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狐の盆還り  作者: 哀ノ愛カ
12/13

第終帳

これにて、『狐の盆還り』は終わりです。

「生きておるか?」

嗄れた老父の声で目が覚めた。

「貴方、は・・・」

「覚えておらんか?」

覚えていないはずがない。この人は・・・

「隆凱様」

隅田隆凱は、うむと頷いて、僕の身体を起こした。

「僕は、生きているのでしょうか?」

その半信半疑の質問に隆凱は答えない。

「十年、待て」

代わりにそんなことを言う。

「十年待てば、何だと言うのですか?」

「神咲が戻る」

ハッとして、隆凱を見つめる。

「本当、ですか?」

「ああ」

「それなら、何で、もっと早く」

「できなんだ。まだ、時ではないと星が示したのだ。伏見山可憐を助けるためには、其方の犠牲は免れん」

許せと、隆凱は頭を下げる。

頭の片隅で、ガンガンと誰かの叫び声が響いた。

「十年。それ以上は待てませんよ。僕の中にいる狐が暴れている。引き離された痛みに苦しんでいるのでしょう」

「では、やはり」

「ええ。この十五年、狐と一緒にいたから分かります。狐はようやく見つけたんだ。最愛の主人を・・・いや、妻をと言うべきか」

ならば、あれを狐と称するべきではないだろう。

他に相応しい呼び方は簡単に思いつかないが。

「あと、もう少しの辛抱じゃ。其方の忍耐力は歴代の伏見山の当主の中でも群を抜いておる。その体でも十年耐えられると信じておるぞ」

「やめて下さいよ」

半分死んだ人間には皮肉でしかない。やはり、この身は妖力で生かされているようだ。

「それより、美花さんには悪いことをしました。僕に神下ろしさせるために一生分の霊力を使い果たさせてしまった。その後、美花さんは?」

「倅の妻となった。今は巫女を引退して幸せに暮らしておるよ」

「そうですか」

十五年前、隆凱は僕に狐を憑依させるために、橘家の令嬢を連れて来た。

「過ちだったと思っていますか?」

「そう、じゃな。子供にさせることではなかったじゃろう。事情を話し、同意の上だったとはいえ、美花さんにも悪いことをした」

それでも、隅田の当主は僕の我儘を聞いてくれた。

違うな。

これは隆凱の我でもあったに違いない。

どうしてかは分からないが、この老人は極度に陰陽の交わりを嫌う。

「僕が完全に妖怪に飲み込まれた時はどうするお積りだったのですか?」

可憐に悪夢を見させてしまったが、実際に手を出さない自信はあった。もし、そうでなければそれこそ、二つの意味で禁忌に触れてしまう。

「殺しておったじゃろうな」

悪びれもせずそう言ってのけるのだから、恐れ入る。

「あの子達を嗾けたのって、実は貴方だったりして」

冗談っぽく呟いてみたが、半分は本気だった。


可憐の友達の玉無姉弟。

長兄の扇とは親しかったが、あの子達とはろくに話をすることもなく勝手に嫌われていた。

まだ中学生だというのに人を殺すことに躊躇いはなく、神器で体を貫かれた瞬間に初めてそれだけ憎まれていることを悟った。

だから、意識を手放す直前に話したのだ。

可憐を守るためにあえて狐憑きになったことを。

その事実を知って、可憐は絶叫した。

可憐を好きなんだとバレバレの男の子の方も、体を震わせその場にくず折れた。

だが、玉無の当主に似た風貌のあの子だけは、動じなかった。

「まさか。間に合わなかったことは謝る。星の光り方が急に変わったのだ。恐らくは奴が」

そこで言葉を切って、隆凱は提案した。

「信は置けぬが、其方を十年生かす術のある者がおる」

「貴方が匿ってくれるのでは?」

「無理じゃ。儂はじきに死ぬ」

どうしてかは聞かなかった。おおよその検討はついている。黒縫洋大の時と同じなのだろう。

「それで?その人物というのは?」

「奴は―――」

その者の素性を聞いても、何も驚きはしなかった。

一縷の望みを賭ける相手としてこれほどまでに相応しい者もいないだろうとさえ思ったほどだ。

「十年後、全てが糾されることを、祈っていますよ」

「ああ、そのための準備は儂が整えておく」

どう整えようと、 万全にはならないだろう。もうすぐ隆凱も死ぬというのだから、尚更に。

これは、賭けだ。

伏見山に起こった呪いの経緯を知っているのは、歴代の伏見山の当主と隅田の当主だけ。家督を継いで伏見山の秘密に初めて触れたのは十年近く前のことだ。

『狂い菊』と呼ばれる刀の柄に隠されていた古い文献にそれは記されていた。

それを読んだ時、今までにない体の痛みを感じた。僕の中にいる奴の魂が悲鳴を上げたのだろう。

咄嗟に力が漏れてその場で燃やしてしまったが、後々のために覚えている部分だけでも内容をどこかに書きとめておくべきだった。

隆凱は、前々から後世に伝えないと明言していた。だが、それが正しいのかは分からない。

だから、その判断は今を生きる者に託そうと決めたのだ。



小さな結界の中に可憐と二人。

赤く燃え盛る炎に囲まれて、僕は最期の力を振り絞った。

テン?それとも・・・―――誰の意思にも邪魔されていないことを祈りながら、自身の言葉を紡ぐ。

「兄さま?」

可憐はここで死ぬつもりだと察しはついていた。

「よく聞いてくれ。伏見山の当主だけに伝えられて、きた・・・呪いの全てを」

可憐は幼子のように首をブンブンと振る。

「そんなのどうでもいい。私が死ねば、全てが終わるのよ。伏見山は終わる」

「それでも、聞け」

中にいた妖狐が体から抜けていくのを感じる。二十五年間、この体に妖狐を留め続け、なおかつ自身の意思を何とか保って来たが、もう限界だろう。妖狐が可憐に再び憑こうとしている。夏を殺せなかったのだから、容易く意識を乗っ取られることはないだろうが、可憐の体に妖狐が入り込むこと自体が問題なのだ。もし、妖狐がその気になれば―――

おぞましい想像は止めにした。

隆凱の恐れていることは、まさしくそれだと薄々気づいている。

だから、手短に真実を話した。

それを可憐がどう受け取ったかは知らない。もう、意識を保っていられなくなったから。

「兄さま。私――――」


――――生きるわ。


まさに可憐の中へと滑り込もうとしていた妖狐の霊体を鋭い矢が貫いた。


水飛沫の向こう側にある神咲流の顔が視界に入る。

十年待った甲斐があったなと、独りごちて、僕は―――――



昔話をしよう。

豊臣秀吉が天下人だった頃の話じゃ。

秀吉には豪姫という養女がおった。元は前田利家の四女だったが、二歳で豊臣家に引き取られ大層大事に育てられたそうじゃ。

時は経ち、豪姫は宇喜多秀家に嫁ぎ子を成した。しかし出産後、病に臥せってしもうたそうな。豪姫は以前から病がちで、この期に占ってもらったところ狐に憑かれているということじゃった。秀吉は伏見大社に命を下した。

