第六張
もう、ほとんどの方が予想しているかと思いますが、ナツの正体が明らかになります。
東京都とはいえ、郊外に邸宅を構える隅田の屋敷には、喧しい蝉の声が鳴り響く。
ミンミンミンミンミン。
ミーンミーンミンミンミンミン。
途切れることなく鳴き続ける虫に苛立ちを覚え、隆世は窓をピシャリと閉めた。
「聞いてるだけで暑苦しいわ」
「えー閉めちゃうの?その方が暑いと思うけどなー」
定位置のソファーでコーヒーを飲んでいた明臣が涼やかな顔で言い放つ。
この屋敷に、エアコンはない。
「いいんだよ。暑いのには慣れてる」
ちなみに寒いのにも慣れている。
陰陽師などという世間一般的に認められているとは言いにくい職業を代々生業としているせいで、隅田の財政は貧窮の一言に尽きる。今でも政府や財界との接点を持ってはいるが、そのパイプ役は全て陰陽総会が牛耳っており、隅田に直接金が入ることはない。
それでも、戦後、陰陽術をまともに操れる者は隅田家の血筋以外に関東では存在せず、何とかその血統だけで陰陽総会から支援を受けているのだ。
いざとなれば・・・
この屋敷を取り押さえ、隆世達を路頭に迷わせることなど容易いだろう。
「借金さえなければ」
つい口に出た言葉に、明臣が「まあね」と神妙な顔で頷く。
「悪趣味もいいところだよ。法も道徳も価値観も一新された明治からは、白昼堂々殺し合いなんて出来なくなったからね。その代わり金で君達の命を縛ることにした。全く、金貸しなんて、陰陽師のすることじゃないよ。土御門の品性はいつからここまで地に落ちたんだろうねー」
明臣はそう言うが、東京で生きていくため、その誘いに応じたのは隅田だ。
明治以降、長年に渡り隅田は土御門に借金を重ねてきた。その額は今の日本円にして、億は軽く超えている。返済の目処は未だ立っておらず、利息分が増えていく一方だ。
いつになれば、この責め苦から逃れられるのか・・・。
しかし、隆世は知っている。
本家の血筋が絶えた今の土御門は、己らの私腹を肥やすために必要な隅田を決して離しはしないと。
「初めは嫌がらせのつもりだったんだろうけどねー」
土御門に力ある陰陽師が存在し、余裕のあった頃はそうだったんだろう。
「でも、」
でも、今は。
「でもね、それも全部嫉妬だったんだと思うよ」
「は?」
現在の土御門の状況について話をするとばかり思っていた隆世は素っ頓狂な声を挙げた。
「いや、だから。隅田にはあって土御門にはないものの話さ。あれ?もしかして気づいてない?」
何が、と言いかけて止める。いつものニンマリとした笑みを湛える明臣に何を聞いても無駄だと思ったからだ。
「いいんだよ〜。無知は恥だけと、無知を自覚することは、美徳なんだからさー」
「はっら立つ」
小さい声で苛立ちを口にすれば、ますます明臣を上機嫌にさせたようで、明臣は鼻歌を歌い出した。
しかも、合唱曲。
そんな微妙な選曲をしてくることにも腹が立つ。
「うるせーな!」
ガラっと、窓を大きく開け、隆世は息を吐いた。
蝉の声を聞いていた方がまだマシだ。
明臣は相変わらず、鼻歌を歌っている。
確か、曲名はフェニックス。
「フェニックス・・・不死鳥ねぇ」
不死鳥、火の鳥。手塚治虫の作品は好きだが・・・
火の鳥――――
そのフレーズは、瞬時に別の言葉に変換され、隆世の口から漏れ出た。
「朱雀・・・」
記憶がフラッシュバックする。
崩れた朱雀。
疲労感。
弟への苛立ち。
蝉の鳴き声。
喚く弟。
そして、珍しい祖父の怒号。
突如として鮮明に蘇ってきた記憶に内心戸惑う。
どうして今になって思い出した?
否、どうして今まで思い出せなかった?
