17.
「佐野さん…その香水女物やないんですか?」
俺は隣に立つ佐野さんから放たれる強くて甘い香りに僅かに眉を顰めた。香水は嫌いでは無い、けれどこの香りはきつすぎる。パーティーに参加する人達も同様に、個々が気に入った香りを放っているせいで胸焼けを起こしそうだ。
俺はパーティ会場の後方でアーバン・クリエイト社長の挨拶をにこやかな顔付きで聞いていた。
「浮気はあかんよ言うて出掛けに女が俺に一吹きしたんや、しゃあないやろ」
「其れ恋人なん?」
「最近気に入っとるホステスや」
「……」
佐野さんは、ガタイが良い。百八十を超える上背に筋肉隆々な肢体、ラグビーをやっていたと聞いて「なるほど」と思った程だ。若い頃は相当女を泣かせたであろう顔は皺を刻んだものの未だ健在。五十にもなると言うのに女にモテるのは、その面と押しの強さ、羽振りの良さからだろうか。
「和田、東京はどや」
「やっと大口一件てとこですわ。決まった問屋が有ると、情があるのか体裁なのか新規は受け付けへんいうのが多いですね」
「そうかぁ。まぁせやからお前があっちに呼ばれたんやけどな…こっちはお前が居のうてごっつダメージ喰ろてるわ」
何事も大袈裟に話をする彼の”ごっつ” に信憑性は薄いが、少しは売り上げが落ちたのだろう。今日後輩達と何社か挨拶回りをしたが、俺を出迎えてくれるお客さんは大概うちの社名と俺を懐かしがった。
『いつ大阪戻るん?』
懇意にしていた何人かのお客にそう声を掛けられた。
「和田、早よ大阪戻ってきい」
社長の長い挨拶が終わり、佐野さんはその肉厚な両の手を合わせ盛大な拍手を送った。俺も其れに倣い手を打ちながら、目映い壇上を見つめる。
佐野さんのあの言葉はやはり社交辞令ではなかったのだな。
俺が東京の売上の梃入れ要員で、本社へ異動する様言われたその日、佐野さんは「一時的なものと思うとれ。直ぐに戻したる」と言った。
十七年も大阪で生活していた俺は、この土地が好きだ。だから佐野さんにそう言われた時、流石に佐野さんに其れだけの力が有るのか疑わしたかったが嬉しくも思ったものだ。俺自身、何時か大阪に戻れたら良いなと漠然とだけれど思っていた。
だが状況は変化した。
彼女との出逢いだった。
彼女は生粋の東京生まれ東京育ち。大阪人に対しての偏見は今のところ見られないけれど…彼女の性格を思うとどうしても大阪の水が合うとは思えなかった。となると、俺の基盤を東京にした方が合理的だ。幸い俺は順応力にも長けているし、東京の住処も気に入っている。
「佐野さんにそんな力あるん?」
俺は窺う様に彼に質問を投げ掛けた。
立食形式のパーティフロアで、給仕がトレイに幾つものシャンパングラスを乗せ歩き廻っている。佐野さんと俺は其処からグラスを手に取って、乾杯の音頭に合わせ少しグラスを高く上げた。佐野さんは一気に其れを飲み干した後「俺を誰や思うてんねん」と悪い顔で笑う。
「…俺は東京で骨埋めてもええかな思うてます。せやから、本社が俺を必要としてくれてるんやったら」
「向こうに女でも出来たか」
佐野さんは通りかかった給仕に空のグラスを渡しながら、俺の言葉を遮って睨む様な視線をぶつけて言う。
「和田、大阪にも俺にもお前が必要や。お前の手腕に大阪支社の何人もの給料が掛かってると思うとけ」
「佐野さ…」
「お前がこっち戻うてきたら、営業部長の席を用意したる」
「…え」
「その頃に俺は、大阪支社の専務や」
「は」
「今のうちとこの支社長はクソや、使えへん。副支社長や現専務は俺に付く言うてはるからな、乗っとったるよ」
俺は壮大な彼の構想に空いた口が塞がらなかった。
「和田ええな、遅かれ早かれ東京からは撤退させる。お前は俺の下で俺を支えるんや」
――― 何やて
其処で俺の担当者であった営業マンが挨拶にやって来たので、俺達の話は打ち切られた。俺は、佐野さんに碌な返事をするでもなく。
駅前のビジネスホテルで簡単にシャワーを浴び、備え付けの冷蔵庫から缶ビールを取り出した。堅苦しいパーティは気疲れもしたし、佐野さんの話も重過ぎて、一人になった今俺はやっと大きく息を吐く事が出来た。冷えたビールも喉越しが良い。
暫く硬い椅子に座りボーっとしていたが、シングルベッドに放り出していた携帯が着信が有った事を知らせていて、俺は缶ビール片手に立ち上がる。ビールを飲みながら携帯を操作すると、彼女からのメールと電話着信だった。メールはパーティの最中、着信はつい今し方に受けたらしい。メールの内容は、お疲れ様で始まり今日は残業無しだとピースマークの絵文字が付いていた。
