であることが分かった。
閉じていた目を薄っすらと開ける。
「零ちゃんは?」
「何言ってんの、楓お姉ちゃん。そこに居るのが零ちゃんってことやろ?」
「まあ、話だけでも聞こか。鬼さん」
白鬼姿の玉零が抜き身の刀を斜めに構えて流の前に立っている。その周囲を扇と楓、優衣が囲んでいた。扇は扇子を、楓は呪符を、優衣は大槌を玉零に向けて。
「話?白木零は実は妖怪でした・・・はい、これで文句はないでしょ?それより」
「おい、なめてんのか?俺達をずっと騙してた鬼が!お前のとこの家の話も全部嘘やったんやろ!?みんなを騙して百花や流に近づいた理由は何や!吐け!」
敵意丸出しの三人に怯んだのは、玉零ではなくむしろ流の方だった。
「あ、ちょっと、待っ・・・」
「大人しくした方がいいんやない?陰陽師四人相手にどうこうできるやなんて思てへんよな?」
楓の発言には、自分も玉零の敵として含まれており、なおさら焦る。
「楓さん、そうじゃな・・・」
「待って。この妖怪、かなり強いと思う。さっきの見たやろ?あれだけ大きな火の玉を真っ二つって・・・それに、人の姿に化けてたとはいえ、うちの結界をすり抜けられててんで?用心した方がいい。何してるん、流君、早よ下がって!」
玉零の刀に注意を向けながら、優衣が流を庇うようにして、一歩踏み出す。
「ちっ」
いつも飄々としている玉零から舌打ちが聞こえた。
分かっている。
こんなところでもたついている場合ではないことは。
「待ってください!白木零が妖怪であることは、初めから知っていました。扇さん達には言ってなかったけど、春に宮古学園で神隠し事件が起きて――――察しは付いてもらえると思いますが、女子生徒の遺体が発見されたあの事件は怨霊が絡んでいました。それを解決させたのは俺と、ここにいるシロオニです。いや、正式には『ハッキ』と言います。神の化身。人間になれる妖怪。古来では陰陽師と共に妖退治をしていたとか・・・それは彼女が言うことなんで信じる信じないはお任せしますが、少なくとも、俺は今までに三度、白鬼に助けられています。一度は、さっき言った宮古学園の事件。それ以前に、中学の修学旅行での怨霊騒動。そして、この間の修学旅行での妖怪退治。この鬼が敵じゃないことは俺が証明できます」
状況の収拾に時間をかけている暇はないので、一気に喋り切った。それを聞く三人の表情は険しい。当然だ。同じ屋根の下で暮らしてきたというのに、今まで秘密にされていたのだから。
それに、
「一応聞くけど、零ちゃんの正体を知っているのは流君だけ?」
「いえ、兄貴も」
隠していたのは流だけではないと、敏い三人のことだから、すぐに分かっただろう。
分かっていてあえて質問した楓が呪符を懐に仕舞いつつ、天を仰ぐ。
「あのけったいな陰陽師の霊が現れた時、隅田とは零ちゃんのことについてもようよう話し合うたけど・・・二人して、俺らを騙してたとはな。隆世もやるようになったなあ。百花の兄貴やから悪口は言いたくないけど、土御門に毒されているとしか思われへんわ」
扇の覇気のない物言いは、逆に刺々しい。優衣も黙ったまま、玉零を睨んでいる。
だが、不思議と、先ほど屋上で相対していた時に三人の間に見えた淀んだ気はなくなっていた。そもそもあれが何を示す陰陽の流れだったのかは分からないが、これで良かったような気がする。
「まあ、そういうことでして。名は玉零と言います。別に名で呼んでもらわなくてもいいけど。それより、こんなところで油売ってる暇はないんじゃないかしら?」
空を見上げれば、依然として、黒い塊が渦となり宙を漂っていた。
「ほう、あれが見えるか」
冷ややかな声が背後から聞こえた。慌てて振り返れば、駐車場のど真ん中で天を仰ぎ見る狩衣姿の男がいた。
「無名!」
その場の全員が突如現れた無名に注目する。