「小学校の夏休みの工作で、陰陽術の練習がてら、朱雀の置物を作ったことがあんだ。苦労した甲斐あって、都の作品展に出展されたからよく覚えてる」
「それで?」
明臣は鼻歌を止め、訝しむことなく、隆世の話に耳を傾けた。
「でも、初めに作った朱雀は失敗した。流のギャーギャー喚く声で気が散って、粉々に崩れたんだ」
「ふーん。今の君じゃあ、あるまじき失態だねー。で?」
軽口を叩きつつも、明臣は先を急がせる。
明臣も早く知りたいのだろう。
隆世が辿り着いた仮説に。
「流は爺さんと一緒に京都の祭に行きたくて、駄々を捏ねてたんだ。あれは確かに小四の時・・・ちょうど今から十年前のこと。爺さんは、十年前の鎮魂祭に参加していた・・・いや、参加はしてないかもしれない。でも、鎮魂祭が行われている京の地にはいたんじゃないか?」
それが即ち何を指すのか・・・
高速で回転する思考は、糸が断ち切られる感覚と共に止まった。
「っ!」
「どうしたの?」
明臣の問いにどう答えればいいか迷った。
あり得ない。
そんな思いが一瞬頭を過ったからだ。
でも、どんなに信じたくなくても、これは、事実。
「式神の気配が消えた」
「どこの!?」
職業上、隆世は多くの式神を配している。東京を中心に東日本にはおよそ、千はあるだろうか。
だが、しかし。
管轄外である西日本にも一箇所だけ、隆世の式神を置く地がある。
「京、都」
掠れた声に明臣はやっぱりという顔をした。
京の地にある式神は七体。
一つは、流のために渡したものだが、今は得体の知れない陰陽師の霊に乗っ取られている。なので、新しく流に渡したものがもう一つ。残りの五つは、伏見山可憐を監視するために送ったもので、今消えた式神は――――
「伏見山のだね?」
明臣の問いに隆世はコクリと頷いた。
「五体全部やられた」
「そんなことって可能なの?君、どんだけヤワに作ったのさ」
明臣の小言は舌打ちして聞き流し、即座に携帯を取り出す。
「楓。みんなに伝えてくれ。火急の件だ」
本当は。
今すぐにでも京都に行くべきなのだろう。
しかし、先の鎮魂祭の儀式で吸い取られた霊力は回復しておらず、こうやって危機を知らせることしかできない。
一通りの説明を終え、電話を切ると、何とも言えない無力感に襲われた。
「そっちはどうだ?」
明臣は千里眼で京都で何が起こっているのかを見ようとしているところだった。
「ダメだ。何かに邪魔されて、伏見山可憐の姿は認知できない。でも・・・」
「でも?」
逡巡した後、明臣は口を開いた。
「あー。流君と君の妹が仲良くお祭りデートしている様子はばっちり見えるよ・・・」
そんな情報はいらん!
と、叫びそうになりながら、流達が無事であることに内心、ホッとする。
「あ!」
「今度はどうした!?」
「すごくいいムードだったのに、邪魔が入った。ねぇ、隆世は気づいてた?玉無の何ちゃんだっけ?あの子も――――」
「もういいわ!」
そんな、くだらないやり取りを続けていられるのも、そこまでだった。
伏見山神社で立て続けに犠牲者が出た。
その様子を見ていた明臣は断言する。
「残像しか見えなかったけど、あれは確かに狐の尾だった」
と。
その後、玉無扇が伏見山可憐を拘束。
「僕の見間違いじゃなかったらさ、玉無の次期当主はすごいこと言ってたよ」
明臣の千里眼はあくまで見るだけ。その場の音までは拾えない。が、読話のできる明臣によると、玉無扇は皆の前でこう言ったらしい。
――――伏見山可憐を処刑する。
* * *
今日も熱帯夜らしい。
肌にじっとりと纏わりつく熱に目眩を覚えながら、のっそりと立ち上がる。
玉無邸の縁側から空を見上げると、厚い雲が空を覆っていた。雨はいまなお降り続いており、星も月も見えない。
街頭に照らされ、完全な闇ではないというのに、暗闇に取り残されたような恐怖が全身を襲う。
見えていない。
という、恐怖。
そして、急激な流れに対する違和感。
扇が可憐を拘束してから七時間が経った。
時刻は零時を回り、深夜の一時に差し掛かろうとしている。今日の朝には伏見山可憐の処刑が決まっているが、流はその現実を持て余していた。
