第三帳
いきなり変な新キャラが登場します笑
伏見山神社は稲荷山にほど近い、林の中にある。鬱蒼とした木々に覆われ、完全に外から社は見えない。そのためか、観光、登山として人気の高い稲荷山の近くであるにも関わらず、その存在はあまり知られていない。
「どこが入り口だよ」
流は額の汗を腕で拭いながら呟いた。
入り口も分からないのだから、人が寄りつかないのも当たり前、か。
京都市伏見区。
京都市の南に位置する伏見山家は流が住む玉無・神咲邸からは少し遠い。市バスが行き交う京都の中心地から離れているので、電車を使ってやって来た。
「お!流、待ってたで」
雑木林の周りを行ったり来たりしていた流の前に木材を担いだ扇が現れる。
「扇さん・・・どこから入ればいいんですか?」
半袖から覗く逞しい腕を凝視しながら流は聞いた。
「こっちや、こっち」
俺について来いという、いかにも男らしい仕草をして、扇は歩き出した。
こういう時、やはり扇は男なんだと自覚させられる。
日々肉体の鍛錬は欠かしていないらしく、筋力は並の男よりある。恐らく力で流は扇に勝てない。
事実、
「あ、これ運んでくれるか?」
「これ、ですか?」
道なき雑木林を進む途中に置いてあった巨大な丸太を顎で示され、流は戸惑った。
一応、持ってみようとしたが、やはり無理だ。
「すみません。無理です」
直後、扇が呆れた顔で「それでも男か」と嘆いたのは言うまでもない。
「いいわ。後で俺が運ぶから」
扇は既に両の片に丸太を担いでいる。女としては規格外の扇の背を見つめながら、流は心中複雑な気持ちになった。
「それでも男か」と言った扇の声には呆れとは別の感情が混じっていた。
羨望。
そして憎しみ。
玉無家の呪いは呪いを受けた本人が正気である分、伏見山家より質が悪い。まだ、狂っている方がマシだろうと、流は不謹慎なことを考えた。
「着いたで」
扇の声が耳に届くのと同時に視界が開ける。
目の前には古びた鳥居。
「ここが、伏見山神社や。はっ、神の社やなんて、嘘八百もええと」
「あらあら。そんなにはしたなく丸太を抱えて。まるで男みたい」
扇の嘲笑は、それを上回る嘲りで掻き消えた。
鳥居の前に金髪の美女が立っている。
伏見山可憐だ。
扇は何も言い返さず、ただ目の前の可憐を睨んだ。
「ああ、怖い。だからもどきでも男は入れたくありませんでしたのよ。でも、仕方ないですわよね。社の修理も祭壇作りも男手がいるのですもの。式神だけでは足りませんし。もどき男もいないよりはマシですものね」
可憐の辛辣な言葉に対して扇は全く反論しない。それだけに、堪えているのだと思われた。
その様子に可憐は満足そうな顔をして、視線を流へと移す。
全く以って質が悪い。
自分のことは棚に置いて、攻撃する残忍さは、さすが狂い狐といったところか。
次は自分の番かと身構えつつ、流はやや前へと歩み出た。
しかし、可憐の口から放たれた言葉は思いがけないものだった。
「ここは、獣の住まう社。血に縛られし伏見山の狂い狐を縛る地へ、ようこそおいで下さいました。神咲家当主様」
呆気に取られた流の顔を面白そうに眺めて、可憐は背を向けた。
「意外・・・」
「何が?」
思わず漏れた呟きに、扇が苛立ちを混じえた声で問う。
「あ、いえ、何でも」
冷静さを欠いた扇には何を言っても無駄だと思い、流は言葉を濁した。
扇は特に問い詰めることなく鳥居を潜っていき、流もそれに続く。が、鳥居を潜った瞬間、肌に電撃が走り、思わず足を止めた。
「どうしたん?行くで」
一向に進もうとしない流に扇が心配そうに声をかける。
「あ、えっと・・・」
痛みはすぐに消えたが、代わりに例えようのない圧を全身に感じる。我慢できないほどのものではないとはいえ、その異様さに流は固まってしまった。
すると前方からクスクスという笑い声が聞こえ、流と扇は顔を向けた。
「ふふ、思った通り。神咲家当主もわたくしと同類でしたのね」
艶やかな瞳を細めて可憐は言う。
「どういうことや」
扇が剣のある言い方で聞くと「ここがどんな場所か言いましたでしょう?」と肩を竦めて可憐は流を見据えた。
「ここは神の住まう社に非ず。神の力で邪を封じ縛る・・・言わば、妖怪の監獄ですのよ。今は結界の効力が薄れて通れますけども、普段は絶対に通れない。わたくしたち妖怪は」
前言撤回だ。
可憐は流の中に妖怪がいることを知っていた。
知っていて何も言わず鳥居に通したのだから、やはり質が悪い。
狂い狐の名に相応しい陰湿さだ。
「流?」
扇の訝しげな問いに心臓が跳ねる。
氷雨のことは扇達には話していない。知っているのは玉零と恐らくは隆世ぐらいだ。
禁忌とまではいかないが、妖怪を身の内に宿すことは好まれない。話さずに済むのなら、それに越したことはないが、それもここまでだ。
流は心を決め、口を開いた。
「俺は妖怪を式神にしています。この身体に宿すことで」
瞬間、扇は驚いた顔をしたが、すぐに二カッと笑い、「そっか」と言った。
「何や事情があるんやろうけど、複雑そうやから聞かん。ま、話したかったら今度聞いたってもええけどな」
拍子抜け。
否、想像通りか。
扇ならそう言うと思っていた。
だから、
「少し長くなるんですけど、今度聞いて下さい」
安心して話せるのだ。
「おっしゃ!」という力強い扇の返事を聞いて前を向く。
さぞ、狂い狐にとっては面白くないことだろうと思っていると、可憐は意外な表情をしていた。
悲しそうな。いや、安心したような笑みを残して背を向けたのだ。
「行こか」
「はい」
扇に呼ばれ、可憐の背中を見つめながら境内へと進む。
境内の前には作り掛けの祭壇があり、複数の式神達がせっせと木材を組み立てていた。指揮しているのは鈴音だ。その中に見慣れない人物を見つけた。
毛先だけ金髪。耳にはピアス。ダボッとしたつなぎを着たその姿はガラの悪いヤンキーにしか見えない。あまりにも場にそぐわない男だったので、不思議に思い扇に聞く。
「あの人は?」
「バイト」
「バイト!?」
