05.
その処世術とやらは、女関係だけではなく高校、大学と自分を取り巻く人間関係においても利用可能で、俺は順風満帆な日々を送っていた。それでも…気付かない振りをしていただけで何処かで虚しさは感じていたんだろう。
何処か屈折した俺を救ったのは、二つ上のサークルの先輩だった。
「ユキ君て、それ本物なん?」
訝しげな表情でそう訊ねたのは田中麻美。俺にとって初めての『彼女』だったと言える女性だ。
彼女は、俺に対して「女」を押し出してくる事無く「友達」として俺に接してきた。
バイタリティ溢れる彼女は物事に白黒をはっきり付け、自分で納得のいかない事は教授にさえディベートを求める有名な才女だった。彼女は誰もが振り向く美女と言う容姿では無かったが、内面から溢れ出る魅力が彼女を際立たせ眩しい存在だった。俺自身、彼女を尊敬していたけれど「女」として見る事は無かった。
本物です、とその場は答えたが彼女と過ごしている内にその化けの皮は簡単に剥がれた。と言うか彼女に剥がされたのだと思う。彼女は『王子』で居ようとする俺に『一般人』である事を強要した。お洒落なレストランに行こうとする俺の背中を叩き
「嵌り過ぎやろ!」
と大衆酒場に行先変更。オープンカフェを指差したのに、ジューススタンドで野菜ジュースを啜ってた事もある。彼女の前では『王子』で居る事の方が不自然な気がしてきて、実はとんでもなくガキ臭い素の俺を披露する事になった。「友達」なのだから何ら気にする事は無かったし、彼女も俺をすんなりと受け入れてくれた。彼女と一緒に居ると居心地が良くて、人としても刺激も沢山受けて、そして彼女の「ユキのそないなとこが好きやわ」って笑う顔に惹かれた。友達で居られなくなるのは嫌で、告白を躊躇った。けど彼女はそんな事も一蹴して「ユキと二人でずっとおりたいなぁ」と俺の手を取った。
それから俺の幸せな日々は二年続いた。子供っぽいままの俺を、ありのままの俺を受け止めてくれる彼女と本当に永遠を信じた程に。
けれど彼女が社会人になった年の冬、俺は彼女と見知らぬ男が立派なホテルから出てくるのを偶然に見掛けた。腕を組み寄り添い、男女の関係である事は一目瞭然だった。俺を目の前にした彼女は、潔く頭を下げた。「ごめん」て。
その男の左手薬指に指輪を認めて、俺は彼女の腕を引っ張り男に詰め寄った。壮年の男は俺の勢いに怯む事もなく、ただ哀しげな表情を見せた。彼女も又「この人は悪ない」とはっきりと口にした。曲がった事の嫌いだった彼女が二股をしていた挙句、相手は妻帯者。
不道徳な行為に走った理由を「色々疲れとったうちを彼は支えてくれたんよ」と彼女は言った。確かに社会人になった彼女は、学生の俺とは一線引いている節が見えた。そして実際、疲れてるんじゃないのかと声を掛けた事もあったが、彼女は一切俺に弱音を吐く事は無かった。
「ユキには甘えられへんかった」
彼女の最後の言葉。結局、素の俺は好きな女に気遣わせていたと言う始末か。
本当に好きだった。彼女となら俺が俺で居られると思った。だが独り善がりの恋だった。
◇
「この振伝切ったの塚田さん?」
俺はデスクの上に置いた用紙の一枚目と二枚目の小計を電卓に二度入力し、隣の島のデスクの事務方に声を掛けた。彼女は席に座ったまま「はい」と答える。
「検算してますか? 間違えてます、訂正してもう一度回して下さい」
「えっ、す、すみませんっ」
俺は其れをデスクの端に寄せ、次に部下から提出されている書類に目を通していった。暫く事務処理をした後俺は足元のブリーフケースを手に取り立ち上がる。
「出掛けて来ます」
外出する営業は全員、部内の人間にそう声を掛けて行く。すると残っていた者が「いってらっしゃい」と送り出す。
「主任っちょっと待って下さい!」
エレベーターを待つ俺を呼び止めたのは伊藤君だった。
「すみませんっ今日中に課長まで上げたいんでハンコ貰っても良いですか?」
差し出されたのは見積書で俺は伊藤君の顔を見返した。彼の顔が『解ってます、すみません』と語っている。
「何でもっと早く出さないんですか?」
俺は彼と共に営業部へ戻りながら是正を促す。
「すみません、出したもんだと…」
溜め息を飲み込んで俺は所在地から、仕様、単価全てにチェックを入れる。
「このフロアの、数量此れで間違いない? 平米からすると少なく感じるけど」
気になった点を指摘すると伊藤君は俺の直ぐ横から、指摘箇所を覗き込み「…うわ」と悲劇的な声を上げた。流石に俺は痛む頭を抱える。
「直ぐやります直ぐっ!」
