プロローグ
『零れた氷』の続きです。
季節は夏になりました。
新たな登場人物も増え、いよいよ物語が動き出した感じです。
降り頻る雨の音に紛れて、懐かしい友の声が届いた。
「晴明・・・」
振り向くと、白い鬼が傘も持たずに佇んでいる。
「なぜ其方が、ここにいる」
白鬼――望月は幽霊でも見るかのような目で問いかけた。
「はて、誰のことを申しているのかは知らんが・・・人違いだ、白き鬼よ」
何食わぬ顔で通り過ぎようとすると、袖を掴まれる。
「間違えるはずがなかろう!其方は安倍晴明だ」
「安倍晴明?数百年前の稀代の陰陽師が、この俺だと?馬鹿馬鹿しい」
そう言って振り払おうとした袖はなお固く握りしめられていて解けない。
「くどいぞ、白鬼!」
思わず叫んだ自身の言葉に舌打ちする。
「やはり、其方か」
「違う」
「では他人の空似であると?」
久しぶりに見た、その真摯な目に思わずたじろぐ。この男相手に誤魔化しは効かない。
「他人の空似・・・ではないな。安倍晴明は俺の先祖だ。似ているのも致し方ない」
断じて嘘ではない。
安倍晴明の子孫であるということは。
「先祖?」
「そうだ。白鬼のことは安倍家の者なら皆知っている。妖怪殺しの妖怪。否、人を愛した神の子か。山城に都が移った後絶滅した白き鬼。平安の世では安倍晴明と共に戦った鬼がいたらしいが・・・お前のことではないか?」
納得したのかしていないのか。望月は真面目な顔を崩さず「いかにも」と応えた。
「安倍家伝来の書によると安倍晴明が世を去る少し前に京を去ったとあったが・・・お前は何故ここにいる?」
望月の最初の質問を返す。それは望月にしてみれば気に食わないことだったようで、随分と不服そうだった。
だが、素直に「娘が」と答えてしまうあたり、昔と何も変わってはいない。
「あの子は手に負えないくらいにお転婆で。よく家を抜け出してはあちらこちらで妖怪退治の真似事をするで困っておるのだ」
予想はしていたが、望月は白雪との間に子を儲けたようだった。
「それでお前が遥々京の山奥に探しに来たというわけか。そんなもの母親に任せておけば良いものを」
呆れたように言うと、望月は途端に表情を暗くした。
「妻は死んだ」
そう短く呟いて天を仰ぎ見る。
未だ降り続ける雨が容赦なく彼の顔を打った。
流れ落ちる雫は雨か、涙か。
「其方は白鬼のことをどれほど知っておる?」
「知らぬことはないほどに」
「なるほど。晴明らしい。白鬼の全てを後世に伝えたか」
確かにその通りだ。
だが、この時代にはその半分も伝わってはいない。
安倍晴明が死して三百年。白鬼の苦痛など何一つ誰一人知りはしない。
たった一人を除いて。
「人を恨んだか」
ぽつりと呟いた言葉に望月が頷く。
「自分のために人が人を殺した。そして、その者を責めて、許せぬままに都を出たものだから、彼女の命はその時既に数百となかった。しばらくは時の流れるままに二人で静かに暮らしていたが、後醍醐の帝が吉野に来る少し前のこと。私の子を産みたいと言ってな。そのようなことをすれば、絶対に助からぬと言うたが、聞かんで。そうして、彼女は死に娘が生まれた」
淡々と話すその様子からも分かる。
自分も妻と同じだと。
人を恨んで、命を縮めて、もう幾ばくとない生を生きている。
過保護になるのも仕方ない。
お転婆娘を残して死ぬのは忍びないことだろう。
「父上ー!!」
その時、遠くの方から泥を跳ねさせて走ってくる幼子の姿が見えた。
「玉露、どこにいたのだ!?探したであろうが。あれほど京には来てはならんと」
「しかし父上、玉露は京が好きでございます。桜も見事で」
「春にも来たのか!?」
「はい」
「悪びれもせず、よくも此奴は」
望月が拳を振り上げたので、慌てて止める。
「よせ、まだ子供だろう」
「言っておくが、年は其方より上ぞ?」
妖怪の実年齢は実に分かりにくい。
五つほどの容姿で年増とくる。
「まぁ、そうは言っても女だろうが。父親似だが、よく見れば鼻などは白雪のそれではないか?」
「父上、その者はだ、あふ」
望月が娘を抱き寄せ目と耳を塞ぐ。その怒りと嘆きに満ちた顔を見るまで自身の失態に気づかなかった。
「その名も安倍家伝来の書に記してあったか?」
「・・・」
「あったとして、鼻が似ているかどうかなど、実際に会うた者にしか分からぬはな」
「白鬼」
「開き直るな晴明。其方、いかにして、今も生きておる」
望月の胸元で苦しそうにもがく玉露を見つめながら、沈黙する。
「其方、禁忌を犯したか・・・」
ああ、きっと、これで望月の寿命がまた短くなった。
そんなことを考えて、何故自分がここにいるのかを考える。
答えは一つしかない。
「風邪を引く」
ただ、それだけを言い残し、びしょ濡れの親子の前に傘を置く。
そして即座に背を向き、歩き出した。
「約束しろ、晴明。もう二度と白鬼に関わるな。この先、何があろうと、娘には近づくでないぞ!何があってもだ!」
背中に届いた声が容赦なく突き刺さる。
何があってもだと?