陰陽家の祭事にアルバイトを雇うのは果たしてアリなのだろうか。
いや、表の祭として雇った可能性もある。
「あーそれ、もうちょっと補強できへん?神器に霊力送る時に耐えられへんかもしれん」
鈴音の言葉にバイトはコクリと頷き、釘を取り出した。
「鈴音のお友達らしいで」
皮肉げに扇はそう言うと、肩に背負っていた木材をそのバイトに渡しに行った。
それにトコトコと着いて行ったところで、鈴音から正式に紹介をされた。
「流君は初めてやんな。バイトのナツや。よろしくしたって。喋れんけど」
ナツは無言のまま会釈する。背は低いが、鍛え抜かれた身体はボクサー並みだ。喧嘩になったら一発でKO負けするだろう。
「神咲流です」
相手の風格にやや気遅れしながらも会釈すると、ナツはさっさと仕事場に戻って行った。
「何で話せないんですか?」
流はこそっと鈴音に聞いたが、「さあ」の一言で終わる。
「ていうか、あの人、陰陽家のこと」
「流君には供物を置く台を作ってほしいんや。はい、これ設計図」
鈴音は強引に設計図を渡すと、話せないのか、話すのが苦手なのか、話す気がないのか、よく分からないナツの元へと走って行った。
「ただのバイトじゃないよな」
流は独りごちると、設計図に目を移した。
「てか、これを俺一人で作れんの・・・か?」
隆世の作った式神は実によく働いた。軽々と重い木材を運び、ノコギリで切り、鉋で削り、組み立てていく。テキパキと仕事をこなしていく様はまさに大工そのものだ。
ただ、見た目は可愛らしい女の子なので、どうも異様だが。
恐らくは可憐からのオーダーなのだろう。隆世が好んで、こんな式神を作るはずがない。
「ところで、さっきから流君はなーにしてんのかな?」
境内の隅の隅。もはや林の中と言っていいほどの端に追いやられていた流は、その声に身体を震わせた。
「あ、いえ。ちゃんと仕事してます」
鈴音は鉈を片手にニコニコしている。
「あ、そう?てっきり、端に追いやられたのをいいことにサボってんのかと思たわ」
「そんなわけないじゃないですか。ははは」
「せやったらええけど。まあ、神咲家当主ともあろう人が、後で式神にやらせよとかいうセコイ考えするわけないか。ごめんなさい」
完全に見抜かれていることに鳥肌が立つ。何より、その鉈が恐い。
「じゃ、頑張って」
「励まして頂きます・・・」
鈴音の姿が境内の後ろに消え、流はやっと息を吐いた。
そもそも何故こんなところで作業をしなければならないのか。
それは可憐が視界に男を入れたくないと言ったことに始まる。だったら、あのバイトの男はどうなんだと言いたいが、要するに神咲家当主への嫌がらせなのだ。
もともと可憐の傍に人を寄せ付けたくない扇も「そうやな。流は向こうでせぇ」と言うので、仕方なくここで作業することになった。
だが、如何せん作り方が分からない。聞きたくても扇達は境内の方にいるし、これ幸いにサボっていたのは事実だ。
後でバレたら厄介だが、その時は式神に全部丸投げしようとしていたのも事実。
それを鈴音に見透かされ、実にバツが悪かった。
流はのっそりと立ち上がると、設計図片手に木材を睨みつけた。
「やるか」
覇気の無い声と共に、図面通りの長さを測り、木に印を付けて切っていく。
技術の成績は悪くはなかったはずだが、思うようにノコギリが動かない。
「これ、不良品じゃないのか!?」
そして無理に力を入れた瞬間。
「あ」
ノコギリの刃が折れた。
「神咲家のご当主はノコギリの扱いもなってないのね?」
折れた刃を持っていくと、開口一番に可憐が嘲りの言葉を投げてきた。
「あーあ。流君、もしかしてサボるためにわざと」
「違います!」
鈴音の嫌味は断固として否定し、流は「他のノコギリありますか?」と扇に聞いたが、扇は困った顔をして首を横に振った。
この場にあるノコギリは三本。そのうちの一本を流が壊してしまったので、残るは二本だ。しかし、それらはバイトのナツと式神が一体使っている。
「こんな時、金の陰陽師がいないのは痛いですわね」
ポツリと可憐が呟いた言葉に、珍しく扇が同意する。
「洋大さんが生きてたらな」
黒縫洋大。
金を司る陰陽家、黒縫家最後の当主。
黒縫家は十三年前に断絶している。他家同様、呪いを受けており霊視ができなかった。陰陽師としては致命的だが、鍛治職人として代々その名を馳せ、陰陽師達のために多くの武器を作っていたという。隅田隆凱とは無二の友人で、幼い時には何度か会ったこともある。
柔和な顔をした気の良さそうな老人だった。
「じゃあ、別の」
流は仕方なく別の仕事を頼もうと口を開いた。
その時、
「せや!」
と、扇が手を打った。
「確か、洋大さんが昔作ってくれたノコギリが家にあるわ!」
「ああ、そんなこともあったな。でも、どこに仕舞ったか兄さん覚えてる?すっごい昔のことやで?」
鈴音の問いに扇はしばらく考え込んでいたが、「たぶん」と切り出した。
「家の倉庫は物で溢れかえって入らんいうことで、神咲家の蔵に入れたんやなかったか?」
「神咲家の蔵?」
思わず流は聞き返した。
神咲家の蔵があるなど初耳だったからだ。そもそも流の母、龍子が死んでから神咲家の屋敷は取り壊されている。隣接していた玉無家が垣根を取り払い、一個の新しい屋敷に建て直したのだ。
「あれ?流、知らんかったんか?神咲の蔵はそのまま残してあんねんで」
「いや、知りませんよ。一体どこにあるんですか?」
「中庭にあるやろ?」
中庭には、確かに蔵がある。しかし、それは玉無家のものだと思っていた。なぜなら、蔵という蔵はそれしかないのだから。
「あれ、ですか?え、じゃあ、玉無家の蔵はどこに?」
「え?蔵っていうか・・・風呂場の裏にあるやん。倉庫」
流の頭を過ったのは、十数年ぐらい前に買っただろう金属製の物置だった。
「あ、・・・あれですか」
平安の世から続く陰陽家の蔵・・・は無く、倉庫。そしてそれが百人乗っても大丈夫な物置とは・・・。
流は脱力感を覚え、肩を落とした。
「じゃあ、そういう訳やから、流、取って来い」