扇が言い出した時は、あまりにも突飛で実感がなかった。それは、その場にいた誰もが感じたことだろう。しかし、後に、現当主扇が判断を全て次期当主に一任すると宣言したことから、自体は変わった。
さすがにこれには隆世も黙ってはいなかったが・・・
「隅田が陰陽京総会の中心であるべきという考えに変わりはないわよ?陰陽総会みたく年寄りばかりが蔓延っていては、進むものも進まないもの。だから、私は決定権を若い人達に預けたいの。別に扇の意見に賛同しているわけじゃないわ。ただ、任すと言っているだけ。どんな結果になろうとも、私は口を挟まない。この件は玉無家次期当主、扇に一任す・・・。あら?玉無の独裁なんて言葉、久しぶりに聞いたわ。でも、そうよね。そう思われても仕方ないわよね。扇は私の娘・・・いえ息子だから。総代の後目にも扇を据える気なんじゃないかって?ふふふ。違うわよ。扇は若い組の中でも一番の年長者でしょ?経験も積んでいるし、伏見山との付き合いだって一番長い。貴方を差し置くつもりはないのよ?たとえ、式神の失態があったとしてもね。事は急を要するの。みんなの意見をまとめている時間なんてないわ。誰か一人が背負った方が良い時もあるのよ。それが感情に流されたものだとしても。それに、貴方はそこから離れられない。そうよね?隅田の若当主様」
玉無現当主と隅田当主の初のテレビ電話による会談はこうして終わった。
式神化するほどの霊力を取り戻していない隆世にとって、京都に来られないことを指摘されたのは痛かった。軍杯は扇に傾き、隆世はこの件から強制的に退場させられた。
扇は水を得た魚のように、着々と処刑の段取りを決めているし、隆世の味方だと思われていた楓は母親の言い分には納得していないようだが、処刑の件自体には自身の意見を控え、扇に従う姿勢を見せている。
鈴音は結界を張り巡らされた部屋に閉じ込められているので、手出しは不可能。
もはや、可憐の処刑を止められる者は――――人の中にはいない。
しかし、彼女なら。
生き霊となり人を殺した佐々木美香にさえ心を砕いた白の鬼なら、
人というだけで、何もかも投げ捨てて救おうとするはず。
だから流は、こうして、見上げても見えるはずのない月を待っている。
もう、何時間も。
「何を待ってるん?」
なかなか現れない相手に痺れを切らしそうになった頃、背後から声がした。
玉無優衣だ。
優衣は縁側に佇む流の事情を知るはずはないが・・・
「待っても無駄やで」
心を見透かしたような物言いにギクリとして「どういうことですか?」と、聞き返した。
「流君は処刑のこと、おかしいって思ってんねんやろ?でも、待ってても、何も変わらへんよ。誰かが覆してくれるなんて思てたらあかん」
同じように空を見上げ、優衣は言った。
流が待っていた特定の人物を差してのことではないと分かり、安堵するも、不安は一層大きくなる。
優衣は、ゆっくりと流に向き直ると、鋭い眼光で流を見据えた。
その瞳に映るものに息を飲む。
優衣が示唆するところに思い当たり、思わず目を逸らした。
「一人ではどうしようもないですよ。一人の力で覆るほど、状況は甘くない」
「そんなことは、私かて分かってるよ。でも、」
優衣は、力強く言い放つ。
「それでも、間違った流れは糾すべきや」
雨が、止む。
ザーザーと降り注いでいた雫が、ポツリポツリと滴り始め、とうとう雨音は聞こえなくなった。
薄っすらと顔を覗かせた月に照らされ、流はようやく口を開いた。
「分かりました。それに、一人って訳じゃなさそうですしね」
この話を持ちかけた時点で、優衣も処刑に反対なのは明らか。案の定優衣は「そうそう。私もいる」と言って、ニコッと笑う。
「でも、どうするんですか?これから二人で可憐さんを逃がしに行くとでも?」
「二人でなんて。そんな無謀なことはせんよ」
優衣は声を潜めて、提案する。
「まずは、地下牢にいるあの人を助け出す」
ポタポタと、雨漏れの音が響く。肩に雫が落ち、ヒヤリとした。地下だからだろうか。真夏にもかかわらず、肌寒い。
「まさか、屋敷に地下があったなんて・・・」