『豪姫から狐を退去せしめよ。万が一それがなされなかった時には、伏見社を破却し、国中の狐を狩る』とな。

伏見稲荷の宮司―――伏見山燈幻は困惑した。こうも高飛車に出るとは思っていなかったからじゃ。そう、占い師を使い狐憑きの噂を流させたのは何を隠そう燈幻自身じゃった。戦国の世となり、陰陽家の地位は下がる一方。権力者に恩を売り、再起を図ろうとした思惑は見事に消え去った。何のために女を懐柔してまで豪姫に毒を盛ったというのかと、燈幻は怒りで一週間眠れなかったそうな。

時に、その女とは、豪姫に仕えていた侍女の一人で、名は菊という。燈幻は大層な自信家だったそうじゃから、己が立てた計画の失敗が許せなかったのじゃろう。そのとばっちりは菊に向いた。菊を娶り、嫌がらせをする毎日が始まった。菊が拾いテンと名付けて可愛いがっていた小狐も祝言の日に目の前で殺した。

幸いなことに毒が抜け切ったらしい豪姫は日に日に回復し、稲荷大社のお取り潰しは免れたが、稲荷社の祈祷のおかげだと秀吉が褒美を寄越すこともなかった。それが一層腹立たしく、燈幻の苛立ちは増すばかりじゃった。

一方、菊にはいつぞやの狐の守護霊が憑いており、何をしても笑うだけ。嫌がらせもなんのその、狐に守られ楽しそうに暮らしておった。燈幻はその性分のせいか人にも好かれず、先代が死んでからは神の遣いである狐達も寄り付かなくなってしまっていた。

菊はよく笑う。人にも好かれ、慕われる。おまけに狐にまで。

僻みと羨望と嫉妬が、燈幻を支配していった。

そんなある日、子を成す気はなかったというのに、菊の腹にやや子ができたことが分かった。

自分の子ではない。

そのような妄想に取り憑かれ病んでいった燈幻は、ついに刀を手に取った。

赤子が生まれた、その夜のことじゃった。

刀が菊を貫く。

赤い雫が地面を濡らし、生気を失う体が横たわる。

菊は、死んだ。

燈幻は、途端に強い悲しみに襲われた。

殺してしまってから知ってしまったのじゃ。

いつの間にか、菊を愛していたことに。

生まれた子は、間違いなく燈幻の子じゃったろう。

しかし、その子を愛する気力はもはや燈幻には残ってはおらんかった。それどころか、生きる意志さえも・・・その時、燈幻の身体に狐の霊が取り憑いた。

取り憑いたというのには語弊があるかもしれん。誰かが、故意に入れたのじゃ。狐の霊と燈幻の魂を混じらせた。菊の子を守りたいという小狐の想いを利用して。

結果、その純粋な想いは燈幻の感情によって歪められてしまった。

陰陽の交わりは互いを、周りを不幸にする。

燈幻は、もはや人の形を保ったままの妖怪と成り果てた。

伏見山燈幻の血を引く者に妖狐が取り憑く。妖狐・・・狐の霊と融合した燈幻の怨念を指して、時の賀茂家当主はそう呼んだという。

行き場のない想いを余して彷徨うだけの悲しい呪いが自身の子孫を襲うことになったのじゃ。


これは、悲しくて、痛ましい、賀茂家に伝わる昔話。



「燈、幻・・・・これは一体」

手にしていた提灯を思わず落としてしまった。忽ち和紙が燃え、辺りを一層明るく照らし出す。

刀身に貫かれた燈幻の奥方の姿が否応無しに目に入り、固唾を飲んだ。

伏見稲荷大社の宮司就任祝いに、黒縫家の当主が手ずから打った渾身の一振り。

『狐刀稲荷』――――込められた思いは、伏見稲荷に仕える狐達の加護を得られるようにとのことだったが・・・。

皮肉なことに、燈幻は狐に見放された。

理由は簡単だ。

「残念。穂田留に似た美人さんだったのによ」

「誰だ・・・お前」

庭の松の木の影から先客が現れた。漆黒の着物をはだけされて、ゆらりとこちらを向く影は、燈幻と俺しか知らぬ懐かしい名を口にする。

穂田留―――かつて燈幻が無理やり手篭めにしようとした稲荷神の遣いだ。所詮は狐だというのに、人の姿で仕えていたものだから、燈幻を勘違いさせた。

決して燈幻が狐に本気になっていたわけではない。元服したばかりの男子が罹る病のようなものだったろう。

だが・・・一度の過ちを神は許さなかった。

稲荷神の怒りは凄まじく、狐達を神界へと引き戻した。神の御使いはそれ以後、現し世に現れたことはない。

そんな事情を知っているかのような口振りで、黒い着物の男は燈幻に詰め寄る。

「俺が誰かなんてどうだっていいさ。なあ、伏見山の当主さんよ。何で菊を殺したかねぇ。穂田留みたいに逃げちまうとでも思ったか?それとも本気で気づいてなかったのかよ。自分の気持ちに―――」