脱力したのも束の間、扇は何の気なしにそんなことを言う。
「今からですか?」
「当たり前やろ?」
心底不思議そうに聞き返す扇に毒気を抜かれ、流は背を向けた。可憐のクスッと笑う声が聞こえたが無視だ。
「流ー!早よ取って来いよ!まだまだ作業残ってんねんから」
扇に急かされ、流は重い足取りを僅かに早める。しかし、鳥居を抜けた瞬間、体が軽くなったのを感じた。
「次は鳥居の外で作業しよう」
気が沈むのは、体が重いのは、結界のせいだ。
妖怪の監獄。
可憐が言った言葉を思い出す。
辛いに違いない。
可憐はそれを生を受けてから今まで耐えてきたというのか。
(狂いそうだな)
流はそう思った。
小一時間は掛かっただろうか。歩いて、電車に乗って、歩いて、流は玉無・神咲邸に戻ってきた。
京都の夏特有のじめっとした暑さで全身は蒸されたかのようにダルい。
一先ず水を飲もうと、台所へ向かう。
「流君、どうしたん?帰ってくんの早いやん」
居間から襖を少し開けて、優衣が顔を覗かせた。
「ノコギリ取りに来ただけだから、すぐに戻らないといけないですけどね」
事情を説明すると、心から同情するような顔をして優衣が立ち上がった。
そして、
「これでも食べて」
冷凍室からアイスキャンディを一本取り出して、流に渡す。
「でもこれ、扇さんのですよね?」
食料は基本的に共同だが、お菓子類は私物であることが多い。自分で買って名前を書いておくのがルールとなっている。うっかり名前を書き忘れていると、誰かに食べられてしまわないとも限らないからだ。
そして案の定、アイスキャンディの箱にはデカデカと『扇』と書いてあった。
「いいやん。どうせお兄ちゃんが取って来いとか言って無理言うたんやろ?あの人、高校は神戸まで二時間かけて行ってたから片道一時間ぐらいのことどうてことないんよ。尋常じゃないで。あの体力と精神力は」
アイスの箱を元の場所へと戻しながら「でもこのことは内緒やで?」と付け加えて、優衣はいたずらっぽく笑う。
可愛い、と。
年上の人には失礼かもしれないがそう思った。
アイスを一舐めして、「優衣さんは今何してるんですか?」と聞くと、優衣は襖を全部開けて机の上を指差した。
そこには作りかけのうちわが何枚かあった。
「当日の抽選券。うちわに番号書いて、それを抽選券代わりにしよって案なんよ。でも、うちわ作るにもお金掛かるやろ?骨組みの部分は業者の人に頼んで作ってもらったけど、それに紙貼ってうちわにする作業は自分でしやなあかんねん」
見ると、居間の片隅にダンボール箱が三つ置かれている。中にはうちわの骨組みがギュウギュウに詰められていた。
「もしかして、これ全部?」
「そう」
「一人でですか?」
「だってみんなそれぞれに祭りの準備あるやろ?流君かて神器を祀る櫓作ってるやん」
ついさっきまで、後で式神にやらせようとしていた自分が情けない。
優衣の言う通り、個々に自分の仕事があり、それなりに大変なのだ。
確かに肉体労働の方がきついが、人選は間違ってはいないだろう。
流の代わりに優衣に櫓作りをさせるのには無理がある。それは差別ではなく、区別だ。
「俺、頑張りますよ。優衣さん見てたらそんな気分になりました」
ポツリと、率直な気持ちを呟くと、優衣はしばらくポカンとした顔で流を見つめていたが、ガバッと机に向き直り「そ、そうやね。私も頑張る」と言って、作業を始めた。
歯にしみるだろうと思って舐めていたアイスが溶け始めて、下の方から雫が滴る。慌てて齧るとシャリっとした冷たい感触と共にオレンジのほのかな甘みが口の中に広がっていった。
手慰みに既に出来上がっているうちわを手に取って見て見ると、おっちょこちょいの優衣にしては丁寧な仕上がりで驚いた。
「優衣さんって、案外手先器用なんですね」
しかし、流の手にあるうちわを見た優衣は表情を暗くする。
「それは、百花ちゃんがさっき手伝ってくれたやつやから」
「あ、そうなんですか・・・いやでも優衣さんのも綺麗ですよ!」
優衣へのと言うよりも、自分へのフォローが大部分を占めていたバチだろうか。「ほら!」と言って手にした優衣のうちわは表と裏の紙が合わさっていない。
「いいよ、流君。もういい」
いたたまれなくなった流は素直に謝って事なきを得た。
「というか、百花はどこに行ってるんですか?」
百花の話題に話を向けると、まだ怒っているらしい優衣の応対は随分と素っ気ない。
「百花ちゃんは自分らが出す夜店の打ち合わせするからって、友達迎えに行ったで」
「そうですか」
迎えに行ったということは、この家に来るのだろうか。
白木零が。
最後の一口を飲み込んで、流は立ち上がった。アイスキャンディの棒はゴミ箱には捨てず、綺麗に洗う。
「優衣さん、アイスありがとうございました。これ、優衣さんにあげますね」
そして、アイスキャンディの棒を手渡すと少しは機嫌が直ったらしい優衣が「ありがとう」と笑った。
当たり棒だった。
母屋と離れの間は広い庭となっており、その一画に蔵がある。
土蔵造りの立派な蔵だ。
戸を閉める閂があるだけで鍵はついていない。
流は蔵の前に立つと、閂を抜いて戸を開けた。
埃の匂いが鼻につく。普段使うことなどないので蜘蛛の巣もちらほらと見えた。天井近くに作られた風通し用の隙間からわずかに光が射し込むだけで、中は暗い。
普通なら懐中電灯を持ってこようとするだろうが流はそうしなかった。氷雨の一部がこの身に宿ったあの日から、夜目が利くようになっているからだ。
蔵の中に踏み込んで、ノコギリを探す。しかし、入り口近くにはそれらしきものが見当たらなかった。
「いや、これ全部探すとか無理だからな」
流は溜息混じりに呟いて、目の前の棚を見た。天井近くまであるその棚は手前の一つだけではなく、奥にもいくつかあるようだった。そして棚にはびっしりと物が置かれている。
一応整理されてはいるが、ラベルが貼られているわけでもなし、ここからノコギリを探せるわけがない。
(絶対、どこかで買った方が早い!)