玉無家の台所には、地下牢へと続く階段が隠されていた。優衣達が小さかった頃にシステムキッチンに改装したというそこは、清潔感に溢れ、地下への入り口があるなんて、誰も想像しないだろう。
どこの家にもある台所の床に設置された貯蔵庫。その扉を開けると途端に下へと続く古びた階段が現れた。
優衣も行くのは初めてだと言うが、懐中電灯も持たず不思議と慣れた足取りで進んでいく。
「昔、お母さんがよく話してくれてん。悪さしたら、地下牢に閉じ込められたって。先代はそれは厳しい頑固親父やったらしいからな」
玉無家の先代当主は男だった。だから、世継ぎは現当主、扇一人なのだ。戸籍上の夫とは子を成してすぐに別れたという。
「おじいちゃん、とでも呼んだらええのかな?私が生まれた時にはもう居てへんかったから実感ないけど。おじいちゃん、本当は子煩悩やってんて。だからな、引き取ったんやと思う」
誰を?と聞きかけて、口を閉じた。流の母、龍子もまた、早くから身寄りのない身であったと聞く。
「せやから、私のお母さんと龍子さんは、姉妹みたいなもんやったゆう話や。地下牢に閉じ込められた話を楽しそうに話すんは、傍に龍子さんもいたからやろうな」
優衣の話に、二人がここに閉じ込められているところを想像してみた。
不鮮明な輪郭が眼前に現れる。悪さをした幼い少女がクスクス話しながら、出してもらうのを待っている姿。
「先代もここで生活してたんですよね」
つい漏れ出た言葉に優衣が流の顔を覗き込んだ。
夜目が効く流は、優衣の顔がよく分かるが、果たしてこの暗闇の中、優衣は何を読み取ろうとして、流の顔を覗くのだろう。否、そもそもどうして顔を覗き込むなんてことができるのか。もっと言えば、どうやってこの暗闇を歩いているというのだろうか。
それは、全くの感情もない無とも言える優衣の表情からは何も読み取れなかった。
「流君は・・・やね」
再び歩み始めた優衣が何かを呟いたが、それを聞き返す勇気は出なかった。
そして、最下層に二人は辿り着いた。
優衣は地下牢に駆け出すと、傍にあった蝋燭に火を灯した。ライターでも持っていたのだろうか。
辺りが明るくなり、途端に驚きの混じった蒼白な顔面が鮮明に浮かび上がった。
「伏見山可憐の処刑は明日の明朝に決まりました。早計で強引であることは誰の目にも明白ですが、可憐さんの味方である姉は囚われ、隅田も動けず、現玉無家当主と日和見の姉が一番上の兄に判断を一任する始末です。私達はこの間違った流れを糺したい。そのために貴方のところに来ました」
何かを言おうと口をパクパクさせるナツを尻目に優衣は言い切った。
しかし言い終わった後も、ナツは一向に返事をする気配がない。初めは開いては閉じ、開いては閉じしていた口を固く閉ざして俯く。
「優衣さん、この人喋れないんじゃ・・・」
ガタンッ。
流の言葉を遮って、優衣は格子に手をかけた。
優衣の鋭い目つきに息を飲む。
「いつまでそうやって、黙っているつもりですか?このまま可憐さんが死んでもいいんですか?」
優衣の責めるような物言いにナツの表情が強張る。
このまま死んでもいいなんて、そんなこと思っているはずはない。なのに・・・。
「貴方も死ぬつもりですね?」
「えっ!」
優衣の放った問いに思わず大声を挙げてしまった。
「この檻から出ようと試みた形跡もない。ずっとこうして項垂れて、諦めていたんでしょう?」
確かに格子は傷一つなく、脱出しようとはしなかったのだろう。
だが、だからと言って、どうして優衣がここまでナツを責めるの
か不思議に思いながら、流は口を開いた。
「ナツさん、こうして俺達が貴方を助けに来たんです。まだ希望は」
「いいや、この腑抜けを檻から出したところで希望はないわ。せやろ?この人に可憐さんは助けられへん。助ける気なんかあらへんのやか」
「俺かて!」
その時、高い声が地下に響いた。
誰が発した声か一瞬理解できぬほど、それは不似合いなものだった。ナツには。
「やっと喋る気になったか。夏お兄ちゃん」
急に穏やかな表情になった優衣に疑問符を隠せない。この二人は知り合いだったということか?
