20.
虎に言われた一言。
あんな阿保から、あんなまともな事を言われるとは思ってもみなかった……。
彼女に対する気持ちはずっと一つだ。多分これから先も、其れだけだ。
今の仕事が片付いたら、今度こそ彼女にはっきりと…―――――。
仄かに温かい日差しを感じる事もある三月、社に戻った俺を出迎えたのは、佐野部長だった。
「おー和田ご苦労さん!」
「!」
俺のデスクで踏ん反り返る様に座る彼にお茶を出しているのは朝見で
「おおきになー姉ちゃん」
そう佐野さんが言った時、一課の面々が些か冷たい空気を発した様に感じた。俺は佐野さんを良く知っているし、大阪じゃこんな言い方もザラだから正直何とも思わない。けれど、此処は東京本社であり罷り間違っても飲み屋では無い訳で、流石に俺は其れに注意を促そうとした。ところが、朝見がお盆を胸元に抱えたまま笑って
「そんなん言い方されたん久し振りで、何や嬉しいです」
と臆することなく佐野さんに向かって言った。驚いたのは佐野さんの方だった。まさか本社で俺以外に大阪弁を喋る人間が居るとは思っていなかっただろう。
「何や自分、大阪か」
「はい、箕面です」
「そうなんかぁ何や、気心知れる人間おって良かったなぁ自分」
佐野さんが朝見から俺に目を向けてそう言った時だった。何と言うタイミングか俺の後方で「失礼します」と言う適切な声量の彼女の声がしたのだ。
――― 瞬時に思ったのは「拙い」、其れだった
何故だか知らないが大阪の佐野部長が本社に居て、大阪に戻らなければならないかもしれない話を未だ知らない彼女が会してしまう事は非常に拙い状況だった。
彼女は一課を通り過ぎ、二課の剣持主任のデスクの横に立って「どうしました?」と声を掛けている。俺から見えるのは彼女の背中と、剣持主任に語り掛ける右頬のラインだけだ。
「あー自分が、朝見言う派遣社員なんやな? 和田のアシスタントの」
彼女の後姿に気を取られていた俺は、聞き慣れていた筈の佐野さんのやたらとデカイ声に驚き身体をビクリと揺らす。俺は茶を啜る佐野さんの横に立ち、上着のボタンを外す。何だか暑くて、酷く喉が渇いている。
「うちの事知っとんのですかぁ?」
朝見が目を丸くしながら佐野さんに訊ねる。此れ以上の無駄話をさせるのは危険な気がして、俺はいかにも事務処理をしたいのだと言う雰囲気を醸し出し
「朝見さんは仕事に戻って下さい。佐野さん、今日はどうしたんですか? いらっしゃるんだったら連絡くれたら良かったのに」
と彼を責めた。なのに、俺の東京弁にも挑発にも乗らず、親しみ深い大阪弁にすっかり気を許す彼は、朝見との会話を打ち切ろうとはしなかった。
「知っとるがな。派遣やのに和田のアシなんかやりよる女が居るて」
「佐野さん、変な事言うの止めて下さいよ。俺草野達にも言いましたけど、特に朝見さんをアシスタントにしてる訳では無いので」
努めて冷静に抗議した。視界の端に彼女の姿が映っていて、正直佐野さんにはもう口を噤んで欲しかった。このままでは彼女は、今このタイミングで聞くべき事ではない事を耳にしてしまいそうだった。
何度か目にした事が有るが、剣持主任はパソコンが苦手らしくて彼女を呼び出してはかなりの時間、彼女を足止めしている。だからこそ今日だって、そうに違いない。佐野さんが口を噤むよりも先に、彼女がこのフロアから出て行く事は期待出来なかった。
「可愛いらしいし、仕事も出来るじゃ手放せへんやろ」
俺が立つその場所から斜め向かいに座っている神崎君が顔を上げ、難しい表情で俺を見つめてくる。俺の隣で書類を捲っていた夏八木さんの手も今は、止まっていた。
喉が、渇いて。何かを言いたいのに、まるで其れが貼り付いてしまった様に口から出て来ない。
「そうや、大阪について来れへん女ほかして、この姉ちゃんに鞍替えして大阪に連れてきたらええ」
「…え」
小さな、其れでも其れが驚きと解る位の声を零したのは朝見で、俺は拳を握り俺を見上げ冷笑を浮かべる佐野さんを睨み付けるのが精一杯だった。
「和田、もう充分やろ。大阪戻ろか」
―― 言いよった
「主任、大阪戻っちゃうんスか?」
こんな時決まって第一声を上げるのは、空気を読まない伊藤だ。もう一年近く一緒に仕事をしてそんなの慣れっこになっていた筈なのに、今日はどうしてか其れが腹立たしい。
「そうなんや。コイツが本社に来たんは梃入れやけ。今日はその事で本社とケリつけに足運んだんや」
佐野さんがそう言いながらデスクに乗せていた腕を動かしたので、カシャンと軽い音が聞こえた。未だ其処に居た朝見が「パソコンっ」と言い、立ち上がった佐野さんと俺の間に身体を割って入る。其処に倒れていた湯呑を起こすと、傍に有ったティッシュペーパーでデスクの上を拭く。
俺のノートパソコンの上に飲み掛けだった茶の滴が乗っていた。大した量では無い、底面は少し濡れてしまっただろうがこの程度で故障はしない筈だ。
現実逃避をする様に今はどうでも良いそんな事を、パソコンを見ながら ―― 呆然と ―― 思った。