なぜ馬鹿正直に扇の言葉を受けて家の蔵まで探しに来たのかと自身を呪いたくなった。
でも、
「サボる、か」
ノコギリを探していたという名目で仕事を放棄することができる。
幸い、蔵の中はそういう造りになっているのか、冷んやりとしていて涼しい。
それに何より瞼が重くて堪らない。
誰かのせいで受けなければならなくなった補習の課題に追われて、夏休みに入ってからというもの碌に寝ていなかった。補習のない休みの日などはこうして家のことで駆り出される始末で、実質の休みは無いに等しい。
だから、ちょっとぐらいいいんじゃないかと魔が差すのも無理はない。
そう半ば自身に言い聞かすようにして、流は蔵の奥にあった木箱に腰を下ろして目を閉じた。
眠る直前、蝉の鳴き声が誰かの泣き声と重なって聞こえた気がした。
夏の暑い暑い日だった。
蝉の声がうるさくて、ほとんど祖父の声など聞こえないような、騒がしい日。
「俺も行きたい。お祭り行きたい」
「だめじゃ。子どもが行くような祭りではない」
「いやだ、いやだ。俺も行く!京都のお祭りに行く!行くったら行く。じいちゃんと一緒に行く!」
「流、ちょっと黙って!」
隣で式神を作る練習をしていた三つ上の兄が声を荒げた。途端に、出来上がりつつあった式神が破裂する。
四神の一つ、朱雀を模した式神だった。式神使いの神童と言われる兄が数時間前から取り組んでいた超大作だった。
しかし、そんなことにはお構いなしで、流は駄々を捏ね続けた。
祖父がいつものように仕方ないのうと言ってくれるのを信じて。
「流」
しかし、そう言って呼ぶ祖父の声は驚くほど冷たかった。
「どれだけ騒いだところで連れて行かん。お兄ちゃんの邪魔になるから、静かにせい!」
まだ小学校に入ったばかりの小さな体がビクッと跳ねる。
そして、祖父に引きづられて、隅田邸の奥にある蔵の前まで連れて行かれた。
「じいちゃん?」
上目遣いに呼びかけても、祖父は何も言わない。ただ、戸を開けて中に入れと目で促した。
(入ったらダメだ。)
そう思うも、祖父の抗いようのない強制力に、無意識のうちに足が蔵の床につく。
「きつ・・・じゃ。流、お前は・・・・・ん。無情じゃよ、・・・・・・は」
扉を閉める直前、祖父は何かを言ったようだった。
しかし、大音量で鳴く蝉の声で聞き取れなかった。
真っ暗闇の中、ポツンと一人。次第に怖くなってきて大きな口を開けて叫んだ。
蔵の外は相変わらず蝉がうるさく鳴いている。しかし、そんなものはほとんど自身の泣き声に掻き消えて、遠く遠くに聞こえるだけだった。
何か音がして、流は唐突に目を開けた。すごく懐かしい夢を見ていたような気がする。蔵に閉じ込められて泣いていたような・・・
その時、
「開かない」
小さな声が蔵に響いた。
聞き覚えのありすぎるその声に、思わず「シロオニか?」と聞く。
すると案の定「陰陽師?」という間違いのない玉零の返事が返ってきた。
「おい、なんであんたがこんなところにいるんだよ」
流は起き上がって、出入り口の方へと向かった。
戸の前には玉零が突っ立っている。
「夜店の打ち合わせで来たのよ。百花に呼ばれてね」
そんなことは、分かっている。ついさっき優衣から百花が玉零を迎えに行ったことは聞いた。
しかし、そうではなくて、流が聞きたいのは。
「あんたがなんで蔵の中に・・・って・・・」
そんな些細な疑問よりも重大なことに気がついて流は固まった。
「何で戸が閉まってるんだよ。いや、閉まってるっていうか・・・」
「私じゃないわよ」
そうだろう。だって玉零は「開かない」と言ったのだから。
締まっている。
試しに戸を開けようとしてみたが、ガタガタと音が鳴るだけでびくともしなかった。
「外から誰かが閂を掛けたのか?」
頭を抱えて流が嘆くと、「そうなんじゃない?」とやけに涼しい声が返ってくる。
「いや、どうすんだよ?閉じ込められたんだぞ?」
玉零はそんなの簡単といった顔をして「私が妖怪の姿になって斬ればいいのよ」と言った。
そんな、かの有名なマリーアントワネットの台詞みたいに言うなと、半ば呆れて、視線を外す。
「もういい。あんたに意見を聞いた俺が馬鹿だった・・・おーい!誰か!中に人がいるんだ、開けてくれ!!優衣さーん!!百花ー!」
ドンドンと戸を叩いて流は叫んだ。
「何か、滑稽ね」
見ると、玉零は隣で髪を弄びながら欠伸をしている。さすがの流も苛立ちを隠せない。
「おい、あんたもやれよ」
「どうして?」
可愛くおどけて見せる、その演技が無性に腹立たしくて、思わず、戸を足で蹴った。
「やれって・・・」
「ああ、怖い。野蛮ね」
「戸を斬ろうとした奴がよく言うよ」
「でも、アリなんでしょ?結界内で変化しても、大丈夫なんだから」
流が呆れたように「試したのか?」と聞くと玉零は「うん」と言ってにっこり微笑んだ。
敷地内全てに対妖怪の呪術が施されている伏見山邸とは違い、玉無・神咲邸は屋敷の周りを結界で囲んでいるだけだ。伏見山が面としての結界だとすれば、こちらは線としての結界とでも言おうか。だから、もし仮に敷地内に妖怪が突如現れるなどということができるなら、理論上は何の効力もないということになる。
玉零がいつ、それをやったのかは知らないが、実証済みということなら確かだろう。
「それに、これぐらいの結界、そこそこの妖怪ならすぐに破れるわよ?現に貴方だって入れてるじゃない」
「おい、それとこれとは別だろう。俺の場合は俺の中に氷雨がいるから結界の影響を受けないんだよ」
そもそも、これは氷雨の一部だ。完全体でないから結界にも引っかからない。
でも。
あの結界は違ったななどと、改めて伏見山の結界の特殊性に気づかされた。だが、だからと言って、ここの結界を侮ってもらっては困る。
恐らく玉零は、心配して聞いているのだろう。それが白鬼の性であることは流自身、嫌というほど知っている。
「ここの結界をなめない方がいいぞ。すぐに破れるということがどういうことか、考えて」
何も分かってない妖怪に説明しようとした、その時だった。
耳鳴りのような甲高い音が頭に響く。そして、全てが閉ざされたのを感じた。
「ちょっと、今の何!?」
「まさか・・・」
直感がそうさせたのか、玉零は妖怪に変化して刀を抜いている。
「やめろ、無駄だ!」
瞬間、戸を斬ろうとした玉零が跳ね返された。
「どういう、こと?」
「結界が発動したんだ」
経験がなくても分かる。この閉塞感は、屋敷中の閉じていた扉が完全に閉じてしまった証拠だ。
とても強力な結界によって。
「言っただろう。破れやすいということがどういうことか考えろって。結界を弱くしてるのはわざとなんだよ」
察しの良い玉零はもう既に答えを出しているようだった。
「誘い込み結界」
陰陽師と関わりがあったというだけあって、そんな専門用語を口にする。
誘い込み結界。
わざと破りやすい結界を張り、破った瞬間に強力な結界が発動するようにした呪術。
入るのは容易だが、出ることは叶わない。
そして、出られなくなった妖怪を叩くのだ。故に、誘い込み。
つまり罠だ。
「誰が、なんて分かり切ったことよね」
珍しく焦った様子の玉零が詰め寄る。
結界を破ったのは隼だ。従者を案じてるのだろう。
「何とかしなさいよ、陰陽師」
「これだけ強い結界を破るのは無理だ」
「破れなんて言ってないわよ!解除しろって言ってんの!」
自分で作った結界ならいざ知らず。随分昔に複数人の陰陽師が作った大掛かりな結界だ。それを解けなどと。
「無茶言うな!」
できるわけがない。一介の平凡な陰陽師に。
「もう、いいわ」
玉零は再び刀を構えて戸に狙いを定めた。
「待て・・・っ」
