09.
彼女の両親である事を確認した俺は、一度腰掛けた椅子から立ち上がり二人に頭を下げて彼女と付き合ってる者だと告げた。父親の方は身体を固めて、母親の方は口に手を宛がい目を丸くし俺を見上げている。
手短に、虎を探していた所、彼女が偶然此処で見つけ知らせてくれた事を話し、流れで虎の方も彼等に挨拶をしていた。
父親は突然の事に終始黙っていたので、母親の方が笑顔を見せ俺達に対応してくれた。
「貴方が会社の人なのねー。まぁーこんな素敵な人とお付き合いしてるのねー果歩ったらー」
「関西の人なのねーへー転勤でー」
「何時頃からお付き合いしてるのー?」
俺は出来るかぎり丁寧に真摯に彼女との事を話した。彼女不在のこの献血センターで。
虎もいわゆる人好きのする顔で、彼女の母親に話し掛けこの場を和ませている。問答が終わり、彼女の母親がふっと息を吐いた。
「…苦労するでしょ、あの子」
と困った様に笑い、俺に問い掛けた。彼女に”苦労” 等感じた事の無い俺は間抜けな顔をしたに違いない。目の前に座る彼女がにっこりと笑って言葉を続けた。
「あの子、甘える事を知らないから」
その言葉を反芻して、俺は「…あー」と数回頷いて声を洩らす。短い付き合いの中ではあるが、確かに彼女は俺に苦労を掛ける事もなければ甘えた事も無かった。どちらかと言えば、俺の方が彼女に甘えてる筈だ。勿論全部が全部と言うつもりはない。許容される範囲、果歩は何処までなら俺を受け入れてくれるだろうか、其処は見極めてやっている。彼女が頬を少し膨らませたり、「もうっ」と怒った振りをするのを見るのを俺は嬉しく思っていた。
「確かに甘えられた事は無いですね」
「そうでしょう? 果歩はね、一人っ子で私達は共働きで、甘える事を知らずに大きくなっちゃったの。あの子が小さい頃は手が掛からなくて助かるわなんて思ってたけど、今となってみれば悪い事したなって思ってるのよ、ね、あなた?」
「…あぁ」
「あの子が前の会社を辞めた理由聞いてる?」
「体調を崩してて聞いてます」
「そう。そうなの、私達はねあの頃、あの子が顔色が悪いなとは思ってたの。でもね、もう社会人だしSEって職種が殺人的忙しさってのは聞いてたから、仕事が落ち着けば大丈夫なのかなって。だけど大丈夫じゃなかったのよね。親に愚痴一つも言わず全部自分で抱えて、結局の所あの子は自滅したのね」
「…」
「”会社を辞めた” って言ってきたあの時のあの子の顔は忘れられない。目に見えて痩せて、瞳に色は無くてまるで…この世の終わりだとでも言う顔をしてた。あの時あの子は希望と自分を見失っていたのね」
そんな彼女を想像するのは難しい事だった。
彼女は真関と別れた事を簡潔に話したけれど、会社を辞めるに至った起因は真関との別れにあるのかもしれないと俺はその時、思った。ボロボロになるその時迄、誰にも頼らず彼女一人で胸に抱えていたのだろう。
「やだ、私ったらこんな重い話。付き合いたての彼に話したりして、果歩に怒られちゃうかな」
「いえ…聞かせてもろて感謝します。彼女の事を少しでも知りたいんです」
「…そう言ってくれると心強い。貴方があの子の甘えられる場所であると良いわ」
甘えられる場所。
あぁ其れは良い。彼女の心の拠り所が俺だとしたらどんなに良いだろう。
「…未だ付き合いは浅いんですけど、俺は…彼女にとって俺がそういう存在になれればええなと思います」
俺がそう言うと、彼女の母親は彼女と似た笑みを浮かべて一つ大きく頷いた。
俺達の会話に殆ど口を挟む事の無かった彼女の父親が別れ際
「今度は家にご飯でも食べに来て下さい」
と俺の目を見て声を掛けてくれた。俺は「是非」と頭を下げた。
「気に入られたんちゃう?」
彼等と別れた後、俺は会社へと向かう為に電車に乗り込み、虎と横並びに座った。
「…第一段階はな…はぁー…めっちゃ緊張した。何やねんほんま。お前は」
