02.
あの時、男の方が俺の方に顔を向けていて彼女は背を向けていたから、どんな顔をしていたのかは知り得ない。けれど男が去っても尚彼女がその場に立ち尽くしていた事で、彼女の思考を其処に留めておく程の何かが有ったのは間違いないのだ。
彼女の指定したコンビニに約束の時間よりも十分ほど早く到着した。コーヒーを買うと車内には乗り込まず、そわそわと彼女の到来を待ち侘びる。
数日前、営業と情シスの合同ミーティングで会った時 ―― 職場なのだから当たり前なのだが ―― 彼女は普段通りであの夜を引き摺っている様には見えなかった。だが、あの男の件があって彼女が今日の約束を反故するんじゃないかと俺は気が気ではなかった。幸い、今朝になっても彼女からその様な連絡はなく、俺は一分でも早く彼女の「今日」を確かめたかった。
あのミーティングの日。俺の心は掻き乱された。
資料を元に彼女が管理ソフトについての説明を行った。心地の良いよく通る声で彼女は話す。俯いた際に顔に掛かった髪を左手で耳に掛ける仕草、手元のタブレットをタップする細い指。隣に座った牧野君と小声で話す時の口唇の動き。周りに気付かれない様に彼女を観察し、胸が苦しくなった。こんな表現もどうかと思う。まるで女みたいだ。だけど、本当に息をするのもしんどかった。
――― あれが俺のものだったら、どれほど良いのに
そう思わずには居られなかった。
狭い車内で身を寄せる様に乗り込んだ彼女と俺。アームレスト一本分の距離が、少しもどかしい。
「せやけど自分は俺の事、王子やと思うか?」
「思いません」
答えは其れしかないとばかりに即答した彼女。其れで良い。俺は王子じゃないし、彼女もクールじゃない。彼女しか知らない俺と俺しか知らない彼女。俺は本社の中で、誰よりも彼女に近しい男な筈だ。俺はガキで、そんな事で機嫌を良くして笑った。
「主任て、どうして王子の仮面を被ってるんですか? そのままでも充分魅力的なのに」
俺はゆっくりと彼女の方へ顔を向ける。「今日は良い天気ですよね」其れくらい世間話の様に彼女はそう言った。俺の気を引こうとかそんな類いの台詞じゃないのは明らかで、驚く俺の運転に注意を喚起する。
俺は凄く単純だ。
素の俺を認めて、其れを魅力的だと評してくれる彼女を愛おしく思った。間違いなく、俺は彼女に惚れている。俺じゃない男が彼女を性の対象に見た事に嫌悪感を募らせた事、俺じゃない男が彼女を抱き締めた事、腹が立ち裏切られた気分になったのはそう、嫉妬だ。
◇
「和田主任、丁度良い所にいたね。ちょっと時間あるかな?」
情シスの権藤部長に引っ張られ俺はミーティングルームに顔を出し、突然の引き合わせに息を詰めた。あの夜の男が
「INCの若村です」
と名乗ったのだ。遠目に見た時はもう少し上背のある男かと思っていたが、こうして対面してみると俺よりも身長は低く細身の男だった。彼女と若村の間に険呑な雰囲気はなく、二人の会話は互いに良く理解し合っている様な具合だ。もう一人の男も彼女を知っている様な口振りを窺わせる。焦燥感が沸き上がった。
話が終わり、彼女は当たり前の様に「下迄、お送りします」と笑顔を見せる。彼女と彼等の関係をもう少し把握したいと思ったがこれから出掛けなければならない俺は
「私は此方で失礼させて頂きます」
そう言い会釈し、顔を上げ彼女を捉える。
”そっちに行くな”
俺はそんな事を思いながら彼女に背を向け歩き出した。自席に戻りブリーフケースを手にすると、俺は足早にフロアを出て非常階段へと続くドアを勢い良く開け放ち猛然と其れを駆け下りた。
彼女への思慕を認めたら、焦燥感は募り独占欲は強くなるばかり。気付いたら彼女に家に来るように命を下していた。
彼女が越したばかりの俺の家に居て、俺の隣に座り、俺の話で笑う。もっともっと彼女が欲しくて彼女を囲い込み、泣きそうな顔になった彼女と慌てて距離を取った。思えば俺は昔から好きな子は苛めるタイプだったかもしれない。けど、俺を意識させるには充分なものだったと思う。
俺の言葉に「もしかして」を感じていれば良い。
ここから距離を縮めて、他の男なんか入り込む余地を作らせなければ良い。
なのに。彼女は残酷だ。
彼女からの初めてのコールに意気揚々と出てみれば『今度、何人かで食事行きませんか』等と言う。”何人かで” 彼女の話し方からしても其れが彼女の思い付きでは無いのが解った。俺が「見せる俺」で居る事の意味や面倒に思ってる事を彼女は知っている筈だし、彼女自身も大勢で集まるのは苦手なのだと言っていた。なら断れば良いものを。
話を聞けば、彼女の大切な友人である柴田さんが来る食事会だと言う。俺は其れを首肯せざるをえず、彼女と話を進めた。
こちら側は歳の近い神崎君を誘い、もう一人は彼に任せた。柴田さんは愛らしい雰囲気で俺の目の前に座り、幹事という立場の彼女は末席に座っている。何処か顔色が良くない。
以前、社食で会った時も思ったが柴田さんはくるくると表情を変え、話題に事欠かなく場の雰囲気を盛り上げている。柴田さんが俺に好意を抱いてる様な視線を送ってきて、俺のプライベートを知ろうと話題を持ち出した。俺はやんわりと答えをはぐらかし、神崎君や斜め前に座る大貫さんと言う女性に声を掛ける。彼女は俯いて此方の話には興味が無いようだった。彼女の前に座る神崎君の同期の鈴江君は、時折彼女に話し掛けて彼女の気を引いていた。其れでも上の空らしい彼女は、勧められたワインを断ってバツの悪そうな顔をした。一旦パウダールームへと中座した彼女は体調不良で先に帰らせて貰うと頭を下げる。送って行くと口を開き掛けた俺を留めたのは鈴江君の一言だった。けれど彼女は其れも受け入れる事無くレストランを後にした。
彼女の家は電車でも三十分以上かかる場所にある。あの状態で無事に家に辿り着くのだろうかと心配になった俺は冷静を装って「一本電話してきます」と断って席を立ったのだった。