第二帳
補習・・・懐かしい響きです・・・。
「流!お前も補習って本真?」
嬉しそうに声をかけてきたのは例によって荒井峻介だ。
今日から夏休みだというのに流は補習を受ける羽目になっていた。そして当然の如く峻介もそのお仲間のようだった。
「流は何の教科?」
「国語と地理と英語」
「俺は全教科!」
どうしてそんなに嬉しそうなのか分からない。
先日、流の家で勉強をしていた時には全教科補習になることをあれほど嫌がっていたではないか。
ああ、それとも。
「あんた、全教科補習になって、とうとう頭がおかしくなったか?」
流が聞くと、やや拗ねたように峻介は「違う」と答えた。
「流も補習なんが嬉しいんや」
「・・・」
「いや、バカにしてるんやなくて!流と一緒っていうのが嬉しい言うか、何て言うか。そう!楽しめそう思て!」
「俺は絶対楽しめないと思う」
「そんなん言わんとー」
誰と一緒であれ、補習が楽しいはずはないだろう。
実を言うと、流は今まで補習を受けたことがない。勉強はできる方ではないが、山を張るのは得意だ。だから、一夜漬けでもそれなりの点数が取れる。それが災いして、試験前日の一日が潰れただけでこの様だ。
自業自得と言えばそうだが、正直、何故あの日に限ってという思いが大きい。
身内のことなので仕方ないのではあるが遣り切れない。
そう言えば、そのことで峻介には迷惑をかけたなと今更ながらに思い出す。
「あの時はバタバタして悪かったな」
峻介は一瞬何のことか分からなかったようだが、すぐに思い当たったようで「無理に寄せてもろたんは俺の方やし、気にせんといて」と手をパタパタと振った。
本音を言えば、静かに流の家で勉強できていたとしても峻介の全教科赤点という結果は変わらなかっただろうから、それほど罪悪感はない。
ただ、身内の揉め事を見られたのが気まずかったというだけの話だ。
「本真に気にしてないから」
峻介はもう一度同じことを言うと、流の肩に手を置いた。
きっと、全て引っくるめて気にしていないと、だからお前も気にするなと言っているのだろう。
そういう峻介の気遣いは思いの外心に染みた。
「ありがとな」
流の呟きはあまりにも小さくて峻介には聞こえていないようだった。
その後は他愛のない話をして、二人で補習教室へと向かう。そして、教室のドアを開いた。
すると、
「隼やん!どしたん?お前も補習なん?」
そこには何と白木隼がいた。
目眩がする。
何故、妖怪がここにいるのだと。
隼は白鬼・玉零の従者だ。流の通う宮古学園の神隠し事件、それに修学旅行での雪男との戦闘は記憶に新しい。
「隼は何の教科?」
「全部だ」
「マジで!?俺も!」
しかも、峻介と同レベルの強者。という以前に、隼も試験を受けていたということに驚いた。そういえば、試験日も何食わぬ顔で学校に来ていたことを思い出す。
「隼、賢そうに見えてんけど、そうでもなかったんやな」
隼は不快そうな顔をして峻介から目を逸らした。峻介に悪気はないのだろうが、馬鹿と言っているようなものだ。気を悪くしない方がおかしい。
それに、峻介と同じ尺度で隼を計ること自体が間違っている。どういう理由で補習教室にいるのかは知らないが、妖怪である隼には補習を受ける必要性どころか試験を受ける必要性すら感じない。
「みんな揃ってるかー。揃ってるなー」
その時、補習の担当らしき教師が入ってきた。かなり体格の良い中年の男性だ。流には見慣れない教師だった。
しかし、それよりも気になったのは・・・。
「これで全員なん?」
「そうだぞー」
「え?でも、おかしない?赤点取ったやつ、他にもいたし」
峻介の言う通りだ。赤点を取ったのが、ここにいる三人だけのはずがない。
そう、教室には流と峻介、隼の三人しかいなかった。
「あー、他にもいるぞー。でもここは、あれだ。特別組だ」
「特別組って?」
「三教科以上赤点やったもんは、特別補習組に入るんや」
最悪だ。
流はギリギリそこに入ってしまったようである。
何故四教科以上にしてくれなかったのかと、八つ当たりだと分かりつつ目の前の教師を睨んだ。
そもそも流以外は全教科。他の二人との差が大き過ぎる。なのにそこには一切疑問を抱かないらしい峻介が違うツッコミを入れた。
「えー、特別補習組って何なん。そんなん中等部の頃はなかったやん。エトゥー」
しかも、意味の分からない語尾をつけて。
「エトゥーって何だよ」
思わず漏れた声に反応したのは流の後ろに座っている隼だった。
「あの教師のあだ名だろ?」
「あんた、何でそんなこと知ってんだよ」
「知りはしない。ただ、あれは中等部の教師だ。名前は確か江藤だったように思う。奴が親しげなのも中等部の頃に世話になったからだろう」
なるほど。
そういう風に見てみると納得がいく。
峻介は無駄口を叩きながらも何やら楽しげだ。
「エトゥー、それで何すればええの?中等部の時はひたすらプリントさせられたけど」
「それは変わらん。でも、特別補習組には特別講師がついてるんや」
「それがエトゥー?」
「ちゃう。俺は陸上の顧問で忙しいからなー。おーい。入っていいぞー」