どさりと。

菊の体が地面に落ちた。

それを見下ろす燈幻の目は虚ろだ。

引き抜いた刀から滴り落ちる血が黒く鈍く光る。

提灯は燃え尽き、灯籠の明かりだけがぼんやりとその様を顕にさせていた。

この異変に家の者は気づかないのだろうか。

と、思うも、感覚を研ぎ澄ませれば、すぐに気づいた。

屋敷の中、周辺に自分達以外の人の気配が全くない。

歴代、伏見稲荷大社の宮司を兼任する伏見山家の屋敷が。

そんなことは有り得なかった。

「まさかっ!」

体が自然と動いた。

土足のまま家屋へと入り、次々と襖を開けていく。

蝋燭の明かりは皆消えていたが、夜目の利く自分には、その陰惨な光景を目にすることは可能だった。

血、血、血・・・

どの部屋にも血溜まりが出来ている。そしてそこら中に死体が転がっている現状。

使用人はおろか燈幻の母御、弟、妹達・・・肉親も全て、死んでいた。

背中に嫌な汗が流れていく。

じとっと湿ったこの感覚・・・今までに感じたどれよりも強く濃い陰の気に息が詰まりそうになる。

その時、突然、燈幻の悲鳴が聞こえ、慌てて中庭へと走った。

「燈幻!」

菊の遺体の横に蹲って、燈幻は恐らく泣いていた。

何かを抱いて。

そしてその何かを押し潰しそうな勢いで。

「女に狂った男の末路がこれだよ」

黒い着物の男がそう言いながら印を切る。途端に燈幻は吹き飛ばされ、懐にあったものがふわりと男の腕の中に収まった。

「お前、陰陽師か!?」

あまりにも衝撃的な光景を目の当たりにしたものだから、男を訝しむ余裕すらなかったが。

考えてみれば、怪し過ぎる。

燈幻の奥方が出産間近だと聞いて駆けつけた幼馴染の自分とは違い、この男は何の理由でここにいるというのか。

もしかすると燈幻の奇行は全て男がしたことかもしれない。

そんな思考を読み取ってか、男は高笑いする。

「俺は何もしてねぇよ」

抱いたそれを優しく揺すりながら。

「赤子、か・・・?」

男が燈幻から奪ったそれは、赤子だった。恐らくは、今夜産まれたばかりの燈幻と菊の子だろう。

「生きてるのか?」

「ああ。菊が最後まで胸に抱いて離さなかったからな。それに、こいつが守っていた」

男の視線の先には小狐の霊がいた。話には聞いている。燈幻の奥方には狐の守護霊が憑いていると。伏見稲荷の宮司の妻として相応しい限りだと周りからよく言われていた。だが、そう言われた時の、燈幻のにこやかな笑顔の奥には、明らかな憎悪が見て取れた。

陰陽の流れを読まなくても、いつか燈幻が、とんでもないことをしでかしてしまうのではないかと、本能が警鐘を鳴らしていたのは確かだ。

敵につけ込まれる要素を孕んだ燈幻を放っておいたのは間違いだった。

やはり、兄の言うように―――

「お前、何者だ?偶然居合わせたわけでもあるまい。まさか土御門の・・・」

「馬鹿言え。陰陽師が賀茂か土御門かで考えてる時点でお前の世間は狭めぇよ。まあ、そもそも俺は陰陽師じゃねぇがな。俺がここにいるのは必然だが、これは俺が仕向けたことじゃねえ。俺の用は・・・これからだ」

呪文を唱えた気配はなかった。

瞬きほどの時間で、全てが終わっていた。

「伏見山を存続させたけりゃ、この赤ん坊を守るしかねぇが、燈幻の怨念が子々孫々受け継がれていくことになるだろうよ。何たって、狐の霊が混ざっちまったんだ。黄泉還りって言葉、知ってるだろ?転生する時、大抵の霊は前世の記憶なんか綺麗さっぱり忘れてるもんだが、狐なんかの獣の類は人よりも遥かに記憶を保持しやすい。燈幻の意思は永久にこの血に取り憑く。そうだなぁ。・・・十年。大体、陰陽師の力が安定してくる年頃に、こいつぁ、子孫の身体に入り込む」

男が何を言っているのか理解するのに時間がかかった。

目の前の燈幻の頭からは獣の耳が、尾骨からは尻尾が生えており、まるで何時ぞやに出会した妖狐を思い起こさせた。

陰陽の流れが明らかに歪んでいる。しかもただの歪みではない。陰と陽の気が混じり合って、捻れたかのような。

狐の霊が生者である燈幻の中に入り込んだだけでなく、燈幻の魂と混じりあったというのは、嘘ではなさそうだ。

でも、

「どうやって・・・?」

この男は、そんな芸当をやってのけたというのか。

「お前、当主じゃねぇのか?」

男が首を傾げて頭を掻いた。

「そんなことを教える義理はない」

男は、俺の頑な態度に気を悪くした風もなく「ああ、まだだったのか!」と一人で納得して話を続ける。

「それで?どうするんだ?こんなことになっちまった伏見山を。正直俺も、燈幻の怨念に憑かれた人間がどうなるのか皆目見当がつかねぇ。とりあえず危険因子として排除するか?それとも・・・土御門に対抗する力の一つとして残すか?」

男の顔が不気味な笑みで歪む。

「さあ、どうする?賀茂の当主さんよ」

賀茂家の当主は父だ。例え父が死んだとしても上に兄がいる身では当主になることはないというのに、男は俺を当主と呼んだ。

「どうするかなど・・・」

決まっている。

「赤ん坊をこちらに渡せ。そして、去れ。燈幻は俺が何とかする。伏見山を滅亡させはしない」

男は喉の奥で笑いながら大人しくそれに従った。


燈幻は一週間後に目を覚ました。

その頃には獣の耳も尾もなくなっており、よほど意識を集中させなければ、狐の霊の気配を感じることができなくなっていた。

「まさか菊が狐に憑かれていたとは・・・ああ、おぞましい。あれは、守護霊ではなく悪しき妖狐だったのですね」

燈幻は、屋敷の惨状全てを菊のせいにした。本当にそう思っているのか、嘘を吐いているのかを確かめる勇気はなかった。

「燈幻、子供はどうする?」

赤ん坊はあの夜以降、賀茂家で預かっている。

しばらく逡巡していた燈幻だったが、「名は決めてあります」と呟いた。

「そうか!して、名は?」

子を育てる気があることにほっとし、意気揚々と尋ねる。

しかし、

「ほたる」

それを聞いた瞬間、俺の中で必死に取り繕っていた何かが切れた。

まだ、それを引きずるのかと。

かつて、穏やかで物静かだった二つ下の幼馴染が唯一激昂した出来事を否応無く思い起こさせる。

神も妖怪も、人と共にあることはできない。

どれほど心を通わそうと、同じ心を持つことはない。

そんなことは、陰陽師なら誰でも理解していると思っていた。

稲荷神を祀ってきた伏見山の性質上、人ならざる者との交流は避けられないと言えども、禁忌を犯そうとしたのは燈幻以外にはあるまい。恐らく、賀茂家の長が知れば燈幻の処刑は免れないだろう。だが、俺はその事実を隠した。知っていても報告しなかった。そして、今回の件も、誰にも言えなかった。既に、父と兄には狐憑きであった菊の仕業だと嘘の証言をしてしまっている。

しかし兄だけは、その証言に納得していないようではあったが・・・。やはり、燈幻と穂田留との件に勘付いていたであろう兄が言ったように、燈幻に術を施しておいた方が良かったのかもしれない。

「燈幻。お前とはこれっきりだ。もう、俺達は会わない方が良い・・・」

「どうしてですか?悪いのは、わたくしではありません」

「お前だ!お前の心の弱さが原因だろう!?妖怪如きに惑わされたのは!」

「由春」

燈幻は、静かに俺の名を呼んだ。昔のような優しい目元で。

「狐が悪いのです。わたくしを惑わす狐が悪いのですよ」

だが昔は、結果を他人に押し付けるようなことは決してしなかった。

歪んだ想いは誰に向いているのだろう。

穂田留?

稲荷神?

それとも、菊か?

