001
なろう初投稿です。よろしくお願いします。
流れが落ち着くまでは、連日投稿の予定です。
――雅はプリンターが吐き出した用紙を取り上げて、内容にざっと目を通した。
印刷した見積書が入力内容と間違いないことを確認すると、営業主任の不在を確認する。幸いにして席は空だった。
(よし、今ならいける)
上役の机に積んであった書類へ清書を更に上積みして、雅は後ろ手に隠していた鞄を抱えると素早くタイムカードを押した。入り口付近で鳴る電子音に、フロアの数箇所からあっという顔が上がるが知ったことではない。
「ちょっ、鞘野さん!」
「お先に失礼しますお疲れ様でしたっ」
呼び止めようとする幾つもの気配へノンブレスで退出の挨拶を放り投げ、雅は脱兎のごとくビルの階段へ駆け込んだ。
エレベーターを待っている間に捕まりたくはないし、主任と鉢合わせするのも勘弁だ。
走る間に始まる頭痛は無視して七階分の階段をパンプスで駆け下り、息を切らしながら2ブロック向こうのテナントビルへ飛び込む。腕時計に目を落とすと、顔を引きつらせた。
(あと五分っ?!)
動く気配のないエレベーターの階数表示に見切りをつけ、雅は再び階段に駆け込む。束ねた髪が汗を吸って背に重い。いつになく心肺を酷使しながら四階へ駆け上りフロア奥の自動ドアへ急ぐ。
店内に一歩入ったところでBGMが蛍の光に切り替わる。汗だくの雅が目的のカウンター前でへたり込めば、馴染みの店員がレジ前で笑っていた。
「鞘野さん、今日もぎりぎりセーフ」
「………」
「取り寄せと予約分ですよね。届いてますよー」
ぜーはー呼吸に忙しい雅は頷くことしかできない。覚えていられないほど繰り返されたやりとりに慣れた店員は棚から大判の書籍を選び出し、雅の反応を待たずにレジを通す。
立ち上がりもせず鞄を開き、まだ整わない息のまま引換票を差し出た。
思い切り手を突き出せば、店員もいつものことだからカウンター下へ手を伸ばして不安定に泳ぐ紙片を詰まんで引っ張る。注文者と題名だけを確認して、包装が終わる頃にようやく雅が立ち上がった。
「今日は結構重いけど、足元大丈夫ですか?」
「……うん、大丈夫。ありがと」
ふらつきながら立ち上がり、札を何枚かカウンターへ乗せる。
流れるように会計が進み、返ってきた釣り銭は上着のポケットへ落とし込んだ。もう一度財布を出すのも億劫だ。
ありがとうございました、と笑顔で差し出された手提げ袋を受け取る。写真集などの大判書籍が多いから結構な重さだが、残業を振り切るほど楽しみにしていた本はどれだけ重かろうと気合で持ち帰る。分割などありえない。
が、警告が出るくらい本当にかなりの重さで、何気なく提げようとした袋の重みにつられて重心が傾いだ。
二歩ふらついた雅にカウンターの中で気遣う気配がして、ごまかすように曖昧な笑みを浮かべる。
「あー。ええと、疲れはごまかせない感じ? 全力疾走したし」
(こ、これはただの疲れと運動不足っ)
決して歳のせいじゃないから!
言い訳の間に持ち手のビニールが千切れそうになり、慌てて両手で包みを抱えなおす。「来月分の予約はまたね」と小さく頭を下げると、雅は閉店作業が始まった書店からそそくさと出て行った。
帰りのエレベーターも回避した雅は、しっかり根を張った頭痛をもてあましながら駅のホームでベンチへ座り込んでいた。
なんとなく嫌な予感がしたので下りも階段を使ったのだが、
(主任がおっかない顔でエレベーター待ちしてたよぉぉぉぉ)
既に退勤したはずの社員を他の敷地で待ち伏せって、どういうことだ。しかもイライラと舌打ちするあれは絶対連れ戻すモードだった。
重い非常ドアをそっと開いた先の光景に絶句して、思わず扉を閉めた自分は悪くない。
そもそも、自分は営業部ではなく総務部なので営業関連の仕事が回ってくることそのものがおかしい。臨時の応援で見積書の清書を手伝った折、苦労しながらも手書き文字を解読したのがまずかったらしい。
それ以降、本来の業務とは関係のない内容で残業が続いている。しかも通常業務に上積みされてだ。終電には間に合う程度で開放されているがそれでもこの状況はおかしくないか。
(……貧乏くじにもほどがあるってば)
さっきだって、諦めた上司が立ち去るまでその場を動けず、更に余分な時間と体力を費やした。
大きな包みをぎゅっと抱きしめ、重くため息をつく。
本当は、べつに他の社員ができない仕事ではない。
ただ、悪筆で機械オンチで、思いつきと気分で変わる修正の多さと部下への傲慢な態度で、誰も補助に入りたがらないというだけで。
