08.
金曜の夜、完全に目の据わった虎が俺に馬事雑言を浴びせ掛ける。負け犬の遠吠えと言う奴だ。聞き流せる程には、大人だと思う。
「お前はもう俺の親友ちゃうからなっ!! 俺の事を腹ん中でごっつ笑とったに決まっとるっ!! クソ死ねっ」
「…笑おてへんて。何べんも言うてるやろ、渡里で会う迄お前の理想の女が果歩やて知らんかったて」
「いいやお前は知っとたに決まっとるっ」
面倒臭い男だ。俺は無色透明の液体が入ったグラスを虎に「飲みすぎや」と差し出した。酒に弱い訳ではないこの男に飲ませ続けたアルコール。コイツじゃなかったら救急車で運ばれててもおかしくない酒量だとは思う。
「…んー? 何や東京の水は何や酒みたいな味すんねんなぁ?」
首を傾げる虎を横目に、俺は心の中で「酒や、ド阿保」と毒吐きながら
「もう一杯飲むか?」
と笑って見せた。
◇
駅で待ち合わせをし、目的地のショッピングモールへ向かう為に電車に乗り込む。吊革を掴んでいない方の彼女の右手を弄ぶように触れ、彼女の反応を一つ一つ確かめて行く。指を叩けば、お遊びの様に叩き返す。甲を撫でれば指を握り返される。彼女からの気持ちが自分の方へと流れ込んでくるみたいだった。彼女の気持ちは確かに俺に在る筈なのに、何故だか彼女の表情が時折翳る。仕事の疲れも勿論有るだろうが、それだけではない気がした。
彼女は、俺に視線を残したまま、哀しみを滲ませるから。
「もう疲れたん?」
牽制する様に彼女にそう問い掛ける。彼女は何でも無い様に笑った。
モールに着くなり冷たい飲み物御所望の彼女と並んで座っていると、何やらこの場に相応しくない言い争う声が聞こえてきた。振り返った先に、男女二人が居てどうも痴話喧嘩らしかった。
女の方が怒りの表情で男を非難し、男の方はその女の態度に困っている様に見えた。こんな朝っぱらから喧嘩なんかしないでも良いのに…と俺は他人事の様に視線を元に戻した。同じ様に前を向いた彼女に声を掛け、立ち上がる。足を踏み出した所で聞こえて来たのは、俺の隣を歩く彼女のこんな言葉だった。
「泣いたって解決しないのに」
少し意外だなと感じた。普通女は、こういう場合同姓である女に感情移入し「可哀想」等と言いそうなものだ。だが俺の彼女はどちらかと言えば、男の肩を持っている。其の反応が一概に間違いだとは思わない。けれど『意外だな』と言う印象を俺は持った。
「厳しいな自分」
「…そうですか? あの男の子の言う仕事が本当だとしたら、彼の仕事を理解する様努めるべきだとあたしは思いますけど」
そういう風に考えてくれるのなら、男も救われるだろう。本当に仕事ならば。
「正論やけどな。好きやから不安になるんやろ? 仕事を疑いたくもなるんちゃうの? 不安にさせる男も悪いやろ」
俺は俺なりにそういう持論を持っている。
麻美の事があるからかもしれない。
麻美は、俺に甘えられなかったと言った。俺が麻美に甘えていて、麻美を甘やかしてやれなかった。浮気や不倫を容認するつもりはない。だが、麻美が俺以外の誰かに救いを求めた事を責める事は出来ない。麻美を追い詰めたのは、他ならない俺だから。
俺が年下だったからとか、年齢だけの問題ではないと思う。
思い遣る、その気持ちが俺には欠けていたのだと思う。麻美と一緒に居れる事に胡坐を掻いて、俺が幸せである事を麻美に押し付けていたに過ぎない。
年を重ね、精神的に幾らかの成長を経て俺は果歩に出逢った。この前の様な事があっても寄り添っていられる彼女とは『一緒に』幸せを感じられれば良いと思ってる。共に歩みたいと思う。
黙ってしまった彼女。反論の言葉に窮すと言うよりは、思い悩んでいる様な顔だ。俺は歩いていた彼女の右手首を掴み、前進を阻む。
「…俺自分と喧嘩したい訳ちゃうんやけど」
揶揄する様に言えば彼女は憤慨した様に言い返して来た。
「! あ、あたしだってっ…今日凄い楽しみにして…て…」