「やっぱり気づいてたんやな、優衣は。お前は一度も俺のことを楓のようにお姉ちゃんとは呼ばんかったもんな」
「まさか、貴方は・・・」
語り出したナツの言葉にようやく合点がいく。
「改めて紹介するわ、流君。玉無家次男、玉無風夏。あの暴走した扇お兄ちゃんを止める、私の切り札や」
そう言って、優衣は予め入手していた鍵で地下牢の扉を開けた。
「切り札やなんて、よう言うわ。こんな腑抜けに可憐は助けられへん言うてたくせに」
「ん?腑抜けやなんて今は思てへんよ。やっと口開いたってことはそういうことやろ?私はずっと待ってたんや。夏お兄ちゃんが話してくれるんを。扇お兄ちゃんは可憐さんの悪口ばっかり言うて鈴音お姉ちゃんと夏お兄ちゃんを腫れ物に触るように扱うし、お母さんはあの後、めったに家に帰って来おへんくなって・・・私は幼かったから、鈴音お姉ちゃんが家族の前に顔出さんくなったんも、夏お兄ちゃんが一切喋らんくなってしもたんも、何でやろとは思ててもどうすることもできひんかった。祭りのことも、伏見山の当主交代のことも、何もかも・・・。知らんうちに、鈴音お姉ちゃんと夏お兄ちゃんは家出てしもて。私は何も分からんまんまこの年まで生きてきたんや。でも今回、鎮魂祭で可憐さんが出てきて、鈴音お姉ちゃんが帰ってきて・・・夏お兄ちゃんも帰ってきた。私は、もう、何も知らんまんまで許される歳やない。誰が何と言おうと私自身が無知を許さんのや。夏お兄ちゃん、せやから、話してくれるやんな?十年前の鎮魂祭で、何があったかを」
言い逃れを許さない、有無を言わさぬ物言いに、ナツもとい風夏は、覚悟を決めたようだった。自分自身で手枷を外し、優衣と流に向き直る。
「十年前、俺達三人は・・・伏見山雅を、可憐の兄を・・・殺した」
「っ!」
衝撃的な事実に息を飲んだのは流だけだった。
優衣は予想していたのか、淡々とした口調で「理由は?」と聞く。
「・・・それを話せば長くなる」
「そこが重要やねんけどなー」
優衣は今にも駆け出しそうにうずうずしている風夏を見て、「まあ、いいか」とため息混じりに呟いた。
「つまり、や。最近現れた伏見山雅は偽物ってことやな?伏見山神社で会うた時も何や胡散臭い思てたけど、そういうことか。偽物の目的は分からんけど、このまま可憐さんを死なすわけには行かへん。行くで。流れを変えに」
どうしてだろう。これほどまでに優衣が頼もしいだなんて。ナツの正体を見破っていたことも含め、もしかして優衣は――――
「優衣さん、もしかして貴女は流れが――――」
「ん?どうしたん流君」
地下の階段を上がっていく中、優衣は今後の作戦について話し始めていた。
「いえ、それでいいと思います」
優衣は少しはにかんだ様子で「ありがとう」と礼を言う。
こういう表情はいつもの優衣なのだが。
「要は夏お兄ちゃんやからな。上手くやってや!」
玉無家の庭をそっと横切り、塀をよじ登る。月明かりが眩しい。鈴音を見張って一晩中起きているであろう扇に気づかれないよう
に慎重に外へ出る。
「分かってる。でも、俺だけで兄さんが施した結界が解けるか?」
可憐は伏見山邸の一室にて幾重にも張り巡らされた結界で捉えられているという話だ。
「扇お兄ちゃんに結界の技術はそれほどない。可憐さんを逃がさんように結界張ったとしたら、内側を強化して、外側はその分脆くなってるはず」
「分かった。できた妹を持って俺は嬉しいよっ」
風夏は術を使って、近隣の屋根に飛び乗った。
「優衣、それから無口君」
「いや、俺の名前は流です」
「知ってる。でも優衣に任せっきりで、全然喋らへんから」
そう言って軽口を叩く風夏は、口を閉ざしていた頃のナツとは別人のようだ。でも玉無風夏とは、元来こういう人物なのだろう。
「可憐を助け出したら、何もかも話す。俺達の罪も全部。正直俺は私情で動いてるだけやから、俺に付き合うことはないんやけど」
「何言うてるん?」
優衣が風夏を仰ぎ見て、目を細める。