あれ以来、燈幻は『狐刀稲荷』を『菊』と呼んで、毎日のように手入れをしている。

「燈幻、もう止めよう。お前を庇い立て出来るのもここまでだ。お前の子は俺が育てる」

「わたくしの子?違う。あれは、狐の子だ!菊が、不義を犯した!」

燈幻が激昂した姿を久しぶりに見た。これで、二回目だ。

ああ、つまり。

悟ってしまい、脱力した。

「お前・・・本気で菊のことを」

「その名は聞きたくない!」

これでは何を言っても無駄だろう。

何と、愚かしい。

幼馴染としてかけてやれる情は、もうなかった。



それから程なくして、秀吉による陰陽師狩りが始まった。

太閤秀吉の息子、秀頼に呪いをかけた疑いが土御門久脩にかけられたのが原因だ。

以前から土御門家が徳川と繋がっているのは聞き及んでいたが、秀吉の決断は早かった。

しかしそれでとばっちりを食らった陰陽師達は数しれない。

俺の父と兄も殺された。そして、伏見山家の当主である燈幻も・・・。

俺は、賀茂家の当主となった。

賀茂家で育てた燈幻の子が元服した際に伏見山は再興させた。十になっても、何もなくて心底安心したが、その子、孫、玄孫がどうなるかは分からない。

賀茂家当主だけが閲覧を許される書を読む限り、現実は絶望的だ。

これまで実際に行われた禁忌の数々・・・呪の方法。書を読んで、あの男がどのようにして狐の霊と燈幻の魂を融合させたのかも、ある程度察しがついた。

知りたくなかったことが、当主となった今、嫌でもその心に刻まれる。そして、その書に俺も秘密を一つ書き加えることになろうとは。

伏見山の呪いの全容を、賀茂家と、伏見山家に残しておくことにした。

燈幻の子は、顔も知らぬ自分の親に起こった真実を粛々と受け止め、己の母を切り裂いた刀の柄に書を納めた。

『狂い菊』

刀の名を改めたのは燈幻の子、真幻である。

確かに父は母を愛して自分が産まれたのだと、己に言い聞かせるために―――――



賀茂系陰陽家戒律をここに定める。


一、陰と陽の交わりを固く禁ず。


一、いかなる場合であろうとも禁呪を行うこと能わず。


一、人と妖は対等に非ず。一線を引いて身を弁えよ。


一、陰陽師たるもの情に流されるべからず。常に己を律せよ。


一、陰陽家の存続は全ての優先事項とす。


第四十二代目 賀茂家当主 賀茂由春



すっかり雨の止んだ空を見上げる。

晴れ間から光が差し、山の頂きを照らす。

ここは、伏見稲荷大社本山、稲荷山の頂上。

観光で賑わう霊験の地も、今の時間帯では人の気配はない。

「それで?妾をあの者から引き離せて満足か?」

光の中から声がする。

「妾がずっとあの者の中にいたからこそ死なずに済んだのだぞ?」

こうやって話をするのは初めてだが、随分と高飛車な物言いに辟易しそうになる。これが、あの誉れ高き神の遣いなのかと。

「あの子の中にお主がいなければ、あれほどまでに奴が躍起になることもなかったと思うが?」

「確かに!」

じっと光の筋を見つめながら言い返せば、甲高い声が響いた。

かっかと笑うそいつは何がおかしくて笑っているのだろう。稲荷神はこの事態をどう受け取っているのか。知らぬはずはないだろうに。

しかし、所詮は人であった儂には神の所在も御心も分かりはしない。

「良い機会じゃ、この際お主に聞きたいことがあるのじゃが」

「何だ?」

「燈幻が菊を殺すことになった引き金は何だったのじゃろうと思うてな」

実態は見えずとも光の中にいる狐の上機嫌さはなくなっていた。

気配自体は消えてはいないが、いくら待てども返事はない。

「まあ、いい。もう、主の元へ帰れ。ここは、お主がいるべき場所ではない。伏見山は、狐の加護などなくともやっていける。この数百年、そうしてきたのじゃ。お主の未練はここで断ち切っておけ」