(知ってたら、あの時つき返したのになぁ)
応援を求められ、なんか大変そうだなと思って手伝った結果が、いい生贄認定だった。
合コンで定時退社する女子社員を横目に残業三昧。平日はほとんど寝に帰るだけ、下手をすれば土日も簡単に呼び出される。
正直なところ合コンはどうでもいい。むしろ、どちらかというと出来ればあまり係わり合いになりたくない世界なので、声をかけられないのはありがたい。
しかし、だ。
自分は働くためだけに生きてるんじゃない。生活とささやかな自分の楽しみのために働いているつもりなのだ。手当てだけはしっかり付くが、自分の時間もなしの労働では本末転倒に過ぎる。私の安らぎはどこへ行った。そんな毎日がもう1年以上は続いている。
総務の上司へ何度か訴えはしたものの曖昧に濁されたままで、雅はこれ以上の改善は無理だろうと半ば諦めている。諦めには慣れているがそれでも疲労の蓄積というダメージは負うのだ。
今日はまだマシだが頭痛も慢性化して久しい。昼休みに薬を求めて病院へ行けば過労とストレスが原因と言われた。そうだろうとも。
飲み会帰りか、ホームで騒ぐ学生の声が頭に響いて顔をしかめた雅は、夕食も食べていないことを思い出してまたため息をついた。
今日もコンビニで買い物か。仕事以外に話す相手が書店とコンビニの店員くらいってどうなんだ。
(ご飯食べて……写真集、ちょっとは見る時間あるよね?)
腕の中の包みを抱えなおした雅は、到着予告のアナウンスに立ち上がりながらふと空を仰いだ。
webの予告ページに掲載されていた写真とはかけ離れた、鈍い色の夜空。憧れの鮮烈な空色とは似ても似つかない。
広がりかけた雲がビル街の灯を余計に拡散させて、この街は月すらも輪郭が曖昧だ。
(せっかく大きな月なのに……)
もったいないなぁ、と呟いた雅の意識は完全に月へ向けられていて、
「――えっ?」
酔っ払った学生たちの悪ふざけに気付けなかった。
危ないという声に反射で振り向いた雅の視界を、大柄な影が覆う。
ドンッと背からぶつかってきたのは体格の良い男性で、その勢いに押された身体が完全に重心を崩す。
疲れた足はもつれて力を失い、重りを抱えた身体が投げ出された先は線路の上。
若い女性の金切り声と、金属が擦れ合う耳障りな音がみるみる迫るのを聞きながら、視線は空に向けられたまま――わずかに瞳を見開く。
「……きれい」
仰向けに叩きつけられ息が詰まるほどの痛みに遠くなる意識は、それをただ美しいものとだけ記憶する。
視界いっぱいに広がった大きな月は、柔らかなラベンダー色に染まっていた――。
*****
――背中が冷たい。
雅が感じたのは、それが最初だった。
次に、全身の痛みに意識を持っていかれて、つい呻いたら呼吸だけで余計に大きな痛みに襲われた。
しばらく呼吸を止めて、少しはマシになった頃に細く息を継ぐ。
ざぁざぁ大きな水音と甲高い耳鳴りが混じって、短く呻いたはずの声がかき消される。
冷たい空気に晒された喉はカラカラで、雅は喉が渇き過ぎると呼吸すら痛いのだと知った。
(そこに水があるのに、飲めないなんて理不尽だなぁ)
我ながら暢気なことを考える、と雅の口元がわずかに歪む。
痛みが行き過ぎると色々なものが麻痺するのだとは、二つ目の発見だが、そういうことは知らなくても人生困らなかった。
呼吸すらままならない全身は重だるく、指一本動かすのも重労働だ。
それでも、腹の上には覚えのある結構な重みがまだあって、あの包みをどれだけ大事に抱えていたのかとおかしくなる。まぶたを開けるのも億劫だが、抱え込んだものを指先だけがそろりと撫でて、かさつく感触に麻痺していた現実感がほんの少しだけ戻ってきた。
(喉、かわいた)
「…み、ず……」
唇が震えて掠れた音がこぼれる。
そういえば――何が起きたのだろう。ここは……?
痛みにぼんやりしていた思考がゆっくり形をとり始めるが、まだ考え事は難しい。
ただ、水音が聞こえる現状に疑問を抱きかけたところで、ジャリッという硬いものを踏む足音と、
「――ッ、―――?」
控えめながら驚きに染まる声がその思考を中断させた。
急ぐ足音は確実にこちらへ近付き、まもなく耳元でそれが鳴った。淡い光をさえぎる影が落ちて、雅は何者かに覗き込まれているのを感じる。
得体の知れない不安が体を反射的に逃げようとさせるが、思いばかりが急いて指先ひとつ動かすことも出来ない。声も上手く聞き取れない。日本語ではないような気がしたが、そんなまさか!
