002
本日、二話目の投稿。
今日中に、もう一本投稿予定です。
ふと、喉を潤すものを感じて、雅はぼんやりする意識を叱咤しながら必死で唇を開いた。
上手く動かない顎と喉をなんとか動かし、少しでも多くの水を飲み込もうとして失敗する。
「……っ、こほっ、ごほっ!」
「慌てなくても大丈夫よ。ちゃんと待ってるから、ゆっくりお飲みなさい?」
未だむせながら「ごめんなさい」と切れ切れに呟いた雅は、謝らなくてもいいのに、と笑う声に慌てて目を上げた。
(そういえば、さっきから女性の声……って、ちょっと、ええ?)
笑顔で首を傾げている女性の顔をまじまじと見つめ、雅はポカンと口を開く。
傍で揺れる灯は頼りないくらいなのに、照らされる淡褐色の肌とゆるくまとめられたクセのない金の髪は自ら光を纏うように艶やかだった。薄い色合いの瞳は暖かさに満ちながらも楽しそうに瞬きを繰り返す。
微笑みは優しげなのに、笑み綻ぶ唇やほっそりと伸びたうなじはどこか色気を滲ませて明らかに『大人』の気配を感じさせる。整った顔立ちから年齢は測れないがそんなものは些細なことと切って捨てられるだろう、とにかく掛け値なしの美女だった。
あの、こんな知り合い居ませんが。
(この美人、だれ?!)
「やだっ、美人だなんて嬉しいっ」
口にしたつもりのない思考がだだ漏れしたようだ。
失礼なことを口走ったかと思ったが、頬を押さえて本気で喜んでいるらしい満面の笑みに、雅はほっと肩の力を抜いた。
まだ飲む?と尋ねられて頷くと、女性は立ち上がってどこからか大きなクッションを抱えて戻る。廻された腕が戸惑うほど軽やかに上半身を支えてクッションがその下へ押し込まれた。
「意識がしっかりしてるんだったら、自分で飲めるほうがいいでしょ。ね?」
目を丸くしている間にきらきらしい笑顔で問われ、反射で頷く。それはその通りで頷いたことに問題はないが、なるほどこれが有無を言わせない笑顔か、と雅は失礼でない程度にわずかばかり視線をさまよわせた。
口元へ木のカップを宛がわれると改めて喉の渇きを自覚して、雅は与えられる水にすぐ夢中になった。
ほのかな甘さは多分何かの果汁を混ぜてあるのだろう。気付けば傾けられるカップに自分の手も添えており、飲み終わると思わずため息が漏れた。こんなに水をおいしいと思ったことはない。
ふと、そばで聞こえた小さな笑い声に我に返って頬を染める。
なんだか恥ずかしい。いい大人なのに、必死過ぎて見えなかっただろうか。あの、本当にすみません。
「おいしい?」
「はい、すごくおいしいです」
「もう少し飲む? 二日の間ずっと眠っていたんだから、喉が渇いてるのなんか当たり前よ?」
「二日も、ですか」
思わず目を丸くする。
そんなに経っているとは思わなかった。今更ながらに慌てて周囲を見回す。
横たえられた寝具は清潔で柔らかな肌触り。ベッドもシンプルだがしっかりとした作りのようで、身じろぎしても軋んだりしない。
部屋に窓はないが、空気に澱みはなく、よくも換気されているようだ。板張りの壁や天井もほこりやクモの巣は見受けられず、気配りの気配がいたるところで感じられた。
ベッドサイドの小机には大小の水差しと小さな桶が置かれ、その隣に――
「あ、それ私の……、……っ!」
見慣れたカラーリングのビニール袋はいつもの書店のもので、自分が抱えていた荷物を目にした雅の意識はようやく現実に引き戻された。
明らかに異常な事態に、何をやっているんだろう。
(知らない場所で、初対面の外国人美女に介抱されてぼんやりしている場合じゃないわよっ)
混乱しそうな思考を無理やり引っ張り戻して、雅はひとつひとつ確認していく。
場所:不明
日付:不明
自分の名前:鞘野雅、よし
性別と年齢:27歳女子、よし
(住所…も覚えてるし、会社名も、腹立つけど大丈夫。身体も重だるいけど痛みはそんなにないわね。
あとは――)
記憶を辿っていくしかない。
あの包みがあるということは、仕事をぶっちぎった後、いつもの書店で写真集を受け取ったところまでは間違いない。
予約の本を受け取ると駅まで歩いて……、そう、ホームで電車を待っていた。
(……あー。体当たりくらって、ホームから落ちたんだっけ?)