そう言い捨てて、背中を向ける。

背後から、「簡単に言ってくれるわ」と小さな声が聞こえた。

振り返ってみたが、もう狐の気配はなかった。

祠に神がいるのかも分からないのだ。単に気配を消しただけかもしれない。もしくは、天界に帰ったか・・・。

「さて、儂はどこへ帰ろうか」

紙に宿る式神の身となりながら、まだこの世に在る。

この不思議な感覚は何とも形容し難い。

長く可憐を見守る猫として存在してきたが、一体これからはどうしろというのか。

「この先は教えてくれなんだな・・・」


隆凱よ。


 その子孫が住まうという東の地に目を向け、儂は永遠と続くかのように思われる赤の鳥居を潜りながら山を下りた。



*        *         *



一気に緊張感から解放され、久しぶりにぐっすりと寝れた。やっと目が覚めたのは日も高く登った頃だ。

「おはようございます。隆世様」

傍に控えていた式神の躑躅(つつじ)が優しい声で呼びかける。

「ああ、おはよう」

やや寝すぎたか。

隆世の平均睡眠時間は五時間ほどなので七時間も寝れば寝すぎに入る。

やらなければならないことは山積みだというのに・・・。だが、頭はかなりすっきりしていた。

「結局何もできなかったな・・・」

躑躅が微笑を讃えて朝食・・・否、昼食を持ってきた。

テレビをつければ突然明臣の顔が現れ、瞬間で消した。

「何で消すのさー」

いや、本当は、本人が不躾にも突然部屋に入ってきたものだから、消したのだった。

「お前の顔は見飽きた」

「とか言ってー。本当は僕に会いたかったんでしょー」

「何でお前なんかにっ」

「落ち込んでるんじゃないの?」

事も無げに確信を突く。正直、明臣のそういうところは苦手だ。

「隅田が京都の祭事に参加しない理由は分かった?」

「嫌でも今回のことで分からされたよ。あのババァに嵌められた俺が悪い」

玉無現当主が隅田を持ち上げるフリをして、その実、伏見山の件に手出しできないようにしたのは明白だ。何のためかは分かり兼ねるが。

しかし明臣はチッチと人差し指を左右に振って否定した。

癪に障る態度に隆世の眉が跳ねる。

「残念。君は本当に無知だねー」

「お前、喧嘩売りに来たのか?」

「まさか!」

大袈裟なリアクションは真実味を一気に薄れさせる。

少なからず何かを諭しに来たのは間違いない。

隆世は昼食に手をつけるのを止めて、明臣の言葉を待った。

「今回の件、たぶん玉無の当主は乗っかっただけだよ」

「それはつまり、他にこうなるように仕組んだ奴がいるってことか?そいつは誰だ?検討はついてるのか?」

矢継ぎ早に質問すると明臣は困った顔をして思案した。勝手に隆世のサンドイッチに手を伸ばし出したが、今、突っ込むのは止める。

「幾人もの思惑が絡んだ結果・・・としか言えないな。玉無、伏見山の兄妹以外にも、誰かの思惑はあったはずさ。全てを見通して動いた者も・・・きっと」

ごくりと、咀嚼していたサンドイッチを飲み込んだ明臣が隆世の目を見つめる。

「まずは、君のお爺様がどういうつもりで何も伝えていないのかを考えた方がいい」

その言葉にどう返すか一瞬迷った。しかし、結局は無難に答えておく。

「親父は引き継いでいただろ」

「いや、君のお父さんも引き継いではいないよ。何もね」

「引き継ぐ前に爺さんが死んだからじゃないのか?」

「隆凱さんが自分の死を悟れなかったとは考えにくい」

「その根拠は?」

明臣の視線が棚の上にある写真立てへと移った。

そこには隆世と流と百花。そして亡き両親と祖父が写っている。

最後の家族写真だ。歴代の隅田家当主の中でも屈指の実力者であった祖父が突然の死を迎える前日に撮った――――

この応酬に意味などないことは初めから分かっていた。

「僕の推測が正しければ隆凱さんは星読みができたはずだよ」

予想内の回答が、明臣の口から零れ落ちた。

案の定過ぎて肩の力が抜け、隆世もサンドイッチに手をつける。

「土御門には祖先からの伝書が山ほどあるんだ。二大陰陽家の一つである隅田にそれがないわけがないでしょ?なのに、僕が君の後継人になった時に隅田の蔵を調べさせてもらったけど、見事にもぬけの殻だった。隅田隆凱がわざと残さなかったのは明らかだよ。その意味を考える必要があるんじゃないのかい?伏見山雅を匿ったことといい、君のお爺様は謎が深過ぎるよ。でも・・・その流れに飲まれちゃだめだ」

食べかけのサンドイッチはそれ以上食べる気がしなくなり、自然と皿の上に戻していた。明臣の熱の籠った瞳が隆世を射抜いている。その正気を逸したかのような雰囲気の方に隆世は飲まれてしまっていた。

「お前・・・何でそんな必死なんだよ」

明臣が千里眼を通して読唇した会話の内容から察するに、祖父が次世代に伏見山のことを伝えなかったのは私情だ。伏見山兄妹を憐れみ、玉無姉弟を哀れみ、その悲しみを引き継がせることを良しとしなかった。最期に雅が可憐にだけ伝えたという言葉が忘れられない。それが事実なら・・・伏見山の呪いとは、何とおぞましい悲劇のもと生まれたのだろうかと。