渾身の力を込めたのだろう。玉零の身体が後方へと飛んだ。
手前の棚どころか二つ三つ目の棚をも突き破り、最後の棚に背中を打って、倒れ込む。暗闇が白くなるほどの埃と共に、物が崩れ落ちる音が悲惨だった。
床に散乱する物はもはや避けることはできず、踏みつけながら、玉零の元へと歩く。
「だから、無茶だって」
「でも、隼が!」
玉零は聞き分けのない子供みたいなことを言う。それに流の苛立ちは最高潮に達した。
「俺は奴より百花と優衣さんの方が心配だよ!」
玉零が座ったままもたれかけている棚を殴りつけて怒鳴る。衝撃で上から物がいくつか落ちたが、どっしりとした大きな棚は倒れなかった。玉零が弾き飛ばされた衝撃はどれほどのことだっただろうと、不本意ながら心配に思ったことは絶対に悟られたくなくて、距離を取る。
「大丈夫だ。百花は陰陽術が使えないし、優衣さんも強くはない。奴が手を出さない限り何も起きないよ」
流の怒号で冷静さを取り戻したらしい玉零は「手を出さないって信用してくれているのね」とクスッと笑った。
大きなお世話だ。
こうなった状況は初めから想像できている。
隼は屋敷の外から玉零を見守っていたのだろう。そして玉零が蔵に閉じ込められたことに気づき、屋敷に踏み込んだ。もし仮に優衣に攻撃されたとしても、玉零が蔵に閉じ込められたぐらいで・・・
ふと、流は考えて、背筋が凍った。
腰をさすりながら地べたにしゃがみこんでいる玉零を無理やり起こす。
「やっぱりあいつは信用できない。百花か優衣さんが誰もいないと思って閂を掛けたんだろうけど、あいつはそれを敵意と見做すだろ?」
「そ、そうかしら」
歯切れが悪いということは、同意見なのだろう。
「ずっと寝ていた俺も悪かったけどな、ここに入ってきたあんたも悪い。二人に何かあったら・・・」
「お言葉だけど、かと言って、隼が人に危害を加えることはないわ。・・・本当に、敵意を持って私を閉じ込めたのだとしてもね」
無表情な顔をした玉零の本心は分かり兼ねたが、ここから出る手段がない今、信じるしかないと思った。
「じゃあ、結界が解かれるまで待つか。結界が張られたままじゃ、屋敷の外から中に入ることもできないし、扇さんが何とかしてくれるだろ」
扇が中に入るために結界を解いてくれれば、蔵からも出られるし、隼も身を隠すことができる。
仲裁のために玉零が飛び出すようなことにもならずに済むのだ。玉零が妖怪だと、百花やみんなにバレることの方が・・・
「甘いな」
思考を途切れさせたのは、大人の男の声だった。
気づけば、隣で玉零が刀を握り直している。
目の前には、宙に浮かぶ黄色い炎。
「火の玉、か?」
すなわち、魂。霊。
「甘いって、どういう意味?」
突然現れたそれに玉零はいつになく冷静だった。隣にまで伝わってくる。全神経を研ぎ澄ましていることが。それだけ、警戒しているのだろう。
「結界が解かれるまで待つことが甘いと言っている」
いつかの自分のような、無感情な冷たい声音が降り注ぐ。そこから、感情は一切読み取れない。
「理由は?」
得体の知れないものの意見を聞くのは憚られたが、相手を知るためには喋らすのが一番だと思い、流は聞いた。
「まず、第一に、お前の言う扇がこの結界を解除できるとは思わない。それにお前達が蔵の外と連絡する手段がないように、屋敷の中の者が外の者に連絡することもできない。これは音さえも遮断する。そういう結界だからな」
扇を知っている?
陰陽術に詳しい。
この二つから、とても近しい陰陽家の関係者であることが分かる。
でもまだだ。味方だと判断するにはまだ早い。
「そして第二に、既に屋敷は戦闘状態になっている」
「何だって!?」
「何ですって!?」
流と玉零の声が重なった。
「妖怪が屋敷に踏み入ったのと、ここの次期当主が帰ってきたのが同時だったのだ。初めから、話し合いで解決できるような状態ではなかったぞ。劣勢はどちらか教えてやろうか?」
もし、それが本当なら、悠長なことを言っている場合ではない。
確かに甘かった。
「で、それをどうして貴方は知っているの?」
一瞬取り乱したものの、すぐに冷静さを取り戻した玉零が静かに聞く。
「結界で閉ざされた以上、外とは断絶されているんでしょ?貴方はどうしてそれを知っているの。いつから、ここにいたの?貴方は、誰?」
確信に迫る質問を不躾に投げかける。それに対して火の玉は「必死だな」と言って、喉の奥で笑った。
「ええ、必死よ。私も彼も身内を助けたいんだから」
駆け引きは通じないと判断したのか、玉零は正直に話した。
すると、
「ならば、助けてやろう」
それこそ、甘いと思われる言葉を火の玉が囁く。
さすがの玉零もそんな甘言に乗るわけがないと思った直後、
「お願いするわ」
玉零の答えはほとんど即答に近かった。
「って、ちょっと待て。こいつが何かも分からないのに」
「縋るものがあるなら、それが何だろうと縋るわよ。状況は一刻を争うの。それとも、何?貴方の仲間が私の従者を殺すのが早いか、私の従者が人を殺すのが早いか、じっくり賭けでもしよっていうの?」
「そんなこと言ってないだろ?もっと考えろって言ってるんだ。何であんたはそう、向こう見ずなんだよ」
察しも良い。思慮もある。なのに、人のことになると、手段を選ばない。
玉零の優しさは凶器に近い。言うなれば己を切り裂く刃だ。
「何が望みだ?」
根負けした流は、火の玉に問うた。
ただで、などとは思っていない。代償は玉零が払うつもりでいるようだが、そうはさせない。
「望みか」
火の玉は感慨深そうに呟いた。
「いや、望みはない。これは運命なのだろうな。お前はそれを寄越せばいいだけだ」
それの指すものを考える間もなく、流の尻ポケットから、人型の札が飛び出した。
隆世の作った式神用の札である。白馬三山での一件でボロボロになってしまったので、新しいのを渡されていたのだ。今度は紙ではなく、木でできた丈夫なもので、恐らくは札としては一級品だと思われる。が、それを一体どうしようというのだろうか。
「天の神、地の神に願い奉る。我が魂と彼の器を繋ぎ給え」
流と玉零が見守る中、火の玉は呪文を唱えた。
そして、
「俺が実体化できるほどの器か。面白い。これは、お前が作ったのか?」
突如として、いかにも陰陽師然とした若い男が現れた。
いろいろと驚くところはあっただろう。しかし、それは全て視覚からの情報の方に持っていかれてしまう。
「烏帽子に狩衣って・・・今時、そんなん着てる奴いな――っ!」
衣装を馬鹿にされたのが気に入らなかったのか、質問に答えなかったのが気に入らなかったのか、男は鉄扇で流の顎をクイッと持ち上げ、睨んだ。
「お前が作ったのかと聞いている」
鋭い眼光に見つめられ、こめかみから汗が滴り落ちた。端正な顔立ちをしているのに釣り上がった細い目のせいで、怖い印象しか受けない。流も目つきは悪い方だが、目の前の男には遥か遠く及ばないだろう。いつも仏頂面の隼でさえ、目の前の男と並べば、可愛いく映りそうだ。
「まあ、違うだろうが?」
何も言えずにいると、勝手に結論を出してきた。否定できないのが悔しい。
「そう、睨まないであげて。貴方の衣装がコスプレでないことは分かってるわ。いつから、いたの?ここに」
玉零は一つの箱を持ち上げて、流と男の前に突き出した。
箱の蓋には封と書かれた呪符が貼られている。両端が破れていることから、ぐるっと箱を巻くようにして貼られていたことが分かる。
ああ、そうか。
落ちた衝撃で蓋が外れて、呪符が破れたから封印が解けたんだ。
「って・・・これ、ヤバいんじゃないのか?」
この男は、箱の中に封印されていたのだ。封印=邪悪なもの、ではなかったか?
