19.
「……駄目?」
ヤバイ、心臓止まるかと思った。
固まって動かない俺に焦ってか、彼女は掛け布団を胸元まで引き寄せてから上体を起こしてベッドに座る。
「あ…えっとごめん、なさい…やっぱり図々しかった…ごめん、忘れて」
「わぁーっちゃうってっ!! 待て待て!」
彼女の声が消え入りそうな程小さくなって、俺は慌てて身体を起こして彼女の肩を掴み自分の方へと向き直させた。
「あかんて事ないよっ図々しくもないっ」
慌てる俺を見て目を瞬かせる、そんな彼女を俺は抱き締め、言った。
「嬉しい…でも、ごめん。俺、自分に鍵渡してへんかったんやな…何しとんねん俺」
「…ぶっ一人で突っ込んでる」
耳元に彼女がクスクスと笑う声が聞こえ、心地良く感じ俺は更に力を込めて彼女を抱き締める。
「予備三本有るから、全部やるわ」
「…一本で良いから」
又、彼女が笑った。その小さな笑いが止んで、彼女は更にこうも言った。
「大事にするね」
借家の鍵一本をそんな風に扱ってくれようとする彼女に嬉しさが込み上げる。
何だろう、コレ。好きと言う感情を超越したこの想い。好き過ぎて『好きだよ』と囁くには軽い、もっと奥深い重い感情。今迄知る事のなかった、気持ち。
――― 愛してる、彼女を
思えば、この時大阪に戻るかもしれない事を話せば良かったのだ。
これまで、何度か彼女に打ち明けようとはしたものの、俺は完璧にタイミングを逃していた。彼女の口から語られる東京に居る友人であったり、仕事への熱意だったりを聞いてしまうとなかなか言い出せずに居た。
◇
クリスマスに彼女から新製品のタブレットと、スマートフォンカバーを貰った。こんなに実用的なプレゼントを貰ったのは初めてかもしれない。余りのリアルさに呆けた俺を見て、彼女は少し口を尖らせながら
「アクセサリーとか…時計とかも考えたんだけど…そういうのはきっと前にも貰ってるだろうと思って」
と言った。まぁ…確かに否定はしないけれど、彼女から貰えるのならば其れは其れは最上の物になっただろう。
しかし、タブレットも携帯も毎日必ず手で触れる物。カバーが実は色違いのお揃いであったりするのも、心擽られる。しかもタブレットにおいては、この機種の最大活用方法を伝授してくれる。うん、有り難いよね。
夜のディナーは、まるでコース料理みたいにスープに、サラダ、メインにデザートが出された。彼女は「山本さんには敵わないけど」と言っていたけれど、謙遜だと思った。充分に美味かったし、何より彼女とこうして時間を共有していられる事が至福だ。
「これ」
俺は食後のコーヒーを飲みながら、テーブルの上に彼女へのプレゼントを滑らせた。
付き合って間もない時に男除けだとペンダントを贈っていたからか、彼女は頑なにコレ以外の物は絶対に受け取らないと宣言していた。本当は、指輪を贈ろうかと考えていた俺の願望は先送りになった訳だ。
俺は彼女の視線が其処に落ちるのを確認してから、ゆっくりと掌をテーブルから離す。プレゼントが公開された瞬間、彼女が破顔一笑するのを見て俺も目を細めた。其れが何であるかなんて解っていたであろうにその顔、反則だろ。
彼女は、何の変哲も無い鍵を指で取り上げ其の外形を愛おしそうになぞった。それから俺の方へと顔を向け一言。
「有難う」
俺は小さく頷いて、こんなにも穏やかな感情があるのだなと改めて思う。
激しく嫉妬もし、余裕の無い執着心も否めないけれど、自分の傍に彼女が当たり前の様に居て微笑ってくれたりする事が『幸せ』だなと思う。此れが恋情よりも強力な愛情なのだと、俺はただ只管にこの現実に心酔していた。
頭の片隅に置きっぱなしの先送りにしていた問題など、その時の俺は思い出しもしなかった。
◇
新年を彼女と共に迎えて、彼女の生まれ育った町の神社に参拝に訪れた。小さな神社は人で溢れ返って、春の喜びに皆が笑顔だった。
―― 彼女とずっと一緒に居られます様に
俺はそんな事を願った。
偶然にも彼女が旧友と顔を合わせ思い出を懐かしむ。
俺が大阪に彼女を連れて行ってしまったら、彼女は誰と会って、何を懐かしむのだろう。