「家族やろ。どこまでも付き合うよ。扇お兄ちゃんも、夏お兄ちゃんも、放っとけへん。今回は夏お兄ちゃん側につくけど、扇お兄ちゃんももちろん大事や。せやから、この件片付いたら・・・ちゃんと仲直りしてや」
風夏はその言葉に大きく頷くと、地面を蹴った。
「さてと、私らも行こか」
「でも、優衣さん。行かせてくれますかね?」
「さあ、こんなにびっくりした顔の楓お姉ちゃんは始めて見るから、ちょっと分からん」
流達の役目は、伏見山雅の偽物を探し出すこと。
だが、目の前にはスマホ片手に立ちふさがる楓の姿があった。
「アンタら、何してるんや!今、去ってったんは地下牢に閉じ込められてた鈴音姉さんの連れやろ。まさか、扇兄さんの命令に従わんつもり!?」
楓はジリジリと距離を詰め、話しかける。
「そんなんしたら、扇兄さんは・・・」
楓の顔に悲壮感が色濃く出た。どうしてそんな顔をするのか疑問に思いながらも、「行って、流君」という優衣の声に身体が反応する。
「優衣さん、頼みます」
「任せとき」
流は優衣達に背を向け、一気に駆け出した。風夏のように風を操る術を使えればいいが、生憎流の専門は水術だ。
走って走って走って―――――
しかし、この足だけでは、広い京都の地にいる雅の偽物を探し出すことは出来ないだろう。
助けがいる。
真っ先に頭に浮かんだ人物の名を掻き消して、流は別の名を叫んだ。
「無名!」
来てくれるかは分からない。来たところで力になってくれる保証もない。
しかし、一人ではどう足掻いても見つけられはしないのだから、こうする他ないのだ。
「無名!頼みがある!仮にも陰陽師なら、力を貸してくれ!」
はあ、はあ、と、息をついて人通りのない路肩にしゃがみ込む。玉無の屋敷からどれだけ離れたか。距離で言えば三キロにも満た
ないだろう。異変に気づいた扇が追ってくれば、すぐに捕まってしまう。
「・・・無名」
「やれやれ。何故、お前の頼みなど聞かねばならぬというのだ?」
「出してやっただろう?」
「それを俺は頼んだか?そもそも誰のせいで俺は封印されていたと―――」
「俺の先祖と何があったかは知らない。でも、それは今は関係ないことだ。あんた、流れが見えるんだろ?」
無名の眉がピクリと動いた。
「陰陽師を名乗る以上、陰陽の流れを糾すのは使命だ。それとも、糾せないか?あんたには」
自分でも安い挑発だと思う。
しかし、
「いいだろう」
それに乗ってくれる無名は、本当に封印されなければならないほどの奴だったのだろうか。
何にせよ。
「流れを糾しに行くぞ」
今、やるべきことは、一つ。
伏見山可憐を陥れようとした何者かを見つけ出し、捕らえることのみ。
* * *
蒼白な顔の姉と対峙する。
「流君を何しに行かせたんや!?」
それに答えたところで、今の楓が納得するとは思えない。
優衣は一呼吸置いて、口を開いた。
「楓お姉ちゃんって、何でそんなに扇お兄ちゃんの味方ばっかりすんの?」
発した問いは想像してたよりも乾いていた。乾ききっていて寒々しい。それもそのはず。この問いは優衣がもう何年も前から考えて、とうに答えを出しているものだから。
「前から気になっててん。なあ、何で?」
でも、本人が自覚しているかは別の問題だ。果たして楓は、扇への感情を理解して行動しているのかと、興味が湧いた。
「私のアイス、扇お兄ちゃんが食べてしもた時、こっそり同じの買って冷凍庫の中に入れてたやろ。反対やったら、絶対そんなことしいひんのに。なあ、何で?」
こっそり流に扇のアイスをあげた時は、きっちり優衣に制裁が下った。自分が食べたことにしておいたので、流はそのことを知りはしないだろうが、扇はそれはもう鬼の形相で怒ってきた。ただのアイス一本で。
「はあ?アンタ、あの時のことまだ根に持ってんの?あれも、うちが仲裁したったやんか。気付いてたら、兄さんがアンタのアイス食べてしもた時のように買っといてあげたよ」
嘘だ。
「食べてしもた、ねぇ。そうや、私のアイスを扇お兄ちゃんが食べたのは故意じゃない。そもそも扇お兄ちゃんは故意で人のものを奪うまねはしない」