玉無の誘い込み結界を瞬時に解除したほどの実力者だ。何かしらの期待を向けるのは悔しいことだが、仕方がない。
「雅さんの偽物は見つかったのか?」
徐に流が聞くと、無名が答えるよりも早く扇が反応した。
「偽物ってどういうことや?」
「十年ぶりに現れた雅さんは偽物じゃないかって話ですよ。推測っていうよりも、ナツさんの話を聞くに確証に近いことです。扇さんには酷な話ですが――――」
「いや、あの雅さんは本物や」
風夏が語った十年前の真実を話そうとして、一蹴された。
「昨日かて、雅さんと直接会うて話したんや。間違いない。本物や。見た目は十年分老けてるけどな」
その自信はどこから湧いてくるというのだろうか。確かに風夏は『殺した』と、はっきりと証言したというのに・・・。
「聞いてください、扇さん!」
「その話は止めよう」
流の言葉を遮ったのは意外にも優衣だった。
「それで、無名さん。この火事起こしてるのは一体誰なん?私らの敵は一体何者なん?」
優衣の質問に無名は呆れた顔で嗤った。
「それを言って何になる。俺の一言では流れが変えられんほどに、貴様らの中では既に敵は定まっているではないか」
「それはどういう意味だよ」
わけが分からず聞き返す。
「分からぬのはお前だけだ」
にべも無く突き返された。
「人間ならば味方、妖怪ならば敵・・・よもやそのような考えをしている者はここには誰一人としていまい。本質を見極められている者もいないがな。まあ、惜しい者もいるにはいる・・・が、答えにほど遠いのは間違いなくお前だ」
流を指さして無名は言う。
それに対して、誰も言葉を発しないものだから、本当に自分だけが蚊帳の外のようだ。
呆気にとられて黙っているだけかもしれないが・・・。
封印から目覚めた陰陽師の言うことの一パーセントも理解できなくて、流は下唇を噛んだ。
「さて、小火騒ぎの犯人捜しは無駄だと分かったところで、本題に入るとしよう」
勿体ぶりながら、無名は腕を組んだ。
探偵か何かのつもりだろうか。
「つまりそれは、今起こっている火事が今回の伏見山の件とは無関係だってことか?それとも、あんた自身も誰がやったか分からないってことか?」
苛立ち紛れに聞けば、「黙って」と玉零に窘められる始末だ。
「重要なのは、そういうことじゃないのよ。起こってしまったことを議論している時間はないの。陰陽の流れが見えるっていうのはね――――」
「未来予知」
優衣がぼそりと呟いた。
それを受けて、玉零はうんと大きく頷き、話を続ける。
「流れが見える者は、先手を打てるからこそ重宝されているのよ。だから、無名に聞くべきことはただ一つ」
「次に起こることは何か、か」
「そうよ」
無理やり納得させられた。ここは大人しく引き下がるしかないと判断し、無名を見る。
流の歯噛みしたその顔を、やれやれという風に一瞥して、無名は口を開いた。
「陰陽の流れの見方を教えてやる暇もなければ義理もないので、結論だけ伝える」
一々癇に障るが、何とか堪える。
「陰の気は南に流れている。事が起こるなら、彼の神社だろうな」
「助けに行かせたんは間違いやったやろか・・・」
風夏のことを案じてか、優衣がぽつりと漏らす。と同時に、扇がはっとした顔をして、「まさか!」と叫んだ。
「お前らの狙いは鈴音やなかったちゅうことか?」
楓と扇を引き付け屋敷から遠ざけることで鈴音を逃がす・・・というのは、おまけの作戦だ。それが主だろうと考えていたらしい扇は、自分よりも早く屋敷の外に出て優衣と対峙していた楓へと目を向けた。
「・・・ごめん、兄貴。うちが外に出た時にはもう、地下牢で捕まってた男は逃げてた」
大きな溜息が扇から漏れる。