そう、確かそうだ。
狭いホームで騒いでいた学生の体当たりに、疲れと考えごとでぼんやりしていた身は抵抗なくはね飛ばされた。電車はまだ遠かった気もするけど、全身強打の痛みは間違いないから、落ちたのも確実だ。
けれど、問題はその後。
「ええと……、水場が近い?ところで、知らない男性に、助けられた……ような?」
「あら、疑問形なの?」
至近距離からの問いかけに、ぐるぐると記憶をかき集めていた雅の肩がビクッと跳ねた。必死すぎて付き添ってくれた人を忘れていたなど。
「びっくりした? ごめんなさいね」
「いえっ、勝手に一人で考え込んでいたので……!」
「でも、しっかりした目になってた。安心したわ」
ぼんやりさんも少しは抜けたみたい。
そう笑って顔を覗き込まれ、また頬が熱くなった。多少落ち着くまで黙っていてくれたのだろう、勝手に驚いて謝るのはこちらの方だ。
はい、と半ばまで水を注ぎなおしたカップを今度は差し出されて、雅は慎重に受け取る。
腕は重いが、この程度なら支えられないほどではない。ゆっくり持ち上げ、口当たりよく磨かれた縁へ唇を当てる。静かに傾けた中身はやはりほの甘く、沁み込むように喉を潤した。
中身を空けてようやく満足の吐息が漏れる。
「ありがとうございました、ごちそうさまでした」
「こんなものならまだ沢山あるから、いくらでも飲んで」
目を覚まして以降ずっと変わらない、こちらの動揺にも揺るぎもしない笑顔は雅をどこか安心させる。
カップを返し戸惑いながらも笑みを浮かべると、女性の笑顔が一際輝いた。
「やっぱり、女の子は笑顔が素敵よね!」
「……そ、そうですか?」
「男の子は可愛げが足りないから」
唐突な話題に面食らうが、不満げに眉を寄せ唇を曲げる姿には明らかな対象と明確な不満がにじみ出ており、雅はさりげなく視線を逸らした。
彼女から可愛げを求められる男子が不幸なのか、それとも水準以上のものを彼女が求めているのかはわからない。お世話になっている人ではあるが、ここはノーコメントを希望する。
「そうは思わない?」
「ええと……」
希望あえなく降りかかった追撃に、さあどうしようかと選択肢を選び始めたところへノックの音が割って入った。
雅は助かったとは言わず扉へちらりと目を向けたが、彼女は視線はそのまま意味ありげに唇を吊り上げたので言葉にしていない単語が通じてしまったのだろう。
…怖くはない、です。
怖くはないけど、ちょっとしたプレッシャーは感じます。
気持ち身構えた雅は、しかし、ぷにぷにと頬を頬を突かれ軽く引っ張られただけで「仕方ないわね」あっさりと出た放免の一言に息を吐いた。
「どうぞ、もう大丈夫よ」
彼女の許可を待って扉が開く。
息をついたばかりの雅を認識したか、顔を見せた男――青年が小さく眉を上げた。
「無事に目を覚ました…みたいで良かったが。メリア、君、何か無茶を言った?」
「そんなことしてないわ」
「なんだか、彼女がほっとしたような顔に見えたからな」
「トールはわたしのこと、信じてくれないの?」
「信じているけれど、君の親愛は時に踏み込みが大きいからね」
私はそこも好きだけれど。
こちらへ歩み寄る青年はそう言いながら屈み込んで、唇を軽く尖らせる美女のこめかみに軽く唇を寄せた。
(…………ええと、リア充ってやつですか。それとも新婚さん?)
突然展開される甘ったるい空気に遠い目の雅だが、美女は望む台詞を得て軽い接触でも満足したようだ。
今までとはベクトルの違う幸せそうな笑顔は、独り者にとって目の毒だった。
(いいえぇ、幸せそうで何よりですけどっ)
…………。
あれっ、そういえば今の会話で初めて名前を聞いた気がする?