「・・・何がいいたいんや?」
本気で、何が言いたいのか分からないわけではないだろうに。全部、晒してしまってもいいのだろうか。
だったら――――
「わざとじゃなかったら許されるわけではないことを、扇お兄ちゃんは誰よりも知ってるから。自分の過失に罪を感じる人だから。・・・罪悪感を取り除くために、楓お姉ちゃんは扇お兄ちゃんの尻拭いをしてるんや」
「っ!何言って!」
「ああ、違うか。尻拭いをしてあげてるんやったな。可哀想な扇お兄ちゃんのために。玉無の長子に生まれてしもた可哀想な扇お兄ちゃん。本真は男やのに女の体に生まれてきてしもた可哀想な扇お兄ちゃん。代われるもんなら代わってあげたいよな?世継ぎの件も、せやから名乗りをあげたんやろ?」
楓の唇がわなわなと震え出す。
もしかして、今、自覚したのだろうか。
「扇お兄ちゃんが癇癪起こした時、宥めるんは楓お姉ちゃんの役目。毎日傍でそれを見てた私には分かる。宥めて、慰めて・・・一体どんな気持ちでそんなことしてたん?」
「やめっ!」
知っていて問う質の悪さに自分自身目眩を覚えながらも、言わずにはいられなかった。
「お母さんのこと嫌ってんのに、今回の件に関しては一切反論することなくお母さんの意見に従ったんは何で?お母さんと隅田当主の電話での対談の時、何で隆世さんの味方してあげへんかったんよ。今かって、スマホの電源切ってるやろ。そない握りしめて、彼氏より扇お兄ちゃん取ったこと後悔してんの?」
「か、彼氏やないわ!あんな奴」
手に持っているスマホを楓は一層ぎゅっと握りしめる。
「それに、母さんは兄貴に一任する言うたんや。別に母さんの意見に従ってるわけやない。うちは兄貴の」
「だから、それを言うてるんよ、私は!要するにそれは、扇お兄ちゃんの味方してるゆうことやろ!?」
「・・・それの何が悪いんよ」
呆れた。とうとう開き直ったか。しかし優衣自身、楓を責められる立場でないことは理解している。むしろ、楓と自分は同類で、楓に放つ言葉の一つ一つが自分に返ってきていることにも気づいている。
「哀れみで家族は救えないよ、お姉ちゃん」
考え過ぎて水分など蒸発しきってしまった答えが、口をついて出た。
「同情で支えられるほど、この問題は軽くない。一族にかけられた呪いは、哀れみで片づけていいもんとちゃうねん。自分の全てを賭ける覚悟がないと、当人らの意思は変えられへん」
楓は今度こそ本当に何の話をしているのか分からないとでも言いたげな表情で、優衣を見た。しかし、数秒の後「両家のことか?」と、訝しげな目を寄越した。
「せや。みんな賭けてるよ。持ち得る全てで、臨んでる。扇お兄ちゃんもその内の一人や。楓お姉ちゃんはどうする?扇お兄ちゃんの味方する言うならそれでもいい。でも、今みたいに扇お兄ちゃんに追随するだけなんはやめときや。私は・・・扇お兄ちゃんの意思を曲げてでも、味方につきたい人がいるから」
大きく息を吸い込む。
「楓お姉ちゃんも、扇お兄ちゃんのために、本気で私を止めやなあかんで?」
哀れみ。同情。
きっと、風夏に抱く自分の感情はそんなところ。
楓が扇に抱く感情と大差はない。
だけど、恋をしてしまったから。
叶わぬ恋をしてしまったから、風夏の気持ちは痛いほど分かるのだ。
家族にすら男と言えずに過ごした理由。
雅を手にかけた理由。
家族から距離を置き、京の地を離れた理由。
それらはまだ本人の口から聞いてないから想像でしかないが、遠からず当たっていることだろう。
それを知り、そして己自身も当事者となり支えたのは、他でもなく一番上の姉なのだと思う。
「優衣、本気なんか?」
楓がスマホをポケットに仕舞い、代わりに札を取り出す。
「本気で、兄貴を裏切るゆうんか?」
「そう、兄貴のためにね」
「どういう意味や?」
楓は風夏が男であることを知らない。優衣の返答を怪訝に思うのも無理はないが、そんな疑問は脇に置いたようで、楓は呪文を唱え出した。
風で足元を払おうという魂胆か。
でも、それぐらいでは――――