「読みが外れたな。てっきり優衣を囮にして、流が鈴音を逃がすんかと思てたのに。流はどんどん屋敷から離れて行くし、何かおかしいなとは思ててん。まあ、せやからここまで優衣を追いかけて来れたんやけどな」
扇の自嘲めいた言い方は、けれども皮肉をも含んでおり、優衣は肩を竦めた。
「さすが扇お兄ちゃん。侮れへんね」
全てではないにしろ、自分の立てた作戦にわざと乗ってきていたのだと知り、面白くないのだろう。
「それにしても、あいつをどうやって・・・」
扇はそんな優衣に一瞥をくれ何かを言いかけたが、しかし途中で言葉を切った。
そして、可憐と相対した時のような憎しみを顔に滲ませて、南の空を見る。
「これ以上、他の者は首を突っ込むな。ええか?狂い狐は俺が殺す」
瞬間、突風が起き、扇の姿が消えた。
楓が物悲しそうに上空を見上げる。
「二の扇を使ったんやね。あれは体力消耗するから極力使わんようにしてる言うてたのに。もう・・・追いつけんやんか」
空へと視線を移せば、畳一枚分ぐらいの扇子が目に入った。あの上に扇は乗っているのだろう。もちろん向かう先は伏見山神社だ。
どうせなら流達も乗せて行ってくれればいいものを、そうしないのは『ついて来るな』という牽制に他ならない。
「盲目に突き進むことしか知らぬとは、実に滑稽だな。あれを待っているのは、死だ。――――お前達はどうする?」
「死なせはしないわよ。可憐も扇も・・・私達も伏見山神社に行く。それ以外の選択肢がある?」
無名の問いにはっきりと玉零が答える。それはその場にいる全員の代弁でもあった。
「でも、ここから伏見山神社までは結構な距離や。鬼のアンタはどうか知らんけど、うちらはどうやっても兄貴には追い付けん」
楓の心配はもっともだ。もう、電車もバスも動いていない。タクシーを捉まえて行くにしても時間がかかる。それならば、楓や優衣のように風術を使って、飛んで行った方がまだマシかもしれない。それも、流には無理な話だが。
「式神」
ぽつりと、玉零が呟いた。
「式神、出せるでしょ?さっきの二の扇に代わるような、私達全員を乗せて移動できる何かを。ねえ、無名。貴方は私達にどうするかと聞いた。じゃあ、逆に問うわ。貴方は、どうするの?陰陽の流れを・・・」
一呼吸置いて、言い放つ。
「糺すつもりがあるなら、私達に協力しなさい。陰陽師」
自信と意地が織り交ざった瞳で、白の鬼が問いかける。あの目に逆らえる者はそうそういないだろう。
だが、
「断る」
無名は容赦なく、断ち切った。
「どうして!」
玉零の叫びに無名は苛立ったように答える。
「陰陽の流れに正しさはない!陰陽の流れを糺す・・・俺も奴もその言葉を幾度となく使ってきたが、所詮は己らにとっての正しさだ。それも、結局のところ己らのためになったのかも分からない。糺して縺れるなどということも現実にはあるのだ」
今度こそ無名が言わんとしていることを理解できないのは流だけではなかった。優衣と楓も困惑した顔でじっと無名を見つめている。 それは玉零も例外ではなく――――
「分からない。一度はこの件に協力すると言った貴方が、どうして今更そんなことを言うの?陰陽の流れを見て伏見山神社に向かえと示唆しておいて、どうして今更協力を拒むの?」
髪がふわりと靡く。瞬間、玉零は無名の腕を掴んでいた。
「間に合わないですって?だから諦めろと?いつかのどこぞの陰陽師みたいな言い方しないでよ。それとも、私達を向かわせたくない理由が他に―――――」
「やめろっ!」
無名が掴まれた腕を勢いよく振りほどいた。
「今のは、白鬼の力ではないな?」
「父親の能力よ。知られたからにはもう、貴方相手には使えないでしょうけど・・・」
玉零と無名の睨み合いが続く。その重い空気を先に裂いたのは玉零だった。
「いいわ。貴方の杞憂など消してあげる。私はね、最初から貴方に期待なんてしてないのよ。手段はまだある。隼!」