「では改めて。わたしはメリアーシュ。メリアと呼んでね。こちらはわたしの旦那様」
「夫のアリストルだよ。私のことはトールと」
「トールさんと、メリアさんですね。私は鞘野雅…ええと、姓がショウノ、名前がミヤビです」
「不思議な響きの名前なのね。ミャ……?」
「ミアでいいですよ」
「…なかなか難しいね。ありがたくそう呼ばせてもらおう」
「素敵な響きだからちゃんと呼びたいのに」
ミヤビという発音はなかなかハードルが高いようだ。外国籍の友人からもその愛称だった。慣れているからそちらで呼ばれても反応できるだろう。
早々に諦めたトールに対して拗ねたように小さく唇を尖らせるメリアは、子供がわがままを言いながら甘えるような気配を滲ませていた。
(うーん、これって小悪魔的ってやつ? あーそれだ)
クッションにもたれたまま、美女はそれだけでおいしいなと雅はぼんやり考える。
ただしイケメンに限るという言葉があるが、ただし美女に限る、という言葉だっていくらでも適用例はあるのだ。
さて、と。
メリアの隣に座ったトールがこちらに向き直る。これがまた、メリアに負けず劣らずの美青年だった。
纏う雰囲気はどこまでも穏やかで、それでいて線の細さは感じられない。額にかかる濃色の前髪と物静かな瞳は明らかな知性を滲ませて、気負いなく伸びた背筋が凛とした佇まいを見せる。
これで眼鏡だったら、鉄板の知的美青年というやつです。
ただでさえ小悪魔大人系なメリアだけでも圧倒されそうなのに、美形がカップルで並ぶと圧力が半端ない。眼福ではあるが、是非明かりはそのまま弱めでお願い致したく。直視する自信がない。
少々現実逃避気味の雅は、トールの呼びかけに意識を引き戻した。
「身体の具合はどうだろうか」
「おかげさまで、痛みはほとんどなくなりました。ありがとうございます」
「特別なことはなにもしていないよ」
「それでも、お世話になったことに間違いないですから」
驚くほどに、本当に良い人たちなのだろう。
状況はまったく掴めていないが、ちゃんとした世話と介抱を受けたのは確かなのだ。感謝する以外ない。
「でも、まだ歩いたりは難しいでしょ?」
「……そうですね」
あまり後ろ向きな発言はしたくなかったが、否定するのも難しく曖昧な笑顔で頷いた。
二日意識がなかったのだから当たり前だろうが、正直、背のクッションがなければ座っているのもつらい。
言葉を濁した雅の様子を、トールは誤解した様子だ。
「もしかして、追い立てるように聞こえたかな。すまない」
「いいえ、とんでもないです」
慌てて首を振ると、くらりと目が回った。
眉間に手を当てる雅に、気遣わしげなメリアが傍らの手巾を差し出してくれる。ありがたく受け取り額と首筋にあてる。硬く絞られた手巾がひんやりと気持ち良い。
顎に指を当てて黙りこんでいたトールは、こちらが落ち着くのを待ってから、こう切り出した。
「…色々、お互いに尋ねたいことや話たいことがありそうだ。
休み休みで良いから、現状について許せる範囲で話をしないか」
当然ながら、否やはない。
一も二もなく頷いた雅に二人も頷き返すと、まずは雅からとなった。
どこからどこまで話したものかと考えながら、状況を説明していく。
仕事を終えての帰り、とある事故にあいホームから落ちたこと。それから――
「ホーム?」
「はい、駅のホームです」
「…………ああ、話の腰を折ってすまない」
いぶかしげなトールに首を傾げるが、謝罪と共に続きを促され雅は頷いた。
落ちて後、気が付いたら知らない場所だったこと。水場が近くなのは間違いないだろうが、それ以外はわからないこと。
痛みが酷くて動けないところを知らない男性に助けられ、再び意識を失ったこと。
「それで、目を覚ましたらメリアさんがいて……」
「それがさっき、ということね?」
「はい」
頷けば、メリアからまたカップを手渡された。それほど長く話をしていたわけではないが、わずかな疲れと喉の渇きを感じる。
ありがたく一口含むと、トールが軽く眉を寄せて短く唸った。
「…ミア、ひとついいかな?」
「はい」
「君は、ローシェンナという単語に聞き覚えはある? あとは、フロスティとか、カーマインとか」
……ローシェンナ?
たしか、それは色の名前だったような気がする。もちろんカーマインも。
「本当にそれだけ?」
「……はい?」
どういうことだろう。
「まず初めに」
「はい」
「私たちは、君が当たり前に口にした『えきのホーム』というものを知らない。他にもわからない言葉がいくつかあった」
「…………」
「そして、君もどうやらローシェンナ大陸のことを知らないらしい」
えっ、大陸というとユーラシア大陸とかアメリカ大陸とか……。
違うんですか?
呆然とした雅は、上ずった声でトールに問うた。
「あの…、もしかして、さっきのカーマインというのも……?」
「そう、フロスティもカーマインも大陸のことだよ」
「ドッキリとか、そういうのじゃないですよね?」
「…そのドッキリというものが何かは知らないが、この地図を見せれば少しは納得するかな?」
困ったような微笑みで差し出されたものを受け取る。軽く巻きの入った紙を開いてそこに目を落とし、雅は呻いてクッションへ沈み込む。
そこに丁寧な筆跡で綴られた文面と地図は――確かにどこの国の文字でもなく、記憶にある世界地図とも全く異なっていた。
手の込んだイタズラというにはあまりにも内容が緻密で、指に伝わる感覚はどこまでもリアルだった。
(ああ、異世界トリップってやつね…、…………なんてこった!!)