「いやいや俺のせいとちゃうやろ」
「いやお前が会社を辞めたからこない流れになっとんのやろ」
「…其れもそうかぁ」
思わぬ形で初対面をする事になったけれど、彼女の両親に会えた事はとても有意義な事だった。彼女の情報を得た事だけではない、『和田幸成』と言う人物が彼女の傍に在るのだと言う事を両親に知って貰えた事も良かったと思う。
「…何か当てはあるん?」
俺は少しだけ虎の方を見る。虎の方はと言うと、前方を見たまま「ない」と答えた。想像通りの答えに俺は嘆息を漏らした。
「何で辞めてん」
「クソ上司が自分のミスを俺のせいにしよった」
「…其れちゃんと釈明したん?」
「するか」
俺は又深い息を吐いた。
虎は、所謂良い所のボンで甘やかされて育ってきた様に思う。割と何でも自分の思う様に事が進むのが当たり前に捉えていて、そうならない時は直ぐに諦めて他に目を向けてしまうタイプだ。人間関係においても幼児期から媚び諂う大人達に囲まれていたせいか絶対君主で、言う事を聞かない奴は切り捨てる事も厭わない。
女に関しても容赦が無い。
手に入れられない女は居ないと豪語するこの虎は、先ず相手の女に合わせた男を演じる。そして飽きた頃に本性を晒し、切るのだ。そのやり方もえげつない。余りの酷さに一度窘めようとしたが、虎から返って来た言葉はこうだった。
『ええよ、俺の金と顔とセックスにしか興味あらへん様な女なんか、どうでも』
あの時も遠くを見たままそんな事を言ったこの男と、俺は何処か似ている。
「何で直ぐ俺に言わへんかった? 東京来よってから幾らでも時間あったやろ」
「…何でやろ。あー…多分何か学生の頃に戻った気になってふざけ過ぎてたからやろか」
「夏休みなんて言いよって」
「辞めたったなんて白状したら、自分笑て俺、迎えたかぁ?」
虎が此方を向いて、片眉を押し上げた顔を晒す。「迎えへんわな」と正直に答えると、虎は舌打ちをした。
「…もうちょっと、おってええやろ、ユキ」
「ええよ、好きなだけおったらええ」
虎を『我が儘な二代目』と揶揄し、うすら寒い関係を続ける奴等も居る。虎も勿論其れを知っての付き合いをしている。互いが互いに、裏では舌を出し合ってると言う何とも哀しい関係だ。それでも俺は、この我が儘な虎を好きだなあと思う時がある。阿保かと思う時の方が断然多い様に思うが、危なっかしくて放っておけない男なのだ。コイツが吐き出す『我が儘』の奥底を理解してやりたいと思っている。
其れに、俺はコイツに借りがある。
恩義を忘れるつもりはない。だからこそ、俺は虎の言う『我が儘』には出来る限り付き合う事に決めていた。
「…サンキュ」
滅多に聞く事の出来ない虎からの感謝の意。何とも貴重なお言葉だ。
それから俺達は特に話す事も無く、降車駅迄流れる景色を車窓から見つめていた。俺はと言うと、今頃セルフレームの眼鏡を掛けパソコンと睨めっこしている彼女の事を想っていた。
彼女は、凄く真面目で一生懸命な女性だ。周囲が思う様な『何でも卒なくこなす才女』ではない。真面目だけど、不器用、だからこそ誰よりも頑張ってしまう。結果、彼女は何でも出来ると言う定義に当て嵌められてしまう。彼女の努力や苦労を重ねた過程を知らずして、彼女を讃えてはいけない。
『甘える事を知らない』
…きっと麻美も、そういう女性だったに違いない。俺よりも年上であったから、そうしてはいけないと言う固定観念も有ったのかもしれない。それなのに、俺は麻美を責めたのだ。
俺は苦い笑いを零した。
「…何?」
怪訝そうな表情で虎が俺を見るので、俺は軽く手を振り応える。
「果歩と付き合うて、麻美との事がやっと理解出来た気がすんねや」
「……」
「虎、俺なぁ…多分、果歩の事放されへんよ」
想いは確固たる決意に変わる。虎に告白したことで強固な決意になった。