エトゥーこと江藤の呼びかけで教室のドアが開く。
「特別講師の―――」
「白木零です。よろしくお願いします」
教室に入ってきた美少女はニコっと笑って頭を下げた。
白木零。
それは人の名で、その正体は白鬼・玉零。妖怪だ。
人間は驚きが大き過ぎると思考がフリーズしてしまうと聞く。流の思考はまさしく驚愕のあまり停止してまっていた。
「エトゥー、その子、中等部の子やん」
「白木はな、俺のクラスの生徒なんやけど、今回の期末試験でオール百点を弾き出した天才なんやぞー」
「それはすげーけど、中等部の子に高校の問題は教えれへんやろ」
「確かに。でもなー、白木のすごいところはオール百点を取ったことやないんや。白木はなー、中間でオール赤点やったのに期末でオール百点を取った。つまり、白木にはドン底から頂点へと上り詰める才能がある。そして、それは今のお前たちに一番必要なことやー!」
「なるほど!」
「せやから白木には、お前たちに勉強方法の指南役を頼んであるんやー」
「でも、エトゥー。勉強で分からんとこは誰に聞けばいいん?」
「それは、神咲やっけか?そいつに聞け。国語と地理と英語以外は八割超えてたらしいからなー」
自分の名前が呼ばれ、やっと止まっていた思考が動き出す。と同時に声が出た。
「ちょっと待って下さい。それなら俺はここで補習する意味ありませんよね?」
特別補習組は勉強方法を学ぶべきだという。全教科赤点というとんでもない劣等生たちなら、それもしかるべきだ。
しかし、それは流には当てはまらない。勉強方法など、間に合っているのだ。いや、山の張り方だが。現に家の騒動で勉強できなかった国語と地理と英語以外はそれなりに良い点を取っている。
だから江藤は、勉強を教えろと言うのだが、それは流の補習にはならない。
「お前は赤点言うてもギリギリのラインやし、最終日の試験三つがあかんかったってことは、体調が悪かっただけやねんやろ。せやから、お前に補習はいらんのやー。でも赤点取ったんは事実やからなー。ペナルティやないけど、他の二人に勉強教えたれ」
そんなところで、教師の勘を働かせないでほしい。しかも、裏事情をこうも赤裸々に語られれば、反論の余地もない。
結局流は「はい」と言う他なかった。
「じゃ、俺は部活見てくるから、後はよろしくなー」
江藤はそう言って大量のプリントを教卓の上に置き、教室を出て行った。
「それじゃ、今日は数学の勉強方法を教えますね」
溜息を吐く他ない流と打って変わって、玉零はいきいきとしている。
江藤は頼んだと言っていたが、玉零の方から名乗り出たのかもしれない。確実に楽しんでいる。
しかし、いざ玉零の授業を受けてみると意外にも勉強になり、驚かされた。
今まで山を張って一夜漬けという方法ばかりだった流には新鮮で、今までの自分のスタイルを考え直そうと思ったほどだ。
「自分に合った勉強方法を取り入れて頑張ってみて下さい。では、次。神咲先生に授業をしてもらいます。試験問題のおさらいからやってもらいましょう」
玉零に目で促され仕方なく流は黒板の前に立った。
前のめり気味の峻介の目がキラキラとしているのは気のせいであってほしい。人に勉強を教えるなんてこと、今までしたことがないのだ。
峻介が家に試験勉強をしに来た時も、何度か教えてと言われたが教科書を読めとしか言っていない。だから、そんなに期待されても困る。
かと言って、全くやる気のない感じでいられるのも気が削がれるというもの。
隼は目を閉じて腕を組んでいた。決して寝ているわけではないのだろうが、どうでもいいと思っているのは確かだろう。隼がこんな茶番に付き合っている理由は教室に玉零が入ってきた瞬間に分かった。つまりは、玉零がいるから、だ。
「起きろ」と言うのはお門違いなので、隼の存在は無視することに決め、流は試験問題の解説を始めた。
が、正直こんなにも、時間が掛かるとは思わなかった。
峻介の理解力の無さはもはや天才的で、数学の試験問題の解説だけで一日が終わってしまった。
「なあ、俺の説明、そんなに下手だったか?」
やや苛立ちを滲ませた声で峻介に問うと、「いやいや、全然!」と言って峻介は首を振る。
「それなら何で分からないの一点張りなんだよ?」
夕焼け空の下、四人で帰り道を歩く。結局江藤が託した大量のプリントは消費できていない。
「神咲先輩、落ち着いて。先に試験問題の解説にしたのがダメだったのかもしれません。明日から荒井先輩には、簡単なプリント問題からやってもらいましょう」
「ありがとう、零ちゃん。流と違ごて本真に優しい子や」
峻介は玉零のアドバイスに心底感激したようだった。中学一年生から上から物を言われて何感動してんだよと言いたくなったがやめておく。
代わりに「悪かったな」と言うと目の端で玉零の口角が上がるのが見えた。
「でも神咲先輩の教師っぷりもなかなか様になっていましたよ?百花ちゃんにも見せてあげたかったくらいに」
だから、どれだけ上から目線なんだと、今度は玉零に言いたくなった。が、
「え?何々?百花ちゃんて誰?」
目敏く峻介が食いついてきてタイミングを逃した。