だが――――

もっと別の意味を見い出せと、明臣は言っている。

隅田隆凱が隅田に伝わる書物を残さなかった理由。伝えなかった意味。気にはなるが、何故明臣がこれほどまでに必死になって訴えるのか隆世には分からなかった。

「必死にもなるでしょ。君達のことなんだから」

隆世とは対照的に、明臣の目はいつになく本気だった。

『君達』が、自分と誰を指すことなのか聞くのを躊躇われるほど・・・。

隆世と明臣の間を漂う陰陽の流れに異変はなかった。歪みが生じていないことに安堵しつつも、目には見えない焦燥が胸を締め付ける。

「だからね。何を言いたいかというと、君は他者以上に隅田を知らないってこと」

気づけばいつもの明臣に戻っていた。

さっきのは気のせいだったのか。

努めて落ち着いた声で隆世は言った。

「他者以上に?だったらお前が教えてくれよ」

そう。

いつもそうしてきた。

陰陽師として、陰陽家の当主として生きる術を隆世に叩き込んだのは明臣だ。

でも、

「自分で考えることも大事でしょ?もしかしたら、お爺様が言いたかったことは、そういうことなのかも」

明臣は笑顔ではぐらかした。

そして鞄の中から古びた箱を取り出し、昼食の盆の横に置いた。

「おい、何だよこれ」

眼鏡ケースぐらいの細長い木箱は、どれほど昔のものなのだろうか。ボロボロで書いてある文字も判読できない。

「隅田隆凱が残したものだよ」

「は?何も残してなかったんじゃないのか?」

「文字や言葉では、ね。ただ、これだけは残っていた・・・意図したものかどうかは分からないけど」

「で?何なんだよ、これは」

恐る恐るその木箱に触れてみる。

その瞬間、どっと血が沸騰するような感覚にすぐさま手を離した。

「な、んなんだ・・・!?」

「恐らくは、隅田にはあって土御門にはないものの正体さ」

「どういう意味だ?」

いつの日か明臣が言っていたことを思い出す。

隅田にはあって、土御門にはないもの――――土御門が隅田に嫉妬した唯一のもの――――

「それに関しては、意味を考える意味はないだろうね。隅田は自覚なしにその力を持っていた――――それが、土御門の見解だよ」

ますます迷宮入りしそうな明臣の言葉に、隆世は困惑した。

「ははは!そんな顔しないでよ!」

何がおかしくて明臣は笑っているのだろうか。隆世を安心させるためだと思わないと、陰陽の流れが歪みそうだ。

「君の個人的な願いは叶った。もちろん次は僕の悲願の達成の手助けをしてくれるよね?僕と君は一心同体だよ?隆凱さんの意志に邪魔はさせない・・・」

隅田と土御門の蟠りを消すこと――――

それが明臣の悲願だという。

そのために一体、明臣は何をする気なのか。

「お前―――」

「そういえば、誰かが、あの陰陽師の霊を封印していた木箱を盗んだみたいだね」

「それ、本当か?何のために?」

新たな問題の浮上で隆世の気はそっちの方に移った。無理やり明臣の問題から気持ちを逸らしたという方が近いが。

「分からない。でも、玉無邸に置いてあったんだよ?持ち出したのは、人間だろうね。それとも白鬼のような妖怪が他にもいるのか・・・」

そんな者がうじゃうじゃいては堪ったものじゃない。

「引き続き流に危害が及ばないか、星を見ててくれ」

明臣はクスクスと笑い、ドアノブに手を伸ばした。

「相変わらずのブラコンだねー。りょーかい。隅田当主の仰せのままに」

躑躅に命じてゆっくりと閉まるドアをパタンと閉めさせた。鬱陶しい顔が見えなくなって清々する。扉の向こう側からは今でも明臣の笑い声が聞こえるが。

「さて」

構わず、盆に乗る木箱を再び見つめる。

「爺さんは何をしたかったのかねぇ」

もしくは――――何をしようとしているのか。

死して何年も経つというのに、たまに祖父・隆凱の気配を感じる気がする。

この前、鎮魂祭に参加した時も―――――


明臣の言うように、その意味を考える時が来たようだ。



*        *         *



祖父の声が聞こえる。


小学校に上がり、本当の祖父じゃないことを理解し始めた頃のことだ。

暑い暑い夏の日。

兄が懸命に何かを作っている最中に、京都の祭りに連れて行ってくれと祖父に駄々をこねてみたことがある。

本当のところは祭りなど、どうでも良かった。ただ、我儘を聞いてほしかっただけだった。

自分は他所の子だという心細さ、疎外感。家族に受け入れられたい、甘えたいという欲求。そういったどうしようもない幼い感情だけが今でも強烈に残っている。

めったに怒鳴らない祖父の怒号に一瞬で体は縮こまり、気づけば暗い蔵の中で泣いていた。

蝉の声に紛れて祖父の声を聞いた気がする。

何と言っていたかは聞き取れなかったはず・・・なのに。

「無情じゃよ。人が狐に狂ったのか、狐が人に狂ったのか、人が人に狂ったのか・・・自業自得というには、犠牲は大きい。菊と奴にとっては、あまりにも・・・流、今のお前では無理だが、いつか果たしてほしいことがある。これまでの伏見山の因縁を全て断ち切ってくれとまでは言わん。ただ、同じ時代に生まれたあの子達だけでも、救ってやってほしいのじゃ。今の伏見山は外から見ても捻れておる。その流れを糺せる可能性は神咲の・・・いや、隅田流として、鎮魂祭に参加する時が来たならば、狐送りの水槍で黄泉へ帰してやってくれ。黄泉がどれほど陰惨で無慈悲な場所かは知らぬが、それでも未練だけでこの世にいるよりは幾分かは楽じゃろうから・・・。代々そうしてきた。奴が菊を諦めるように。何度も何度も黄泉へと帰して・・・隅田当主に伝えられてきた申し送り事項。伏見山の呪いの全容は儂が墓場まで持っていく。隆馬にも隆世にも語り聞かせはせん。陰と陽は決して交わらぬ。交わってはならぬ。奴の想いも狐の思いも届くことはない。この業をお前に背負わす祖父を許してくれ。・・・まあ、今は。幼いお前を伏見山のいざこざに巻き込みたくなくて必死じゃがな。しかし、時が来れば、自ずと巻き込まれるじゃろう。恐らくその時儂はもうこの世にはおらん。死んだ者の哀れな悲願を、お前に託す。お前ならば、きっと――――」

夢の中で、祖父は言った。

「自分が生まれてきた意味を、生きる意味を、探せ。儂の孫なら、『為せる』と信じているぞ」

憚りもせず、流のことを『孫』と言い切った隅田隆凱の想いに、いつしか流の目には涙が溢れていた。



「な―――!なが・・・流!」

突如として現実に引き戻され、蝉よりもけたたましい峻介の声が鼓膜を震わせた。

夏休みも終わりが近づいてきた八月二十五日。

夏休みの宿題を教えてほしいということで、峻介が再び玉無家に来ていた。

会うのは、伏見山の祭り以来だ。

怪我の方は大したことなく、もう包帯は取れている。傷跡もじきに消えるだろうということだった。

「おい、流。お前大丈夫か?お前、泣いて―――」

「あ、いや。ちょっと眠かっただけだよ」

 慌てて両目を擦り、平静を装う。

 どうして、あんな夢を見たのか。

 自分の願望か。

 それとも―――――

「あー、流もこの三角関数の問題お手上げなんやな?」

峻介は、高校指定で購入させられた馬鹿分厚い問題集を机の端に押しやって、「俺もお手上げや」と突っ伏した。

公式を当てはめるだけだというのに何がそんなに難しいのだろうと、頭の片隅で思ったが口には出さない。頭が回らなくて、計算する気力がないのは流も同じだ。

「で、宮根さんとはどうなったんだ?」

「な、な、何が!?」

明らかに動揺している峻介を横目に、流はシャーペンを回した。

「好きって・・・一体どういう気持ちなんだ」

それは問いではなく、独り言に近かった。それを赤面しながらも真面目に答えようとする峻介がおかしくて仕方ない。あーだこーだと語る峻介の顔は、幸せそうだった。恐らく、早紀とは上手くいっているのだろう。祭りの一件で距離がぐっと近づいたのかもしれない。

そんな幸福の中にいる峻介に聞くことではないかもしれないが、「もしもの話だけど」という前置きをして、問う。

「この世で宮根さんと一緒になれなかったら、あの世でぐらいは一緒になりたいと思うか?」

いよいよ本気で心配し出した峻介が流の額に手を当てようとした。

「別に熱はねぇよ」

「じゃあ、未成年で・・・」

「酔ってもねぇ」

「あ!流も恋の病に!」

「かかってねぇ」

峻介の煩わしいツッコミを逆に突っ込みつつ、シャーペンを置く。

「どうなんだよ」

峻介に向き直ると、その瞳の奥は昏く揺れていた。

「抉るねー。それを俺に聞くかっての」

峻介は苦笑して、目を逸らした。峻介の元カノは宮古学園の神隠し事件で、死んでいる。まだ何ヶ月も経っていない。そのことに思い当たって、流も目を伏せた。

「悪い・・・」

「いや、いいって。莉子を忘れたように、早紀とのことで浮かれてんだから、そっちの方がよっぽど不謹慎や。莉子のこと本真に好きやったんか!って、詰られてもおかしくない」

それでもと、峻介は続ける。

「あの世に幸せはないと思う。例えあの世があったとしても、例え来世があったとしても、俺は今、ここで生きてるんやから。この世でしか早紀との幸せは考えられへん」

ニカっと笑う峻介が羨ましい。一緒にいればそれだけで幸せだという前提を信じて疑わない者の強み。

だから、

「この世で一緒にいることが幸せに繋がらないとしたら?」

ちょっとした意地悪を言いたくなる。

峻介はポカンとした後、ヘラっと顔を歪めて答えた。

「幸せになれないなら、他の人を探すやろ」

考えてみれば当たり前のこと。峻介の答えは正しい。

「でも、」

峻介の言葉には続きがあった。

「早紀を忘れることはないやろな。俺の中で莉子が消えないんと一緒で。どうしても重ね合わせてしまう、思い出してしまう、求めてしまう。どこかのやんごとなき若君みたいにな」