「さあ、ここから出るとするか」
男は玉零の質問も流の言葉も無視して、戸の前に立った。
「まあ、いいわ。今は隼達を何とかするのが先よ」
「でも、どうやってここから出るっていうんだよ」
一旦、良からぬ思考を止めることにした流が玉零に問い掛けると、男は「破る」と言って印を結んだ。
瞬間、戸が吹き飛んだ。
「嘘だろ・・・」
「あら、これぐらいで驚くの?」
「あんたは予想してたのか?」
「当たり前よ。彼が陰陽師であることは初めから分かっていたわ。魂を見れば分かる。あれは確かに人間のもので、とてつもない霊力の塊でもあった。気をつけなさい。あれは貴方の先祖が封印した者でしょう?」
そうだ。
あの蔵は神咲家のもの。箱にも龍をあしらった神咲家の家紋が描かれていた。見るからに古く、少なくともニ、三百年前のものだと思われる。その時、何があったのかは分からないが、流の先祖が封印したのは間違いない。
「隼!」
蔵から出て、玉零が叫んだ。いつの間にか、人間の姿になっている。
「玉零様、ご無事で」
母屋の屋根から飛び降りて、隼が玉零の前に跪く。
「蔵に閉じ込められたぐらいでどうかなるとでも?」
「しかし」
「分かってる」
その時、同じく母屋を飛び越えて扇が中庭に着地した。
続けて優衣が反対側の離れから駆けてくる。
「離れろっ!!そいつは妖怪だ!」
「流君、今までどこにっ」
玉零は隼を庇うようにして前に立つと、扇に頭を下げた。
「すみません。彼は私の式神です」
玉零の意図するところを察し、流も口裏を合わせる。
「本当です、扇さん。だから、その札を下ろして下さい。優衣さんも」
扇の手には十数枚の札があり、まさにそれを飛ばそうと、腕を振り上げているところだった。
優衣はどこから持ってきたのか、大きなハンマーを手にしている。
「扇さん、優衣さん、私からもお願いします」
そこへ、百花がどこからともなく現れて同じく頭を下げた。
「話を聞きましょう。零ちゃん、今度は本当のこと、全部話してくれるのでしょう?」
隼が立ち上がりかけたのを玉零は制して、無表情のまま百花を見つめる。
その時、
「なるほど」
蝉の声も聞こえない、閉じられた静かな空間に、冷たい声が降りた。
「何も言わないで」
直後、扇達には聞こえない小さな声で玉零は男に言った。
男は腰に差していた鉄扇をさっと広げ、口元を隠すと「まさか、そこまで野暮ではない」と、言い返す。そのやり取りの意味は流には分からなかったが、隼は男を睨みつけながらも、理解しているようだった。
「ところで、誰や・・・そのコスプレ野郎は」
やっと、この不審者に突っ込む余裕ができたらしい。訝しげな表情で男を見やりながら扇が問い掛けた。
「口の聞き方がなっていないな。玉無家の行く末も思いやられる」
「な、んやと!?」
男の挑発にまたもや頭に血が上った扇が歯がしみした。
そういえば、男は扇を知っているようだった。しかし、当の扇はこの男を知らない。それもそのはず、男はずっと封印されて蔵の中にいたのだ。
では、何故、男は扇を知っている?
男の方へと視線を向けると、一瞬目が合った。
しかし、男は目を逸らして、扇の方へと向き直る。
「それよりも、先ほどから屋敷の外を彷徨いている輩がいるが?」
「楓お姉ちゃんやわ」
優衣の声に扇が苦虫を噛み潰したような顔をした。男から次に何を言われるか、扇も見当がついたらしい。
「中に入れてやらなくてもいいのか?」
それができないことを知っていて、男はわざとそう言う。そして、
「これが次期王無家当主とはな」
その嘲りを扇は俯いてやり過ごすことしかできなかった。
「中は王にして、神の加護を受け、東に風を送り、援軍とす。今、果たされた忠義に古の神に願い奉る。結び給うた神の加護を解き放たんと」
男が呪文を唱えると、一気に喧騒が戻ってきた。結界が解除されたのだ。
「だったら、初めからそうしろよ」
結界を解けるなら、わざわざ蔵の戸を吹き飛ばす必要はあったのかと、半ば恨みがましく呟くと、「どっちもできるって、見せつけたかったんじゃない?」という玉零のやや苛立った返事が返ってきた。
扇のプライドを傷つけたことが許せないのか、玉零も男のことを良く思っていないのは明白だった。
「兄貴!一体何が・・って、誰やこのコスプ」
「楓お姉ちゃん!・・・ちょっと黙って」
騒ぎ立てる楓を優衣が止めたところで、玉零が口を開いた。
「皆さん、ご迷惑をお掛けしてすみませんでした。事情をお話しますので、隅田の当主も、今は黙って聞いて下さい」
楓が手にしているスマホから、「分かった」という声が聞こえた。
楓は家の異変のことを隆世と話していたようだ。
隆世は玉零の素性を知っている。これは、玉零から隆世への頼みなのだろうと思われた。
屋敷の大広間に皆が集まった。
玉零はぐるっと周りを見渡すと、息を吸い込み、そして、
「今まで黙っていてごめんなさい!」
深々と頭を下げた。
「頭上げぇ。そんな謝ることちゃうしな。零ちゃん、やったか?陰陽師なんやろ?」
扇は困り顔をしながら優しく玉零に問いかけた。
「はい。私は白木流の陰陽師です」
「白木流・・・聞いたことないな。隆世はある?」
楓のスマホには、隆世の顔が映し出されている。その表情は硬い。
「俺もねぇよ」
嘘はつけない性分だから、変に口裏を合わせはしない。が、それ以上何も言わないところを見ると、玉零に頼まれた通り、黙って聞き逃すことにしたらしい。
「白木流なんて言っても、そんな大したものではありません。岐阜の山奥の神社で代々神主をしていた白木家の陰陽師ってだけです。でも、その白木家も、もう私しか残ってません。私の両親は普通の会社員を装いながら、怨霊退治をしていましたが、今年の冬に交通事故で二人とも・・・」
そこで、玉零は俯いて涙をポタポタと落とした。
あまりの迫真の演技に流は内心戦いた。
女って、怖い。