その後彼女の家に初めてお邪魔して、彼女の両親に新年の挨拶をさせて貰った。出された料理は美味しかった。彼女の作ってくれる料理と同じ味だ。看護師だと言う彼女の母親は、しゃきしゃきと動くし笑顔が可愛いらしい。父親の方は俺が居るからなのか殆ど喋らずだったが、決して俺を邪険にしてるとかそう言う事では無さそうだ。
粗方食事が終わり、お義父さんがリビングへと移動したので俺も其方に移った。
ソファーに座り正月番組を見始めた彼の傍に腰を下ろし、テレビ画面を見ていた俺に「和田君」と声が掛かる。カーペットに座っていた俺に彼の温かい眼差しが落ちて来た。
「娘が初めて彼氏を連れてきた…其れが、君の様な人で…良かった」
胸が一瞬にして詰まって、俺は何かを言わなければと頭の中に言葉を総動員したのだけれど「有難うございます」其れしか言えなかった。其れでも彼は、目を細め頷く。
こんなに温かい人達から、彼女を奪って良いのだろうか。
◇
『何やなんべんも電話してきよって』
「その台詞、どっかで聞いたで」
俺はソファの上で、ロックグラスに注がれた焼酎を舐めながら虎からのコールバックに応える。
『電話しいひんで悪かったなぁ、此れでも忙ししてんのや』
「…今度、レストラン開くて企画したんやて?」
『喜伊かぁアイツほんまっお喋りやな。其れ未だ極秘情報やで』
虎の意地悪く笑う声が懐かしい。
「未だ仕事しとるん? 其れやったら電話切るわ」
『や、えーよ。一息入れよ思うてたとこやから』
電話の向こうで、聞き覚えのある機械音にガコンと物が落下する音がした。大方、自販機で缶ジュースでも買ったのだろう。もう二十三時も回っていると言うのに、未だ会社に居るとは…やっぱり、親の会社に入って相当の努力をしてるんだろうな。
『芳野にチョコレート貰たか?』
長く付き合っているからか、俺が何でコイツにコールなんてしたのかお見通しなのか。
「チョコレートブラウニー言う菓子貰たんや…ほんでな…美味かってんよ…めっちゃ美味かった…俺な…なーんも考えんと”えー嫁になれんで” てアイツに言うてもうたんよ…他意なんてあらへんかってん…」
『……ややこしな自分』
「そやな…」
手の中のグラスが冷たくなって俺は口に一口含んだ後、グラスをテーブルに置いた。氷がカランと音を立て、見せる形を変える。
「アイツも誤解してる様やったし弁解しよ思うたら、アイツのお義母さんが倒れはってその後バタバタして…時間が経ったら其れわざわざ蒸し返すんもどうなんかなて…」
『倒れたて、何や病気なん?』
「ちゃうねんよ過労で倒れはっただけやから、今はもう元気やで」
『ほうかぁそやったら、ええんやけど…で、何をややこし考えてんねん。何時かは芳野と結婚するんやろ。あ何や其れが原因で喧嘩して別れたんか』
「別れるかボケッ」
『貰たるで』
「やる訳ないやろっ!」
勢い良く反論する俺を面白がって虎が笑うのが聞こえてきて、俺は頭を抱えた。
『芳野が大阪に来んの、しぶっとんのか』
何時か大阪に戻るかもしれないと言う話は、東京に出てくる時に話していたから其れを覚えていたのだろう。虎が笑いを収めると、そんな事を言い出した。
「アイツには未だその話しとらん」
『…』
「連れてってもえーんやろかて…其ればっかり考えとる」
『…で、自分は俺に何て言うて欲しいん。芳野やったら大丈夫やろて言うて欲しいんか』
俺は返答に困った。何で虎に電話したのかって、ただ、聞いて欲しかっただけだからだ。虎にそんな事を言って貰おうと思ってた訳じゃない。
『ユキ。もしな? 俺の好きな女が東京に居たとしてな? 大阪に呼ぶ思うか?』
虎だったら…彼女を大阪に連れて行く事を、躊躇しないだろう。
『そやんな呼ぶやろな、俺やったら迷わんと。何でやと思う?』
「俺様虎様やから」
『そら否定出来ひんわ』
虎は言いながら笑って、『ユキ』と話を一度区切る。俺は携帯をもう一度握り直した。
『俺は、過信を自信に変えて勝手を覚悟に変えた。今の俺やったら、好きな女を不幸にはせえへんよ』
自信と、覚悟…。
『ユキは優し過ぎて、色んな所にえー顔し過ぎや』