否、微かな気配をも敏感に感じ取り、彼は現れた。
「優衣、何のつもりや」
翳った瞳が鋭く優衣を捉える。
長兄は扇子を構え、既に戦闘態勢に入っている。
「扇お兄ちゃん、そんな物騒なんしまってや」
優衣は楓の術をぴょんと跳ねて交わすと、扇に向き直った。
「そうして欲しかったら今すぐ家入って寝え!」
扇の怒号をも交わして、優衣は真剣な口調で語りかけた。
それはこの十年、ずっと口にしたくてもできなかった単純な疑問。
「扇お兄ちゃんは、何でそんなに可憐さんを敵視するん?」
「そんなん、決まっとるやないか!あの女が狂い狐やからや!」
間髪入れずの返答に被せる。
「それって、殺したいほど憎むこと?狂い狐を憎むのは分かる。人を襲う妖怪ならなおさらに。でも、それは可憐さん自身じゃない。狂い狐を憎むことと、狂い狐に取り憑かれた可憐さんを憎むことは、同義やない」
「それは、綺麗事や。お前は、この世で一番大切な人を誰かに殺されたとして、その犯人の親兄弟を怨まない自信はあるか?」
答えはノーだろう。どんな善人でも当事者となれば自分から大切なものを奪った者の全てを呪わずにはいられない。
しかし、その問いに答えることに意味はない。
扇は明らかに論点を似通ったものに置き換えて、ずらそうとしている。
「自信は、あるよ」
優衣は努めて冷静に応えた。
「言ったやんな?私は陰陽師として生きるって。陰陽師は、感情で判断を下したらあかんのやで?扇お兄ちゃんのしてることは明らかに陰陽師としての資質を欠く行為や。自分の陰陽師としての立場を利用してでも、可憐さんを葬る言うなら、私は玉無家次期当主に貴方を着かせはしない」
絶句した兄と姉の顔を目に焼き付け、優衣は地を蹴った。
後戻りはできない。
風を切る音を聞きながら、優衣は夜闇にその身を投じた。
二人が追ってくる。
兄の方は放心して身動きできなくなるかとも思ったが、案外心の強い人なのかもしれない。
それとも・・・・。
「奪われた大切なものは、それほどに――――」
振り返れば、冷徹で感情の無い扇の顔が目に入った。こんな顔もできるんだと、感心していると、真横から扇子が旋回して飛んできた。
「っ!・・・避けなかったらこれ、肉切れてるやんな・・・」
屋根から電柱へ、そして、ビルの屋上へ。
「はっ!もう追いついて来たわ。さすが次期当主さん!」
術に自信のない楓はいつの間にかその姿を消していた。扇の速度に追いつけなくなったのだろう。
「優衣」
とうとう優衣の行く手に回った扇が、扇子片手に静かに近づく。
「わーわー扇お兄ちゃん、そんな本気ならんでも。私と扇お兄ちゃんの力の差は歴然やったやん。年下虐めるような真似しゃんといてよ」
「勘違いしてるな?優衣」
「へ?」
「俺はただ訂正しにきただけやで?」
扇子を畳み、ズボンのベルトに挟んで、扇は戦意がないことを示した。
「お前はさっき、陰陽師の資質云々言ってたよな?」
「・・・それが?」
まさか、ここで陰陽師の資質について持論を展開するとでも言うのだろうか。
だが、その予想は思いもよらぬ方向で裏切られることになる。
「確かに、感情で判断を下すんは陰陽師として失格や。妖怪を絶対悪とするならそれに取り憑かれてる人間は被害者以外の何者でもない。その意見に俺は大賛成や。でもな、優衣。俺は俺が陰陽師として相応しいかなんてどうでもいい。伏見山可憐を殺せるなら、陰陽師じゃなくてただの犯罪者になってもええんや。だから、俺は、玉無家次期当主の座なんて天秤にかけるまでもなく、切り捨てる」
「・・・っな、何を言うてるんや、兄貴」
運悪く、やっと追い付いた楓が扇の言葉を耳にしてしまったようだ。先程優衣が扇に、当主に着かせないと言った時よりも深く、打ちのめされたような顔をしている。
「なるほど」
ビルの屋上に吹く生温かい風が肌を掠めていく。優衣の独り事は誰の耳にも届いていないようだった。
扇の心に深く突き刺さる楔は、何よりも強い原動力となり得るのだと、優衣はその時実感した。
扇お兄ちゃん、病んでるー!!