「威張るとこちゃうやん」
俺は軽く吹いてしまい手の甲で口元を拭った後、彼女にコールバックする。たった一回のコールで彼女は応答した。
『も、もしもしっ』
俺からの連絡を待っていてくれたらしい彼女の声に、俺の尖っていた気持ちが解れていく。
「残業無しやったんや? 凄いやん」
『うん。お昼も、管財の大貫さんと食べたの、彼女覚えてる?』
「あぁ食事会に居た眼鏡の人やろ? 覚えてるよ。で今日のスペシャル何やった?」
仕事に夢中になり過ぎてしまう彼女に、きちんと食事を摂らせたくて俺は柴田さんに”昼を共にして欲しい” と社内メールを送った。何ら返事は無かったが、柴田さんは、俺の願いを聞き入れてくれてるらしい。
『牡蛎のタルタルソースがけ』
「牡蛎ぃ? そんなん出るん? 俺も食いたかった」
『牡蛎、好きなの? ユキさん』
「好きやで?」
俺はベッドに座り、ヘッドボードに背を預けビールを啜った。「ビール飲んでるの?」と彼女が聞くから、そうだと答えると「冷えません?」等と暢気な事を聞いて来る。何かそんな他愛もない会話が、俺達は緩やかに、でも着実に時を重ねているんだなと思えた。
彼女との電話を終え、俺は残りのビールを一気に煽りベッドへと横になる。
東京と大阪、そう遠くは無い距離に違いない。日本とアメリカの比では無い。真関は彼女をアメリカに連れて行きたいと願って、けれど彼女を想って別れを選んだ。若村曰く、其れは真関の勝手だと言う。
確かにな。確かに、彼女に選択肢を与えても良かった筈だ。一緒にアメリカに行くか、日本に残るか。
でも其れは客観的に見て言える事なんだ。理屈では割り切れない様々な想いが交錯する。
当事者になると、感情が絡んで冷静でいる事が難しい。
彼女とは離れたくない。大阪は好きだし佐野さんのバックアップも魅力的だ。彼女は今の仕事が好きな筈だ。東京でも、やれるだけの自信は有る。想いは混沌の中に埋もれてしまう。
答えは、簡単に出てくれそうにない。
翌日ホテルから大阪支社へと出勤し、後輩達に指示を出していると携帯に一本の連絡が入った。俺は着信画面を見てから一呼吸置き、通話ボタンをタップする。電話は東京の下請け業者からのもので、発注ミスをしてるかもしれないとの電話だった。調べて折り返す事を約束し、俺は直ぐ様本社へと電話を掛ける。
「和田です。朝見さん居ますか」
俺が標準語を話しているのが物珍しいのだろう、電話中の俺の周りで仕事をする大阪支社の営業部の面々が小さくどよめいている。俺は彼等に窘める様な視線を送りながら、ブリーフケースの中からタブレットと手帳を取り出した。
『お電話代わりました朝見です』
「麻布の現場の発注書を今、確認して貰いたいんですが良いですか」
電話口から、雑音がした後カタカタとキーボードが叩かれる音が聞こえて来る。画面上に御所望の物を表示させたのだろう。
『今、見てます。何を確認しますか』
「レストルームの床の品番、口頭で言って下さい」
朝見の返答を手帳に書き留め、次の確認事項に移る。発注書に誤りはなさそうだ。
『メインフロアと品番が違いますね? 設計さんに念の為確認取りますか』
「僕が電話しますんで、発注書だけPDFにしてメールで送って下さい」
電話を切り朝見からのメールを待つ間、俺に好奇の視線が集まっていた。言いたい事はあるだろうが、今は其れに対応してる暇はない。
俺はメールを確認後、発注元の営業に電話を掛ける。結局何ら問題は無く、俺は現場の人間に電話を掛けその旨を伝え、朝見にも一応問題無い事のメールをした。一段落ついた俺を待っていたのは草野の下卑た笑いだった。
「何です、その似非東京弁」
「似非て。俺、中学入る迄東京に居てんで」
「…僕、て言うてはった…何ですそのさぶい言葉」
「さぶないよ」
「アサミさんて誰です? 東京ではアシスタント制取ってはるんですか?」
草野の質問に便乗する様に、男共がニヤニヤとし
「彼女ですのん?」
と小指を立てる。今時そんなジェスチャーする奴なんか居ないだろう。
「ちゃうわ、たまたま俺の仕事手伝うてくれた派遣の子やっ」
「ハァー? 何、東京では派遣の子に主任クラスの手伝いなんてさせてはるんですかっ」
草野はエライ形相で俺を詰る。何だか、凄い面倒臭い遣り取りだ。
「たまたまや言うとんのやろ」
「可愛いん?」
「しばくぞ井原」
俺は顔を引き攣らせながら、手帳に今し方のメモを書き留めてブリーフケースに仕舞った。