『一緒』だ。俺も今日って言う日を凄く楽しみにしていたんだ。
会えなかった日々の出来事や想いを話し、俺達は適当に店を覗き買い物をした。歩き疲れたなと思った時だった。虎の姉ちゃんから電話があったのは。
『ユッキー? 喜伊やけど』
「こんにちわ、虎やったら俺んちで寝てる思いますけど?」
人様の通話を聞いてはいけないと思ったらしい彼女が俺から遠ざかろうとする。俺はその彼女を俺の傍に置き、喜伊さんとの会話を続けた。そして俺はその電話の内容に沸騰しそうな程の怒りを覚える事になる。
『そうなんや。その馬鹿が会社辞めたて聞いとる?』
「はぁ? 聞いてへんねんけど? 夏休みやて聞いてますよ」
『…はぁー…』
喜伊さんが大きな溜め息を吐く。そして続けた。
『馬鹿ね、上司が気に食わん言うて辞表出したったらしいんよ。でお父さん、めっちゃ怒ってんねや? 馬鹿は馬鹿で、大阪からの着信拒否しよるからうちがユッキーに電話してんねんけど…やっぱりユッキーんとこにおったんやね。ごめん迷惑掛けて』
「直ぐにでも宅急便で送りますわ」
俺はそう言って画面をタップし、怒りを鎮めるべく深く息を吐き出した。
そんな事一言も言わないで…何が、夏休みだ。
彼女と別れ、自宅に戻ると其処に虎の姿は無かった。キャリーバッグを確認するも、場所も変わっておらず此処から出て行ったとは思い難い。とにかく俺はこの苛々とした気持ちをどうにかしたいと虎に電話を掛けた。
結果から言って、俺のその浅はかな行動が虎を逃がしてしまう事になった。
俺が会社を辞めた事を問うと、アイツは帰ってからちゃんと説明すると電話を切った。そして、二十二時を過ぎてもマンションのドアが開く事はなく、俺は虎にもう一度電話した。機械的なアナウンスが流れ、俺は己の失態を悔やんだ。
「…ホンマ何やねんっボケェっ!」
子供じゃあるまいし、荷物も此処にあるのだし待っていれば帰ってくるに違いない。けど…俺を頼って東京に来たアイツを放っておく事は出来なかった。
翌日俺は朝早くから近所を探し、駅では店のおばちゃんや駅員に虎の写真を見せて回った。電車に乗り少し先の繁華街迄足を伸ばす。当然の事ながら、こんな広い街で虎の情報を得るのは無理だった。炎天下の中、走り回った俺のシャツは汗ですっかり貼り付いている。冷房の効いた駅ビル内で少しの涼を取っていた俺に、天の助けとばかりに彼女からのメールが届いた。
T駅前の献血センターで山本さんを発見しました。
「っ…何で献血やねん」
俺は直ぐ彼女に虎を拘束しておくよう返信をし、T駅に向かう為に電車に飛び乗った。
目的の献血センターに着くなり、虎は俺の腕を取り献血の受付をさせられた。場所が場所だけに俺は声量を落とし「何やてコレ」と虎に訊ねる。虎は「右から二番目、名札」と答え俺の元から離れると年嵩の男性の座るテーブルに着席した。俺は何が何だか解らないまま、数人居る看護師の右から二番目の女性の前に立つ。そして、左胸に付けられたバッチタイプの名札を見た。
『芳野』
「…え」
俺が思わず洩らした声を拾ったその女性は顔を上げ、にっこりと笑う。
「!」
笑った顔が彼女と似ている。そう言えば彼女が、母親は看護師をしていると言っていた。思いがけない初対面に俺は内心焦りながらも、何の挨拶もしないのも失礼だろうと「あのっ」と声を掛けた。すると彼女の母親は俺が怖がっていると勘違いしたのかもう一度優しく微笑み
「直ぐ済みますからね」
と言った。俺は「はい」と答え、大人しく採血が終わるのを待った。視線を感じ後方へ振り返ると、虎が肩を震わせているのが見える。そして隣に座る男性が慌てて新聞に顔を隠した。
痛みを感じる事も無く採血が終わり、針を挿し込んだ箇所へ二センチ角のシールを貼られた俺は彼女の顔をしっかりと見つめて言う。
「すんません…ちょっと時間ええですか?」
俺は芳野さんと言う看護師と一緒に、虎と…恐らく彼女の父親である男性が座るテーブルへと向かった。