拳を握りしめ、わなわなと震える無名を余所に隼は主人の前に跪いた。
「聞いていたわね?私は伏見山神社に行く。貴方の意見なんて聞かない。私達を連れて行きなさい。これは命令よ」
悔しそうな表情で、しかし反論することを許されない立場だと理解させられたからか、隼は「御意」と答えた。恐らくは、ずっと、近くにいたのだろう。出ていくと息巻いておいて、結局は玉零が心配で遠くには行けなかったのだ。
「街はどうする?」
無名は玉零の背に縋るように問う。
「力のない多くの人間が死ぬぞ?それを放置して、陰陽師を助けに行くと言うのか?よもや白鬼の本分を忘れているわけではあるまいな?」
先ほどよりも、サイレンの音が増えてきている。空が赤く染まっていることにも気づいている。車のクラクション、人々の騒ぎ声が今にもここまで聞こえてきそうだ。現にこのボロアパートでも、部屋の明かりをつけて外の様子を窺う住人が出始めた。
だが玉零は、無名の最もな言葉に振り向きもせず、「そう、ね」と曖昧な返事をし、背を向けたまま歩き出す。
「白鬼はね、神ではないの。同時に救うことなんてできない。だから、最善を選ぶ必要があるの。貴方が行くなというほどならば、私はそちらへ行くしかない。伏見山の陰陽師を救って、根本を糺すしかない。・・・だから、お願いよ。街は・・・街の人達の命は、貴方に託すから――――一人も死なせないで」
どんな顔をしてそれを言っているのだろうか。
頼みを聞いてくれるとも思えない相手に、自分が救うべき命を任せるというのは。
それがただ、責任転嫁したいだけの発言だと分かっていて、それでも言わざるを得ない心情というのは。
玉零の背後に立つ流達には分からない。
眼前に跪く隼でさえ、目を伏せている。
見てはいけない。
本能的にそう思った。
「行きましょう」
玉零の合図で、隼が鳥の羽根を一枚取り出して地面へ投げた。一瞬で五、六人は乗れるほどの大きさになる。
「これに乗んの?」
「乗るしかないねんやろ」
半信半疑の楓の背中を優衣が押し、羽根の中央へと進む。
先頭を玉零、隼が陣取り、流は後方に立った。
「座ってた方がいいわよ」
え、と思う間もなく羽根は宙に浮いた。アパートの住人に見られはしないかと心配したが、それは一瞬のうちに上空へと上昇する。
「落ちる落ちる落ちる――――!」
楓の声か。
叫ばずにはいられないのも分からなくはないが、口を開けば舌を噛みそうだ。
「羽根を掴んでいなさい。振り落とされるわよ!」
言われなくても皆必死に掴まっている。
羽根はふわふわしているわりには頑丈だが、こちらの筋力と体力が持つかは分からない。
上に上がる感覚が消えた。と、思ったら今度は全速力で前に進む感覚に体中が包まれる。
(伏見山神社に着く前に、死ぬな。)
縁起でもないが、心中で毒づかずにはいられなかった。
* * *
「行ったか・・・」
一人取り残された無名は、とぼとぼと歩き出した。
白い鬼の少女が言った言葉を頭の中で反芻する。
一体どういうつもりで俺に賭けたのだろうか。
それとも俺が従うと、本気で思っているのだろうか。
どちらにせよ、京の街を炎から救わなければ、あの鬼は確実に寿命を縮めるだろう。
だが――――
「難儀だな」
身体が重い。
息が苦しい。
死してもなお、そのような感覚に陥ることを不思議に思いながら無名は空を見上げた。
そうか。
陰の気のせいか。
常人には見えないその渦を見ながら、納得する。
この流れを糺せば、自分も――――
「いや、雲が晴れたとて、望月は見えぬ、か」
白鬼の血を引く少女とあの(・・)陰陽師。
この世に再び己が在る意味を考える。
そうして見えてきたものから目を逸らして、無名は火の粉が舞う京の街を見据えた。
兄妹喧嘩に巻き込まれていく流・・・