「百花ちゃんはですねー」
「うんうん」
「待て。百花は妹だからな」
変なことを言われる前に先手を打つと「そう言おうと思っていましたけど?」と目を細めて笑われた。
「へー、流、妹いたんか。それは同居してる家族とは別に?」
峻介には訳あって隣の家族と一緒に暮らしていると説明している。それ以上は複雑過ぎるので言わなかった。それに峻介も深くは聞いて来なかった。
「まあ、な」
今だって、流の歯切れ悪い応えに峻介は何も言わない。
「俺は弟ばっかりやからなー。妹ほしかったわー。零ちゃんみたいに可愛い子やったらなお良し!」
「私も荒井先輩みたいなお兄ちゃんほしかったですよ」
完全な社交辞令だというのに峻介の顔が緩む。玉零の言葉を真に受けて調子に乗ったのか、「そっかそっか、今からでも俺ん家の子になるかー」などと言って、玉零の肩に腕を回して笑う。
その後ろでは冷たい表情の隼が殺意を秘めた目で峻介を睨んでいるとも知らずに。
「零ちゃんは兄弟いーひんの?」
すっかり打ち解けた様子の峻介は何気なく玉零に質問した。
しかし、玉零はその問いに躊躇いを見せた。と言っても一瞬のことだったので、流の気のせいだったのかもしれない。
「いますよー。兄が一人」
隣を歩く玉零は下を向いたまま明るい声で答えた。
「お兄ちゃんか・・・て、いうか。零ちゃんの苗字って白木やんな?」
「はい」
玉零が訝しげに顔を上げると、峻介は興奮したように後ろを振り返った。
「隼の苗字も白木や!」
ああ、そういえば、と思う。
この二人は同じ苗字を使っている。妖怪に苗字があるのかどうかは知らないが、どちらにせよ玉零と隼が同じ苗字のはずがない。しかし、同じにしているということは兄妹設定なのだろうか。
「あー」
玉零は隼の方をチラリと見て、
「実は、お兄ちゃん」と手で隼を指した。
にしては、後付け感が半端ではないが。もともとそういう設定だったのを今思い出したのか、今思いついた嘘なのか。
玉零の態度はそのどちらとも捉えられるもので、言い換えれば、そのどちらかでしかないものだった。
とすると、さっき兄が一人いると言ったのは、本当の兄のことだと思われる。
兄と妹。
そういえば、隅田と伏見山もそうだ。ふと、玉零の兄はどんな人物なのだろうと頭の端で考える。
「え!?そうなん?何で教えてくれへんかったん?」
しかし、流の思考は素直に驚く峻介の声で引き戻された。
「何となく気恥ずかしくて。ね、お兄ちゃん?」
玉零の言葉に隼は些か困った顔をして、ぎこちなく頷く。
「隼~、言えよ~」
このっという風に峻介が飛び上がって隼の首に腕を回した。
「おい、重い。どけ」
隼は軽く百九十センチを超える長身の持ち主だ。一方峻介は百七十センチを少し超えるぐらいなので、ほとんど隼にぶら下がった状態になっている。
「そんなん言わんとー。ええな隼は。こんな可愛い妹いて」
それ以上はやめておけと目で制すも、峻介は全く流を見ていない。
そして、いきなり「あ!」と叫んだのだった。
隼から腕を離し、両足を地面に着ける。
峻介の目はあるポスターを凝視していた。
「十年に一回しかない祭やて!」
そのポスターは伏見山家の鎮魂祭の開催を知らせるものだった。
まあ、鎮魂祭は裏の祭なのでポスターには盆祭りとだけ書いてあるのだが。
流は嫌な予感がして、峻介を見やった。
「これさーみんなで行かへん?」
案の定、峻介は興味津々にそう言った。
それに対して玉零は意外にも申し訳なさそうな表情をした。
「あーその祭なら、百花ちゃんに誘われてるんですよねー」
玉零は既に百花と約束をしていたらしい。
表の祭では、屋台も多く出店される。百花は店の手配を任されており、実際に自らの屋台も出すそうだ。
そういえば先日百花が、店を出すのに人手が足りないから他に人を誘ってもいいかと扇に聞いていた。
つまりは、そういうことだ。
「あ、そうなん?じゃ、百花ちゃんも合わせて六人で」
やんわり断れていることに気づいていないらしい峻介は勝手に事を進める。
「あ、でも、百花ちゃん店出すらしくて、その手伝いに誘われてるんですよね」
玉零は「ごめんなさい」と言って峻介の提案を断った。
「そうなんかー。じゃ、四人で―――」
「おい、ちょっと待てよ」
ここで、流も口を挟む。
このままでは完全に峻介に巻き込まれてしまうだろう。その前に、玉零が断った流れを利用し、流も断りたいところだ。
「俺は行くなんて一言も言ってないからな」
そもそも流も祭の主催者側だ。遊んでいる暇はない。
しかし、そんな事情を知る由もない峻介はきょとんとした顔で「行くやろ?」と聞く。
「悪いけど、俺は忙しいんだよ」
「そんなに忙しいんか?」
「ああ、すっごく忙しい」
「そんなー」
峻介はショックを受けたようで大げさなほどに嘆いた。
「隼~」
そして捨てられそうな子犬の如き目で隼を見つめる。
「俺は・・・」
「お兄ちゃんは別に用事ないですよ」
隼が何かを言う前に玉零が先手を打った。
「ぎょっ」
思わず玉零の名を叫びそうになったようだか、押しとどまって隼は主人を見た。