その言葉が意味することに思い到り、失望した。
望月は己の死期を悟っている。
「この世に還る理由など」
雨に打たれながら呟いた言葉は掻き消えていく。
やっと死んでいけると思ったが。
未練が残らないわけはなく。
白鬼の未来を案じたと言えば、聞こえはいいが、要は望月に会いたい、ただそれだけの理由で還ってきた。
陰陽の神童と持て囃され、安倍家の宋家争いに乗り出し、陰陽家の再興に力を入れ始めたことなど、おまけでしかない。
なのに、今やおまけが主であるかのような毎日だ。
他家を牽制しつつ、権力者共の機嫌を窺い、戯れに祈祷をしてやっては安倍家のための資金繰りを行って、その片手間で妖怪を退治する。
安倍晴明がしてきたそれと何ら変わらぬ生活。
ただ、違うことがあるとすれば―――
気づくと、辺りは霧に包まれていた。
憂鬱な梅雨に漂う陰の気。
この山に入った当初の目的を思い出して、身構える。濡れて重くなった袖を振り上げ、印を結ぶと、それは現れた。
許されるなら、もう一度―――そんな想いを凪ぎ払って、呪文を唱う。
望月の沈んだ世に一人有りても無駄なこと。
次に迎える死を越えてまで還る世は、もはや無い。
無いと分かってはいても、有ってほしいと願うのは、
「いっそう、無駄なこと」
切った印に弾かれ妖怪が霧散する。陰の気が飛び散り、空に光が差した。
かつて共に糺した陰陽の流れを今はただ一人で。
それが悲しいことだとは思わない。
陰陽の流れ
「父上、雨が上がりました」
「そうだな」
「誰が糺したのでしょう。玉露はあの山にいる妖怪を見つけることはできませんでしたのに。悔しゅうございます」
父は静かに笑うと「其方はまだ幼いゆえ、仕方ない」と応えた。
その様子でもう怒っていないと分かり嬉しくなる。
「もしや、先ほど傘をくれた人間では?ああ、きっとそうでございましょう。だって雰囲気がただの人の子のものではなかったですもの。父上はあの者と知り合いなのですか?教えて下さいまし」
父が優しく微笑んだのが嬉しくて、我は早口で聞いた。すると父は顔を強張らせ、「玉露」と嗜めるように呼び掛けた。
「もう、二度と京に行ってはならぬぞ」
どうしてと問いかけて、思い留まる。父の唇が僅かに震えていたからだ。
「玉露、約束してくれ。この父がいなくなっても、京の陰陽師だけには関わるでない」
京の陰陽師に関わるな。
程無くして父は死に、それは父の遺言にもなった。
しかし我はその言い付けを破り、再び京へ上ることになる。
降りしきる雨の中、あの日の傘をさして対峙する。
京に来て其奴を探し出すことは容易であった。
稀代の陰陽師、安倍有世は齢十八にして大炊権頭となってからというもの、その出世は目覚ましく、今では吉志舞の奉行の職にあるという。京で有世の名を知らぬ者はいない。
陰陽の流れをたった一人で糺せるほどの力の持ち主など、この京には有世以外にはいないだろう。
だから、あの日会った人の子は安倍有世だ。
安倍晴明の再来と謳われる稀代の陰陽師。
「そうであろう?」と問いかけると、目の前の陰陽師は黙ったままだったが、これは肯定の意だと捉えておく。
「有世。我がここに来た理由がそちに分かるか?」
「家出だろう。また父君に殴られるぞ」
「違う。父上は先日亡くなられた」
そう言うと、僅かに有世の眉が動いた。
やはり、父と有世は知り合いだったようだ。
どういった間柄か気になるところだが、今は聞かないでおく。
「母上は我を産んですぐに死んだ。父上はもういない。だから、我は一人だ。どうしてくれる?」
我ながら随分と無体なことを言っていると思う。
駄々を捏ねる童のように見られても仕方がない。事実、人間から見れば我の容姿など幼子にしか映らぬ。
「どうしてくれると言われても、俺は一介の陰陽師だ。何もできん」
案の定、冷めた声で返された。
だが、
「あるであろう」
我ももう子供ではない。
「有世、我の夫となれ」
訝しげに我を見つめていた有世の目が大きく見開かれる。
「よって我はそちの妻ぞ」
にっこりと微笑んで、我は傘を畳んだ。
いつの間にか雨は止み、空から光が差している。
父との約束を破ってまで京に帰る理由など。
もう一度、会いたい。
ただ、それだけのこと。
孤高の陰陽師と孤高の白鬼。
もし、かつてのように人と鬼が共に有ることができれば。
それは喜ばしいことだと思わないか?
プロローグといいつつ、前回、エピローグがなかったんで、今回もエピローグはないかもです笑