「失礼します」
そのパソコンに繋がれていた線がポートから抜かれ、俺のパソコンは二つ折りの状態へと変貌する。そして、パソコンが俺のデスクから水平に持ち上げられて、彼女が俺と視線を合わせた。
取り乱した雰囲気は無い、寧ろ淡々と通常業務をこなす彼女が其処に在った。
「恐らく問題は無いかと思いますが、念の為お預かりします。直ぐに代替えを持ってきます」
そう言って軽く頭を下げると、彼女は営業部から出て行った。何時もの様に背筋がしゃんと伸びていて、背中の中ほど迄伸びた黒髪が揺れる。揺れる。
「すまんな和田。せやけど今の女、何処の部署や? 愛想の無い女やなぁ」
「っ!」
何かを考えるより先に身体が動いていた。俺は佐野さんのワイシャツの両襟をぐっと握り中央に向かって引き上げる。立派な頸は直ぐに呼吸に支障を来し、彼は「ぐっ」と呻った。
「ええ加減にして下さいよっ佐野さん! 幾ら佐野さんでも言うて良い事と悪い事があるやろっ」
「わっ和田っ何っ」
俺よりも遥かにスタミナもパワーもある佐野さんの手が俺の両手を引き剥がしに掛かる。それでも俺はこの手を放そうとは思わなかった。
「俺の女をアンタにとやかく言われる筋合いは無い言うとんのじゃっ」
俺がはっきりとそう言った時、佐野さんの片眉が僅かに上がったが、俺の手首をへし折る勢いで跳ね退けた。赤い顔をした佐野さんが視線を俺に残しながら、呼吸を求める様に襟口に指を入れ肩を上下させる。
「…誰に向かって口聞いてんじゃコラァっ和田ぁっ」
「女癖の悪い、バツ二の元上司にやろがっ」
「おまっ…」
「…アレを悪く言うんやったら、なんぼ佐野さんでも容赦せえへんからなっ」
俺はそう言いたい事言って営業部を飛び出した。二基有るエレベーターは生憎、エントランス迄降りてしまっている。待つのもまどろっこしい俺は階段へ続く扉に向かって走り、上へ上へと駆け上がった。到着した八階のセキュリティボックスにIDカードをスキャンさせ解錠させる。解錠音と共に大きく扉を開くと、目の前の総務の人間が驚いた顔で俺を見ていた。そんな視線など諸ともせず俺は、パーテーションの奥情報システム部迄大股で足を運ぶ。
余りに大きな足音だったせいか、着席中だった権藤部長は俺を見ていたし、立ったままノートパソコンをチェックしていたらしい彼女も又、俺を見つけて目を見開いた。
「…えっと代替えは、今、牧野が管財に…」
「ちょっとええ?」
俺は彼女の返事も待たずに、彼女が逃げない様に手首を掴むと権藤部長に「芳野、借ります」と断って廊下へと連れ出す。先程使用した扉をもう一度開いて、フロアよりも幾らか寒い場所で俺は彼女と相対した。頭を冷やすのには丁度良い位だった。
「さっきの聞こえてたやんな」
「…うん、聞こえてた」
泣いているのかと思っていた。怒っているのかと思っていた。けれど彼女はそのどちらでも無かった。
「ごめん…騙すとかそないつもりやった訳やないんよ」
「うん解ってる」
「解ってる?」
「ユキさんが…たまに何かを言いたそうなのは、気付いてたから」
「…そう…なんや」
彼女が何時もの彼女過ぎて、逆に俺は畏怖の念を抱いた。彼女は彼女で、既に何かを決意している様に思えたのだ。
「…大阪に、戻すて言われてるのはほんまや。でも未だ決定では無い。それと…俺は自分と別れる気はないねんよ」
怖々と俺は事実を口にする。変な事言うてくれるなと願いながら、彼女を射抜く様に見てしまう俺に彼女は、ホッとした様に笑った。「良かった」と。そして…
「あたし…ユキさんと離れるなんて、出来ないの。だから……大阪に戻るのなら一緒に行って良い?」
彼女ははっきりと、俺に言った。はっきりとそう聞こえたのに、耳を疑った。
「ユキさんがあたしを必要としてくれるなら、ずっと傍に居させて欲しい」
俺の覚悟を凌駕する彼女の気持ちに、俺は又もやられた。言い訳ばかりの俺を待って、彼女は気持ちを固めていてくれた。
「ごめん…ずっと言えんで…多分…怖かったんやと思う。自分が俺の事を好いとるて解っとっても、自分を、両親から、友達から奪うてしまう事は…又きっと別の事やから」
「いつ食事に来るのかしらって、昨日も言ってたよ?」
彼女が、彼女の母と似た笑みを浮かべながら俺を見上げてくる。
あー…本当に敵わない。俺の方が絶対彼女の事めいっぱい好きなのに、何か負けてる。……勝負ちゃうやろっ、そんな事を思いながら俺は指で口元を隠し少し笑って「ほな今夜、自分んち行くわ」と申し出る。目を丸くする彼女に俺は一つ頷いて
「せや? 娘さん下さいて頭下げるわ」
と言った。
すると彼女は、口を少し開けた、所謂呆けた状態で優に一分間は絶句した。彼女の其の反応に満足した俺は、言おうと決めていた言葉を ―― 予定していたシチュエーションとは違うけれど ―― 彼女に贈る。
「結婚、するやろ?」
驚きが、喜びへと変化して行く彼女の表情。そして彼女は応える。
「するする」
あの阿保も言ってたけど。俺も、彼女の偽りの無い返事が好きだ。