手直しを終えた書類に承認印を押し、俺はもう一度「出掛けて来ます」と言った。伊藤君の俺を送り出す声が盛大過ぎて更に溜め息が出る。エレベーターホールで腕時計に目を遣ると、一服する様な時間は取れない時刻を指していた。階上から下りて来たエレベーターの扉が開き腕時計から顔を上げると、彼女が一人その箱に乗っていた。
予想していなかった彼女の登場に俺は戸惑い、エレベーターに乗るのを躊躇う程だった。けれど乗らない訳にも行かず俺はゆっくりとエレベーターに足を踏み入れパネルの前に立った。「久し振り」とでも声を掛けるべきか…無言を貫くべきか…考えあぐねていたら後方で彼女が息を吸った。其れと同時に目の前のエレベーターの扉が開き、何処かの会社の男性社員がぞろぞろと乗り込んでくる。何人居るのか判らない程で俺が彼女を振り返ると、箱の端っこに身を寄せて人の波に耐えていた。
俺は「すみません」と小声で人を掻き分けて彼女の前に立つ。少しでも彼女が楽な姿勢で立っていられれば良いと思った。縮こまっていた彼女が俺に気付き身体をビシリと固める。狭い機内で彼女のシャンプーの香りが鼻腔を掠めた。胸が締め付けられる思いだった。俺は空いていた左手を壁にぐっと押し当てる。そうでもしないと彼女を掻き抱いてしまいそうだった。
俺では無い誰かを想っているかもしれない彼女を、抱き締めたくて仕方なかった。
そんな事を想った時、彼女の手が俺へゆっくりと伸ばされスーツを掴んだ。彼女は俺の胸に額を押し付けて俺の名をか細く呼ぶ。続いた言葉に俺の心臓が動きを止めそうになった。
「好き、なんです」
エレベーターの到着と共に扉は開き、彼女の熱が俺の元から去っていく。
エントランスを行き来する人々の音が耳に入り、俺は彼女に何も返せないままエレベーターを降りた。次の約束の為に足だけは出口へと向かったが、心は彼女の言葉に囚われたままだった。
あの夜の言い訳を聞かされるよりも強力な台詞だ。
彼女は、先ず俺の名を呼んだ。其れに続き好き、だと言った。言葉のまま受け止めるなら彼女は俺の事が好きなのだろう。…一緒にバーに行ったあの男よりも、と言う事か…。
確かめるべきだ。そう思った俺は振り返る。
意を決した俺の視界に飛び込んだのは、あの晩彼女とタクシーを拾っていたあの男だった。傍には彼女がおり彼から青い封筒を受け取っている。何故、あの男がわざわざこのオフィシャルな場所に? この空間に居る人間の多く ―― 特に女性 ―― が彼女達に視線を注いでいた。容姿の際立つ男が誰なのかと顔に書いてある。
俺の胸の内に苛立ちが沸き上がったが、足は其方へと勝手に動き彼女らの声が拾える程に距離を縮めた。
「実は久し振りに酒飲んでね。次の日の朝なんか頭痛くて」
男がそう言うと彼女は、きゅっと口を噤み泣きそうな顔をする。彼女の胸元に納まっていた封筒が僅かに形を変える。彼女にそんな顔をさせるこの男は…きっと俺の知らない彼女を知っている人物に違いない。『過去』の筈だ。だが焼け木杭に火が点くと言う事もある。俺がきつく歯を食い縛ったその時だった。
「会社なのにぃ男引っ張り込んでぇ、暇な部署は良いですねぇ」
甘ったれたその話し方には聞き覚えが有った。彼女が男の前から視線を逃し其方を見たので、男もそして俺を含めるギャラリーも其方に顔を向ける。メールでやり取りすれば良い書類をわざわざ営業部迄下りて届けに来ていた総務部の女性。
「あたしもぉ異動したいくらいですぅ」
彼女等を取り巻く周囲には其れに加勢する様な辛辣な視線も有れば、面白い物が見れるのかと何かを期待する視線が入り混じっているのが見て取れた。何時かの神崎君の話にも有ったが、彼女はこんな風に悪意に晒されていたのだろう。彼女が傷付くのは嫌だと思う癖に、今の俺は容易に手を差し伸べれないでいる。
――― 彼女と男の関係がどんなものかも解らないのに、未だ心から彼女を容赦していないのに。
言い訳を連ね葛藤の最中に居た俺の耳に届いたのは、男のはっきりと通る声だった。
「失礼、私は御社と取引のある会社の真関と申しますが、今彼女に対して侮辱ともとれる発言は聞き捨てなりません」
そう男は久住に対し言い放ち、彼女を擁護する様に前へと進み出たのだった。男が取引先だと判った今、久住に加担する者は居ない。見っともなく何かを言い返そうとする久住だったが、更に男は言った。
「彼女が男性をたぶらかす様な女性で無い事も承知しています。ですから先程の失礼な発言は撤回し、彼女に謝罪して頂きたい」
絶対的な信頼を、この男は彼女に持っている。だからこそ彼女を擁護する。其れはどんな場所であろうと、誰が相手であろうと、例え自分の立場を危ぶむものにしたとしてもだ。
勝てる訳が無い。
こんな男と、俺が対等な訳が無い。