「ぎょ?魚?魚ってなんだよ魚ってー!まあ、ええわ。じゃ、祭は三人で行くってことで!」
「そういえば、百花ちゃんに聞いたんですけど」
固まったまま動かない隼から目を逸らして、玉零は流に向き直る。
「神咲先輩が忙しいのはお盆の初日と最終日だけで、真ん中の二日間は特に予定はないらしいですよ。祭はお盆の間毎日あるみたいですし、一日ぐらいは遊べるんじゃないですか?」
瞬間、余計なことを!と、叫びそうになったが、寸でのところで飲み込む。これ以上ないほど顔を輝かせている峻介の姿が目に入ったからだ。
「本真か!?じゃあ、十四日と十五日どっちがいい?」
巻き込まれた。
もう避けられないと覚悟を決め、仕方なく「十四で」と返事をした。
「よっしゃー!じゃ、とりあえず四人やな!零ちゃんも店抜けられそうやったら百花ちゃんと抜けてきてな。かき氷ぐらい奢ったるで!あ、もちろん零ちゃんらの店にも寄るし!」
テンションの高い峻介を横目で見やりながら溜め息を吐く。
そして、後ろにいる隼に目だけで、あんたの主人は何を考えているんだと抗議した。
隼はこっちが聞きたいというような怪訝な顔をして、頭を抱えている。その様子に玉零は心底楽しんでいるようだった。
流は一先ず玉零本人への抗議を後回しにして「それよりも」と切り出した。
「さっきから、言ってる人数、一人多くないか?」
峻介が百花を入れて六人と言った時、言い間違ったのだと思っていた。しかし、その後も峻介は一人多く見積もって数を言っている。
「ああー、えーっと・・・早希も誘おかな思て。まだ予定とか聞いてないけど、たぶんみんなでって言えばついて来ると思うねんなー」
宮根早希か。
なるほどと、流は思った。
試しに「二人で行けばいいだろ?」と聞いてみると、峻介は「そんなん、デ、デートみたいやんか!そういうのやないから、本真に!」という焦った返答をした。
修学旅行で、元カノである新庄莉子のことを吹っ切ってからというもの、峻介は早希に恋愛的な意味で好意を寄せているようだった。
恐らくは莉子の死を受け止められずにいた頃から徐々に惹かれていたのだと思うが、如何せん死別という別れ方をしたために自分の気持ちに素直になれなかったのだと思う。
「大勢の方が楽しいやんか。その方が早希もええと思うねん。うん」
やや頬を赤らめた峻介を見て、確信を持つ。
嵌められた。完全にダシにされた。
しかし、馬鹿馬鹿し過ぎて腹も立たない。
「そうだな。みんなと行った方が楽しそうだよな」
本当は二人だけで行きたいくせにと思いながらも、棒読みで応える。
例によって玉零は楽しそうにしている。否、面白がっていると言った方が適切だろう。
そうこうしている内に一行は大通りの交差点まで来た。
「あ、俺こっちだから。隼と零ちゃんは?」
「私たちも神咲先輩と同じ方角だから、ここでお別れですね」
「そっか。じゃ、また明日な!」
「おう」
信号が青に変わる。峻介は手を振りながら軽快に横断歩道を渡って行った。
峻介の後ろ姿を見送り、オレンジ色に染まった交差点を再び歩き出す。
すれ違う人々は皆、他者には興味のないような足取りで通り過ぎて行く。
「で、何であんたは特別講師なんかやってるんだよ。シロオニ」
だから、女子中学生に対して妙な呼び方をしても誰一人気に留める者はいない。
「しかも全教科百点って・・・学校へ何しに来てるんだ?」
玉零は「おかしなことを言うのね」と言ってふっと笑う。
「学校は勉強するところよ?」
そんな最もな理由は自分には当てはまらないと知っているくせに敢えて言うあたり性格が悪い。
「おばけにゃ学校も試験も何にもないって?」
流が不服そうな顔をしていると、某妖怪アニメの歌詞を持ち出して、一層笑う始末だ。
「だって、そうだろ」
「あら、妖怪が学をつけるのはいけないこと?」
「いけなくはないけど、必要ないだろ」
妖怪社会のことは何も知らないが、人間社会と同じ訳がない。大学に行くことも、仕事に就くこともないのだから、所謂、受験のための勉強は必要ない。読み、書き、計算程度で事足りるはずだ。
「読み、書き、計算さえできていればいいとか思ってるかもしれないけど」
流の考えていることはお見通しのようで、玉零はその疑問に答えた。
「学が有るに越したことはないのよ。力の強い者が本当に強いわけじゃない。それは人間の世界でも言えることでしょ?」
「まあ、そうだな」
武士の世の中でさえ、腕っ節の強さだけで権力の座には就けなかっただろう。政治も戦も知識がないとできない。
「賢い者が生き残るのは世の道理。私の友人は正体を隠して大学にまで行ったわ。それで博士号も取ってくるんだからすごいわよ」
玉零のいう正体とは、妖怪のことなのだと容易に察しがついた。
さすがに驚いたのは言うまでもない。
「大学?妖怪が!?」
「そうよ。経済学に経営学、政治学、法律学、教育学、医学、生命科学、理工科学・・・あと、何だったかしら。人類学と物理学も修士まで極めたとか言ってたわね」
人間ですらそこまで知識を得る必要はない。一体、玉零の友人とはどんな妖怪なのか。