「それで私は両親の跡を継ぐべく、修行に出たんです。京都には古くから続く陰陽家がいくつかあると聞いていたので・・・本当は弟子入りしようと思っていたのですが、隼が・・・私の家に昔から仕えてくれている式神が妖怪なので、もしそのことを咎められたらと思うと、なかなか言い出せなくて・・・」
よくもまあ、これだけの嘘が次から次へと出てくるものだ。いつの日か隼が、玉零は嘘をつけないと言ったことを思い出して、乾いた笑い声を上げそうになった。
その隼はと言うと何食わぬ顔をして、玉零の後ろに控えている。
これの、どこが、嘘をつけない性分だって!?と、目で抗議するも、完全に無視された。
「で、流はそのことを知ってたんやな」
気づくと、扇が涙ぐみながら、玉零に抱きついていた。
「はい。神咲先輩は身体に妖怪を宿していらっしゃるので、同じく妖怪を式神に持つもの同士、よく相談させて頂いていました」
この時、事前に知っていた扇以外、驚いた表情を見せたことは言うまでもない。
滅するべき妖怪を己の式神にしているなど、しかもそれを身体に宿しているなど、好まれることではないのだ。
その所以は、伏見山家にある。
狐憑き、すなわち、身の内に妖怪が住み着いた者の惨状を、京都の陰陽師達は嫌というほど知っている。だから、妖怪を傍に置くことを、忌みとしているのだ。
「これは、飛騨で俺を救ってくれた雪女の一部です」
流は自分に注目が集まっているのを無視できず、左目の下にある一見黒子に見える印を触りながら言った。
「あの時、流君が隆世の両親に引き合わせたっていう?」
スマホを持つ楓の手が若干震えている。画面の中の隆世もそれに気づいたのだろうか。すかさず「親父達を守ろうとして死んだバカな雪女だったな」と付け加えた。
本当に頼りになる兄貴だ。
隆世の気配りに励まされて、流は続きを話した。
「白木さんから相談を受けていたのは事実です。扇さん達に話すべきかどうか迷いましたが、それは彼女が決めるべきことだろうと思い、ずっと黙っていました。俺自身、何も打ち明けられていませんでしたし」
最後の言葉で皆は納得したようだった。
玉零は再び頭を下げると、何故か百花を見据えて話し始めた。
「私も無理言って話を聞いてもらっていたんです。本当に神咲先輩には感謝しています。何度か、この家の近くまで来てたんですけどね。先輩も励ましてくれてましたが、やっぱりできなくて・・・それに、先輩が百花ちゃんのことほんっとに大事にされていましたから、実のところ私を家に上げたくないっていうのもありまして・・・」
「おい、ちょっと待て!」
「いいじゃないですか。本当のことなんですから」
「何がだ!?」
おかしな方向に話が進み、流は慌てた。
「貴方が百花ちゃんのこと好」
「ダアァァァ――――――!」
突然のことに驚き、流は素っ頓狂な声を出して誤魔化そうとした。全身からは嫌な汗が噴き出し、とてもじゃないが平静を装うのは無理だった。玉零の胸倉を掴みたいのを寸でのところで押し留めるのがやっとである。
「はい。これ以上言うと先輩が恥ずかしいみたいなので、言いませんけど・・・神咲先輩は百花ちゃんが好き!そういうことです」
小悪魔的な微笑を湛えて玉零は言い切った。言い切りやがった!
瞬間、ぱっと百花と目が合い、百花は赤らめた顔を伏せた。優衣は普段と変わりない表情だが、扇と楓はニヤニヤしている。隆世にいたっては、怖くてスマホの画面を覗くことは憚れた。
「そっちの話は済んだか?」
その時、冷たい隆世の声が嫌に部屋に響いて、流の身体が跳ねた。
「ええ。大丈夫ですよ」
玉零はそれに対し、涼やかに返答する。
何も済んでいない。玉零に文句の一つも言わないと、気が済まない。しかし、済ませたことにした方がいいのかとも思い、結局流は何も言えずにこの話は終わった。
こうなったら、さっさと次の話題に移してくれと、流は狩衣姿の男を盗み見る。
「俺の器に無断で入っているそいつは誰だ?」
案の定、隆世の質問は、見知らぬ男についてだった。
「ほう。これは、お前が作ったものだったか。実に見事。この俺の魂を留め置けるのだからな」
高飛車な男の返事に隆世はあからさまにブスッとした表情をした。
「えーっと、これは・・・」
何から話せば良いかと思案しているうちに横にいた玉零が説明を始める。
「誘い込み結界が発動したことで、蔵の中にいた私達は閉じ込められてしまいました。運悪く戸を閉めていたので。そしたら、神咲先輩が蔵の中にあった箱を落としまして」
玉零はそっと、あの箱を皆の前に差し出した。
「落とした拍子に封印の札が破れ、彼が出てきました。彼は戸を破り、私達は出られました。そして皆さんもご存知のように結界をも解いてみせた。箱の状態からして、数百年前の・・・神咲家の者に封印された力のある陰陽師であることは間違いありません。しかし、どこの、誰かまでは・・・それ以上は、この男に言う気があるかどうか、ですね」
静まり返る場の空気を裂いたのは、もちろん隆世だ。
「土御門の陰陽師か?」
その問いに男はククッと喉の奥で笑うと「さあ?」ととぼけた返事をしたが、次の瞬間には真面目な顔をして、「無名」と名乗った。
「名は無い。故に無名。調べても無駄だ。俺は力はあっても名の無い陰陽師だったからな」
「でも、俺の先祖に封印されたのは確かなんだろ?何があったんだ?」
流の問いに無名は答えない。代わりに、「神咲の者はしぶといな」と、意味深な言葉を呟いた。
「こいつの処遇はどうする?」
楓は扇に意見を仰いだが、扇も困り果てた様子である。
「どうもできねぇ。それが現状だろ?玉無家次期当主」
隆世の言葉に扇は深く頷いた。
その時、
「玉無?王無ではなく?ああ、そういうことか。なかなか洒落がきいているではないか」
まだ玉無家が呪いを受ける前に生きていたらしい無名が一人で聞いて一人で結論を出し、高笑いをした。
悪趣味にもほどがあり、皆無視を決め込む。
扇が咳払いをして、話を続けた。
「オカンに連絡する。オカンも祭りには帰ってくるやろうしな。こいつの処遇はそれからや」