恋焦がれた継母と瓜二つの紫の上を妻にした光源氏を指していることはすぐに察しがついた。それが世の理とでも言うような峻介の口振りに妙に納得させられてしまう。

「ありがとう。国語が得意なだけあるよな。あんたの読解力はそこそこ参考になるよ」

本心から言ったのだが、峻介はからかわれたのだと思ったらしい。もしくはそこそこが余計だったか。

「他の教科よりマシってだけで、国語も赤点やったから・・・もう、帰る」

気を悪くした峻介が勉強道具を片付け始めた。

その時、階下で扇の絶叫が聞こえた。

「お、お、お前ら―――!」

何だかいつかの時と同じようなシチュエーションに、胸騒ぎがする。

「行った方がいいんちゃうか?」

峻介の提案に素直に応じ、階段の下を覗き込んだ。

扇の他に楓と優衣、それに百花も玄関に集合している。

「何を驚いてるの?」

「兄貴、まさか俺らが死にに行ったとでも思ってたんか?」

そして、可憐と夏の姿もあった。

「いや、そこまでは思てへんけど、ここには戻って来んと思ってたから」

楓が二人をまじまじと見ながら答える。

「え?戻ってきたらあかんの?」

「そんなことないよ!な、扇お兄ちゃん」

扇に目配せする優衣の肩をポンと叩いて、「やんな!」と夏は明るく笑った。

夏の人物像が何だか崩れていく・・・。

「せやかて、お前ら・・・」

「お兄さん、しばらくここにお邪魔してもいいかしら?」

「お兄さん!?」

困惑した様子の扇に「ええ」とこれまた爽やかな笑顔で可憐が返す。

「私達、結婚したから。貴方は私のお兄さんでしょ?」

そうだった。

可憐と夏は一緒になることを決めたのだ。

それに対して今更反対するわけにもいかず、扇は乾いた声で「そうや、な」と笑う。

「新居が完成するまでの間や。無駄に広い敷地やねんから部屋は余ってるやろ」

そして、ずかずかと二人は入って来た。

「おう、神咲の」

流に気づいた夏が声をかける。

「お前の部屋、二階の北の間か?」

「はい、そうですけど」

「せやったら、隣の和室空いてるな。よっしゃ、そこにしよ」

「分かったわ、ダーリン!」

楓の制止も聞かず、階段を上がって来た二人に圧倒され、流は何も言えない。

何だ、この馬鹿新婚夫婦ぶりは。

「だ、だーりん・・・だーりん・・・」

扇はもはや再起不能だ。

「で、夏お兄ちゃん、新居ってどこなん?」

優衣の質問に、夏はカラッと答えた。

「伏見山」

「伏見山て・・・気は確かか?」

途端に真面目にモードに入った扇が諌める。

「俺、婿に行くことにしたから」

「はあ!?」

戸惑いを隠せない扇に、「お兄さん」と、可憐が切り出した。

瞬間扇の眉がピクッと動いた。その呼び方は逆効果だと思われる。

「私の代で終わろうとも、伏見山の名は捨てられません。私が生きている間は、伏見山の責務を全うします。だから・・・」

可憐が階段を降り、床に手をついた。

「夏さんを、私にください」

今まで黙って事の成り行きを見守っていた百花が「まあ」と両手で口を抑える。その目はキラキラと輝いていたが、果たしてこれは、ロマンチックなシチュエーションなのだろうか。

「俺がいい言うても、おかんが何て言うか・・・」

「あ、それは大丈夫です。もうオッケーもらってるんで。神社の再建費用もお母様からいただきました」

すくっと立ち上がって、可憐は口早に説明する。

「じゃ、お兄さんもオッケーということでいいですね?」

可憐は「いやー良かったー緊張したー」と言って、扇の右手を取ってブンブンと握手した。

扇はされるがまま、無表情で固まっている。

「ま、まあ、良かったんやない?」

楓が扇の背中を擦りながら、宥める。

「まさか、玉無と伏見山が親戚になるとはねー。ていうか、流君と百花ちゃんが結婚して、楓お姉ちゃんと隆世さんが結婚したら、みんな親戚じゃない?何かすごいことになったなーあ、じゃあ、私バイト行ってくるわ」

爆弾発言を残して優衣はさっさと家を出る。

「ゆ、優衣ー!」

楓の叫びは全然届いていない。

居た堪れなくなったのは、楓だけじゃないだろう。その場に揃っている流と百花はもっと恥ずかしい。何しろ、

「へ、へー。二人ってそんな感じなんやー。何かおめでたくて良かったなー。もしかして俺、お邪魔虫かなー。そろそろ帰ろっかなー」

片言で、峻介が読まなくていい空気を全力で読んで来た。

「いい!お前はまだここにいろ!」

「いやーだってさー・・・お前が言ってた、死んでも一緒にいたい相手って百花ちゃんなんやろ?」

(はあ?いつそんな話をした!?)