流の頭には仙人のような老人の姿が思い浮かんだ。それが大学で学生として授業を受講していたとすれば、かなり浮いていたことだろう。
「学が有るに越したことはないと言ってもさすがに行き過ぎよね。前に、そんなに勉強してどうするのって、彼に聞いたことがあるの。そしたらね、彼曰く、この世は人の世だから、妖怪が生きていくためには人の世の仕組みを知らなければならない、少なくとも今はそういう時代だ、だって」
今は、か。
かつては妖の世でもあったのだと思う。
義理の祖父である隅田隆剴から聞いた話では、昔は昼が人の世界、夜が妖の世界という風に住み分けがされていたという。玉零ではないが、某妖怪アニメの歌詞を借りるとすれば、朝は寝床でグーグーグーといったところか。
陰陽家に伝わる記録でも、妖怪は夜にしか人の前に姿を現していない。この世も、夜は妖の世として確かにあった。それが変わったのはいつの頃からだろう。
隆剴は明治以降、劇的に妖怪の数が減ったと言っていた。電灯の発達と共に街は夜でも明るくなった。そして現代、夜通し街は眠らない。夜さえも、人の世界になったのだ。
「ま、普通ならそこまで学問を極める必要はないでしょうけど。だって、日常生活で使わないもの。私を含め、普通の妖怪の場合は」
暗に、その友人は例外だと言っているようだったので、「そいつは違うのか?」と聞くと、玉零は誇らしげな様子で答えた。
「ええ。彼はこの国の妖怪達の柱であり、歩むべき道を示す指針。名実ともに妖怪の頂点に立つ者よ」
それに良い顔をしなかったのは隼だ。明らかに反論しようと口を開いたようだが、即座に玉零に遮られる。
「隼、黙ってて。今、陰陽師に説明してるんだから」
台詞の後ろに彼の偉大さをという言葉がつきそうなほど、玉零の語り口はいつになく熱い。
「それで彼はね、その経歴を活かして、政治、経済、医療、法律、教育・・・それら各界に人脈を作ったの。彼の情報網は並大抵じゃないわ。どこかで、虐げられている妖はいないか、埋もれた寺社はないか。日本全国に目を配って、数が少なくなった妖怪達の保護に尽力している。それと同時に不審な動きをしている妖怪や、新たに発生した怨霊はいないか目を光らせているの。そして、妖や怨霊絡みと思われる不可解なことがあれば、仲間を派遣して調査をさせる。各界で築き上げた人脈で潜入調査はお手の物だしね」
ああ、だからと、流は納得した。
「それで、あんた達が宮古学園に来たってわけか」
ここまで話を聞けば、その友人が宮古学園の神隠し事件の調査、解決を玉零に依頼した者と同一人物であることが分かる。
今まで、玉零達が宮古学園の生徒として普通に学校生活を送っていることが不思議で仕方なかったが、背後にはそういう巨大な権力を持った人物、否、妖怪がいたのだ。
しかし、ここで新たな疑問が湧いた。
宮古学園の神隠し事件は解決した。恐らく信州の事件もその友人に頼まれたことだったに違いない。しかし、それもまた解決した。
玉零達が未だここに残る理由はない。
「どうしてまだここにいるのかって?」
流が問うはずだったその疑問を玉零が口にする。
しかし、当の本人は少し困ったような顔をして、「私にも分からないのよ」と答えた。
「分からないって、どういう意味だよ」
「その友人がね、まだいろって言うからいるだけなの。もしかしたら学校に行ったことのない私に勉強をさせたいのかもね」
笑いながらそう言った玉零の前に隼が踏み出る。先ほど黙っていろと言われたにも関わらず、血相を変えて声を荒げた。
「何をおっしゃるのですか!?玉零様は誰よりも尊く、理知的なお方。勉学をする必要などありません!」
玉零は、従者の必死な言葉に耳を貸す気は一切ないようで、首を振って「千には敵わないわよ」と応えた。
しかし、それは隼をますます不機嫌にさせたようだった。
「千歳殿が玉零様よりも秀でていると?ご冗談はお止め下さい。本来ならこの国の妖怪達を束ねるのは貴女様なのですよ?血筋も実力もあのような妖怪崩れに」
「隼!」
玉零は足を止めて、目の前の従者を睨んだ。
その射るような目つきは、端から見ていても身が竦む。
「認めなさい。実力は千の方が上よ」
「本来は玉零様が上です」
「そうだとしても、私は誰かの上に立つ器じゃない。それに、今は違うでしょう?」
「しかし、それにしても玉零様は千歳殿の言いなりになり過ぎていませんか?」
珍しく隼は引かなかった。玉零の友人だという「チトセ」―――玉零は「セン」と呼んでいるところを見ると「千歳」なのだろう。そいつのことを隼が快く思っていないのは明らかだった。
自分の主人の上に立つ者だから、密かに恋い慕う玉零と親しいから、それとは別に何かある。そしてそれは『妖怪崩れ』という言葉に集約されている気がした。
辺りが妙な静けさで満たされる。流達は大通りを抜け、既に住宅地に入っていた。
「私は千を尊敬しているの。そして、絶対的に信頼している。彼がまだいろと言うからには、何か理由があるんでしょう」
「理由があるならなぜ玉零様に言わないのです?おかしくはありませんか?」
「昔からそういう人だったじゃない。何もおかしくなんてないわ」