「それは妥当と違うんやない?兄さん」
いつからいたのだろうか。閉められていたはずの襖は開いており、そこに鈴音が立っていた。
「鈴音、お前いつからっ!」
「話は聞かせてもらいました」
扇の言葉は無視して、鈴音は座敷に上がり込んだ。
そして、
「流君。私は君が何とかすべきことやと思うよ」
真っ直ぐに流の目を見てそう言った。
鈴音の目は真剣そのもので、決して冗談ではないことを窺わせた。それだけに質が悪い。随分無体なことを言ってくれる。
「何言ってるんや、そんなん流一人で」
「兄さん、これは神咲家のこと。他家の者が口出しすることとちゃうで」
「せやかて、総代には報告する義務があるやろ!?」
鈴音は「総代ねぇ」と言って鼻で笑った。やはり楓同様母親のことを毛嫌いしているようだ。
「陰陽京総会の中心は、本来隅田のはず。明治以降、東京に移ってからは、陰陽京総会との縁はほぼ切れてたけど・・・もし、この件で指示を仰ぐ必要があるなら、私は隅田家当主に仰ぐべきやと思う。みんなもそうは思わへん?」
鈴音の意見に強く頷いたのは楓一人だけだった。他は動揺して、何も喋らない。
「俺は―――」
スマホの画面の中にいる隆世が顔を上げる。
「俺は、別に今の総代を蔑にするつもりは毛頭ねぇ。ただ、この男の処遇についての個人的な意見を言うなら、鈴音さんと同意見だ。流、お前が何とかしろ」
無体なことを言う奴が一人増えた。
「はあ!?何とかって、何すればいいんだよ。あんたも言っただろ?どうもできないって」
「どうもできねぇから言ってんだよ。これほどの陰陽師を制御できる奴なんざどこにもいねぇ。だからと言って放っておくこともできねぇだろ?お前が見張って、管理しろ。管理の外から出た時はその時だ。別に責任なんか押し付けやしねぇよ。だが、お前の家と因縁があることは頭の隅に置いておけ。ま、今は敵意はないと見ていいみたいだけどな」
隆世が見据える先にいる無名は「いかにも」と答えた。
「封印されていたから、あの世に行きそびれただけのこと。自由となった今、俺がこの世に留まるのは戯れだ。飽きれば何処なりとも行ってやろう」
睨み合っている二人の間に、見えない何かが行き交っているような気がした。
理由は分からないが、隆世が大丈夫だと判断したなら確かなのだろう。扇はまだ何か言いたそうにしていたが、珍しく優衣が「私もこの人は敵じゃないと思う」と、意志表示をしたので多数決的にも、隆世達の考えを受け入れざるを得ないようだった。
流は仕方なく了承し、玉零を交えての神咲、玉無、隅田三家による話し合いは終わった。
* * *
玉無・神咲邸から少し離れた電信柱の上に座りながら、玉零は無名を眺めていた。
流に言われたのか、無名は解除した結界を張り直している。
「オン ソワハンバ シュダサラバ タラマ ソワハンバ シュドカン オン タタギャト ドハンバヤ ソワカ・・・」
解いた時とはまた別の種類の呪文だ。
江戸の世では土御門の者とよくつるんでいたから、それなりに呪術については詳しい。
先ほど結界を解いた時の呪文は近世以降によく使われていたもの、今唱えている呪文は古代においてよく使われていたもの、というように。
「オン ハンドボ ドハンバヤ ソワカ オン バゾロ ドハンバヤ ソワカ オン バザラ ギニ ハラチ ハタヤ ソワカ」
呪文を唱え終えたらしく、屋敷を囲うようにして結界ができた。前と同じく誘い込み結界なのだろう。あまり強い力は感じない。
「あまり近くに寄ると見つかるぞ」
無名と目が合う。
五十メートルは離れているというのに、無名は的確にこちらの位置を察知し、忠告の言葉を放った。
「大丈夫よ。気配は消しているわ」
玉零は民家の屋根をポンポンと飛び歩いて無名の近くに寄った。
「ま、貴方には見つかってしまったようだけど?」
確かに気配を完全に消していた。だが、この男には通用しないらしい。
こんなこと、今まで一度も無かった。
「それより、どうしてあんな長ったらしい呪文なんて唱えていたの?貴方なら言霊一つで足りたはずよね」
蔵の戸を吹き飛ばした時、無名はただ「破る」と言っただけだった。あれは、流への質問の答えというよりは言霊として呪力を行使したのではないかと玉零は思っている。
「そうでしょ?」と玉零がもう一度聞くと、無名は仏頂面のまま「正確さに欠けるからな」と呟いた。
正確さに欠けるから?
確かに、呪文を省いた分、効力は落ちるだろう。しかし、無名ほどの力なら落ちるというほど落ちることもないだろうに。
顔に似合わず律儀なのかもしれない。
そう思った瞬間、玉零は噴き出してしまった。
「何がおかしい」
無名は不服そうに眉間に皺を寄せている。
隅田隆世が無名に敵意はないと見たように、玉零もそう判断した。
そう。
それを確かめるためにずっと無名を観察していたのだ。
「いいえ、何でもないわ。安心しただけよ」
「安心?俺が無害だと?」
玉零はクスッと笑って、肯定の意を示した。
「お前は陰陽の流れが見えるわけでもあるまい。何を以てして無害だと思ったかは知らぬが、あまり気を抜いていると痛い目に遭うぞ」
陰陽の流れ。
やはりあの時、隅田隆世と無名は互いの流れを読み合っていたのだ。隆世はその上で無名に敵意はないと判断した、そういうことなのだろう。
「ええ。私に陰陽の流れは分からない。でも、貴方は悪い人ではないわ。それぐらいのこと分かるわよ」
「何故?」
「だって、貴方分かりやすいんだもの。律儀で、真面目で」
思いっきり睨まれる。その無言の抗議が何だか愛らしい。
「皮肉ではなく、忠告してくるところなんか特にね」
玉零がウインクすると、無名はげんなりした顔をした。
「白鬼もしぶとい」
無名はそう呟いて背を向ける。はっとして、「前にも白鬼に会ったことが?」と問い掛けてみたが、無名からの返事はなかった。
何も言わず、屋敷の中へと消えていく無名を目で追いながら、独りごちる。
「ほんっと、分かりやすくて可愛い」
いよいよ祭が始まります!