気力をかき集め気配を探り意識を張り巡らせる。知りたい。何が起きているの?
――――!
(……いまの、なに?)
「息は、あるな。しっかりしろ、聞こえるか?」
必死にあがく意識の一部がパチンと弾けてクリアになった。膨らんだガムが割れる程度の衝撃は大きくないが、あまりに唐突なその感覚に驚いているうちに傍の気配が動く。
先と同じ声がこちらを窺い何か暖かいものが口元に触れ、頬に触れた。わずかにかさついたそれは手のひらのようで、どこか丁寧な触れ方に雅は緊張に詰めていた息を少しだけ緩めた。
が、その指先がわずかに強張り驚いたように引いていく。戸惑いの気配が広がる。
(……?)
「これはどうして、――っ、ああ、そういうことか」
(だから、なに……?)
わけがわからないのも、困っているのもこっちだ。
腹立たしさに痛みをこらえながら重いまぶたをわずかながらこじ開け、傍の気配を確認しようとしたが大きな手のひらが邪魔をする。
雅はそれを退けようと強引に首を振ろうとしたが、無理な動きがたたって全身に鋭い痛みが走り、悲鳴の代わりにひっと喉が引きつる。耐え切れず滲んだ涙に慌てたかパッと離れた手のひらは一呼吸の後、額に張り付いた髪を払い頬を覆った。
「ごめん、落ち着いて。
俺は何も…いや、きみに不利益なことは何もしない。ね?」
意図的にだろう、ゆるやかに速度を落とした響きが混乱する雅に多少の余裕を与えた。
過ぎるほど唐突にねじ込まれた不安と痛みを抱える今、こちらを気遣う気配はそれだけでその対象を受け入れ易くさせる。
すがりたくなる自分をこらえながら、雅は一部の明快な意識を逃さず少しでも情報を得ようと必死で耳をそばだてた。
薄く開いて短い呼吸をせわしなく繰り返す唇へ、わずかばかりの液体が落とされたのはその時だった。
切望していた水の気配に、本能はたやすく理性の警戒を振り切る。雅の舌はためらうことなく正体の知れないそれを得ようと懸命に伸びた。濡らす程度のそれをなめとると、呼び水のように喉の渇きが増す。
かすかに感じたのはそれが水ではないということだけだったが、そんなことは瑣末事だった。わずか与えられたものを欲して、雅は自覚ないまま添えられた手のひらへと擦り寄る。頬に触れた指が宥めるように目元を撫でて、再び雫が与えられた。
同じことを二回三回と繰り返された後、雅の全身を不思議な熱が巡って今までの痛みが耐えられないほどではなくなる。不思議と渇きまでもが宥められた気がする。
切羽詰った呼吸が雅ですら自覚できるほど穏やかになったのを相手も気付いたのだろう、
「これでもう、大丈夫」
見知らぬ声の柔らかさと暖かさに、雅はなぜか心のどこかが緩むのを感じた。
(ああ、もうだいじょうぶなんだ……)
相手が誰かもわからない――冷静に考えれば、安心するには早い状況だったのに、雅は完全ではないものの痛みからの解放と触れてくる温もりにすっかり心を許していた。
聞こえる?と、もう一度繰り返され、目を閉じたままゆっくりとだが小さく頷く。
まだ声は出ないまでも反応を返したことで、相手は明らかに安堵の息を吐いたようだ。
「とにかく、どこか安全な場所へ」
突然ふわりと浮き上がる感覚に、慌ててぎゅっと包みを抱える手に力をこめる。力の入らない腕が必死に見えたのか、耳元にかすかな笑い声と柔らかな囁きが落ちた。
痛みと混乱が引いて、雅は今ようやく相手の穏やかなテノールを心地よいと感じていた。
「心配いらない。きみの物も全部、ちゃんと一緒に持っていくよ。
ここには残せないし……簡単には取りにも戻れないだろうからねえ」
最後の呟きはよく聞き取れなかったけれど、あまりにも優しい声に雅はとっくに淡い意識を引き止めて薄くまぶたを開く。
(どんなひと……?)
いずことも知れない闇の中、明かりを背に覗き込む相手の顔はよくわからなかったけど、纏う雰囲気は触れ方と同じくどこまでも穏やかで雅はようやく安心して眠りへと落ちた。
最後、ゆっくり立ち上がったその人の肩越しに見えたのは、降るような星空とそれすら圧倒するような大きさの、紫の月だった。