隼同様玉零も一向に引かない。よほど大切な者なのだろう、千歳という妖怪は。
そろそろ口を挟むべきかと思い、流が二人の間に入ろうとした時だった。
隼がやや迷いを孕んだ顔をしながら、声を落として呟く。
「・・・ここに留まり続けるのは、他に理由があるからでは?」
「他の理由?」
それに対して玉零は怪訝な顔を向けて聞き返した。思い当たる節があるのか、若干身構えているのが分かる。
隼は玉零の目を真っ直ぐに見つめて「ご実家のことです」と即答した。先ほど見せていた迷いはもうない。
「本家に帰りたくないだけではありませんか?私には、当主としての責務から逃げる口実として千歳殿を引き合いに出しているようにしか見えません」
堰を切ったように隼は言い募った。
しかし玉零は無表情で「違うわよ」と応えるのみだった。
きっと流には踏み込めない問題があるのだろう。
妖怪の世界のことは何も分からない。
妖怪の保護と監視、怨霊の討伐を担う組織があることも、妖怪にも家があって玉零が当主であることも、今知ったばかりなのだから。
それ以上の深いことなど、人間である流には分かるはずもない。
だが、玉零の抱える問題は自分達とそう遠くないのかもしれないと思った。
陰陽家の者として生まれ、当主の座に就き、その重責を負う陰陽師と。そして、あらゆる事情と個々の思いが交錯する『家族』の一員である人間と。
ふと、目の前の電柱を見ると先ほど峻介が見つけたポスターと同じものが貼っていた。
伏見山家の鎮魂祭。
陰陽京総会構成陰陽家が一堂に会する十年に一度の祭事。
「盆祭りが関係してるんじゃないか?」
気づけば勝手に言葉が出ていた。
「何の話だ?」
隼が眉根を寄せて聞き返す。
今大切な話をしているのだから関係のない奴は黙っとけと言わんばかりの不機嫌さだ。
「その千歳って奴があんた達にまだここにいろって言った理由だよ」
「どういう意味?」
今度は玉零が聞く。
「あの盆祭りは伏見山家の鎮魂祭を兼ねている。それで何かあるとそいつは睨んでいるんじゃないか?」
狐狂いを封じる力が弱まるこの時期に、何かあると。
果たして妖怪が陰陽家のことまで介入するかとも思うが、事が事だけに絶対にないとは言い切れない。
しかし、流の予想に反して玉零はいまいち事情が飲み込めていない様子だった。
「もしかして鎮魂祭のこと知らないのか?」
「知らないわ」
当然といった感じで玉零は答える。
「でも伏見山家のことは知ってるだろ?」
玉零は怪訝な顔で首を傾げた。
もともと土御門の者と知り合いであるようなことを言っていたし、信州の雪山では隅田のことも知っているようだったので、てっきり陰陽家にある程度通じていると思っていた。
しかし考えてみると、土御門と隅田は陰陽家の代名詞的存在だ。その他の陰陽家のことまでは知らないのも不思議ではない。
「あんた、陰陽家のことはどこまで?」
試しに聞いてみると、玉零は「そうねー」と言って腕を組んだ。
「土御門とはよく交流があったけど、それ以外はあまり」
「でも、隅田のことも知ってるんだろ?」
「賀茂家のことでしょ?土御門と仲の悪い」
土御門の者と親しくしていたらしいので、そこから話を聞いたのだろう。その証拠に土御門との関係性で隅田を語っている。
しかし、直後に「ああ、でも」と言葉を続けた。
「隅田の三代目とはね。少しの間だけど関わったことがあるわ」
遠い目をして、玉零は言う。
心なしか表情が暗いように思えるのは気のせいか。三代目隅田家当主との思い出はあまり良いものではないのかもしれない。
「そういえば、百花は彼の子孫なのよね。隅田なんて苗字、珍しくないから気づかなかったわ。この前、貴方を助けにきたのは百花のお兄さんなんでしょ?彼はなかなかだったけど、百花は陰陽師の力もないみたいだったから」
玉零は再び歩き出して、話を続けた。それに流と隼が続く。隼は話題を変えられて不満なのか、いつになく仏頂面だ。
「宮古学園の神隠し事件を探るうちに美人が標的だと分かって百花に近づいた。あの日・・・百花に連れられて貴方達の家に行ったあの時、初めてその家が陰陽家だと知ったの。屋敷に結界が貼ってあったからね。それに玉無の三人は見ただけで陰陽師だと分かるほど、霊力が高かった。本当にびっくりしたわよ。京都にいくつか陰陽家があることは聞いていたけど、まさか百花の居候先がそうだなんて。まあ、貴方のことは四月当初から知っていたんだけどね。入学式の日に見かけていたもの。百花の婚約者だって知ったのは後のことだけど、その時に気づくべきだったのかしら。百花があの隅田家の者だって。ちょっと考えれば分かることなのに、私って鈍感ね」
玉零が鈍感なはずがない。自分のことには疎くても、他人のことに関しては洞察力も推測力も桁外れなのだから、ある程度は分かってしまう。
もし、本気で気づかなかったのだとすれば、それは氷雨の時と同じなのだろう。氷雨がかつて自分が殺した雪女の子供だと気づかなかった時と。
玉零の忘れたい過去は、一つではないらしい。
それもそうだ。