「俺のこと散々聞いといて、結局は自分のことやったパターンやねんやろ。分かってるって」

何も分かってない。甚だしい勘違いをしたまま峻介は鞄を持って、「お邪魔しましたー」と言って帰る。

「す、数学は!」

流の叫びは届かなかった。

可憐と夏はとっくに二階に上がり、和室の掃除を始めている。扇は、リビングでふて寝。楓は今頃自室で悶絶しているのだろう。残された流と百花に気まずい沈黙が流れていた。

「百花・・・」

「さっきの話、本当ですの?」

直球な質問だった。

「死んでも一緒にいたいって。本当に」

全くもって、そんな話を峻介としていたわけではないが、はぐらかしたところで百花は納得してくれないだろう。

「死んでも、また会いたい」

「え?」

「もし死後の世界や来世があるなら、何度だって、百花に会いたくなると思うよ」

瞬間、百花の顔が茹で蛸のように真っ赤になった。

見ているこっちまで赤面しそうだ。いや、恥ずかしいことを言ったのは自分自身か。

右手で口を覆い、「あ、いや」と、弁明しようとしたが、うまい言葉が見つからない。

「わ、私も!」

そうこうしているうちに、ぐっと百花が近づいてきて、流の手を取った。

「私も、同じですわ。どこにいたって、例え、生まれた時代が違ったって、私が隅田百花でなくても。きっと、貴方を見つけ出して、恋をしていたと思いますの!」

息が、止まるかと思った。

そんな真っ直ぐな気持ちを向けられては、ここで死んでしまいそうだ。

「百花・・・」

飲まれる。

じっと、見つめるもう一つの大きな瞳に気づかなければ確実に、飲まれていた。

「あ、あんた!」 

玄関には、百花とは違う好奇心旺盛で勝気そうな少女の目がじっとこちらを見据えていた。

「ごめん。邪魔だったよね」

「い、いや?」

「嘘。出直してくる」

後ろを向いた玉零の肩を掴んで引き止める。

「用があるんだろ。上がってけよ。百花だって、」

「百花ちゃんなら、私がいることに気づいた途端走って逃げてったわよ?」

すぐ隣にいたはずの百花がいない。

恥ずかしさに耐え切れなかったのだろう。

「出れる?」

家の中はいろんな意味で気まずいので、大人しく玉零の提案乗った。



カンカン照りの中、二人で熱されたアスファルトの上を歩く。上からも下からも熱されてグツグツに煮えそうだ。

「そういえば、玉無の五番目が泣きそうな顔で家を出てきたけど、何かあった?」

白いワンピースをふわりとさせて、玉零が聞いた。

思い当たる節が全くなく、訝しげに聞き返す。

「それ本当か?」

「ええ。私には、泣いているように見えたけど」

「ああ、じゃあ、嬉しかったんじゃないか?可憐さんと夏さんが家に来たんだ。伏見山に新居を建てる間、居候させてくれってな。二人とも、心底幸せそうだったよ」

「そう」

めでたい話のはずなのに、玉零の表情は暗い。日焼け知らずの 白い肌がわずかに黒く見えたぐらいに纏うオーラが重かった。

「一緒にいるだけで幸せなんてのはね、相応の代価を払ってるものよ」

「何で、水差すんだよ」

別に、これがハッピーエンドだったと思っているわけではないが、

玉零の言い様はあんまりだ。

「事実を言ってるだけよ。今、二人は本当に幸せなんだと思う。だから、その幸せの痛みに必死に耐えていることでしょう」

「どういう意味だ?幸せが痛いって」

「全く。男女の心の機微に疎いわねー」

「な、何だよ。急に」

「いい?二人には枷がある。雅を殺してしまったという罪悪感よ。それを気にするなと言うのは簡単だけど、本人達は納得しない。二人は幸せになってはいけないと思い込んでいる。それが、一緒にいるだけで幸せを感じていたら、どうなると思う?」

「どうなるんだ?」

「罪悪感の増長よ」

可愛い顔をして、恐ろしいことを言い出す。

「じゃあ、何か?罪悪感に耐え切れなくなった時、二人は死ぬとでも言うのかよ」

「それはないわ」

「じゃあ、」

「増幅した罪悪感を抱え続けて生きることの痛みは想像を絶するでしょうね。死んだ方がマシなのに、それさえ許されない。二人別々に生きるってのも手だけど、それはそれで地獄でしょう。テンの二の舞になるのがオチよ」

テン。菊に拾われた小狐。

「テンは、一体何がしたかったんだ?」

もしも、さっき見た夢が過去に起きた本当のことだったと仮説すれば――――祖父は、伏見山が呪われるに至った経緯を知っていたようだが、流はおろか実の息子や孫にも語らずこの世を去った。それを知る手がかりを持つのは、『狂い菊』に触れた玉零だけだ。

「帰りたかった。優しくしてくれた菊のところに。俗に言う守護霊ってやつよ。それが、どうして・・・」

玉零はそこで言葉を切った。

「何だよ」

言い澱みながらも、玉零は口を開く。

「あれは、テンの意思だけじゃない。菊の旦那の意思も混じっていた。伏見山燈幻よ。どちらかというと、彼の意思の方が強かったかもしれない。だけど、もう燈幻としての記憶は存在していなかったわ。完全に狐になっていた」

「何だって?」

「分かるのは、それだけよ。引き離されたのはテンの方か、燈幻の方か。死んでも会いたいなんて気持ちは身も魂も滅ぼしかねない。どう足掻いたって、叶えられないんだもの。絶望しかない。だから、あれほどに歪む。祝と呪は紙一重。幸せを掴もうとすればするほど呪いは助長する。二人が出会えたのは、その時代にその身で生まれたから。もしも一つでも違っていたら、そもそも出会うことなんてなかった。それを違う形でやり直そうなんて――――」

百花との先ほどにやり取りを詰っているのだろうか。それにしては玉零の言葉に熱がこもり過ぎているように思える。

「ご忠告は有り難いけど、さっきのは成り行きってやつで」

もしもなんてあり得ないのは重々承知。それぐらいに想っているという言葉の綾であって、それを見抜けぬ玉零ではないだろうに。

「もしもを願うのは・・・願うだけで罪なのよ」

暑い日差しが玉零を焦がす。焦がされているはずの肌は依然として白く、冷たそうだった。汗一つかいていないというのに、その頰を湿らしている。

「なん、で」

呆気にとられ、思わずその顔を両手で覆っていた。

「陰陽師・・・」

「何で、泣いてるんだよ。菊達のことか?可憐と夏のことか?それとも俺と百花のことか?」

どれも不幸な仕合わせでしかない。そのことに心を痛めている。それもあるだろう。だが、それだけではなさそうだった。

「あ、え?泣いてる?」

気づいていない。己が何にそこまで傷ついているかさえ、分かっていない。

「泣いてるよ・・・」

そっと零れかけた雫を掬い取ってやる。

「あれ?あははは。何でだろう。私、」

流の体を静かに引き離して玉零は笑うが、痛々しくして見ていられなかった。

肩までしかない髪が風でゆらゆらと揺れる。同じように瞳も濡れて揺れていた。

「あんた、何があったんだ?」

玉零という妖怪を、もっと知りたいと思った瞬間だった。

白鬼がどういうものかは、よく分かった。でも、玉零自身のことを、流は何一つとして知らない。妖狐の前であれほどまでに自信満々に挑んでおきながら、今では打って変わったように弱気でいる。

峻介の言った言葉を借りれば、先ほどの話は、他人のことを散々言っておいて、結局は自分のことだったパターンなんだろう。

「いろんなことが。貴方よりも長く生きてる分、背負う業も深い。前にちょっと話したでしょ?氷雨のこと。私は所詮偽善者よ。己のエゴでしか動けない弱虫」

「そう、か」

慰めの言葉も、否定の言葉も出てこなかった。

一高校生が何を言っても説得力はないだろうし、何を言ったところで玉零の気持ちを変えることはできない。

だが、

「戻ろう」

ほんの少しくらいなら、気持ちを晴らしてあげられるんじゃないかと思って。

「どこへ?」

「平安以前にだよ」

首を傾げる玉零の手を取る。

「白鬼と陰陽師が共闘していた時代に、戻ろう。俺達ならできる」

ぱっと。

玉零の表情が晴れた。

「大それたこと言うじゃない。千年よ。千年の時を遡ろうって?」

挑戦的な瞳で、玉零は流を見つめ返す。

「できる。あんたがあんたとして生まれ生きて、俺がこの時代に神咲流として生まれたからこそ、俺達は出会えたんだ。俺の生まれた意味、生きる意味、全部それに懸けてやるよ」

玉零が強く手を握り返してきた。

「上等よ」


たった、一人の少女を今ここで笑顔にしたくて、流は大見得を切った。


白鬼・玉零と出会ったこと。

七年前の氷雨との件、今回の伏見山の件だけではない。

きっと、玉零と一緒なら、もっと多くを救える。

これから、もっと――――


今まで、未来には漠然とした不安しかなかったというのに、どうだろう。

ワクワクして仕方ない。

何かとてつもなく大きなことを成し遂げられる気がして感情が高ぶる。

自分が生まれてきた意味を、生きる意味を。玉零が傍にいてくれるなら肯定できる、なんて。

他力本願もいいところで、自分の惨めさも感じなくはないけど。

それさえも、許してくれると知っているから。


流は思いつきで言った言葉を、本気で実行してやろう思うのだった。


ここまで読んで下さって、ありがとうございました!

次は、秋ですね!

玉零の兄が堂々と登場します!

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