玉零は見た目は幼くても、かなりの年月を生きている。
前に、玉零は人間と同じだと思ったが、そして今でもそう思ってはいるが、『寿命』、そこだけが決定的に人間とは違う。
玉零の話に対して、流は何の反応もできなかった。
玉零の過去を知りたい反面、知れば知るほど人間との違いを思い知らされるのではないかと怖くなったのだ。
「陰陽師?」
気づけば、玉零が歩を止めて振り返っていた。
「あ、えーっと、あんたがあんまり陰陽家に詳しくないってことはよく分かった。ていうか、あんた喋り過ぎ。話脱線しただろうが」
玉零がいきなり饒舌になった理由が分からないでもないので、そこを突っ込むつもりはなかった。が、慌てて口を開いたため、余計な一言が滑り落ちてしまった。
「ごめんなさい。伏見山がどうとかっていう話だったわね」
さして気に留めていない様子だったので、流は心の中でホッと息を吐いた。
「とりあえず、あの公園にでも行くか?ずっと立ち話をしてるのも何だし」
流がそう提案すると、玉零は承諾した。
夕日が山際に見える。もう、じきに沈むだろう。
玉零はなぜかベンチではなく、ブランコに座って「で?」と話を促した。仕方ないので流はブランコを囲う鉄パイプの柵に腰をかける。隼は玉零の斜め後ろのフェンスにもたれて腕を組み、目を閉じた。陰陽家の話にはさほど興味はないらしい。
「陰陽家は少なからず呪いを受けている」
流がそう切り出すと、ブランコを漕ぎ出そうとしていた玉零の足が止まった。黙ってこちらを向き、耳をそば立てているのが分かる。
流は一呼吸置いてから、口を開いた。
「伏見山家は狐憑きの呪いを戦国の世に受けた。それからは数世代に一人の割合で、『狂い狐』と呼ばれる人ならざる子が生まれる。そいつは時に人を襲うこともあるらしい。狐の力を封じるために伏見山の屋敷を結界で囲い、対狂い狐用の武具である神器を祀ってあるが、それも十年で効力が落ちてくる。だから、各陰陽家は十年に一度、結界の貼り直しと、神器への霊力の補充を行う必要があるんだ。それが、今回の盆祭りの真の意図だよ。陰陽師の間では鎮魂祭と呼んでいる」
一先ずここで話を切ると、微動だにせず流の話を聞いていた玉零がブランコを漕ぎ出した。
「そのことを千が知っていて、何かあると思っている、と?」
あまり納得のいく答えではなかったのか、随分と難しい顔をしている。
靡く玉零の髪を見ながら「そうだと考えるのが妥当だろ?」と返した。これは、ここに留まる理由が他にあるらしい玉零へのフォローのつもりだ。ちらりと隼を見ると、こちらを睨んでいるのが目に入ったが、無視しておく。
「それで、貴方は何かあると思うの?」
「いや。そうならないために必要な準備は整えてある。あとは無事に鎮魂祭を行うだけだ」
「じゃあ」
続く言葉は察しがつく。
じゃあ、流の予想は妥当ではないと、玉零は言いたいのだろう。
人の好意は有難く受け取っておけば良いものの、そういうところは融通が利かないらしい。というよりも、千歳が玉零達をここに留める理由が本気で気になるのだろう。
その証拠に、ブランコから降りて流の前に歩み出た玉零の顔は晴れない。
「陰陽師・・・」
言いにくそうに玉零が言葉を紡ぐ。
直後、漂う空気が淀んだ気がした。
気のせいだと思うのに、なぜか気になって仕方がない。
玉零が息を吸い込むのが聞こえる。
その俯いた顔が上がるのと同時に、流は声を張り上げた。
「だから、俺は忙しいんだよ」
きょとんとする玉零に、攻め立てるようにして喋る。
「あんたはただの盆祭りだと思ってたみたいだけど、そういう訳だから、俺は荒井達と遊んでる暇なんてないんだよ。大体あんた、何勝手に事を進めてんだ?しかも、めちゃくちゃ面白がってんだろ」
一気にまくし立てると、玉零は不敵な笑みを浮かべて「あら?」と呟いた。
「勉学は大事だけど、遊びも大切なことなのよ?子供は遊ばないと」
「誰が子供だって?」
「違うの?私から見ればお子様もいいところよ」
そう言ってカラカラと笑う目の前の少女は、生きた年月だけで考えれば流より随分年上だ。しかし、外見に違わず子供っぽい。
「玉零様、お言葉ですが、私は子供ではありません」
隼が口を挟むと、「隼は保護者」の一言で一蹴してしまう。
確たる芯と冷静な思考を持つ白い鬼は、時々我が儘で自分勝手なただのお嬢様になる。
それに慣れているのか、隼はもう何も言わず再び目を閉じた。顔は天を仰いでいたが。
ふと、流も空を見上げてみると、星が瞬き始めていた。
日が沈み、公園の電灯が灯る。
夜になっても明かりがなくなることはなく、真の闇は訪れない。
妖怪達の時間は来ない。
「いいじゃない。準備は整えてあるんでしょ?一日ぐらい遊んだって罰は当たらないわ」
玉零の明るい声に誘われて視線を落とせば、人間の少女の姿が目に入る。
無表情のまま黙っていると「ね?」と言って両頬を摘ままれた。
「おい、なにしゅんひゃよ」
「今、違うこと考えてたでしょ?」
ドキリとする台詞を耳元で囁いて、玉零は摘まんだ頬を左右に引っ張った。
「いひゃいから、ひゃめろ!」
―――違うことを考えてたでしょ?
しかし、察しのいい玉零でも、その中身までは分からない。
妖怪の姿ではない玉零には。
高らかな少女の声が公園に響く。
難しく思い悩んでいるのは似合わない。そうやって笑っているほうが彼女らしいと、流は思った。
「陰陽師」と呼んで、何を言いたかったのかは分からないが、あの時の玉零の思考は危ういものだったに違いない。だから、空気が淀んだ気がしたのだと思う。
確か前にもそんなことがあった。
それを玉零は『陰陽の流れ』と言っていた。
まさか、と思いながらも頭を振り、いつまでも頬を引っ張っている玉零の手を掴む。
そして、いい加減に放せと、言おうとした時だった。
「何を、しているんですの?」
聞き慣れた、凛とした声が聞こえたのは。
「百花ちゃん。今、帰り?」
「・・・ええ」
百花が怪訝な顔になるのも無理はない。
白木零の家はこの近くではないのだから。
ここは、流が居候している玉無家にほど近い公園。
流と百花が登校する時、いつも白木零が合流してくるところはもう少し先にある。
「零ちゃん、どうして」
「お兄さんと一緒に帰ってきたの。私、高等部の補習のお手伝いしてるから。それで一緒に帰ってたらね、盆祭りのことで話が弾んじゃって。立ち話も何だし、ここで話してたのよ」
百花はそれ以上は何も聞かず「そう」とだけ応えた。
百花の気持ちを知っているだけに、心が痛む。
「百花」
名前を呼ぶと、百花は微笑んで「何です?」と言った。
「百花が帰ってくるのを待ってたんだよ」
そんな嘘、隣に立っている玉零には確実にばれている。
だが、百花が安心するならと、流は嘘をついた。
「今日、学校終わってから商店街の人に屋台の出店をお願いしに行くって言ってただろ?遅くなると思ってたから、盆祭りの話しながらここで待ってた」
「そ、うだったの」
都合良くも、百花の顔が心なしか赤くなったように感じる。
罪悪感を消すために新たな罪悪を重ねて。黒で黒を塗り潰したところで色は変わらないのに、誤解されたくない一心で嘘をついた。
「じゃあ、百花ちゃんも帰ってきたことですし、私達は帰りますね」
気を遣ったのか、玉零はニコッと笑って歩き出す。その時、暗闇から出てきた隼の姿に百花は驚いたようだった。
今まで隼の存在に全く気付いていなかったらしい。
あっと声を上げ、「隼さんも」恐らくはいたんですねと言いたかったのだろうが、あまりにも失礼だと思ったのか、「零ちゃんと帰る方向同じですのよね」と続けた。
隼からは何の反応もなく、代わりに玉零が答える。
「というより、一緒に住んでるの。正真正銘の兄妹だからね」
今日、思いつきで決めた設定を事も無げに持ち出して笑う。当然の如く百花の驚き様は尋常ではなかった。それもそのはず、百花は今まで二人が恋人同士だと思っていたのだ。
「兄妹?正真正銘って・・・本当のってこと?」
百花らしくない不躾な質問が口から飛び出す。
「ごめんね、今まで黙ってて」
百花は首を振って否定したが、納得していないように見えた。
「また祭りのこと連絡してね。そろそろ準備しないといけないでしょ?じゃ」
悪びれず去っていく玉零の後ろ姿を見ていると、嘘をついたことへの罪悪感など消えてしまいそうだった。
「百花」
「何ですの?」
「あの子は何て言ってたんだ?白木隼との関係」
公園から玉無邸までの道中、百花に問う。
百花は真っ直ぐ前を向いたまま「気になります?」と聞いた。
その意外な返しに流は虚をつかれた。
気になると言えば気になる。しかし、その理由を上手く説明できない。
強いて言えば、
「俺も今日、二人が兄妹だって聞かされて驚いたから」
これだと思う。
しかし実際は主従関係にあることを始めから知っているので、気になる理由としては厳密には当てはまらない。
それでも百花はその理由として納得したのか、「本当に驚きましたわよね」と言って、話し出した。
「私が勝手に誤解してただけなんですの。零ちゃんはただ、幼い時からずっと一緒にいる大切な人としか言っていなくて。一緒に住んでることは予想してたけど、それが本当の兄妹だからとは思いませんでしたわ。苗字は一緒だから私達と同じで従兄妹なんだとばかり・・・それで、流兄様とのこともいろいろ喋ってしまって。本当にごめんなさい」
「それはいいけど」
正式には、流と百花は従兄妹関係にあった。祖父、隆凱の娘である文恵の養子として流は隅田家にやって来たのだ。
文恵は当時病床にあり、流が一歳になるのを待たずして亡くなっている。本来は隆凱か隆馬の養子として迎えるべきだが、それでは百花と結婚するのに不都合が生じると祖父は踏んだのだろう。余命幾ばくもない自分の娘の養子にしたのは、そういう理由だ。
まだ、百花が誕生する前からそんな算段をするとは・・・可能性ではなく、祖父には確かに見えて(・・・)いた(・・)のではないだろうかと、そう思う時がある。
まあ、それはさて置き。
神咲を継いだ今となっては関係の無いことだが、流はかつて法律上は隆世、百花と従兄弟、実質は兄弟として育った。
そんな複雑な事情が白木零にも当てはまると、百花は考えたわけである。
気付いてはいたが、百花は随分早い段階で流との関係を話していたようだ。恐らくは五月、家に連れてきた時にはもう告げていたのではないだろうか。
自分と同じ境遇の者にはつい心を許してしまいがちになる。
それが人間の心理というもので、その点に関して流はとやかく言う気はなかった。
「でも隼さん、零ちゃんのこと好きなように見えたんだけど。勘違いだったのでしょうか?」
それは、勘違いではない。
でも、兄妹設定になっている以上いろいろとまずいので「シスコンなんじゃないか?妹愛ってやつだろ」と言っておく。
「そういうものなのでしょうか」
百花はまだ納得いかない様子だったが、玉無家の玄関をくぐると、何事もなかったように振舞い、その話題を出すことは一切なかった。
流と百花の恋はどうなるんでしょう・・・。